さぬきうどんのメニュー、風習、出来事の謎を追う さぬきうどんの謎を追え

vol.79 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る明治の讃岐うどん<明治35年~39年(1902~1906)>

(取材・文: 記事発掘:萬谷純哉)

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  • vol: 79
  • 2024.08.15

あちこちの事件現場に「うどん」が(笑)。乾麺の製造が始まり、物産としての讃岐うどんが広がる気配も。

 引き続き、四国新聞の前身である『香川新報』のバックナンバーから「うどん関連の文字が入った記事」を拾っています。

 これまで(明治22年~34年)の概要を大きくまとめると、まず、出てきたうどん店の形態は「屋台のうどん屋」、「奥座敷があったり2階建てだったりするうどん屋」、「うどんを出す飲食店」、「祭りの露店のうどん屋」、そして「玉売りをする製麺屋」の記述が見つかりました。また、明治30年代になると、奥座敷や2階のあるうどん屋では女性が“艶っぽい商売”をしていたのではないかと思われるような記事が散見され始めました。

 一方、香川県の物産を紹介する記事中に「素麺」は盛んに出てくるものの、「うどん」は全く出てきません。これは、流通させるのに不可欠な「乾麺」の生産体制がまだ整っていないためではないかと思われますが、前回記したように、後に乾麺製造の大手となる「合田照一商店」が明治35年に、「石丸製麺」が明治37年に創業しているので、それ以降に「乾麺」が香川の特産品として頭角を現し始めるものと思われます。

 では、こうした概況を踏まえながら、続いて明治30年代後半(35年~39年)の「新聞に載った讃岐うどん」を見ていきましょう。

 
明治35年(1902)

 明治35年の『香川新報』で見つかった「うどん関連記事」は5本だけ。いずれも何かの記事中に「うどん」が出てきたものばかりで、「うどん」がメインテーマになった記事はまだ出てきません。

祭りやイベントに「露店のうどん屋」は定番

 まずは、高松市の愛宕神社の夏祭り記事に「うどん屋」が出ていました。

(7月29日)●愛宕神社の祭

 高松市内の夏祭りの一方の旗頭である愛宕神社の祭りは、一昨、昨の両日行われた。芝居その他の奉納は賑い、「覗き目鏡」その他の興行ものやら各種の露店は境内に所狭しと設けられ、また海岸一帯の地には例年の如く氷店、うどん屋等、数十軒が建て連ねられていた。…(以下略)

 ここまでに出てきた祭りの露店には、ほぼすべて「うどん屋」が出てきています。店の形態に関する表記はありませんが、普通に考えればおそらく屋台に近い簡易なもので、うどんはゆで麺を仕入れて出していたのではないかと思われます。

 続いて、「共進会」のイベントに「うどん」の文字が出てきました。

(5月30日)●遊観地の夜景

 共進会もいよいよ本日にて閉会となるが、一昨日頃の遊観地の夜景も常とは異なり、すべての興行物も残り惜し気に夜の9時~10時頃まで打ち騒ぎ立てて客を呼び、片原町から足のついでの遊び歩きが数えられるほど。猿芝居、抜け首、軽業、紙細工、地獄極楽などが会場の内外に設置されているが、中では猿芝居に30~40人がいてまずまず景気がよさそうなものの、「思案は後にして観て帰れ」という木戸番の催促もむしろ気の毒な有様で、この辺一帯の小屋、店、露店も半商半休の様子。出口の外の連合販売店も早くに店を閉めており、昼間に繁盛していたかどうかもわからない。

 未だ開けている店も数軒あるが、1日の売上勘定に余念のない店もあれば惰眠を貪る店もあり…(中略)…広告門から市優待所辺の両側売店においては、遅れがちの飲食店があり、どんよりした洋燈(ランプ)の下に蚊帳を吊してうどん食う客も見える。(以下略)

 ここに出てくる「共進会」というのは、農産物や工業製品が出品される「関西府県連合共進会」という地方博覧会のことで、明治16年に大阪府の主催で始まり、各府県持ち回りで3~5年に1回のペースで開催されていたもの。この年は高松市が会場になっていましたが、記事を見ると、猿芝居、抜け首、軽業、紙細工、地獄極楽といった怪しげな興業があり、露店もあり…と結構賑やかな催し物”の様相で、そこに露店のうどん屋も出ていたようです。

