物価高騰、うどん屋の理不尽な値上げに大バッシング
大正6年~10年にかけての国内の大きなトピックスは、大正7年の夏頃に発生した「米騒動」。第一次世界大戦が大正3年(1914)に勃発して、その動向を背景に米作地主や米取り扱い業者が米の買い占めや売り惜しみに走って米価が急騰し、全国的に暴動まで起こるという大騒動になったわけですが、その影響もあってか、香川県では「うどんの価格」に関する騒ぎが新聞紙上を賑わしていました。
ではまず、そのあたりのドタバタ騒動の記事を追ってみましょう。
物価高騰
最初に出てきたのは「米騒動」勃発の数カ月前、大正7年の4月に「うどんの値上げ」の記事が出てきました。
散髪賃とうどんの値上げ
物価は益々騰貴して下落の様子なく、細民の困難如何ばかりなるべき。丸亀市は諸物価の騰貴に連れ、理髪組合にては散髪賃18銭、髭剃り10銭、子供7銭に値上げし、うどんも2銭が2銭5厘なれば、3銭が4銭に値上。
「2銭が2銭5厘、3銭が4銭…」ということは、20~30%の上昇。遡ると大正元年に「うどん1杯1銭5厘が2銭になった」という記事がありましたが、それからすると、大正に入ってしばらく落ち着いていた「うどんの値段」が、ここにきて急に上がってきたという感じです。
一方、温泉景気に沸く大分県の別府では「うどん1杯18銭」という桁違いの値段がまかり通っていたとの報告がありました。
うどん1杯18銭 南日本の繁昌
○○多度津分署長は24日に出発して大分県に旅行し、27日夜に帰署したが、別府町の繁栄は恐ろしく、大正3年より本年までに人口は4200人増加し、現在5000戸、2万7000人ほどあり、温泉を邸内に取れる家は1200余戸、さらに出願数も50戸に及ぶという。宿料は1円~5円まで、中等で2円くらいで、総じて物価が高く、うどん1杯が18銭であるから他は推して知るべく…(以下略)
今で言うなら「香川で1杯300円のうどんが別府で1杯1800円」という値段。繁栄する観光地の値段なので一般化するわけにはいきませんが、この頃からすでに、全国的に見ても香川のうどんは安かったのかもしれません。
そしていよいよ「米騒動」勃発後の大正8年、香川のうどんの値段に何やら不誠実な価格設定が続出し、ちょっとした騒動が始まりました。発端の記事は、高松市議会議長のコメント。
理由なき値上げ(高松市議会議長談)
(前略)…一体この頃の物価は実に不思議なものばかりで、「うどん」の原材料などは30円した時は3銭であって、それが22円に下がった今日、反対に4銭に値上げされるというような理由もないことばかりですよ。世の中がこうなっては全く闇です。…(以下略)
原材料の「30円、22円」というのがどれだけの量の価格なのか、また「3銭、4銭」というのがうどん1杯の価格なのか、うどん1玉の価格なのかが記事からはわからないのでちょっと混乱しますが、要するに「原材料費が下がったのにうどんが値上げされる」という理不尽なことが起こっていたようで、それに対して市会議長が新聞紙上で苦言を呈していました。この後の記事からすると、この「4銭」は「うどん1杯」ではなくて「うどん1玉」の値段で、この値段を決めたのはおそらく「高松麺類同業組合」だと思われます。
これに対し、「大内三友堂」がうどん1玉を半額の「2銭」で売り出すという事態が発生しました。
「丸三」のうどん 大売出し
高松市片原町大内三友堂の節米を趣旨とするうどん製造は、いよいよ来たる5日から大阪の「丸キ麺麭(パン)」と共に売り出す予定で…(中略)…売り出しはうどん1玉2銭、パン(丸キ製)1斤12銭になる予定。…(以下略)
広告内に「大内三友堂」の文字が見当たりませんが、この3週間後にこんな記事が載っていました。
片原町 大内三友堂
カステラと言えば大内三友堂を連想するほどに名を馳せる同堂のカステラは、明治22年の創業にして長崎より同菓の特製直伝を受け、今日の繁昌を成したるが、その後、屋島商会の源氏餅を始め、近くは節米のためうどんとパンで副業を始める等、公共のために尽力しているのは一般の認めるところである。
