香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市前田西町・昭和18年生まれの男性の証言

製麺屋さんが「近所にヒヨコを預ける養鶏業」をやっていた

(取材・文:

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  • vol: 120
  • 2016.01.20

製麺所に小麦粉を預けて、加工賃だけ支払って麺を買っていた

子どもの頃、どんなときに家でうどんを食べていましたか?
昭和20年代ですか、普段は昼飯で家でうどんを食べていました。あとは、夏祭りや秋祭り、市などが行われるような紋日(もんび=祝い事や祭りなどが行われる日)や、法事のとき。

 ちなみに、葬式や初七日、四十九日には、「長いものを食べると不幸を引っ張る」といった縁起的な理由で口にすることができず、一周忌から法事でのうどんが解禁になりました。ただ、普段は葬式の翌日でも食べていましたが(笑)。その風習が正しいかどうかはよく分かりません。

どんなうどんを食べていましたか?
煮干しでダシをとり、薬味は家で作っていたネギだけの素朴なかけうどんです。ときどき、具に練り物の平天が入ることがありました。紋日に食べるときは、紅白のカマボコが加わりました。それと、うどんと一緒にバラ寿司も並び、とても嬉しかったことを憶えています。
うどんの麺は家で作っていましたか?
いえ、作っていません。食べるときは製麺所から取り寄せていました。今はもう存在しませんが、家の近所(前田西町)にあった「川田製麺所」からいつも麺をもらっていました。

 もらっていたというか、小麦粉を預けてうどんにしてもらっていたんです。家が農家で小麦も作っていたので、収穫した小麦を近くの精米所(製粉所)で粉にしてもらい、処理した小麦粉のほとんどを川田製麺所に一括して預けていたんです。何十キロと預けていました。それで、うどんが必要な時に川田製麺所さんに頼んで作ってもらうんです。

当時、麺の値段はおいくらでしたか?
詳しい金額は憶えていませんが、麺にしてもらう加工賃だけお支払いしていたので、ずいぶん安かったと思います。自分も店に行って注文したことがありますが、お金を持参した記憶はありません。

 うどんをもらいに行くと、川田さんがその都度、帳面に控えていました。それで月末とか、何ヶ月に一度とか決まった時期にまとめて加工賃をお支払いしていたはずです。

毎年預けた小麦粉で、どれくらいの量のうどんを食べていましたか?
うちの家は7人家族だったので、普段うどんを食べるときはせいろを一枚、店の人に自転車で持って来てもらいました。せいろ一枚には20玉の麺が入ります。家族の人数を考えればそれで十分かもしれませんが、父は常々「お腹いっぱい食べていたら人間は決して悪いことはしない」と言っていて、育ち盛りの子どもたちに腹一杯、食べさせたかったのでしょう。店から届くせいろは、たいていいつも麺が2段重ねになった合計30玉入りのものでした(笑)。

 その30玉入りせいろ一枚を、月に何度か届けてもらっていました。家に大勢の人が集まる法事などの特別な日には、追加でせいろが数枚必要でしたが、それでだいたい1年近く、預けた小麦粉だけでまかなえていました。まあ、農家だからできたことでしょうね。中学校を卒業するくらいまで(昭和33年頃)、そのようなやりとりをしていたと思います。

作った小麦を預けると、パンやお菓子にしてくれる店もあった

「川田製麺所」では、製粉はやってなかったんでしょうか。
製粉は別のところでしていたと思います。店に何か大きな機械ががあったのは憶えているんですが、何の機械かは分かりません。うちは小麦を別のところに持って行って製粉してもらって、その粉が川田製麺所に行っていたと思うので、あれは製粉機ではなかったように思います。

 ちなみに、我が家では余った小麦や〝くず〟と呼んでいた出来の悪い餅米も、製粉所に持って行って粉にしてもらいました。そこでできた餅米の粉は、家で団子にしました。

 あと、余った小麦粉は近所にあった「つるみ」さんという店に持って行って、パンや饅頭、お菓子なんかと交換してもらいました。ここも加工賃は必要でしたが、金額はとても安かったです。

郵便局集配員の指定製麺所

川田製麺所の記憶をもう少し。川田製麺所は店内でうどんを食べることができましたか?
できましたよ。店の中にはテーブルや椅子はありませんでしたが、お客さんが上がりかまちのような場所に座ってうどんを啜っているのを、学校帰りに何度も見たことがあります。

 郵便局指定の店だったようで、集配員の方もたくさん訪れていました。自分は店では食べたことがありませんが。

近所の家にヒヨコを預ける養鶏業?!

それと、川田製麺所は店を開いた当初、一緒に鶏屋もしていました。もともと、製麺所を始める前から養鶏をしていたんです。それが、今では考えられないような独特の養鶏方法で(笑)。
どんな養鶏方法だったのですか?
自分のところでヒヨコを育てるのではなくて、周りの家でヒヨコを育ててもらうのです(笑)。我が家でも「川田製麺所のヒヨコ」を育てていましたよ。
エッ!? どういうこと?
川田製麺所のご主人から雌ばかりのヒヨコを10羽ほど渡されて、それをうちの家の土間で飼うんです。巣箱も作って。餌は雑穀やタンポポ、春の七草のセリなどを与えました。自分も餌探しによく野原に出掛けたものです。それで、やがてヒヨコが大きくなって成鳥になって卵を産むようになると、その卵をご主人が引き取りに来るんです。

 鶏が10匹いたら、毎朝7~8個、卵が出来ます。ご主人は何日かごとに卵を引き取りに来るのですが、卵と引き替えにお金をくれました。

 そんなやりとりを繰り返しながら、やがて2年くらいすると鶏が卵を産まなくなります。すると今度は、卵を産まなくなった鶏をご主人に預けるのです。もちろん、その時も引き替えにお金をくれましたし、希望すれば絞めてもらった鶏の肉を持って来てもらうことも出来ました。そして、また新たなヒヨコを預かるんです。

そんなやり方、初めて聞きました(笑)。当時の製麺所は、そういう養鶏業も営むところが割とあったのですか?
よく分かりませんが、川田製麺所が特別だったのかもしれません。製麺業が軌道に乗ると、養鶏業を廃業しましたから。
近所には川田製麺所以外に、うどん店や製麺所はありましたか?
うどんは作っていませんでしたが、素麺や冷や麦を作っている「武部」さんという店が川添小学校の近くにありました。確か、小豆島からやって来た人がしていました。でも、うどんに関係した店は、近所では川田製麺所以外にありませんでした。
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