大坂博覧会への香川の出品物に、まだ「うどん」は出てこない

 「共進会」とは別に「大坂博覧会」という勧業イベントが翌年開催されるそうですが、そこに香川県から出品を予定されている物産の分野一覧が掲載されていました。

(6月30日)大坂博覧会出品準備

 明くる36年に大坂で開かれる第5回内国勧業大博覧会の準備について、本県は第8回共進会の主催地であったため、官民共にこれに全力を注いだため、博覧会の準備はどうしても他府県に一歩を譲っている感がある。しかし、多忙の中においてそれぞれできうる限りの準備計画は進めつつあり、まず出品点数は次のように予定し、各郡市ともこの予定により出品奨励することとなった。

出品予定点数表
米…………350
麦…………350
豆…………175
繭…………120
雑穀……… 70
葉藍……… 55
煙草………158
実綿……… 60
麦稈………140
清酒………118
醤油………262
素麺………215
砂糖………243
食塩………176
麦稈眞田…610
織物………470
陶磁器……115
紙………… 64
提灯傘類…300
竹細工指物275
漆器………273
金属器……180
水産………330
牛………… 5
その他… 1097

 これが当時の香川県の「県外に販売されている物産」の主なラインナップで、併記された出品予定点数が概ねその“盛んさ”を表しているわけですが、これを見ると、やはり「素麺」はあるものの、「うどん」はまだ出品物産の中に挙げられていません。

虎列拉(コレラ)の流行で「冷饂飩」に注意

 この年、全国的に「コレラ」が流行したようで、県が注意報を発令していましたが、その中に「冷饂飩」という表記がありました。

(8月7日)●香川県告諭第五号

 伝染病の中で最も猛劇なる「虎列拉(コレラ)病」は近頃、佐賀、長崎、福岡の諸県及び東京市に流行し、ますます蔓延の兆しがある。これらの諸県は本県と直接船舶交通が頻繁であるため、既に船舶検疫を施行し、かつ一般に厳重なる警戒を加え、疑似の患者は応急の措置を施す等、本病の輸入を防止することに努めているが、もし各自において充分な注意を怠っていれば意外な経路から知らぬ間に本病の侵襲を被り、大流行を起こすかもしれない。時まさに暑気に際し、消化器の障害を発しやすく、かつ病芽の繁殖に適する気候であるため、各自においては以下の各項目について衛生に努め、家屋の清潔を維持し、本病を誘発する余地がないよう、自衛に努めていただきたい。(明治35年7月24日 香川県知事 小野田元熈)

一、飲食物はすべて煮沸し、のどが渇いても決して生水を飲まないこと。
一、食べ慣れていない飲食物は摂取しないこと。
一、以下に記する「消化器を害しやすいもの、腐敗しつつあるもの」は飲食しないように。
  ・天麩羅、貝類、章魚(タコ)・烏賊(イカ)の類、干物類、
  ・冷素麺、冷饂飩、ところてん「かんてん」の類、冷豆腐、瓜もみの類

…(以下略)

 注意すべき飲食物の中にある「冷饂飩」は、メニューの「冷やしうどん」ではなく、おそらく冷えた茹でうどんのこと。明治34年にも「昼飯に冷饂飩を食べて赤痢に罹る」という記事がありましたが(「明治30~34年」参照)、当時は作り置きの茹でうどんを「食あたり」が起こるまで捨てずに食べていたのかもしれません。というか、店でもそんなのが出ていた可能性もあります。

またまた「栗林村の夜鳴きうどん屋」が登場

 「夜鳴きうどん屋が窃盗に遭った」という事件です。

(10月2日)
 一昨夜8時~9時頃、高松市片原町東券番の姐はん達が不景気で幾つとなく出る欠伸を殺さんと栗林村石田菊太郎という得意の夜鳴きうどんを呼び込んだところ、夜鳴屋は相変わらず「ヘイヘイ」と喜びながら幾鉢か温めて「ヘイ出来ました」と入ってきた隙に、箸入れに入れてあった売溜金を13~14の小僧が引っさらって東へ逃げ出した。それを日置浅吉という者が見つけ、「うどん屋の売溜を盗んで小僧が逃げた」と注意したが、この菊太郎という夜鳴きうどん屋は少し眼が悪く、「ここまで離れては、もはや見ることができない。虎列拉(コレラ)に罹ったよりもましだ」と観念した。その様子を見て浅吉が気の毒に思い、自分で小僧を追いかけてついに取り押さえ、小僧が盗んだ50銭余りをそのまま夜鳴うどん屋へ返却し、小僧の身柄は警察署へ引渡した。…(以下略)