当時カステラで有名だった「大内三友堂」が、副業でうどん製造を始めたとのこと。すると、先の広告にある「丸三製麺所」は「大内三友堂」が始めたうどん製造会社で、「丸三」の「三」は「大内三友堂」の「三」ではないかと思いますが、どうでしょう。しかしいずれにしろ、この安価の売り出しによって、(麺類組合が)うどん玉の値段を下げてきました。
うどん値下
物価騰貴を口実に1玉3銭5厘に値上げしたうどんは、大内三友堂の大売出しにより、ついに6日より2銭に値下げした。
9月7日の記事はたったこれだけの短いものでしたが、2日後の9月9日に、このあたりの一連の動きがわかる記事が出ていました。
「うどん」は1銭5厘に値下げ 8日、東西屋で広告。
三友堂が節米趣旨の麺類大売出しを開始し、高松麺類同業組合に覚醒を促したが、同組合業者においてもこれを黙視するわけにはいかず、組合会を開き協議の結果、ついに9日より大々的に値下げすることになった。その掲示する所は、1玉を1銭5厘で市内各所のうどん屋にて売り出すこととなった。いかに商法の意気地とは言え、今日まで1玉3銭5厘と掲示したものを1銭5厘に引下げるというのは実に呆れ果てた値下げと言うべし。高松麺類同業組合が少しでも節米の趣旨を重んじ、率先してせめてこれまでの3銭5厘の玉を2銭5厘とか2銭に引き下げれば、「時節柄まことに結構なことだ」と社会の同情もあるだろうが、あくまで暴利を貪り社会の膏血を絞らんとする奸商等の悪辣手段は、ついに天誅の下る所となる。前記の如き泡吹営業を行わなければならない時期が到来したが、これが永続すれば高松麺類同業組合もこれまでの不人気を挽回するに至るかもしれない。
記事の表現にまだちょっとわかりにくいところもありますが、推測しながら要約すると、まず、高松市内のうどん玉の値段は自由競争ではなく、やっぱり「高松麺類同業組合」が決めていたようで、その高松麺類同業組合が「1玉3銭5厘」まで値上げしてきたところへ大内三友堂が「1玉2銭」で売り出しを始めたため、組合はそれまでの半額以下の「1玉1銭5厘」に値下げすると発表したという流れで、それに対し、記事は「呆れ果てた値下げだ」と酷評しているわけです。しかしそれでもまあ、値下げしたのは庶民にとってはありがたいこと…と思っていたら、その3日後、さらに呆れ果てる記事が出ていました。
うどんの1銭5厘は虚 不埒な広告
市内各うどん屋または四ツ街道の辻に「高松麺類同業組合20周年記念」として「9日より1銭5厘」と大書して広告し、その上「東西屋」を使って町内を振れ回らせたところ、節米の折柄大評判となり、9日は夜が明けるのを待ち兼ねてどのうどん屋も表口に客が押し寄せたが、甲の店は組合に加入しているのに「手打につき3銭」、乙は「2銭5厘」、丙は「2銭」、「お気に召さないのであれば他でお求めを」などと言い、1銭5厘にて売る店は1軒もなく、購客は騙されたと言いつつも空箱提げて帰るわけにもいかず、仕方なく高値のまま買う者が大多数である。
思うに、安値の広告で衆人を操るという悪辣な手段は実に不埒千万である。なおまた、汁掛うどんはやはり4銭で、従来より厘毛も値引きはない。田舎客はたらふく食べた後、支払いに際し、1銭5厘と4銭の争いが起こるのは無理もない。聞くところによれば、組合からの卸売は1玉1銭4厘とのこと。すると、小売店において1杯の汁掛うどんに2銭6厘という暴利の世中にそのような売品はあるべきではなく、こんな虚偽の広告を打って衆人に迷惑を与えるようなことをその筋できちんと取り締まっておけば…(以下略)
組合が20周年記念で「9日から(うどん1玉)1銭5厘」とすることを決め、その広告を街に貼り出したり東西屋(チンドン屋)を使ってPRしたのに、フタを開けてみたら「手打ちだから3銭」とか「2銭5厘」とか「2銭」とかで売っていて、「1銭5厘」で売っていた店は1軒もなかったというひどい話。記事によると組合は各店に「1銭4厘」で卸していたようで、各店に対して「1銭5厘で売って1厘儲けてね」という目算だったのでしょうが、そんなことを守るうどん屋が1軒もなかったという、“組合の面目丸つぶれ”みたいなことが起きてしまいました。
