さぬきうどんのメニュー、風習、出来事の謎を追う さぬきうどんの謎を追え

vol.80 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る明治の讃岐うどん<明治40年~44年(1907~1911)>

(取材・文: 記事発掘:萬谷純哉)

  • [nazo]
  • vol: 80
  • 2024.09.26

「夜鳴きうどん」が全盛期か?! 製麺所と製麺機の広告も登場。

 明治時代終盤の5年間です。この頃の国内情勢の大きなトピックとしては、明治42年に伊藤博文が韓国で暗殺され、明治43年に韓国併合が合意されるという、もはや歴史の教科書でしか目にしたことのないような項目が挙げられますが、讃岐うどん界では町中で結構たくさんのうどん店が営業していたようで、製粉業も製麺業も新聞に登場するなど、現在にそのままつながるような話がいくつも見られます。そんな中、この5年間の新聞には「夜鳴きうどん(屋台のうどん)」の文字がたくさん見つかりました。また、新聞広告に「製麺所」や「製麺機」も登場するなど、讃岐うどん界に少し動きも見られ始めています。

 では、明治40年~44年の新聞に載ったうどん関連記事をまとめてどうぞ。

 
明治40年(1907)

 「製麺所」と「製麺機」の広告が、初めて新聞に出てきました。

M40_製麺機広告
M40_製麺所広告

 いずれも元日に掲載された広告。まず「謹賀新年」の名刺広告に出てきたのは、高松市内町の「玉藻製麺所」(4段目の右から6つ目)。同製麺所は現存していませんのでその後の経緯はわかりませんが、おそらく香川県で最初の「製麺所の新聞広告」です。「専売特許田中式 そうめん・うどん・そば製造機械」は、広告主が大阪の「田中鉄工場」で、これもおそらく「製麺機の新聞広告」の第1号。戦後間もない頃、大阪の鉄工所が四国新聞に製麺機の広告をたくさん出していましたが、大阪は明治時代から関西の製麺機の製造販売の本場だったようで、“製麺処”の香川にも積極的に新聞広告を打っていたのかもしれません。

事件記事に「製麺業」と「水車業(製粉業)」が登場

 これまで、窃盗や詐欺の事件記事に何度も「うどん屋」が登場していましたが、この年は「製麺業」と「水車業(製粉)」が出てきました。まず登場したのは、多度津の製麺業。
 

(1月19日)
 多度津新町の○○(14)、三豊郡高瀬村△△の長男□□(17)の両人は、昨年来、多度津浜町の麺類製造業**方に雇われ中、○○は昨年10月頃より数日前までに店の売溜金6円余、△△は麺類を売却し7円余を着服したため、一昨日鍵山刑事に逮捕され、目下取り調べ中。

 多度津町浜町の製麺業者は会社名がなく、「**方」と個人名で出ていましたが、14歳と17歳の男子を雇っていたくらいの規模だったようです。続いて、「水車業」が出てきました。

(9月19日)

●水車にて大怪我

 大川郡長尾町大字本村の水車業○○○○の長女△△(29)は、去る13日朝、いつものように水車場でうどん粉の製造を行っていたが、いかなる拍子か木綿の前掛けが歯車に巻き付き、そのまま水車の内部に巻き込まれたため大声を出して救助を求めたところ、家族が急いで駆け付けたが、既に血まみれになってもがいていたためすぐに機械の回転を止めた。△△はそのまま気を失っていたため応急手当を施すとようやく気がつき、医師の診断を受けて手腕腹部の傷所に繃包帯を巻いたが、生命には別条なしとのこと。

 危うく大事故になるところだったようですが、とりあえず、長尾町で「水車を使ったうどん粉の製造」が行われていたことがわかりました。

うどん粉を広島へ販売

 続いて、うどん粉の窃盗事件。

(7月18日)

●横着船頭

 高松市東浜村に住む船頭○○(24)という者は、去る6月20日、問屋業の中熊から広島市大崎商店行きのうどん粉70俵を積載し出帆の途中に各俵から少しずつ粉を抜き取って2俵の俵を作り、船内に隠しておいて先方へ70俵を届けて帰途。昨朝8時頃、綾歌郡坂出町△△方にて不正取得した2俵を売却の掛け合い中、中岡巡査に怪しまれて取り調べられた末、全てを白状した。

 事件の内容はともかく、「『中熊』という問屋さんがうどん粉70俵を船で広島市まで輸送していた」ということがわかりました。普通に考えれば、そのうどん粉は香川県産だと思われるので、当時の県産小麦は県外に販売されるくらい収獲されていたのではないかと思われます。

またまた事件に「夜鳴きうどん」が出てきた

(9月26日)

▲鼠賊4件

 高松市新瓦町の武田唯一方へ23日午後11時30分頃、同人が夜鳴きうどんを食べに出かけた後へ賊が忍び入り、蚊帳袢纏袷価格5円余の物を、内町の白米商住谷繁蔵方へも同日夜更けて賊が忍び入り、店の間の銭箱の引き出しから金6円程を窃取し、24日午後11時頃、木蔵町の黒木平次方にても白米二斗余と衣類等代価6円余の物を窃取されて、いずれも届出があった。…(以下略)

 続けざまに窃盗事件があったようですが、最初の新川原町の武田さんだけ「夜鳴きうどんを食べに出かけた後へ…」と、書かなくてもいいことをバラされています(笑)。ニュースに「夜鳴きうどん」の一言を入れると、記事の注目度が上がったりしてたのかもしれません(笑)。