 事件の内容はさておき、栗林村の石田菊太郎という人が夜鳴きうどんの屋台をやっていたとのこと。前年の明治34年の記事に「栗林村の桑原勘太郎さんが屋台を引いていた」という記述がありましたが、栗林村はうどんの屋台をしている人が多かったのでしょうか。

 
明治36年(1903)

 この年は「うどん」の文字が入った記事が10本ありましたが、そのうち6本が詐欺や窃盗などのセコい事件絡みの記事中に出てきた「うどん」。うどん屋で窃盗があったり、うどんの食い逃げがあったり、犯人がうどん屋でうどんを食ってたり。そんないろんな場面で「うどん」が出ているのを見ていると、当時、町中にうどん屋はすっかり定着していたように思えます。

セコい事件には「うどん」が付き物?(笑)

 「下駄屋を騙して金を強奪しようとした」という事件の記事に、うどん屋が出てきました。

(1月27日)●商家への注意…騙(かた)りの徘徊

 一昨25日午後8時半頃、当市西通町王子権現の前通りにある下駄商、川西嘉吉郎方へ37~38歳の大柄な男が来て、47銭の駒下駄一足をあつらえ、「私はすぐその神社の裏のうどん屋にいるから、できたら後ほど誰か送り届けてくれないか。その時に料金を渡すから」と言って立ち去った。その後、下駄商の主人が13~14歳の丁稚に下駄を持たせてやると、神社の横にいた件の男が丁稚を見るなり「今、小銭の持ち合わせがないので、その下駄を持って帰って、10円を払うのでそれに対する釣り銭を持ってもう一度持ってきてくれ」と言う。それではと丁稚は店に帰り、その旨を主人に報告すると、「夜中のこともあり、子どもに9円余りのお金を持たせるのも気がかりだ」ということで主人が自ら持って行くことにした。

 すると今度は男の姿が見えない。「神社の裏のうどん屋にいる」と聞いていたのでうどん屋へ行って見ると、うどん屋は「そんな男が来たことはない」とのこと。そこで初めてこれは騙り(詐欺)であることに気付いたが、これがもし最初の丁稚が9円余りを持って行っていれば強奪しようという目論見で、主人が来たために逃げ出したものと思われる。

 「高松市西通町」は、現在の錦町から扇町あたりなので、「王子権現」はおそらく今の「若一王子神社」のこと。讃岐うどんマニアの方には「『中浦』の近く」と言えば見当がつくかと思いますが、「中浦」は戦後に開業した店なので(現在は閉店)、記事中にある「神社の裏のうどん屋」とは違います。しかしまあ、詐欺というのはいろいろ手口を考えるもので、その精神は今もネット詐欺なんかに脈々と受け継がれています(笑)。

 次は、「夜鳴きうどん屋宅で賭博をやっていた者が捕まった」という記事。

(4月8日)●中新町の賭博

 一昨日午後5時頃、当市中新町71番戸の夜鳴うどん屋○○方にて、中の村の前科者△△、中新町□□、同××の4名が車座を作り、キョウカブという賭博に耽っているところへ高松署の藤村巡査が踏み込み、○○、△△の2名を取り押さえた。…(以下略)

 夜鳴きうどん屋と前科者が捕まりました。あとの2名は無罪放免か、はたまた逃げたのか…ま、そんな話はどうでもいいですが(笑)、とりあえず「中新町にも夜鳴きうどん屋さんがいた」ということがわかりました。どうやら「屋台のうどん」は当時、結構盛んだったみたいです。

 続いて、「9歳の男の子が財布を盗んで、うどんを食っておもちゃを買った」という事件。

(6月18日)●大胆な小僧

 坂出町字鍛冶屋町○○の孫、△△(9つ)という者は、去る14日午後10時頃、同町の「日の出座」に行き、同町中通町□□の財布(13円30銭入)を窃取し、昨日までうどんまたはおもちゃなどを買い、銭使いが激しいため取り調べたところ、前記の次第を白状した。

 9つの子供が財布を盗んでおもちゃを買うのはわかるけど、お菓子とかを買うんじゃなくて「うどんを食う」とは(笑)。店のうどんはそんなに子供の憧れだったのでしょうか。それとも9歳にして「うどん通」だったのか(笑)。ま、腹が減ってただけかもしれませんが。

