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vol.81 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る大正の讃岐うどん<大正元年~5年(1912~1916)>

(取材・文: 記事発掘:萬谷純哉)

  • [nazo]
  • vol: 81
  • 2024.11.14

目立った動きはないが、うどんの値段は急上昇中

 1912年は7月30日に明治天皇が崩御されたため、ほぼ前半が明治45年、後半が大正元年という年。時代は「大正デモクラシー」の黎明期で、世界では大正3年に勃発した第一次世界大戦が大正7年まで続きました。そんな中、大正元年~5年の讃岐うどん界は新聞で見る限り、記事に出てくる「うどん(饂飩)」の文字もかなり少なく、ほとんど目立った動きはなかったようです。とりあえず、うどん業界の背景が少し窺えるものを拾ってまとめてみましたので、何となく空気感を感じ取っていただければ幸いです。

うどん1杯2銭、豆腐1丁3銭

(大正元年7月18日)

●うどんと豆腐の値上げ

 高松市饂飩商組合と豆腐屋組合は昨日より、うどん1杯1銭5厘を2銭に、豆腐は2銭5厘を3銭に値上げした。なお、床屋、湯屋等も値上げしようと協議中と聞く。物価騰貴はどこまで影響するのか憂慮すべきなり。

 大正元年に、高松市で「うどん1杯2銭、豆腐(1丁)3銭」になったようです。これを受けてさっそく、「うどん1杯2銭」が出てくる記事がありました。

(大正元年8月16日)
 所は高松市五番丁、市立尋常高等小学校内、時は8月15日午後1時。この日は同校内において高松市在郷軍人の簡閲点呼終了の日で、参集の軍人の昼食を当て込み、「高島屋」といううどん屋は荷を校内に据えて客を待ち受けていた。やがて昼食を持ってきていない人々が休憩時に荷の周囲に群がり、俺も俺もと瞬く間にうどんは品切れとなり、高島屋は大喜びで「これ今日の日当にありついた。まず一服」と煙を吹きながら勘定すると、うどんの売り上げが60杯、1杯2銭で1円20銭のはずが90銭、30銭の不足となっていて吃驚仰天。どんぐり眼で所々探しても見当たらず、再三勘定してもやはり90銭しかなく、高島屋はしょげ返り、「何のことだ。日当どころか30銭の不足では元まで食い込みだ、こんなヘマな日があるものか」と小言たらたら荷車を引いて帰る後ろ姿は気の毒にも物哀れであった。

 60杯売って90銭ということは1杯1銭5厘、たぶん組合が値上げを発表してすぐだったので、無意識に値上げ前の値段で売っていたのでしょう。この「高島屋」という大げさな名前(笑)のうどん屋は「荷を校内に据えて客を待ち受けていた」とありますから、おそらく移動式の屋台みたいなもの。組合の値上げは、店にも屋台にも均等に波及していたようです。

 続いて、この2年後の大正3年にも「うどん1杯2銭」が出てきました。

(大正3年7月2日)
 知事が代わると庁内の総てが何か知らんが一新して見える。就中(なかんずく)近頃の高等官食堂の如き、今日は淀川、明日は田村と交替にて姐さん連の顔を見せに居る。「これはお召しにより参集した奉行共への振舞いじゃ」と言うが、さりとては好い趣向、思ひ設けぬは郡奉行定めし御馳走に飽かれたであろう。これに反して昨日の警察署長会議に召し出された署長様連、知事や部長より四角四面の訓示を頂戴してお昼に引き下がったが、さて署長殿の昼仕度はといえば、郡長連に引き換え階下の教習室の一室に陣取った1杯2銭のうどんで、無理から自腹を切ったと。…(以下略)

 記事の内容はおそらく「偉いお役人さんはおいしいものを食べてるけど、警察署長は自腹で1杯2銭のうどんを食べている」みたいなことだと思いますが、とりあえず、大正3年の時点でうどんはまだ「1杯2銭」です。では、この「うどん1杯2銭」というのはどんな感じの値段だったのか? 