「うどん」が出てくる窃盗事件が2本

 では、明治時代の『香川新報』ではすっかりおなじみになった、「うどんが出てくるセコい事件」を2本どうぞ。

(2月19日)
 丸亀市葭町○○の二男△△(18)という者は、やっと肩揚げが取れたばかりの青二才にもかかわらず女の味を知り、親たちが何度意見しても遊郭通いが止まない。しかし、いつまでも金が続くわけでもなく、ついに悪意を生じるに至った。去る14日午前9時頃、同市風袋町の饅頭屋某方の前を「何か金儲けはないか」と思案しながら通りかかった某うどん店の店頭に財布らしきものを見つけ、「うどん一杯くれ」と言って店に入り、隙を見てその財布をちょろまかし、逃げるように駆け出して隠れて中身を調べると2円22銭8厘ほど入っていて、夜になるのを待って福島の遊郭「八幕楼」に参じてなじみの「岩市」という娼妓を1円で留め掛け、その夜は同楼で明かし、翌15日は午後2時頃に同遊郭の「朝日楼」に行き「小竹」を挙げたが、もはや懐中に余すところ80銭ばかりとなったため、「また後日の楽しみに」と仕舞いにした。代わってうどん店では○○が出ていった後で財布がなくなっていることに気づいたが、もはや姿も見えないのでさっそく派出所へ盗難の訴えをしたところ、木下巡査が○○の所業であることを探知し、一昨日の朝、自宅にいるところを取り押さえて丸亀署で取り調べたところ、財布の窃盗を白状した。

 「青二才なのに女の味を知り…」とか「ついに悪事を生じるに至った」とか、「見てきたんか」と突っ込みたくなるような内容が今じゃ絶対に書かないような表現で堂々と新聞に載っていた時代です。しかも、ここでは伏せ字にしていますが、新聞にはフルネームで掲載されています(笑)。それにしても、「うどん屋に財布を置きっぱなしにしていて盗まれた」という事件がこれまでにもう何回出てきたやら。当時のうどん屋と財布の関係は、一体どうなってたんでしょう(笑)。

(8月2日)

●賊は向かいの倅

 丸亀市浜町の呉服商「京都丸屋支店」へ忍び入って売溜金30円を窃取した犯人は同家のすぐ向かいの菓子商○○(28)であることが判明し、一昨日逮捕して取調中であるが、供述によると、同夜、同家の代理人新藤清蔵(24)という者が手代の小西勇次郎(18)、丁稚の横山兼市(12)の2名を残して遊郭「都楼」に行って不在であることを知り、午後11時頃、清蔵に別の遊郭に行くことを勧め、「自分は一足先に行って待っているから早く来い」と約束した。そこで清蔵は兼市を丸亀に連れて行ってうどんを食わせ、その後、店の留守番をするように命じた上、すぐに「吉田楼」に行くと、節はついさっき来たが、あなたがまだ来ないので呼んで来ると言って出て行った。もう帰ってくるだろうというので1時間ばかり待っていたが、丁稚の兼市も帰る途中に通町でケンカがあったのを見ていて、その隙をうかがって忍び入って窃盗を働いた。そこへ清蔵と兼市が帰ってきて、節も知らぬ顔で入ってきて、勇次郎の手前を繕って「盗難は明朝発表するのが得策だ」と言って清蔵を引き出し、同夜は「吉田楼」に泊まって翌朝帰宅して盗難事件を騒ぎ立てた。しかし、鎮西刑事がその真相を素早く見透かし、家宅捜索をしたところ、盗品は戸棚の布団の間にそのまま隠してあったのを発見した。

 登場人物の役割がややこしいですが、悪いやつはたぶん「○○」と伏せ字にした1人だけ。うどん記事発掘的には「浜町の呉服屋の清蔵さんが丁稚の兼市に留守番を命じる前に、兼市にうどんを食わせた」という話だけわかれば十分です。

仏生山の素麺

 最後に仏生山の素麺の記事を1つ。

(3月26日)

●素麺業者の歎願

 仏生山町は本来、高松藩祖頼重公が同町を創立するにあたり、特有物産として素麺の製造を行うために道路の幅員を大きく広げ、200有余の年間、今日に至るまで、素麺乾燥場として道路を使用してきた。しかし、仏生山警察署より「街路取締規則によって、本月31日限りでその使用を停止するように」という厳命があり、そうなると当の業者は挙げて廃業せざるをなくなるため、「道路の使用は古来の慣行であるため黙認されてきたものであり、道路の幅員は十分に拡張されていて交通の障害にもなっておらず、加えて他の府県郡は4月から10月にかけての期間は素麺製造がほとんど皆無になるが、仏生山の素麺は他の産地とは異なって4月から10月に至る夏期の間は冬期に比べて非常に多額の商品を産出している。これは通りの上空の空気の流れに関係しており、町並み自体が素麺製造に適しているわけで、今日、町並み道路の使用が禁止されることになれば素麺製造業の荒廃に関わるため、町並道路の軒先三尺を使用の議、同業者惣代中條六郎、中黒卯吉氏ほか数名の連署にて郡役所を経て県庁に願い出た。

 「昭和の讃岐うどん」のシリーズでも触れましたが、高松市の仏生山はかつて、江戸時代から続く「素麺の産地」で、その素麺の乾燥には「200有余の年間、今日に至るまで、道路を使用してきた」そうです。それがこのたび仏生山警察から「道路使用を停止するように」言われて、「軒先三寸は使わせてくれ」という陳情をしたという話でした。

 
明治41年(1908)

 明治41年は讃岐うどん界に特に大きな動きは見られませんでしたが、前年に続いて「夜鳴きうどん」が出てくる記事が2本見つかりました。まず、夜鳴きうどん屋の“商売的な立ち位置”が窺える記事から。

夜鳴きうどん屋はあまり儲からない?