 次は、「うどんを食べているうちに財布を盗まれた」という事件。

(7月28日)●三十女の狐鼠(悪事)

 去る25日午前11時頃、丸亀市北平山町の飲食店にて坂本村の○○という者が「うどんを食べている間に傍らに置いていた金6円50銭余りの入った財布を盗まれた」と警官に訴え出た。巡査が直ちに捜索したところ、12時頃、同市葭町を徘徊する30歳くらいの女がいかにも腑に落ちない素振りをしていたため取り調べたところ、案の定、この女の仕業であったため逮捕した。

 「飲食店でうどんを食べていた」ということは、「飲食店でうどんを出していた」ということです。明治33年の記事にも「飲食店のうどん」が出てきましたが、これで「飲食店が製麺屋から茹でうどんの玉を仕入れて店で出す」というスタイルの「飲食店のうどん」が明治時代からあったことはほぼ間違いないと思います。

 次は「うどんの食い逃げ」事件。

(8月22日)●無銭飲食者説諭

 一昨夜、高松市松島の○○(20)という者が丸亀市御供所町の飲食店松谷嘉之助方に来てうどんを食べながらちょっと1杯傾けたが、24銭の勘定はおろか、一文の持ち合わせもなかったため警察に突き出された。店主は「別に告訴はしない」というので、厳しく戒めた後、解放して帰らせた。

 ここでも「飲食店のうどん」が出てきました。さらに、「うどんを食べながら酒を飲む」というスタイルも新聞に初登場です。

 続いて、また「子供が財布を盗んでうどんを食べた」という事件。

(10月27日)●太い小僧

 丸亀市土居の○○(12)という者は年に似合わぬ太い小僧なることは再三本紙においても記せしところであるが、2~3ヶ月前のこと、監獄から満期の身になったものの、改悛どころか一昨夜、またもや同市通町の某家の店先の火鉢の傍にあった4円80銭入りとやらの財布を引っ掛け、弟を引き連れてうどんも食べ、寿司も食べ、半分ばかりは使ったが残りは財布のまま我家に持ち帰っていたところを丸亀署の巡査が嗅ぎつけてひとまず同署に引致し、取り調べの上、昨日当検事送りとなったとは、末恐しき小僧なり。

 こやつはどうも“札付きの小僧”だったようですが、盗んだ金で弟を連れて食べたのが「うどん」と「寿司」。何となく、子供にとっての「うどん」のポジションが上がってきました(笑)、

「うどん」絡みの投書が2通

 続いて、「うどん」絡みの投書が2通。

(4月8日)<投書>

●田町のうどん屋の息子は生意気で困る。少し謹慎して品行をよくせよ。

 そんなの投書主の個人的恨みかもしれないのに、新聞に載るんですね(笑)。
 

(4月10日)<投書>

●去る5日、香川郡某村の巡査と教員と工兵との3人が某うどん屋の2階で酌婦を捕えて、無理無体にヒドイ芸当をやられた。

 酌婦が何かやらかして巡査に捕まったのか、それとも巡査と教員と工兵の3人が酌婦に無理無体なことをやったのか、これだけではちょっと状況がよくわかりません。後者なら“官憲の横暴”みたいな話ですが、そこはよくわからないので置いておいて、とりあえず「うどん屋の2階」が何か怪しい場所だったことだけは間違いなさそうです(笑)。

小麦の不作でうどんの値上げか

 「うどんの値上げ」の話が初めて新聞に出てきました。

(6月9日)●うどん値上げの相談

 本年は小麦が不作となり、一貫目34~35銭、小麦粉は40銭以上となったため、高松市内のうどん屋は従来の相場1銭を1銭5厘に値上げしようと目下協議をしている。

 「従来の相場の1銭」が「うどん1玉」の値段なのか「うどん1杯」の値段なのかわかりませんが、1銭は10厘なので「50%の値上げ」を協議しているという、なかなかの値上げ幅ではあります。小麦の不作が全国的な話なのか香川県内の話なのかは書かれていませんが、記事の流れからするとおそらくこれは「香川県の小麦が不作」という話。すると、「香川のうどんは(ほぼ)香川県産小麦で作られていた」という傍証になりますが、どうでしょう。