続いて今度は、観音寺町が主催した節米講演会で「米の代わりにうどんを食え」という話が出て、町民から冷笑、酷評を浴びたという記事。
試食会の反響、町民の酷評
5日、三豊郡立実科高等女学校において観音寺町主催の節米講演会、並びに試食会があったが、それに対し、その後、観音寺町内における反響を見ると、この講演が単に米を節するということだけに重きを置き、経済上における方面を少しも顧みず、馬鈴薯のような同地では一貫匁37銭以上50銭内外にして米麦以上の相場を保ち、なおまた「米を食う代わりに三飯中一飯はうどんとせよ」など、その説あまりに突飛偏奇し、常識を逸するものもあるため、観音寺町民は一般に冷笑を以てこれを迎え、「これ即ち御役所式なり」と酷評し、実際常食に馬鈴薯などを交えて食う者一人もなく、実際においてこの試食会は何らの効果を認められぬものとなった。
ここ数本の記事中に「節米」という言葉が何度か出てきましたが、おそらく前年に発生した「米騒動」の影響で「米食を減らそう」という運動が広まっていたのだと思われます。その節米講演会で「(米や麦より相場の高い)馬鈴薯(じゃがいも)を食べろ」とか「3食中1食はうどんにせよ」とかいう話が出たらしく、それに対して観音寺町民が「お役所仕事だ」と言って全く同意しなかったとのこと。ここまで、不可解な価格の上げ下げをした「組合」、組合が値下げしたのに従わずに高値で売る「うどん屋」、お座なりな対策を打つ「行政」…といった関係各所が軒並み、新聞でやり玉に挙げられています。
そして大正9年に入ると、投書で名指しされた店まで出てきました。
(投書)うどん屋に拳骨
原料騰貴を楯にして我らが生活の脅威を受けている最中に値上げを断行したうどん屋よ、今や小麦粉は半相場に下落したではないか。然るに依然として1杯5銭とは、不当な利益を貪る奸商だ。1貫目60銭の粉で120玉取れる。煮汁が1杯に5厘、工賃が1銭と見て1杯のうどんに要する経費は2銭だ。これを5銭に売って純益3銭とは、儲け過ぎて気の毒にはないか。更科、八千代、天勝、どうだ、値上げは敏捷だが値下げは無神経か?(吹天生)
投書人の挙げているいろんな数字がどこまで正しいのかわかりませんが、いずれにしろ、当時のうどん屋は庶民から「暴利をむさぼる奸商(ずるい商人)」だと見られていたようです。
続いて今度は、兵庫町の市場がうどんの安売りを始めるというニュースが掲載されました。
兵庫町指定市場でうどんの廉売
高松市東瓦町公設市場にては数日前より豆腐及び油揚の廉売を行い、すこぶる好景気を示しつつあるが、また当市兵庫町指定市場においても近日、うどんの半額廉売を開始。2銭5厘にて販売する。
「半額で2銭5厘」ということは、通常は「5銭」くらいで売られていたという計算。そうした高値状態に対し、ついに新聞がうどん業界に対して「値下げせよ」という意見記事を掲載しました。
うどん、食パンの値下げを断行せよ
財界の動揺、金融の逼迫は、株の下落、呉服物類の暴落、製紙等の休職、ひいては米、麦、日用品にも影響を及ぼし、米は最高値当時に比べて10円方の下落、麦の如きはほとんど半値に暴落したが、これが製品になった巻寿司、うどん、食パン等は一向に値下げを実行せず、依然最高値当時の価格で販売しており、うどんは栗林公園前あたりでは2銭5厘を憶面もなく貼札しながら、その内実はその玉はいたって僅少にして、また、市内においても4銭に下落したる所もあれども、赤十字社病院前某々店にては依然5銭にて販売している。…(中略)…その理由を業者に聞けば、「原料が高騰した時は我慢していたため、原料が下落したとしてもにわかに値下げするわけにはいかない」等と不誠実極まる言を吐いている。その筋で十分調査をし、彼らに覚醒を促すべきである。