(1月24日)

●不埒女房(姦通の告訴)

 高松市新瓦町の○○○○○という者は、昼は青物を行商し、日暮からは夜鳴きうどんを担って女房△△(25)、長女□□(3才)の3人で細々と暮らしていたが…(以下略)。

 記事の内容は見出しから想像できるように「夜鳴きうどん屋の女房が浮気した」とか何とかいう下世話な話なので割愛しますが、「昼は青物の行商、日暮からは夜鳴きうどん」とあるように、「夜鳴きうどん屋」は「それだけでは3人家族で生計が立てられない」という程度の商売だったと思われます。今なら「それだけで食っていける屋台」なんかもありそうですが、当時はそんな“グルメな時代”ではなかったのでしょう。

夜鳴きうどん屋は高松市に約60人

 続いて、高松市の夜鳴きうどん屋の数が出てきました。

(11月20日)

●横着なる夜啼饂飩屋

 高松市内の夜鳴きうどん屋は約60名程いて、いずれも日暮頃から行商に出かけてくるが、その中には往々にして無鑑札の者もあり、彼等は故意にその筋へ鑑札の下付を出願せず、「僅かな利得に鑑札を受けてはたまらない」と平気に営業をしている者があり、すでにその筋においてはこの辺に着眼し、大いに取り締まりを厳しくしている。

 高松市内に夜鳴きうどんの屋台が、無許可も含めて60名もいたとのこと。高松市内と言っても当然、人の多いところにたくさん出ていたと思われますが、すると、中心街の日暮れ以降は「街の辻々に夜鳴きうどんの屋台」みたいな状態だったのでしょうか。いずれにしろ、このデータは、かなり有力な時代考証の事実です。かつて、讃岐うどんマニアの間で「屋台のうどんはなかったのか?」という話が出て、しかし誰も知らないので答えのないまま今日に至っていましたが、これを見る限り、明治時代の終盤以降は「屋台の全盛期」だったのかもしれません。

「新麦でうどんを」という風習があった

 讃岐の“生活うどん”の歴史は農作業との関連が欠かせないものですが、その風習に関する表記が2本ありました。まずは、「小麦の収穫」とうどんの関係。

(6月23日)

●うどん粉の欠乏

 小麦の収穫を終えると農家はまず「新麦でうどんを」と言うが、農民家庭の一大歓楽なのに春以来降雨がなく、入梅後も降雨が少ないため河川はどこも枯渇し、水車はたいてい休業しているのでうどん粉が欠乏し、未だこの快楽を饗することができていない。

 小麦の収穫後に「新麦でうどんを」という風習があったそうです。当時のうどんはおそらくほぼ県産小麦で作られていたと思われるので、オーストラリア産全盛の今よりも「新麦」のインパクトが強かったのだろうとは思いますが、今なら「さぬきの夢」の「“新麦でうどん”プロモーション」ができるのではないでしょうか。筆者は以前、「さぬきの夢」を使っているうどん店で「新麦のうどん」を食べて、明らかに風味が違うのを体験したことがあるので、新麦には間違いなく付加価値があると思います。

「半夏生にうどん」はまだ出てこない

(7月2日)
 本日は半夏生なり。故事によれば、半夏生とは「半夏草(はんげそう)の根が生ずる頃」としてその名が付いたとされる。暦に「夏至の第二候」というものにして、すなわち「夏至より11日目に当たる日」を言う。本日にて田植えの限りとす。これを過ぎれば熟しがたしとのことなり。しかし、本年は天気続きで水が少なく、東讃地方にも田植えができないところが多い。

 「半夏生」は古代中国で作られた「七十二候」という季節を表す言葉の一つなので言葉の歴史はとても古く、明治時代に話題が出てきても全然おかしくないのですが、「半夏生の日にうどんを食べる」という風習はここでは出てきません。昭和53年に県と県観光協会が四国新聞に出した「7月2日(半夏)うどんの日」という広告の中では「7月2日は半夏と呼ばれ、昔から讃岐の各村、各集落では競ってうどんを打ち、田植え、草取り等の農作業の慰労の意味で食べたと伝えられる」という文章が掲載されていましたので(「昭和53年」参照)、その後どこかで「半夏にうどんを食べる」という話が表に出てきたみたいです。ちなみに、これまで何度か触れた通り、7月2日の「うどんの日」は「昭和55年に本場さぬきうどん協同組合が制定した」とされていますが、上記の通り、その2年前に県と県観光協会が四国新聞に発表しています。

コレラと赤痢は「冷うどん」のせい?