明治の高松には下宿屋がなかったらしい

 明治36年時点の高松市の概観が記事になっていましたので、「うどん」の文字が出ているあたりを一部再掲しておきます。

(11月19日)●高松概観

 当市には旅店もあり船宿もあり、茶屋もあり牛屋、うどん屋、菓子屋もあり、酒屋も味噌屋も、何でもかんでも、いやしくも市街地としてあるべき職業は皆備わっている。しかしただ一つ、必要欠くべからざる職業でこの地に欠けているものがある。それは下宿屋である。いやしくも四国の眼目として、県庁の所在地として、多くの官署と多くの中等学校とを有する高松市が何故に一戸の下宿屋も有していないのか。その原因は果たしてどのあたりにあるのか知らないが、そのために多くの役人、教員、学生等が不便を被っていることは間違いない。…(以下略)

 転勤族や学生などのための“安い宿”としての「下宿」がないという話ですが、その前段の「何でもある」という例の中に「うどん屋」が入っているあたり、「やっぱり香川ではうどんが定着している」ということが窺えますね。ちなみに「牛屋」には「ぎゅうや」とルビが振られていましたが、何でしょう。当時すでに「すき焼き」や「牛鍋」があったそうですが、少なくとも「牛丼」チェーン店ではなさそうです(笑)。

 
明治37年(1904)

 明治37年2月に「日露戦争」が始まり、香川新報にも戦争絡みのうどん情報が載っていました。けど年間の記事全体を見ると、相変わらず多いのは「セコい事件絡みのうどん」です(笑)。では、まずはそっちから。

食い逃げに、窃盗に、詐欺に、ちょっとうどんが絡んで…

 正月からうどん屋で財布を盗まれたらしい女性がおられます。

(1月8日)

 丸亀市風袋町の○○という者は、一昨日午後5時頃、同町飲食店でうどんを食べていた時に、ちょっと傍らに置いていた7円79銭と他に雑品が入った茶色の小財布を紛失して届け出たが、おそらく盗まれたらしい。

 前年に続き、「うどんを食べているうちに、傍らに置いていた財布を盗まれた」という事件が2年連続で新聞に載りました。財布を傍らに置いてうどんを食べるのが流行っていたんでしょうか(笑)。ちなみに、前年の被害者の財布に入っていたのは「6円50銭余り」で、今回の被害者は「7円79銭」。当時の月給の相場は、小学校教員の初任給が10~15円というデータを見つけましたが、そこから換算すると、うどん屋にいたこの被害者2人はそれぞれ今のお金に換算すると、財布の中に10万円近く入れていたということになります。そのあたりが「うどん屋に来る客」の所持金の相場だったのだとしたら、「結構裕福そうな人が来ていたのではないか」というイメージが湧いてきますが、どうなんでしょう。もしそうなら、「子供が盗んだ金でうどんを食った」という話ともちょっとつながってきますが(笑)。

 続いては、うどんと麦飯の食い逃げ事件。

(7月9日)

 綾歌郡岡田村の○○(22)という者は、去る2日夕刻、同村一本櫟の飲食店△△方にてうどんにゆでだこを添えて3~4杯平らげた挙げ句に家人の隙を見て逃亡し、20日午前11時頃、またもや同村の□□方の不在を窺って忍び入り、飯櫃の麦飯をたらふく食べて逃げだそうとしたところに□□が帰ってきて、通報を受けた巡査に取り押さえられた。…(以下略)

 「うどん3~4杯」に「麦飯たらふく」(別の日ですが)とは、こやつ、よっぽど腹が減ってたのか、ただの大食いなのか…などという話は別にして、綾歌郡岡田村のこの飲食店にも「うどん」のメニューがあったようです。「うどんとゆでだこ」という組み合わせは、初めて出てきました。

 次は、「うどんの大釜を騙し取る」という詐欺事件。

(7月21日)

 善通寺営内酒保に雇われていた仲多度郡十郷村の○○(26)という心がけのよくない若者は、かつて同町で飲食店を営んでいたが現在廃業している△△という者がうどんの湯を沸かしていた大釜を所持していることを知り、「急に酒保に大釜が必要になったのだが、もしここに持ち合わせがあればしばらく貸してもらえないか」と申し出たところ、△△も「今は不要になっているので願ってもない」と貸与したが、その後、10日余りが経っても返してこないので酒保に尋ねると、「釜を借りに使いを出したことはない。またそういう人物は先般来、当店では雇っていない」とのことで、そこで初めて詐欺に遭ったことが判明した。…(以下略)