 まず、大正7年の国家公務員の初任給がおよそ「70円」というデータがありました。これを今と比較すると、2024年度の国家公務員の初任給が「22万2000円」くらいですから、約3170倍になっています。そこで、ネット内にあった大正4年の物価をいくつか並べて現在の値段に換算すると、次のようになりました。

<大正4年>(後ろのカッコ内は現在に換算した値段)
・豆腐(1丁)……………2~3銭 (63円~95円)
・卵(1個)………………3銭   (95円)
・うどん(1杯)…………3~4銭 (95円~127円)
・牛乳(1本)……………3~4銭 (95円~127円)
・カレーライス(1杯)…5~10銭(158円~317円)

 この数字を信用すると、
●「うどん1杯」の値段は「牛乳1本」の値段とほぼ同じ。
●「豆腐1丁」「卵1個」の値段は、「うどん1杯」の値段よりちょっと安い。
という感じです。大正元年には高松市で「うどん1杯2銭、豆腐(1丁)3銭」でしたから、この3年でうどんは豆腐の値段を抜いたことになります。また、比率的には卵と牛乳が今よりかなり高かったようです。卵と牛乳は、おそらく大量生産システムが進んできたせいでどんどん割安になってきたということでしょうか。ちなみに、大正14年の値段も出ていたので並べてみると、

<大正14年>
・豆腐(1丁)……………5~6銭 (158円~190円)
・卵(1個)………………7~8銭 (222円~254円)
・うどん(1杯)…………8~10銭(254円~317円)
・牛乳(1本)……………8~10銭(254円~317円)
・カレーライス(1杯)…10~15銭(317円~475円)

 この5品目の中では「うどん1杯」の値段が最も上昇率が高くなっていて、大正元年の「2円」が14年には4~5倍に! その他の品目も10年で2倍前後に上がっているので、この数字だけを見れば、大正時代は大変なインフレだったみたいです。

半夏生の記事に「うどん」は出てこない

 大正4年の7月3日、新聞社のコラムに「半夏生」のことが書かれていました。

(大正4年7月3日)本日は半夏生
 半夏生は「二十四節気」以下の雑節の中の一つの季節であって、夏至より後、11日目から6月の節の前日までに至る5日間を言うもので、この時分には「半夏」と称する毒草が生える。これが故に「半夏生」と唱えられるようになったので、暦面にはただ半夏生の最初の日、すなわち太陽の黄経100度に達した日のみを記載している。かくの如く、半夏生は1カ年中のある季節を「二十四節気」の他に詳しく書き表したものであって、当日の気象状態がいかなる変化を呈するか、もしくはこの日において出水をきたすが如き大雨が襲来するか否かは、自ずから別の問題である。

 しかれども、「半夏生」という季節は陰鬱なる梅雨の状態をまさに脱せんとする時期である。また一方には、例年この季節には南洋に発生する台風の襲来を被るべき初期であるが、故にたまたま半夏に出水があって梅雨が全く晴れることがあるのは、霖雨が続くため河川の水位が概して平時より増しているところへたまたま一個の低気圧襲来のため多量の降雨があった結果、ついに出水を起こすことが往々にしてあるが、これがために「梅雨が晴れる」ということではないので、もはや雨季を脱せんとする折りから右の如き状態を呈するものと見えるゆえに、「半夏生のために梅雨期を脱する」というのは疑わしきものである。

 半夏生のコラムは明治23年に1回、「半夏にうどんを食べる」という風習が窺えるような内容が出てきましたが(「明治20年代」参照)、今回の半夏生のコラムには「うどん」の話が出てきませんでした。というか、そもそも半夏生の日に半夏生のコラムが出たのは、調べた限りでは明治22年(1889)に『香川新報』が創刊されてからこの大正4年(1915)のコラムまで、26年間で2回だけですから、まあほとんど扱われていなかったということでしょう。近年の半夏生の新聞コラムには必ずと言っていいほど「農作業とうどん」の話題がくっついてくるのですが、「半夏生と農作業とうどん」がきちんとセットで扱われ始めたのはおそらく昭和40年代以降、そして大きく表に出てきたのは、昭和53年に県と県観光協会が「7月2日(半夏)・うどんの日」という全ページ広告を出して以降のことだと思われます。

(参考)昭和53年7月2日の四国新聞に掲載された「7月2日(半夏)・うどんの日」の広告

昭和53年広告・うどんの日

仏生山の名物はうどんだった?!