 前年に県下でも発生したコレラ(虎列拉)は、まだ完全に収束していないようです。

(7月4日)

●虎列拉か

 大川郡造田村の農業○○の実母△△(62)は、2日午後9時頃より身体に異状をきたし、3日午前10時30分、神前村の医師□□の診察を受けたところ、虎列拉病と断定された。そのため直ちに村役場へ急報し、村役場では警官と共に患者家へ出張し、消毒的大清潔法を施行。なお、同人は2日の田植休業に冷饂飩を多食したことにより発病したものと思われる。…(以下略)

 前年もコレラの注意喚起記事の中に、気をつける食べ物として「冷饂飩」が出ていましたが、この年は「冷饂飩を多食したことにより発病したものと思われる」という、推測ながら「犯人はこいつに確定」みたいな書かれ方をしていました。「うどんがコレラの原因」というのはどうもピンとこないのですが、こんなに名指しされるとは、一体何があったのでしょう。

 そして今度は赤痢が蔓延し、何がどうなったのか、「うどん粉と素麺が全く売れなくなっている」そうです。

(8月12日)

●善通寺町不景気の一因

 赤痢病蔓延の地として、善通寺町の各戸は薬品及び石灰等にて便所の隅々まで消毒されたため、附近の村落から買物に来る客が「ここも赤痢、ここも赤痢」と言って関係のない家まで影響を蒙り、飲食品の中ではうどん粉、素麺等の類は売れ行きが皆無になっている。

 明治34年にも「冷饂飩を食べたのが原因で赤痢になった」という記事が載っていましたが(「明治30~34年」参照)、赤痢が発生したら根拠のない噂が蔓延して、うどん粉や素麺が全く売れなくなったとのこと。それから100年以上経った令和の時代、新型コロナが広がり始めたら、あれから科学も情報発信もずいぶん進化したはずなのにあちこちで根拠のない噂が拡散したり誹謗中傷があったりしました。ほんとに、歴史に学ばずにいつまで経っても同じようなことをする人はいるものです。

 
明治42年(1909)

 明治42年の『香川新報』で見つかった「うどん」の文字は3つだけ。特に取り上げるべき話題もありませんでしたが、その3つの中の1つが、またまた「夜鳴きうどん」でした。

夜鳴きうどんはやっぱりあまり儲からない?!

(5月19日)

●山甚の恵与

 高松市の木内屋敷に住む夜鳴うどん屋の某は子供が5人もおり、細い腕では生活をしかねるということで、折からの好きの虫もあってか「取った、取られた」の勝負中、その筋に検挙されて40円の罰金を課せられた。しかし、根っからの夜鳴うどん屋には40円はおろか4円の金も工面できず、「留置場に入って償います」とのこと。そこですぐさまその手続きを行うことになったが、さてそうなれば残された家族の者が糊口に困ることになると思った中村巡査がこれを「山甚」に話し、「出獄まで家族の面倒を見てくれぬか」と話を持ちかけたところ、山甚はグッと突き出した胸を叩き、取りあえず3円を与えた。

 「根っからの夜鳴うどん屋には40円はおろか4円の金も工面できず…」とありますから、やはり夜鳴きうどん屋はあまり儲からない商売なのだとは思いますが、子供が5人いるのに「取った、取られたの勝負中…」も大きな原因の一つかと(笑)。

兵庫町にうどん屋

 続いて、相も変わらず無銭飲食のセコい事件に、いつものようにうどん屋が登場していました。

(5月18日)

●無銭遊興

 高松市南鍛冶屋町の「みどり飲食店」へ16日午前10時頃、一人の男が来て2円90余銭の飲食をしたが、いざ勘定となって“文なし”とわかり、「金の工面に誰か附馬を」と先方からの催促に言うがままに仲居の○○○○という者を附け遣ったが、同町を出て兵庫町、西新通町と徘徊し、しまいに兵庫町の某うどん屋に寝転び、始末に終えないため、人力車に乗せてまた「みどり」に担ぎ込み、その旨警察署に通知して取り調べたところ、同人は香川郡下笠居村生島の△△△△(38)という男で、遊興費は内町の親戚某が支払うこととなった。

 とりあえず、「兵庫町にうどん屋があった」という事実だけ拾っておきましょう。

宇野港が竣工、イベントにうどんの出店も

 岡山県玉野市に宇野港が完成し、その記念イベントにうどん店が出ていました。

(9月28日)

●宇野港竣工式

(前略)…園遊会に移り、手始めに埋立地西部一帯に陣取っているビヤホールでビール、ハムサラダ、菓子を口にした後、下戸党は旭橋東詰の「あけぼのすし」、南海岸通り二丁目の「しぐれ庵のしるこ」に集まり、上戸党は同三丁目の「かささぎ本店」におでん燗酒、同四丁目に「玉藻支店」のうどん、お酒のご馳走に向かう等すこぶる賑わい、同三丁目の品川の漁魚場にシャツ、足袋等の面白き獲物を漁って興じる真面目党もあって歓興湧くが如くである。いずれの模擬店も人であふれ、その他には喫茶店あり、構外には余興の剣舞演劇等が数カ所あって一層の盛況を呈し、香川県立粟島航海学校生徒と児島郡立商船学校生徒の端艇競漕と東方埋立地の自転車競走における数番競争はこの日一番の観覧物。午後4時過ぎから来賓は随時退散し、香川県人一行、官公吏、新聞記者等は八島丸にて、その他は硯海丸にて4時半出発、6時過ぎ高松桟橋に帰着した。…(以下略)

