母がうどんをウスターソースで食べていた!
- お肩書きが「小麦粉アレルギーのあるパティシエ」ということで(笑)、小麦粉を一切使用しないスイーツの製作に長年にわたって取り組まれていますが、小さい頃から小麦粉アレルギーだったんですか?
- いや、そんなことはないんですよ(笑)。大人になってからのことです、はい。
- じゃあ、子どもの頃にはうどんを食べていたんですか?
- かなり…いえ、嫌になるほど食べ明かしました。そのために小麦粉アレルギーになったのかも知れませんね(笑)。
- 冗談のようには聞こえませんが(笑)。それでは、うどんの原体験といいますと?
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小学生の頃(昭和40年代前半)ですね。栗林公園の南東側の、今は国道バイパスになっている辺りに当時は住んでいたのですが、近所に「やまいえ」という製麺所があって、そこのうどんをよく買って家で食べていました。家族が多かったので、一度に10玉ほど買っていたでしょうか。土日や夏休みには自分も麺を買いに行きました。
今でこそあの辺りは開けていますが、当時は薄暗い路地もまだまだあって、「やまいえ」も現在では建築認可が下りないような込み入った場所にありました。店内も薄暗くて開放的ではありませんでしたが、雰囲気とは対照的に店の人は手際よく作業していたのを憶えています。特に、水で捌いた麺を味噌汁の椀の中に入れて一玉分の量を調整し、それをせいろにピシッと並べていく様は子どもながらにも「格好いい!」と思いました。
- やはり、小さい頃から食べ物や調理への関心が高かったのですね。では、買った麺を家でどのようにして食べていましたか?
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茹で上がりの麺を、丼ではなく、白い皿にのせてそのまま食べていました(笑)。大好物でした。
母親も白い皿にうどんをのせていましたが、そこにウスターソースをかけて「美味しい、美味しい」と言いながら食べていました(笑)。本当ですよ。さすがに自分はウスターソースで食べたことはありませんでしたが。
その他の食べ方では、醤油をかけたり、夏は冷やしうどんにして食べました。もっとも、冷やしうどんには氷が入っていませんでしたので、ちっとも冷たくありませんでしたね(笑)。
- 冷たくない冷やしうどんには、さすがにつけダシを用意していましたか?
- もちろんです、はい。銀色をした煮干しの鱗粉がたくさん浮いていたダシで食べていました(笑)。
- 製麺所のうどんの値段は憶えていますか?
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当時、10玉ほど買うのに100円玉を持って行ったことはありません。母から渡された何枚かの10円玉で間に合っていました。だから1玉10円はしなかったと思います。
お金を持たずに買いに行ったこともありました。もちろん、母が後から支払いをしていたようですが、馴染みの客であればツケ払いもできたようです。
- 店でうどんを食べることはできましたか?
- それはできなかったはずです。「やまいえ」の店内で食べている人を見たことはありませんでしたから。
徳島の小学校で給食にうどんが出た
- 小学校の給食でうどんが登場することはありましたか?
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栗林小学校に通っていましたが、給食にうどんが出たことは一度もありませんでした。けれども、ほんの一時だけ徳島の小学校に転校していたことがあるのですが、そこの小学校では給食にうどんが出ました。二週間に一度くらいは出ていましたよ。
うどんはアルマイトの器に入っていて、完全に出来上がった状態で一人ひとりに配膳されました。盛りつけといっても具はネギとカマボコくらいでしたけど。
麺はもちろんベチャベチャで、すでに製麺所を知っていた自分としては、「せめて食べる直前まで麺とダシを別々にしておいて欲しい!」とつくづく思ったものです。
- 家や給食以外で、小学生の時にうどんを食べたことはありますか
- 修学旅行の帰りに国鉄の宇高連絡船で食べました。昭和45年(1970年)のことです。香川の小学校の修学旅行で、連絡船のうどんを食べたのは私たちが第一号というか、初めての年かも知れません。
- えっ!? どういうことですか?
- 私たちの代から小学校の修学旅行で瀬戸内海を渡り、大阪や京都、奈良へ行くようになったんです。それまでは紫雲丸の大きな事故(昭和30年/1955年)の影響もあって、修学旅行の行き先は高知だったんです。
- なるほど、納得しました。ところで、昭和45年といえば大阪万博の年ですが。
- もちろん、そのときの修学旅行で万博も行きましたよ。小学校の修学旅行は普通1泊でしたけど、その年だけ万博のせいで2泊しました。
中学生のとき、五色台の宿泊学習でうどんを作った
- 中学生の頃に新しいうどんとの出会いはありましたか?
- 宿泊学習で五色台に行ったとき、みんなでうどんを作った記憶があります。
- その頃(1970年代前半)にも五色台の宿泊学習があったんですね。僕も中学生の頃に行きました。でも、うどんは作りませんでしたよ。いま大学1年生と中学3年生になる2人の息子も行きましたが、うどんを作ったという話は聞いたことがありません。カレーライスの間違いではないんですか?
- そんなことはありません。カレーも野外で作りましたが、うどんは五色台少年自然センターの施設の中で作りました。当時の宿泊学習では、どこの学校でもうどん作りをしていたはずです。だから、センターには麺棒や麺打ち台といった道具がたくさんあって、生徒がグループに分かれて作ることが出来るように準備されていました。
- 宿泊学習と言えば「キャンプ・キャンドルサービス・飯ごう炊さんのカレー」が代名詞のようになっていますが、まさかのうどんなんですね。香川ならではを感じます。では、高校ではいかがでしたか?