 県外の紀行家の方が香川に来て、その旅の様子を連載していましたが、記事の中に「うどんは仏生山の名物の一つだと言う」というフレーズがありました。

(大正4年7月28日)
(前略)…私達は今、仏生山の盛んな町を眺めて居るのだ。休憩ながら旅情を掬めば、長尾の村外れで見た白山の麗わしい姿が眼の前にありありと浮かんでくる。神社に参拝し、寺に詣で、しばらく足の疲れを癒やした。うどんは仏生山の名物の一つだと言う。讃岐は一体にうどんが精良だ。小麦がいいためだと誰かが言っていた。…(以下略)

 紀行家の方は、おそらく仏生山で出会った誰かから「うどんは仏生山の名物だ」と聞いたのだろうと思われます。これだけでは「当時は仏生山が讃岐のうどん処だった」と決めつけられませんが、仏生山の誰かがそう言ったということは、それなりに仏生山でうどんが盛んだった可能性もあります。ちなみに、仏生山は当時すでに「そうめんの名産地」でした(「明治40~44年」参照)。

うどんは讃岐の名物

 前出の紀行家の文章の中に「讃岐は一体にうどんが精良だ」という一文がありましたが、もう一つ、詐欺事件の記事の中にうどんが讃岐名物であることを窺わせる表現がありました。

(大正元年12月27日)
 木田郡氷上村の○○○○(30)方へ本年の7月13日頃、自称徳島県美馬郡岩倉村の医師△△△△と名乗る男が来て、「この時計を売ってくれないか。代金は16日に持参する」と言って片硝子ニッケル製の時価3円位の懐中時計を譲り受けた後、傍らにあった重箱を指差し、「金比羅宮へ参詣に来る国の者に讃岐名物のうどんを贈りたいが、粗末な容物では失礼だからこれをちょっと貸してくれ」と言うに、○○○○は疑いもせず黒地に松竹梅及び扇面の金蒔絵模様入の重箱を貸与した。しかし、△△はやがて出て行ったまま、何日経過しても何の沙汰もなく、「これは一杯食わされた」とわかって…(以下略)

 「讃岐名物のうどんを贈りたい」ということは、乾麺ですね。明治30年代後半に「合田照一商店」と「石丸製麺」が相次いで乾麺製造を始めましたが(「明治35~39年」参照)、大正元年には詐欺師も口上に使うぐらいに「うどんは讃岐名物」という認識が確立していたようです。

うどん玉の「通い箱」が活躍中

 「饂飩玉の通い箱」なるものが出てきました。

(大正3年12月5日)
 坂出東堺町の○○○○(38)は3日午後7時40分頃、ほろ酔い機嫌で新通町を通行の折、同町宿屋営業△△△△方表街路へ中通町飲食店□□□□方の雇人が置いていた饂飩玉の通い箱を便器と思い違って放尿したるに…(以下略)

 お下劣な事件ですが(笑)、うどん玉の「通い箱」が活躍していました。「通い箱」というのは一般的には物を運ぶ時の“使い捨て”にする箱ではなく、商品を箱に入れて持って行って、商品だけを納めて箱は持って帰って使い回しするという箱のことですから、うどん玉を入れた「セイロ」みたいなものか、それに類する箱のことだと思われます。つまりこの頃、「茹でうどんの玉を配達する」という商売が普通に行われていたということですが、「飲食店の雇い人が置いていた」ということは、製麺屋でなくて飲食店も玉売り(仕入れた玉を売る)をしていたということでしょうか。

 あと、もちろん「うどん屋に玉を買いに行く」というのも日常の光景だったようで。

(大正2年7月18日)
 善通寺練兵通りの髪結業○○(40)方の弟子である愛媛県生まれ当時善通寺西山の△△(13)は、常に○○があまりに厳しいことを恨んでいて、11日、○○が△△にうどんを買ってくるように命じたところ、△△はうどんを買って同町のブリキ屋□□方に行き、そこに塩酸があるのを見てうどんの中へそっと入れ、知らぬ顔で○○に進めた。○○は一口食うや、何だか変な味がするので怒り出して一騒ぎが起こったことが善通寺署の耳に入り、16日より同署にて取調べている。