 下戸党(お酒の飲めない人)は「すし」や「しるこ」、上戸党(お酒の飲める人)は「おでん、燗酒、うどん」とあります。今はお酒に付き物の麺類と言えば「そば」の方がイメージが強く、あと「飲んだ帰りの締めのラーメン」もよく聞きますが、昔はどうも「うどんとお酒」が普通に付き物だったみたいです。ちなみに、宇髙連絡船が就航するのはこの翌年、明治43年(1910)のことです。

 
明治43年(1910)

 昭和43年の『香川新報』には、「夜鳴きうどん」にまつわる記事や「うどん屋vsラムネ屋」の戦い(笑)に加え、うどん屋にまつわる投書が5本も載っていて、なかなか興味深いうどん事情が見えました。ではまず、「夜鳴きうどん」の関連記事から。

夜鳴きうどん事情がさらに詳しく

 「子供がお父さんの夜鳴きうどんを手伝う」という美談が紹介されていました。

(6月7日)

●孝行うどん

 風紀退廃し、品性堕落する学生の中にあって、この地に書くも心地よい美談がある。高松市新瓦町にある、餅とうどんを商い細々と生活する○○という者の長子の△△(13)は、品行方正かつ学力に秀でながら、男手一つで自分を養育してきた父に有難さを感じ、先般より父の夜鳴きうどんの手伝いをしながら、自らも夜な夜な別にうどんの車を引いて行商を始めた。自分の品が早く売切れた時は父を尋ねて父の品を売り、たとえ2時になろうが3時になろうが父とともに帰宅する…(以下略)

 この後、今度は弟が「兄ちゃんの勉強を助けたい」と言って父の夜鳴きうどんを手伝い始める…という話が続くのですが、これも、「夜鳴きうどん」という商売の環境が垣間見える話の一つです。

 続いては、県外の夜鳴きうどんの話が載っていました。

(6月28日)

●汽船ロハ乗り

 京都上京区仁和寺通千本東に入る信濃町の○○の長男、△△(23)は本年1月頃、神戸に出て同港にて弁当やパン等を売りながら生活しているが、不景気で思わしくなく、人に勧められるまま1月14日から馬関(下関)に行って夜鳴きうどん屋を始めたが、これも思わしくなく、所持していた物品はことごとく売り尽くして無一物となったため…(以下略)

 神戸でパンや弁当を売っててうまくいかず、人に勧められて下関に行って夜鳴きうどん屋を始めてこれもうまくいかなかったという若者の話。夜鳴きうどん屋がうまくいかなかった理由が下関という土地のせいなのか、あるいはこの若者の能力のせいなのかわかりませんが、いずれにしろ「人に勧められた」ということは、勧めた人は「夜鳴きうどん屋がいいんじゃないか?」と思っていたということですから、県外でも「夜鳴きうどん屋」はそれなりに何とかなる商売だったと思われます。

 そしてもう一本、高松市内の“夜鳴きうどん屋事情”が解説されていました。

(12月2日)

夜鳴うどん屋

 うどんは土地によって相場が違うが、今、高松市内を行商する夜鳴うどん屋は互いに競争的で、従って、品質や掛汁の味にも注意を払っている。市内のある夜鳴屋の話によると、夕食後に出掛け、「○○屋御用~」と町内をあちらこちらと歩いていると、「○○のうどんを一皿食うか」と日頃贔屓の客は呼び込んでくれる。11時頃から翌日の午前1時頃までの間は片原町辺から内町、兵庫町、丸亀町附近においてよく捌ける。寒い夜なんか、片原町東の辻にいたら遊郭戻りの客杯が「おい、うどん屋、一杯ごく熱く」という調子で20や30玉くらいの売れ残りの物はわずかな間に売り切れるようで、夏季よりは冬向きの方が景気がよい。実益は、多い夜は50銭から70銭くらいあるようだ。

 やっぱり高松市内の夜鳴きうどん屋は競争するほどの状況にあったようです。「実益は多い夜は50銭から70銭」という具体的な数字が出てきましたが、月収に換算すると、平均30銭として月に25日商売して「7円~8円」。調べたら、明治43年の日雇い労働者の1日の労賃が「平均53銭」、同じく小学校の先生の初任給が「10円~13円」というデータが出てきましたが、これが相場だとすると、それらよりは少々低い。けど、夕方から深夜の“副業”とすれば、それなりの稼ぎにはなりそうなところです。記事中、うどんを「一皿食う」という表現が出てきますが、書き間違いなのか、皿に入ったうどんがあったのか、ちょっと謎です。

「うどん屋vsラムネ屋」の小競り合いが勃発

 何がどうして起こったのかよくわかりませんが、高松市の中心部で「うどん屋軍団」と「ラムネ屋軍団」の出店争いが勃発しました。

(8月4日)

●ラムネの敵にうどん現る

 高松市南方角のうどん・そばの製造家が数名の合資で天神前にラムネの製造所を設け、在来の製造者の向こうを張り、互いに得意先を競い合っているが、北方角のラムネ屋はこれをこしゃくなやつと思い、今回、後藤、三好その他一団となって麺類の大製造所を造り、南方が本職のうどんの砦を築くと同時に天神前の新城をも陥落させようと手ぐすね引いているため、この麺類の製造は岩清尾神社の祭典日を期して開始し、市中の味方のうどん屋に一杯1銭で客を集める意気組あり。これを密かに耳にした南方は「おのれちょこざいな振る舞いをするか。うどんは我に拳あり、やつらなどどれだけのものか」と武者笑いでいるが、北方も陣営堂々の観あれば、そう高枕ではいられないだろうと、この頃市中にてチラホラ噂話が出ている。