 「酒保」というのは軍の施設内にある売店みたいな店のことで、記事にあるのは善通寺の陸軍施設のことだと思われます。それにしても、何か似たような手口の詐欺事件が何度も出てきますね。

 続いて、またまたうどんの食い逃げ事件。

(12月4日)

 一昨2日午後10時頃、多度津分署の宮川巡査部長が豊原村大字葛原を巡回中、一人の男が逸走する後からもう一人の男が追いかけているのを発見し、これを追跡して逃走する男を捕らえて取り調べたところ、こやつは島根県の魚商人○○(45)という者で、豊原村大字葛原の飲食店△△方にてうどん2杯と酒2本を平らげ、その代金25銭を払わずに逃走していたもの。…(以下略)

 ここまでに「うどんを2杯食った、3杯食った」という話が出てきましたが、当時は「うどん大(2玉)、特大(3玉)」みたいな売り方はしてなかったのでしょうか。もしそうなら、「うどん大(大盛り)を最初に始めたのはいつ、どこだ?」という新たな謎が出てきますが、讃岐うどん界において、それほど重要な謎ではないかもしれません(笑)。

 次は、「ドロボウをした後でうどんを食ってたら捕まった」という事件。

(12月7日)

 綾歌郡川津村の○○(45)という前科者はどこまでねじれた輩か、昨夜午後8時頃、同郡坂出町のある釜屋に忍び込み、積んであった細縄十貫目ばかりを盗んで同町のある飲食店まで逃げてきたが、そこでうどんを食っているところを坂出署が探知し、取り押さえられた。

 昨今、「香川県民はそこまでしてうどんを食うのか」みたいなツッコミがネット内にあふれているそうですが、「細縄を盗んで逃走中なのに飲食店に入ってうどんを食っていてすぐに捕まる」というやつが今いたら、全国ネットネタになること間違いなしです(笑)。

 次は、「うどんの幟(のぼり)を盗まれた」という事件。

(5月14日)

 善通寺町赤門筋の飲食店○○方では「うどん、そば、ぜんざい」と書いた商幟を門口に立てていたが、去る9日、何者かに盗まれたため、代書賃2銭を出してわざわざ盗難届を同地警察署へ提出した。これを「金銭を眼中に置かず公法を守るとは実に正直者だ」として、近所で誉める者が後を絶たない。

 「盗難届を代書屋に書いてもらう」という時代でしたが、それをやると誉められたという、何だか“テキトーな時代”でもあったようです。ちなみに、今なら「うどん、そば、寿司、おでん」あたりがメニューの仲間ですが、当時は「うどん、そば、ぜんざい」という組み合わせの店があったようです。

日露戦争で平壌にうどん屋が出る

 2月に日露戦争が始まり、日本軍が朝鮮半島に出て行ったわけですが、そこに日本の商売人もたくさんついて行って現地で商売に励んでいたようです。

(3月31日)

 日本軍の入壌(平壌入り)によって諸物品の需要が大いに増加し、諸商人の入り込みも多く、中でも飲食店、例えばうどん屋、ぜんざい屋、牛肉すき焼き、和洋料理と30~40カ所が一度に開店していずれも相当賑わっている。…(以下略)

(5月6日)

 第二師団付きの分隊長の信書によると、「午後5時に平壌に着く。日本の諸商人45名も入り込み、大繁盛。汁粉屋あり、酒屋あり、大福餅屋あり、肴売茶屋あり、うどん屋あり、そば屋あり、湯屋あり…」

(6月10日)●鳳凰城の賑わい

 (前略)…日本人の酒保で売っている品物は、諸種の食料品、たばこ、シャツ、菓子、佐藤、手ぬぐいなどの他、ぜんざい屋もあり、うどん屋もあり、散髪屋もアリ、近ごろはちょっとした西洋料理もできている。…(以下略)

 3月と5月の記事は平壌の様子、6月の記事は平壌の西に位置する鳳凰城あたりにある日本人の「酒保」の様子です。列挙された商売のうち、すべてに出てくるのは「うどん屋」のみ(特に意味はないかもしれませんが)。いずれにしろ、平壌も鳳凰城も、日本人がちょっとした商店街を作ったみたいな賑わい振りが窺えます。

神社の祭りの記事から「うどん屋」の表記が消えた?!

