フェリー通り周辺に製麺所やうどん屋さんがたくさんあった
- 小さい頃のうどんの思い出をお聞かせください。
- 私の家はコトデン瓦町駅よりも少し南側のフェリー通り沿いにあって、自宅兼店舗で紳士服の店を営んでいました。それで、子どもの頃(昭和30年頃)は、お昼に住み込みの職人さんと一緒に食べることが多かったですね。母がお店からうどん玉を買ってきて、しっぽくうどんやつけうどんをよく作っていました。
- 昭和30年前後に、瓦町の界隈に製麺所があったのですか?
- 家の近くに何軒かありましたよ。フェリー通りを挟んで家の斜め前にも製麺所があって、学校帰りにうどんを作っているところをよく眺めたものです。その製麺所の入り口がいつも開いていたのですが、小麦粉の粉で店内の床一面が真っ白になっていました。それが子ども心に興味津々で、とても印象に残っています。今はもう、このあたりには製麺所はどこにもありませんよね。
- 繁華街の店でうどんを食べることはありましたか?
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商店街を中心に、昔の瓦町の周辺にはうどん店も何軒かありました。けれども、子どもの頃に店を訪れたことはありません。
ただ、家で出前を取って店のうどんを食べたことはあります。当時のうどん店はどこでも出前をやっていて、かなり繁盛していたようです。瓦町周辺は自宅兼店舗が今よりも多く、仕事が忙しくてお昼御飯を作る時間がないときは、どこも出前をよく利用していたようです。
幼稚園で園児がうどんの出前をとっていた!
- そうそう! おやつで出前のうどんを頼むこともありましたね(笑)。木のおかもちで運ばれてくるうどんに、とてもワクワクしたものです。
- おやつでうどんの出前!?
- 通っていた幼稚園にお昼ご飯で出前を頼んだこともありますよ!(笑)
- エッ!?
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私は田町商店街にあった「光幼稚園」に通っていたのですが、仕事の忙しい母がお昼御飯の弁当を作る時間がないとき、首からぶら下げていた巾着袋に15円だったか20円だったか、お金を入れてくれて、私は幼稚園に行って、その巾着袋を先生に預けるわけです。すると、事情を知っている先生がうどん屋さんに出前を注文してくれるんです。
それで、昼食の時間になると、店から幼稚園に私のお昼ご飯用の温かいうどんが届くわけです。お金は先生が巾着袋から取って払ってくれる(笑)。
- 幼稚園にうどんの出前を取る園児だったんですか!(笑)そんな園児は他にもいましたか?
- さぁ、どうだったんでしょう(笑)。周りの友達が弁当を食べている中で、自分がうどんを食べても「恥ずかしい」と思った記憶はありませんから、他の子もたまに出前してもらっていたのかも知れません。まだ4~5歳でしたが、幼稚園で食べる出前のうどんはとても美味しかったことを憶えています。
小学校の給食では月に1~2度、うどんが登場
- 街ならではのエピソードですね。他にうどんを食べる機会はありましたか?
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小学校に上がると、給食でうどんを食べるようになりましたね。(高松市立)四番丁小学校(平成22年/2010年3月に閉校)に通っていましたが、給食で月に1~2回ほど、うどんが登場しました。
うどんの時はブリキ製のような容器が生徒に配られ、その中にせいろから箸で取り出したうどんを一玉ずつ入れました。
玉を器に自分で入れたのか、給食係が入れたのかは憶えていませんが、湯せんしたものではありませんでした。水気のない、ネチャッとしたそのままの状態の麺です。スーパーで売られているビニールの袋麺のような感じでしょうか。
その麺の上に、ネギとカマボコ。肉の端切れのような具を入れ、最後に温かいダシを注いで食べていました。でも、正直、幼稚園の時に食べていた出前のうどんの方がずっと美味しかったです(笑)。
あとは、夏休みに川島(高松市川島)にあった父の実家へ行ったとき、祖母がよく打ち込みうどんを作ってくれました。麺は手作りで、祖母が生地を手で捏ねたり、伸ばしたりしていた記憶があります。子どもの頃のうどん体験はそれくらいでしょうか。
- とてもおもしろいお話をいただきました。どうもありがとうございました。