 整理すると、高松市の「うどん・そば製造家」が共同で天神前(今の中央公園の南の一角)に「ラムネ屋」を出したところ、「ラムネ屋」も一団となって「麺類の大製造所」を計画して対抗し、何やら不穏な空気が流れているようです。その「ラムネ屋軍団」と言うべき「高松市清涼飲料水営業者組合」が、「うどん・そばの製造と卸しと小売を始めるぞ」という広告を出していました。

M43_清涼飲料水組合広告

 現代文で要約すると、次のような内容が書かれています。

●うどんそば製造卸小売開始予告

一、「反対うどん」という名前で近日より製造を開始し、一般うどん販売業者(飲食店、夜行商)に最下低価格で売り出す。
一、一般のうどん客に対しては、市内の主要地数カ所に組合直営の飲食店を開設し、京阪流の味付けで極めて安く売り出す。
一、高松市の麺類界に一大改革を起こすため、製造規模は高松市において未曾有の大設計をもって活動する。
一、製造名称名は、「匿名組合・高松製麺所」とする。

 翌年の新聞にその後の経過が出ていませんでしたので、読者としては何かウヤムヤが残ったままですが、とりあえず「うどん業界絡みで何やら騒動があった」ということで。まあ、どこが製麺をやろうがラムネ屋をやろうが、一般客にはあまり関係ないことではありますが。
 

「うどん粉」が出てくる記事が2本

 続いて、「うどん粉」が出てくる記事が2本見つかりました。まず、うどん粉の品質に対する苦言から。

(8月26日)

●麦粉粗製と衛生

 近来、木田郡内各地の飲食店に販売するうどん及び素麺を調べたところ、ことごとく石粉を含有しており、麦粉で糊を製造すると鍋の上部には水分と麦粉が混合し、その底部には多量の石粉が沈殿する。これは水車営業者が貫量を重くするための狡猾心に出ずるものにて、苦情が各地に起こりつつあり、また一面こうした石粉を含有する麦粉をうどん、素麺、その他菓子の原料に使用すれば大いに胃腸を害するため、衛生上、これを看過できるものではない。

 「糊の製造と石粉の沈殿」のくだりと「うどんに含まれる石粉」の関係はよくわかりませんが、要するに「水車の製粉業者が重さでズルをするためにうどん粉に石粉を入れていた」というひどい話でした。

 続いてもう一つは、うどん粉の運搬の話題。

(9月8日)
 6日の午前11時半頃、徳島県脇町の○○(26)が自家で飼育している馬にうどん粉を積んで本県に来る途中…(以下略)

 記事に書かれていた事件は「道端で放尿している娘を見た馬が暴れ出して娘にのしかかった」というとんでもない話ですが(ようそんなもの新聞に載せるわ・笑)、とりあえず、「徳島県の脇町から香川県に馬でうどん粉を運んでいた」という事実が出てきました。

仏事のうどん

 仏事とうどんの話が初めて新聞に出てきましたが、具体的な風習の内容は、記事からは全くわかりません。

(11月1日)

●仏事に加諭

 仏生山町字本村赤松藤市方で、30年の仏事を営むために多数の者が集合してうどんを打つやらの大騒ぎをしている最中、同町の警察署がやってきて、僧侶の読経は差し支えないが大人数での会食は見合わすように注意し、会食は中止となった。

 「仏事を営むために大勢でうどんを打つ」という風習があったのかと思いきや、警察に「大人数で会食をするな」と言われて中止になったとなれば、これは風習でも何でもなさそうです。

祭りの屋台から「うどん屋」が消えたか?

 法然寺の「虫干会」の露店の様子が出ていましたが…

(8月9日)

法然寺虫干会

(前略)…露店は例年の如く境内に2カ所あり、境外の興行物は動物、生き人形、覗き、露店は菓子、団扇、種物、果物、氷店、飴湯、甘酒、上町中町通は菓子、小間物、金物、農道具、金魚店、飲食出店冬芽の木を並べ…(以下略)

 興行物をはじめ、露店の数々が列挙されていましたが、明治30年代中盤あたりまでの祭りの露店の定番だった「だんご屋、うどん屋、寿司屋」等は、明治40年代になってすっかり見当たらなくなりました。

うどんに関する投書が続々

 この年の投書欄にはうどん絡みのものが4本載っていましたが、ほとんどが今なら絶対掲載されないような内容です(笑)。

(2月24日)<投書>
 この頃、俺等の町やお隣の淵崎村の料理屋飲食店へは、うどん粉の中から飛び出したような人三化七の姐さん達がたくさんお出でて、子を持つ親は心配でならぬ。どうかなりませんかな(土庄茶瓶親爺)
(3月30日)<投書>
 高松市某町のうどん屋内の老母は過日来より病気のところ、若夫婦は大の不孝者にて大切なる親に薬も与えず、その上に二階へ打ち上げて干殺にする考えか湯水も与えない。誰かこの老人を救う人はありませんか。警察へでも頼むことが出来ませんか。(常盤橋)
(5月12日)<投書>
 築港の◯◯うどん屋はまずくて食えぬ。おまけに1杯が2銭。実に驚きました。組合長さん、よろしくたのみます。(小豆島おへんど)
(8月20日)<投書>
 高松市内某町の○○子君は今にこりずに毎夜毎晩△△君と一所に若い衆と4~5人とともに築港や片原町辺をうろついてうどん屋へ入り、12時~1時頃に帰ってきよるが、僕らは見苦しくてならん。

