香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

小豆郡土庄町・昭和22年生まれの男性の証言

素麺の里・小豆島でも物日にはうどんを食べていた

(取材・文:

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  • vol: 132
  • 2016.04.14

祭りや法事には自家製のうどんが出ていた

 小豆島で麺類といえば、うどんではなく、素麺だ。江戸時代の初め、池田(小豆郡小豆島町)に住む人がお伊勢参りの帰りに三輪(奈良県)に立ち寄って(三輪素麺の)製法を学び、島内に広めたそうだが、古くから小豆島を代表する名物になっている。贈答品や土産物の類もあるが、日常食として小さい頃から馴染みが深い。個人的にも素麺汁や冷やし素麺を食べる機会は非常に多かった。

 では、うどんをまったく食べなかったのかというと、実はそうではない。祭りや法事のときにはうどんが食卓を飾った。大晦日には、年越し蕎麦と一緒にうどんが加わった。
一年に何度かのことだったが、物日(祝い事や祭りなどが行われる日)には素麺ではなく、うどんを食べることが昔からの風習だった。

 うどんは打ち込みにして食べることが多かったが、農家だったこともあり、具には不自由せず、また家の田んぼで捕まえたドジョウが鍋に入ることも珍しくはなかった。麺も自家製で、さらし木綿を敷いて生地を何度も足踏みした本格的なものだ。素麺を食べるときには、そこまで手を加えたことはない。

村に一軒だけあった製粉所で、小麦と粉を交換していた

 うどんを作る際に使う小麦粉は、村に一軒だけあった製粉所で手に入れた。ただ、製粉所といっても外観は普通の民家と何ら変わらない。納屋に製粉機が置かれているだけのことである。

 当時、製粉機を持っている家が村に一軒は存在した。もちろん、高価な機械を置いている家がどこも大きかったことは言うまでもない。そこへ、家で作った小麦といくばくかの加工賃を持って行き、小麦粉と交換してもらったのだ。

 小麦粉はうどんの材料以外に、パンを手に入れる際にも重宝した。近所にパンを作っている商店があったのだが、小麦粉を持って行くとパンと交換ができたのだ。その際の加工賃は必要なかった。

 余談だが、小麦は家で八反(2400坪)ほど作り、納屋にある大きな円形のタンクに保存していた。主には農耕用に飼っていた牛の飼料に使ったが、家族が一年を通して食べる分を差し引いても足らないことはなかった。

製麺所ができてから家で麺を作らなくなった

 うどんに関する個人的な古い経験はその程度だが、後年、高松に越して来てうどん屋の多さに圧倒された。当時の土庄にはうどん専門店や製麺所はなく、うどんが食べられる食堂のような店が一軒あっただけだからだ。

 もちろん、その食堂では自分ところで麺を作っていなかったが、どこで仕入れていたのかは知らない。ただ、池田(小豆島町)には古くから製麺所があったと耳にしたことはある。中山(小豆島町)には粉挽きの水車小屋もあったそうだ。

 土庄に製麺所ができたのはだいぶ後になってからのこと。工場のような感じだったが、店にはもろ蓋が並べられ、買いに行くと玉を紙に包んで渡してくれた。家で麺を作らなくなったのは、その製麺所を利用するようになってからである。

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