「株が下落し、呉服も日用品も米も麦も価格が下落、暴落しているのに、うどんと食パンは一向に値下げしない。しかもうどん玉は小さくなっている」という、お怒りモード全開の記事です。しかしそれでも組合が理屈を捏ねて値下げをしない中、観音寺では同業組合が値下げの動きを見せました。
うどんの値下げ 競争者が現われた
近時暴利を貪る者が多くいる中にも「うどん屋ほど旨い儲けをしているものはない」との評判だが、なるほどそれはそうであるが、三豊郡観音寺町にては同業組合というものが従来1杯4銭のうどん、5銭のなんばを1杯3銭で売り出して競争を試みることとなったので、一般の値下げは必ず近いうちにあるだろう。
これは「うどん玉」ではなくてメニューの「うどん1杯」の値段ですが、そのうどん1杯が「4銭」ということは、うどん玉の値段はおそらく3銭とかそのあたり。「5銭のなんば」はおそらく「南蛮うどん」みたいな具が入って1銭高くなっているメニューだと思います。「競争によって一般の値下げがあるだろう」というあたり、この頃のうどん業界は高松より観音寺の方が健全だったみたいに受け取れますが、どうだったんでしょう。
続いて大正10年、新聞の「物価データ記事」の中に、高松市設市場で「うどん1玉1銭5厘」という激安の価格が出ていました。
(物価)高松市設市場値段
◯うどん(手打)1玉…1銭5厘
というわけで、この大正7年~10年にかけての一連の騒動をまとめると、
①「うどん玉の値段」は高松麺類同業組合が決めていて、その恣意的な価格設定に対し、新聞や庶民が不信感を持っている。
②組合が決めた値段でうどん玉を仕入れた「うどん屋」がそれに暴利を乗せて売っていることに対し、新聞や庶民が不信感を持っている。
③そうしたうどん業界の不誠実さに対抗して、大内三友堂や公設市場や観音寺の同業組合が「うどん玉の安売り」を行っている。
という図式が見えてきます。ちなみに、昭和35年の四国新聞にも「製麺組合がうどん玉の価格を引き揚げる」という記事が出てきていましたので(「昭和35年」参照)、香川のうどん玉の値段は相当長い間、自由競争下にはなかったようです。しかしいずれにしろ、一連の騒動と報道から、当時すでに「うどん玉」の流通や「うどん屋」での外食が庶民の間にすっかり定着していたことがよくわかります。
新聞に出てきた「うどん店」と「製麺業者」
では、この5年間に新聞に名前が出てきた「うどん店」や「製麺業者」を並べておきます。まず、大正8年(1919)に掲載されたのがこれ。
大正6年(1917)と7年(1918)に、高松市(片原町)の映画館「世界館」が“大人の御礼”として来場者に「八千代のうどんを差し上げます」という広告を出していました。「八千代」は前出の読者からのお怒り投書の中に出てきたうどん屋ですが、投書で名指しされたり、映画館で名前付きでうどん玉をプレゼントされるということは、それなりに有名な店だったのでしょう。
続いて、高松市で新しく電話が付いたところの名刺広告に、麺類と料理を提供する「岡屋本店」という店が出ていました。場所は「兵庫町広場角」とありますから、「天勝」(これもさっきの名指しされた店の1軒・笑い)のすぐ近くみたいです。
もう一つ、善通寺の「日の出」が広告を出していました。「日の出」は2010年代まで営業をしていたので、あの「讃岐うどんの歴史遺産」とも言うべき店内の雰囲気を覚えている人もいると思います。
「手打ちうどん」という言葉が初めて出てきた
大正8年の新聞に「米代用の主食品調理法」が紹介されていて、そこに「手打ちうどん(饂飩)」という言葉が出てきました。
米代用の主食品調理法
【手打ち饂飩味噌煮】
メリケン粉(70匁)、豚の細切れ(30匁)、味噌(30匁)、葱(1本)、
右の量にて白米3号5勺に相当する温量と14匁あまりのタンパク質を含む。塩水でメリケン粉を練り、よく打ち伸ばすこと数回。十分つなぎがついた頃に線に切り、熱湯でゆで上げ、豚肉は水から入れて約40分間炊き、味噌を加えて一度煮立て、その中に手打ち饂飩を入れて煮、温かいうちに食べます。薬味には葱、大根おろしを添え、つなぎのために山芋を少し加えると一層よい。