 放尿したり、塩酸を混入したり、このブロックはひどい事件ばっかりでした(笑)。

うどん関連の店名が続々と

 うどん関連業の店名やうどんを出す食堂の名前がいくつも出てきましたので、とりあえず関連記事を並べてみます。といっても全部、例によってセコい事件記事ばかりですが(笑)。まずはうどん関連業から。

(大正3年10月10日)
 8日午後8時頃、高松市丸亀町田村肉店の四つ辻にて、年齢50才位にて妊娠5~6ヶ月の四国遍路がにわかに「腹痛を起こした」と言って大道に転んで苦悶し、傍らに亭主と思しき40才位の男と幼児とが介抱しているのを、すぐ向かいにあるうどん屋の「泉川」の女主人が発見し…(以下略)

 高松市丸亀町の四つ辻の田村肉店の向かいに「泉川」といううどん屋がありました。あの「かな泉」の創業者と同じ姓ですが、記事からはそのあたりの関連はわかりません。ちなみに、この「腹痛を起こして苦悶していた女」と亭主は、グルの詐欺師でした(笑)。

(大正3年11月29日)
 岡山県苫田郡高野村の○○○○(22)という者は岡山市大供町乾物商△△△△方へ雇われていたが、○○の朋輩に□□□□(26)とう者がいる。当時は岡山市大供町の酒類醤油販売商●●●●方に奉公中で、互いに親交する中で示し合わせて高飛びの相談を決め、まずその旅費とするため去る19日、●●より同市大工町うどん製造業公森安治郎方へ売り込む醤油一挺を良品と交換すると称して持ち出し…(以下略)

 高松市大工町で、公森安治郎さんが「うどん製造業」を営んでいました。乾麺の製造はそれなりの設備が必要なので、おそらく生麺製造の玉売り業ではないかと思われます。続いて、片原町で夜鳴きうどんが災難に。

(大正4年7月18日)
(前略)…17日午前3時頃、片原町にて新瓦町の夜啼饂飩小坂宇太郎という者が荷を道路に置き少し離れて人と雑談しているのを見た△△△△は、密かにその荷に近付き、うどんがあるのを見つけて汁を茶碗に掬い、一気に飲もうとしたところを○○が気付き、荷の傍に行って取り押さえたところ、△△はここぞとさも憐れな声で「実は今朝から食事をしておらず…」と虚言八百を並べた。それを聞いた○○は同情し、「それならどこかのうどん屋で一杯食わせてやろう」と言っているところへ警邏中の巡査が来て事情を尋ねると、怪しいところがあったため…(以下略)

 新瓦町の夜鳴きうどん業・小坂宇太郎さんが、片原町まで屋台を引いて行ってたところ、目を離した隙にうどんの汁を飲まれたと(笑)。ちなみに、讃岐うどんの“つゆ”はこっちではみんな「ダシ」と言いますが、大正時代は「汁」と言っていたようです。

 以上、高松市の中心部で3軒。続いて、中讃あたりから2つ出てきました。

(大正4年9月17日)
 昨日午前、当地方裁判所において貯金通帳変造事件の公判が開廷したが、その主人公は綾歌郡滝宮村に住する○○○○(39)という薄馬鹿者。本人は無財産の上、定職もないのに資産があるが如く装い、どこかへ婿養子に行こうと企んで同村饂飩屋業の岩造方に行き、「自分は少々貯金のある者であるが、どこかへ世話してくれないか」と頼み…(以下略)

 綾歌郡滝宮村で、「岩造」さんが「うどん屋業」を開業中です。「うどん屋業」とあるので、こちらはうどんを食べさせる店かもしれませんが、“薄馬鹿者”が詐欺をしにやってきたそうです(笑)。

(明治45年4月10日)
 丸亀市土居、当時善通寺南町居住の饂飩打業○○○○(22)は7日、同町赤門筋にて仕込杖を振り回していたところを善通寺署の巡査が認め、銃砲火薬取締規則違反として目下取調中。

 丸亀市土居で「うどん打ち業」なるものをやっていた善通寺在住の個人が出てきましたが、麺棒でなくて仕込み杖を振り回して捕まったので、名前は伏せ字にしておきます(笑)。