 1つめの投稿の「人三化七(ひとさんばけしち)」は、「人が3、バケモノが7入っている」という、おそらく昭和の中盤あたりまではそれなりに残っていた“不細工な顔”を揶揄する言い回し。今や人様に対して使ったら訴えられそうな言葉ですが、それを新聞がそのまま載せるような時代でした。まあ、それに「どうにかなりませんか」と書いてくる読者も読者ですが(笑)。あと、3つ目と4つ目の「○○」の部分はいずれも新聞には実名がバッチリ載っていて、今なら名誉毀損で訴えられてきっと負けると思います(笑)。

 
明治44年(1911)

 明治44年は、栗林公園の物産展に出たうどんの話題が2本と、明治時代のうどん屋の一つの形態だったと思われる「うどん屋の2階で芸者遊びや売春が行われる」みたいな商売に対する規制強化の話が1本。そして、「うどん」が出てくる事件の記事が一気に7本も見つかりました。合わせて、当時のうどん事情を拝察してみましょう。

栗林公園の物産展に出たうどん

 まず2月に、小豆島の丸金醤油が京阪地方の企業家団体を340人も招いて高松観光を実施。高松駅から全員がぞろぞろと歩いて栗林公園まで繰り出したそうですが、その道中の描写は割愛して、栗林公園の中のうどんや善哉を提供する模擬店の様子を紹介したあたりの記事を再掲します。

(2月14日)

●丸金観光団来高

(前略)…掬月亭の前に「右、かんと煮、酒あり」、「左、善哉とうどん」という案内票が桜の根元に立て掛けられてある。…(中略)…模擬店の方は万国旗で飾りたてられ、特別に雇った美妓は「丸金」の銘の入った前垂をして七三に裾を端折り、黒山の如き群衆を相手にそれうどん、それ善哉、それかんと煮、それお蜜柑と、切符と品種を引き換えに立ち働く。…(以下略)

 模擬店の主なラインナップは、「かんと煮(おでん)と酒」、「善哉(ぜんざい)とうどん」の2本立て。明治42年に「うどんと酒」という組み合わせが出ていましたが、今回は「うどんと善哉」がコンビになっているようです。

 続いて、9月に栗林公園で行われた「全国特産品博覧会」の出店の様子。

(9月28日)

●全国特産品博覧会、今日開会

 第4回全国特産品博覧会は、いよいよ今日から栗林公園を会場に2万点以上の出品数と700坪の地面をもって開会される。この種の博覧会は本県では未だ初めてのことであるし、出品区域は県内はもちろん、遠く北海道、台湾、朝鮮等に至っている。…(中略)…

 附属建物の主なものを挙げてみると、増築会場の方で5号館の西手の掬月亭の「弁当休憩場」、同1号館の西手の「内町井上ぜんざい」、「汁粉」、「天勝のうどん類」、次は4号館と5号館との間の高松卸商組合の優待所だが、費用は180円の予算だそう。それから協賛会の優待所は3間に9間の地面、第二課以上の全面西向にあるが、これは「田中百花園の盆栽」の陳列もするそうだ。…(以下略)

M44_全国特産品博覧会記事

 配置図を見ると、うどん店が単独の店で設置されています。全国特産品博覧会の香川大会ということで「うどん店」が象徴的に出されたのなら、当時から香川の特産として「うどん」がきちんと認識されていたということですが、どうなんでしょう。ちなみに、そのうどん店を運営していたのは「天勝」でした。

“うどん屋の芸者”取り締まりが強化される

 芸者取締規則と宿屋営業取締規則が改正され、うどん屋にも少なからず影響が出たようです。

(3月25日)
 本月の17日、本県では芸者取締規則と宿屋営業取締規則とを改正した結果、宿屋は従来のような同一家屋または同一構内で料理店兼業ができなくなり、従って芸者はこれまでのように宿屋へ行ったり、うどん屋だとか飲食店には行けないことになったのだが、その代わり、長年の希望であった夜の12時過ぎまで客席に侍することが許されることになった。

 西讃地方の当業者は恐慌を来たしているようだが、それに引き換え、高松あたりではまだ何事も聞かない。しかし、いよいよそうなると「新常盤」とか「淀川」とかいう料理店には芸者は行けるが、それでは芸者は引き合わないことになるから、いずれ高松あたりには「待合」でもできるだろうとのことだ。…(中略)…今度本県で改正した取締規則は、東京辺あたりの規則をそのまま模倣したので格別斬新なことでもなく当たり前の話だが、一旦規則を設けた以上は、やはり「根本的に芸者の不正行為を掃討する」というくらいの覚悟が必要だろう。…(以下略)

 これまでの新聞記事から「芸者を上げたり売春をしたりするうどん屋」が結構あることが判明していて、明治38年には「仏生山警察がうどん屋や料理屋の売春行為を厳しく取り締まる」というニュースも出ていましたが(「明治35~39年」参照)、今度は芸者の取り締まり強化です。その結果、「西讃地方の当業者は恐慌を来たしている」とのことですが、「いずれ高松も…」とあるように、「飲食店が兼業で芸者を上げている」という業態は全県的に広まっていたようです。