 毎年恒例の「石清尾八幡神社の祭」のレポート記事ですが、露店の様子の記述から「うどん屋」の文字が消えていました。

(9月17日)

 石清尾八幡神社の祭典は好天に恵まれ参詣者もおびただしいと思いきや、平年に比べて6割程度の人出であった。…(中略)…興行ものは気の毒なほど人が集まらず、その種類も女撃剣、両頭亀、覗き眼鏡の2、3に止まり、氷屋、だんご屋、その他飲食店及び玩具、袋物等の露店も例の如くところどころに軒を並べているが、いずれも客は少なく、車夫も愚痴をこぼしている。…(以下略)

 たまたまかもしれませんが、ここまで「祭りの露店」の様子をレポートした記事には必ずと言っていいほど「うどん屋」の名前が出ていたので、ちょっと気になりました。もしかすると、祭りにうどん屋が出なくなり始めたのかもしれませんが、まだそのあたりの状況はわかりません。

 
明治38年(1905)

 明治38年のうどん関連記事は珍しく「セコい事件絡み」のものが見当たりませんでしたが(笑)、代わりに飲食店の売春ネタが2本。その他、うどん関連の初登場ものの話題もいくつか出てきました。

どうやらあちこちの飲食店で売春が行われていたようです

 これまでの記事から、飲食店でどうも良からぬことが行われていたような気配がありましたが、ついに警察が動きました。これで、飲食店で売春が行われていたことが確定です。

(2月10日)

 仏生山警察署においては、近来仏生山町はもとより一宮、円座、川岡、浅野村等の料理屋、飲食店等に高松市及びその他の地方より売春的酌婦が出没しているため、これを厳しく退治する予定である。

 しかも、これまでは琴平や善通寺のうどん屋や料理屋の話でしたが、今回の取り締まりは高松市郊外の複数の町。これはもうおそらく、全県下にこういう店がはびこっていたに違いありません。

 そして、こんな投書も。

(6月7日)<投書>

 近ごろ田舎の飲食店では怪しき女を置いて営業しているところがたくさんあるが、それは良いとしても、夜12時はおろか15時に至っても喧しいことじゃ。

 「それは良いとしても」って(笑)。夜中にうるさいことよりそっちの方が良くないから警察が動くんじゃないかと思いますが、こんな表記が普通に新聞に載るということは、この手の商売をみんな、それほど重大な問題だと思っていなかったのだと思います。ちなみに、わが国で「売春防止法」が公布されたのは昭和31年(1956)のことです。

戦地からの傷病帰還者にうどんの寄贈

 日露戦争が終わるのはこの年の9月ですが、その2月に、戦地から高松に帰ってきた傷病帰還者102名に対してうどんが寄贈されました。

(2月11日)●帰還者にうどんの寄贈

 一昨日午後、当港へ上陸した傷病帰還者102名に対し、当市南鍛冶屋町中村文次郎、北亀井町榎本廣次郎両氏の斡旋にて天神前三好尚三郎、南亀井町橘彌太郎、北亀井町藤井アイの三氏がうどんを好みに応じて寄贈した。寒気酷烈なる当日、このような寄贈品を受けた者は大いに感謝した。

 「好みに応じて」ということは、メニューとしてのうどんが振る舞われたのでしょうか。あるいは乾麺の商品だったのか、そのあたりは不明ですが、「うどんでねぎらう」という振る舞いが初めて新聞に出てきました。

 続いて5月に、香川から韓国への主な輸出品が紹介されていました。

(5月19日)●香川県物産の韓国輸出について

 日韓貿易を子細に調査して日本から韓国へ輸出する商品の重要なものを挙げれば、綿糸、生金巾、白木綿、石炭、燐寸、清酒、甲斐絹、磁器陶器、煙草、荒銅および熟銅、洋傘、漆器、セメント等。…(中略)…これらのうち香川県に於いて算出する商品は、燐寸、白木綿、漆器、醤油、素麺、食塩、清酒、紙類、砂糖等。…(以下略)

 やはり「素麺」はあるものの、まだ「うどん」は出てきません。

伊吹島と東讃にイリコ製造試験所を設置

 香川県水産試験場が伊吹島に、水産組合が東讃に、それぞれイリコ製造試験所を設置したようです。

(9月27日)●イリコ製造調査

 本県水産試験場の事業として、三豊郡観音寺町大字伊吹島にイリコ製造試験所を設置し、また水産組合の事業として大川郡松原、三本松地方に同試験所を設置。…(中略)…イリコの製造は香川、愛媛、岡山、広島等で盛んであるが、この諸県内に試験所を設置したいとの要望が採用され…(以下略)