「米に変わる主食」ということで、大正7年の夏に起こった米騒動の影響が大正8年に入っても全く解消されていないことがわかりますが、紹介されていたのは「手打ち饂飩味噌煮」。レシピを見ると、うどんは店で玉を買ってくるのではなく、自分で粉から打つという手順ですが、家で自分で打つから「手打ちうどん」と称しているのか、あるいは店で買ってくるうどん玉も正式には「手打ちのうどん玉」ということなのか。先の「値下げしないうどん屋」の言い分の中に、「手打につき3銭」というのがあったように、うどん製造業者の間で「手打ち」という認識はあったと思われますが、では「当時の製麺は機械化も進んでいたのか」と言われると、まだよくわかりません。ちなみに、うどんの製麺機の広告が初めて出てきたのは、明治40年の「田中式そうめん・うどん・そば製造機械」(「明治40年~44年」参照)。
ただし、以後ここまで「田中式」の広告が数回出てきただけで、製麺の機械化がどんどん進んでいるという気配は、広告からはあまり感じられません。推測するに、この頃の玉売りのうどん玉はまだ“機械打ち”は盛んではなく、いわゆる“手打ち”が主流だったのではないかと思われますが、いずれにしろ新聞に「手打ちうどん」という言葉が出てきたのは、大正8年が最初です。
うどんの過食で赤痢、コレラ
赤痢とコレラの患者が発生したというニュースが2本出ていましたが、いずれも原因が「うどんの過食」と書かれていました。
うどんを食って赤痢
木田郡平井町大字池戸の○○(44)は7日、赤痢に罹ったが、原因はうどんの過食だとのこと。
うどんが誘因 六十婆の虎疫
多度津中之町陶器商○○(65)は21日午後9時頃発病し、数回吐瀉を催し、22日午後10時に竹林、三木両医の診察を受けたところ疑似虎列拉(コレラ)病とわかり、直ちに隔離舎に収容すると共に隣家4軒も交通を遮断され、23日、大消毒を行った。○○は平素より胃腸が弱いところへ、21日、懇意の家に行ってうどんを過食したのが誘因で、多度津署は署長以下署員総出で極力消毒に努めている。
「うどんが原因で赤痢、コレラにかかる」という記事は、これまでにも明治34年、明治35年、明治41年と3回も出てきていますが、かつてはいずれも「冷うどん」、つまり「冷えて劣化したうどん」の過食が原因と書かれていました。今回の記事は2つとも「うどんの過食」としか書かれていませんが、まさかただの「大食い」が赤痢やコレラの原因になるとは思えませんが…
腐ったうどん、1円の科料
綾歌郡栗熊村字馬指飲食業○○(38)は22日午後8時頃、腐敗したうどんを販売したのを告発され、滝宮署で科料1円に処された。
腐ったうどんが売って罰せられたという記事が載ったのも確か2回目だったような。やっぱり明治、大正の昔は、かなり劣化したうどんが結構出回っていたようで、赤痢やコレラも「大食い」というより「腐ったものを食べた」のが主原因ではないかと(笑)。
イベントの模擬店には「うどん」が付き物
催し物会場の模擬店に「うどん」が出ているという、香川県民には何の変哲もない光景ですが、「大正時代からそういうことでした」ということが確認できる記事が2本ありました。
披雲閣庭園大園遊会
美麗を尽くせる新築の邸、賑いまさる模擬店の催し、家達公を初め600の来賓
新緑ようやく深く、晩春の風心地よき昨2日午後2時より、徳川家一門の賓客を初め師団長、知事その他官民実に600余名を招待した松平伯爵家の大園遊会が新築邸披雲閣庭園にて開かれた。…(中略)…模擬店はこれも設備万端、その趣向もなかなかに面白く、数多の美形は来賓の斡旋に務めて興を添える。あるいはビールに各自その好む所を求むるも面白く、藤花今を盛りと造られたる模擬店にはうどんの饗応もあり、さては汁粉屋の構えも甘党を呼び、いずれも繁昌の態に見受けたり…(以下略)
大川庁舎落成式、開庁祝賀会の光景 大当りの模擬店