「うどん」が出てくるセコい事件が続々と(笑)

 明治の『香川新報』ですっかりおなじみになった「うどんが出てくるセコい事件」が、この年は7本も見つかりました。

(2月26日)

●掛行灯を毀す

 21日正午頃、大川郡引田字寺町の街路を疾風の如く自転車で走ってきた一人の若者が、何の弾みか同町の飲食店「辻屋」の店先の「うどん、そば」の掛行灯に突き当たり、滅茶滅茶に壊して何くわぬ顔で逃げ去ろうとするところを、同家の老婆に捕えられて散々に油を絞られ、結局、行灯を弁償して事を済ませた。

(3月30日)

●うどん屋で煙草入

 香川郡円座村の○○○○(26)は去る25日夜、同郡円座村飲食店△△△△方でうどんを食い、店頭の火鉢の傍にあった同郡川岡村□□□□の煙草入を窃取。26日夜、自宅から仏生山警察署に引致され、27日に取り調べの上、自宅待機宅を命じられ、書類送検となった。

(5月24日)

●13円余のかっさらい

 多度津新町の○○○○(18)という者は一昨夜11時頃、同町大道町飲食店兼木賃宿△△△△方でうどん一杯を食い、「今夜一泊させてもらうつもりだ」などと話し掛けて出て行ったが、その後で店から金13円余りが入った財布がなくなっていることがわかり、ただちにその筋へ届け出た。多度津署が昨夜それを県下各署へ通知したところ、丸亀署の鎮西刑事はただちに同人が丸亀市に入り込み福島遊郭「朝日楼」に登楼し娼妓小萩外1名を招き3円50銭程を費消していることを突き止め、引致し目下取調中である。

(10月27日)

●末恐しき少女

 丸亀市外津森の○○○○の娘、△△(13)という者は物心の付いた頃から手癖が悪く、どこへやっても3日と居着かず、次第に大胆になり、昨年頃も同市各所にて窃盗詐欺を働いて母親にまで舌を巻かせ、ついに泣く泣く警察に突き出したこともあるが、一度曲がった性根は直らないと見え、またしても24日、南條町田中某という店で靴1足を、同日午後3時頃、松屋町金物商□□□□方にて平山町うどん屋花屋よりなりと銅製薬缶1個を、その他数軒において他人の名義で物品を詐称したが、被害者の訴えと同時に丸亀署においてもこれを探知し、25日夜、取り押さえて目下取調中である。

(11月9日)

●朋輩の婦を弄そばんとす

 丸亀市南條町某うどん屋の2階を借り受けて高等女学校宿舎建築工事に通っている仲多度郡龍川村字木徳の○○○○(37)という大工は、7日朝も例の如く仕事通いに朝酒一本を傾け、ほろ酔い機嫌で出かけ、仲間の大工△△△△を誘おうと同家に行ったが、△△△△はすでにこの時に仕事に出た後で…(以下略)

(11月12日)

●夜明亭前の男女

 「草木も眠り、屋の棟三寸下る」と古い人の言う10日の深夜、当署の某刑事が片原町を密行中、あたかも料理店「よあけ亭」の門口に怪しい男女を見かけたので「こやつらは間違いなく曲者だ」と有無を言わせず署に連行して取り調べたところ、男は当市田町の「塩飽屋」の横手の大工岩倉方の内弟子○○○○(18)とかいう香川郡安原村辺の者、女は内町「かしわ屋」こと「中西」とかいう飲食店の出前持ち△△△△(16)という者で、○○○は前夜「柏屋」へうどんを食いに行き、たくさんも入っていない財布を振り廻していると、それをチラと見た△△は安からぬ秋波を○○○にくれてそっと小暗い路地へ誘い出して口説いたところ、「今夜12時頃、片原町天神社内で逢い引きをしよう」ということとなり、○○○は有頂天となって時間を待ち兼ね、そこらへんを彷徨っていたが、△△はうどんの箱を提げてあちこちと忙しく出ていくそのたびごとに○○○は「△△まだかまだか」と△△の後を犬の如くにつきまとっていたが、天神の門前にて12時も過ぎ、近所も寝静まる午前1時頃まで待ちあぐみ、やがて△△が来てたところへ刑事が通りかかったものであり、刑事の厳重な取り調べに○○○は少し面を赤め、「私は女はこれが初めてです」としくしく泣き出し、始末に負えないので刑事も持て余して今後を諭して帰した。

(11月28日)

●うどんゆえに鉄瓶

 綾歌郡川津村字井上○○○○(57)という男は先頃、坂出町古物商△△△△の店先にて鉄瓶1個を盗み、その近辺に住む□□□□へ20銭で売り払い、好物のうどんを食うて支払い、本月8日にも同店にて鉄瓶1個をごまかしてやはり□□方へ持って行き、「水が漏る」と言って10銭にしかならなかったが、これまたうどん代に使い、26日、またもや盗みにかかろうとしたがそうは問屋が卸さず、その筋に手が回って捕えられ、27日に丸亀検事局送りとなった。

 以上、とにかく「あちこちにうどん屋があった」という雰囲気が十分伝わってくる記事群でした。

(以下、大正時代に続く)

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