 続いて、うどんを出す食堂らしき店が6軒出てきました。まず、高松市から3軒。

(大正2年7月13日)
 一昨夕のこと、栗林公園前飲食店中西八十吉方へ一人の男が来てうどんを7銭5厘だけ食し、勘定となるや○○所有のものによく似た財布を取り出して支払った。○○は別に気にも止めなかったが、しばらくして○○が必要あって財布を出そうとしたところ、1円40銭入りの財布がなくなっていることに気づき、さては今の男が盗んだに違いないと派出所へ訴え出た。巡査は目星を付けて犯人を捜査中、昨日午前7時頃、香川郡鷺田村の豆腐商○○○○(55)を取り押さえ、取調べたところ、同人の仕業であることが判明、目下高松署にて取調中である。
(大正2年8月3日)
(前略)…12時頃仏生山町に至り、しばらく同町内を徘徊し、2日午前3時頃法然寺に行ったがまだ早かったので山門が開いてなかったため、どこかで腹を肥やそうと中の町の飲食店でうどんを食べようと○○方に入ったところ、あに図らんや待ち構えていた△△の一団がその店で食事していたため、□□らはここぞと一言二言争論の末、格闘を始めた…(以下略)
(大正5年8月5日)

●親から告訴 息子の喧嘩

 4日午前4時半頃、高松市塩屋町○○○○(24)が八重垣遊郭から朝帰りの際、あまりに空腹になったため廓内の笠井料理店の店頭にてうどんの立ち食いをしていたところ…(以下略)

 栗林公園前の飲食店「中西八十吉」さんちと、仏生山中の町の飲食店と、八重垣遊郭(今の城東町あたり)の廓内の「笠井料理店」でうどんが出ていました。中西さんちに来た窃盗犯の男は「うどんを7銭5厘だけ食し」ということは、1杯2銭なら「3杯半」も食べたということですか。あと、「笠井料理店」は「店頭でうどんの立ち食い」ができる店だったようです。

 続いて、木田郡と丸亀と多度津で各1軒ずつ。

(明治45年6月16日)
 木田郡井戸村の飲食店安西シゲという者が14日の午後7時頃、慌ただしく同村駐在所へ駆け込んできて巡査に向い、「本日の午後6時頃、△△△△(32)という者が泥酔してやって来て『うどんをくれ』と言ったが、『売り切れた』と答えると△△は怒り、『貴様は俺に少々売り掛けがあるから“うどんがない”と言うのか』と詰め寄ってきたので『いや、決してそうではない』と弁解したが耳にせず、口論の末、私の顔を殴り暴言を吐いてきた」…(以下略)
(大正3年7月7日)
 4日午後10時頃、丸亀市松尾町派出所詰の巡査が部内米屋町を警邏中、電柱に身を潜める男を発見。取り調べたところ、この者は同市葭町○○○○(39)の実父△△(73)という者で、同人が語るところによれば、倅の○○がこの老人を労らないのみならず、食物もろくに与えてくれず、この日も少しの物を道具屋に売り払って4銭を得て富屋町でうどんを食し、辛くも飢餓を免れたが、今はまた空腹となり動くことができないとのこと…(以下略)
(大正2年5月17日)
 自称愛媛県温泉郡北條町の○○(28)は14日、多度津東浜「本田飲食店」にてうどん3杯。柏餅10個程を食い、「金は警察が払うぞ」と言うので、「こやつ、頭がおかしい」とわかって仕方なく諦めたが、また15日に来て「うどんを食わせ」とねだり込んできた…(以下略)

 ちなみに丸亀の「空腹で動くことができないと言う男」は詐欺師ですので、ご安心を(笑)。

 あと、小豆島で無許可のうどん店が当局に叱られていました。

(大正2年11月19日)
(前略)…小豆郡草壁村の○○の婆さんは寒霞渓の遊客で一儲けしようと、同村にて無許可でうどん、煮菜等の飲食店を開業。早々に日下部署に一喝され、50銭のお灸を据えられた。

 罰金50銭。今のお金に換算すると、3170倍で…1585円? 婆さんの初犯で、「一喝と50銭」で勘弁してくれたのでしょうか(笑)。

(大正6年以降に続く)

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