工費1万500余円という莫大な経費を投じ、昨年11月15日に起工し、本年3月25日に長尾町に竣工した大川郡新築庁舎落成式は、既報のごとく21日の日曜日にすこぶる盛大に挙行された。…(中略)…庁庭に設けられた模擬店は素晴らしき景気で、五色餅、ぜんざい、うどん、関東煮、酒券引替にその混雑ぶりは筆舌に尽くしがたく、うどんに腹鼓を打つ紳士もあれば、下戸党のぜんざいに舌鼓を鳴らすものあり…(以下略)
記事に書かれているのは、前者は「うどん」と「汁粉」、後者は「五色餅」に「ぜんざい」「うどん」「関東煮」。これまでの新聞記事と合わせると、明治時代から祭りやイベントの屋台や模擬店に出てくる店は、「うどん」と「汁粉、ぜんざい」が定番のトップ2です。
大阪にも夜鳴きうどんが
感心な青年のエピソード記事の中に、「大阪の夜鳴きうどん」が出てきました。
昔は車夫、今は弁護士 本県出身の感心な一青年
讃岐の西端、三豊郡萩原村から篤学の一青年が生まれた。その名は高橋○○君といって、今年26才の未だほんの子供上がりの男であるが、この乳臭の一青年が昨秋司法省で行った弁護士試験に、しかも優等で登第したのだからなお不思議である。同君は小学校も卒業したかしないくらいで、無論、正式の学問等をした男でないだけに、その苦学の経路は普通凡庸の徒の企て及ばざる奮闘を続けている。…(中略)…今は大阪で弁護士事務所を開いているが、時々車を挽いて歩いた東京時代や夜泣きうどんを売り歩いた大阪時代のことを考えると、さぞかし隔世の感があるだろう。…(以下略)
苦学時代に東京では「車夫」、大阪では「夜鳴きうどん」を売り歩いて糊口を凌いでいたという話。「夜鳴きうどん」は香川県でも明治、大正時代にかなり盛んだったようですが、香川の名物というわけではなく、大阪でもそれが日銭稼ぎの手段になるくらい定着していたようです。
「うどん」が出てくる事件と火事のニュース
ではこの項の最後に、おなじみの「うどんが出てくる事件」等を4本。
坂出町の日稼業○○(43)、夜啼饂飩△△(52)、□□(39)他2名の女供は、去る3月上旬より同町中通町☆☆他96名より警察官署の許可を経ずして四国遍路に接待するとて金1円33銭及び4升2合を募集し、その金穀を以て4月16日午後2時40分頃、五目鮓をこしらえ飲食に消費したることにより、○○、△△は各5日、□□は3日の勾留に、他の2人は火花の散る程のお眼玉を頂戴して、以後慎むわけにて放釈させられたるが、時節柄注意すべし。
警鐘暁の夢を破る高松の大火、火元は旅籠町大正湯、瞬間11戸7棟を焼き払う
(前略)…旅籠町東詰北側「大正湯」二階より出火し、火はみるみる強風に煽られ火勢を増して四方に広がり、同家を全焼した上、火の手は二方に分かれ、一つは東隣りのうどん屋○○方に移り、間もなく同家を灰燼に帰した。…(以下略)
空腹で無銭飲食
三重県大気郡三世村○○(19)は発動汽船繁正丸に乗り込み数日前高松に上陸したが、懐中無一物にて着のみ着のままなるも市内の各所を徘徊し、雨露を凌いでいたが空腹でたまらず8日、今新町飲食店△△方にてうどん1杯、寿司8皿と鰤一片を平らげ、合計37銭の勘定ができず高松署に連れて行かれた…(以下略)
盗品を預かり 飲食店の痛事
三豊郡常磐村の○○は各所にて小泥をなし、目下取り調べ中であるが、その盗品を抵当として各店にて飲食しており、各店にてもかかる品物の抵当預かりはその筋の認定を必要とするものであるが、無届で預った者はそれが盗品であるため、いずれも罰金1円ずつ課せられる。
・観音寺町飲食店○○…うどん3杯の値、紺足袋一足
・同町飲食店△△………うどん3杯他1品の値、鳥打帽子一、他塵紙一束
・笠田村飲食店□□……うどん3杯の値、襯衣一枚
・常磐村字流岡☆☆……飲食店代53銭、女帯心一巻
・本山村大字寺家××… うどん3杯の値、帯一筋
大正6年の記事で坂出にも「夜鳴きうどん」が出ていたことがわかります。あとは最後の記事で、三豊観音寺の飲食店が5軒も「無届けで盗品を預かってうどん等を食わす」という罪で罰金を取られていますが、これがズルなのか、もしかしたら人情話なのか…やっぱりズルですかね。いずれにしろ、そういうことが起こっていた時代だということで。
(大正11年以降に続く)