- 活動範囲がグッと広がったこともあって、うどんとの〝触れ合い〟も多くなりました。高松から少し離れた高校へ国鉄で通っていたのですが、高松駅の構内にあったうどん屋を朝よく利用しましたし、昼はメニューがうどんだけの学食でよく食べました。それで、朝昼と続けてうどんを食べて、家に帰ったら晩御飯がまたうどんということも珍しくありませんでしたね。その頃から、小麦粉アレルギーの身体に近づいていったのかも知れません、はい(笑)。
- 晩御飯のうどんは、やはり製麺所のうどんだったのですか?
- その頃にはもう今里(高松市)の方へ引っ越していまして、「やまいえ」のうどんを買うことができず、仕方なくスーパーのうどんを使っていました。けれども、小学生の頃よりも内容はグレードアップし、焼きうどんで食べていましたよ、はい(笑)。
うどんの生地を24時間、踏み続ける高額バイト
- ちょこちょこ小ネタを挟んできますね(笑)。
- 実は高校のとき(1975年前後)に、製麺所でバイトしていたんです。木太町(高松市)にある「三(み)よし」です。一般店として今も営業を続けていると思います。当時、「三よし」のご主人の息子さんが親戚の会社で働いていた縁からバイトすることになりました。
- 放課後にバイトしていたのですか?
- いえ、毎年12月30日の昼から31日の昼にかけての、24時間だけのバイトです。年越し用のうどんを作るための足踏み要員でした。何人かの友達も誘って、徹夜で生地を踏み続けましたよ(笑)。それはもう、すごい生地の量と麺の数でしたね。積み上がったせいろが山ほど、いえ山脈ほどありました(笑)。
- 年末にそばではなく、うどんの需要がかなりあったのですね。
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ありました。12月31日になると、太陽が昇るか昇らないかといった薄暗い時間帯から続々とお客さんが店に訪れ、麺を買っていきました。だから、猫の手も借りたい忙しさでしたよ。
作業している人も、「三よし」のご家族が8人、自分たち高校生のバイトが5人、それに知り合いのそば屋のご主人も手伝いに来るという大所帯ぶりでした。ちなみに、そば屋のご主人はうどんを作り終えたら、引き続き自分とこの店のそばを作っていましたよ。その場で(笑)。
- ホンマですか!? ところで、バイト代はいくらでしたか?
- 24時間ぶっ通しで生地を踏み続けて1万円。ご主人の機嫌がよかったら2000円くらいの上乗せがありました。当時ではかなり割のいいバイト代です。ただ…うどんの踏み方はムチャクチャだったと思います。ずっと後で、職人さんが生地を足踏みしている映像をテレビで見て、「なるほど、こうやって踏むんや〜」って思いましたから(笑)。
- バイトのまかない飯は、やっぱりうどんだったのですか?
- もちろんです、はい。昼、店に行ったらまずかけうどんを食べて、夜はうどんすき。夜食にはカレーうどん、翌朝にまたかけ。バイト明けの昼にまたまたかけ、という具合です(笑)。自分たちが作ったうどんを徹底的に食べました。
- まさに怒濤のうどんの食べ納めですね。
- バイトが終わって家に帰りますよね。徹夜明けなので、大晦日の晩はすぐに寝ます。それで翌朝、起きて居間に行くと新年一発目のうどんが出てくるワケです(笑)。もちろん、「三よし」の麺ですけれど。こんな状態の年越し、年明けが高校3年間続きました。
- 大変、興味深いエピソードですね。いや〜、ホンマにうどんが小麦粉アレルギーの遠因になっているかも?ですよ(笑)。それで、小麦粉アレルギーになるのは何歳のときですか?
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30歳ぐらいの頃です。高校を卒業をして社会人になってからも、あちこちの店で調子よくうどんを食べていたんですが…。以来、小麦粉を控えるようになり、うどんも食べられなくなりました。
ただ、実は10年ほど前に1玉だけ、口にしたことがあるんです。アレルギーを抑える強力な薬を飲んで(笑)。
- そこまで身体を張って食べたうどんは何ですか?
- ガモムス(がもうの息子さん)んとこのお土産うどんです。
揚げて分かった「がもう」の麺の秘密
- ここでまさかのガモムスですか(笑)。またなぜ、知り合いの店のお土産うどんを?
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実はその頃、うどんチョコの製作に取り組んでいたのですが(笑)、その研究のために「がもう」の生麺を注文したんです。やっぱり、麺通の方々が出色と言われる麺を知ってうどんチョコを極めたかったですから。
ホームページから注文したんですが、どうやらその頃、「がもう」ではお土産うどんをホームページで販売し始めた直後だったらしく、自分が注文した第一号になりました(笑)。ガモムスからは、「県外からの注文を見込んで販売を開始したのに、何で県内の、それも身内のような知り合いが記念すべき第一号なんや、まったく!!」と、がいになじられましたが、はい(笑)。
- よく繰れたネタ、いえユニークなエピソードですね。「さぬきうどん未来遺産プロジェクト」に相応しい話題かどうかは分かりませんが、プロジェクト・リーダーの田尾和俊さんにしっかりと伝えておきます。
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いや、ただですね、やっぱり「がもう」の麺は凄いんですよ。うどんチョコの製作で揚げてみてよく分かったのですが、「がもう」の麺はミルフィーユみたいにいくつもの層から出来ているんです。それで、その層の間に空気が適度に入っているんですよ。
食べてはないんですけど、他のうどん屋の麺も注文して同じように揚げてみたんですが、ミルフィーユ状なのは「がもう」だけでした。その辺りにも口当たりの秘密があるのかも知れませんね。以上、うどんとの関わりはこんなところです。
- 十分です。今日は楽しいうどん漫談、いえ取材のご協力をどうもありがとうございました。