 試験所はイリコの製造技術を改良することが目的で、「新規事業」に対する取り組みではない。すなわち、当時すでに東讃と伊吹島でイリコ製造が盛んであったことがわかります。

香川の物産に「干しうどん」が登場

 ついに香川の物産に「干しうどん」の名前が出てきました。

(12月7日)●香川県公報

 明治40年4月1日~5月30日までの60日間、三重県津市において開催される第9回関西府県連合共進会の規則が決定した。…(中略)…

<第4条>出品の品目…(中略)…
(第2区)素麺及び干うどん

 この2年後に開催される「関西府県連合共進会」の香川からの出品品目に、「干しうどん」の名前がありました。前述したように、乾麺製造の「合田照一商店」が明治35年に、「石丸製麺」が明治37年に創業していて、うどんの「乾麺」がいよいよ香川の物産として頭角を現してきたようです。

 
明治39年(1906)

 この年の『香川新報』に出てきた「うどん」の文字は、また事件絡みがほとんどでした。これまでの記事から推測すると、「うどん」が主語になるような記事がまだ全く出てこないということは、県内のうどん屋や飲食店では当たり前のようにうどんが食べられていたものの、県内に「讃岐うどんは香川の名物」という意識がまだ薄かったか、あるいはまだほとんどなかったのかもしれません。

うどん屋で起きた事件の記事が3本

 「うどん屋で起きた事件」の記事は、窃盗、暴力沙汰、詐欺の3本見つかりました。

(2月10日)

 (前略)…備中浅口郡船尾村の大工○○という者は至極良からぬ性質の者で…(中略)…高松市西通町飲食店植松喜次郎方へ来てうどんを食うて金1円20銭を窃取逃亡し、6日には西通町△△方に一泊して金95銭を窃盗し逃亡した…(以下略)

 これも「飲食店のうどん」。明治30年代にはこのスタイルが間違いなく定着しています。

(3月1日)

 当港に停泊中の新造駆逐艦「潮」は一昨日午後6時頃半舷(30名)が上陸し、各兵とも大喜びで市内各方面へ思い思いに飛び出したが…(中略)…2名の一組は午後11時頃、兵庫町飲食店壺井キチ方にて鯨飲馬食の果てに「酒がまずい」と小言の百万遍から乱暴に移り、店主キチにうどん皿を投げ付け、顔面に2カ所負傷させた。…(以下略)

 「鯨飲馬食」はいい表現ですね(笑)。投げたのは「うどん鉢」ではなく、「うどん皿」とありますが、確か昭和のうどん記事の中に「大皿に入ったうどん」が出てきたような気がします。ここに出てきた「うどん皿」がどんな形で、どんなメニューをどれくらいの量入れていたのかは不明ですが、モノによっては現代に復活させられるかもしれません。

(10月10日)●三杯食われて一杯喰う

 一昨日午後4時頃、善通寺町字有岡の飲食店横田虎吉方へ瓦斯糸の羽織に中折帽を被った25~26歳の商人風の男が悠然として入って来て、うどんを注文してツルツルと3杯を平らげ、虎吉の母の「お何」に向かって「ちょっと出てすぐに帰って来るから、お前はこの印鑑を持って銀行へ行って金百円を引出してきてくれ。送金先は高知県土佐郡登瀬村の岡本島で、自分は岡本熊次という者じゃ」と紙片に氏名を記して、三文判と共にお何に渡して堂々と同店を立ち去った。そこへ主人の虎吉が帰ってきてお何に事情を聞き、「さては一杯食わされた」と警察署に訴え出た。

 「うどんを3杯食ったやつに“一杯食わされた”という、記者渾身の見出しでした(笑)。

 続いて、ちょっとオカルトな感じの事件が。

(5月17日)

 琴平町の菓子商○○方に奉公している鶴吉(16)という者は、一昨日、主人の使いで仲多度郡四条に行って菓子粉を買い求めた帰途、五条村であっちに飛び、こっちに飛び…と戯れているのを通行人が不審に思って尋ねるたが一向に返事がない。通行人が「こやつ、狸につままれたに違いない」と思って鶴吉の背中を強く叩いて子細を問うたところ、「実は四条村まで買物に行き、琴平に帰るところだ」とのこと。「琴平ならこの道を一直線に帰れ」と教えると、鶴吉は「かたじけない」との言葉を残して立ち去ったが、どこをどう道を間違えたか、香川郡弦打村の香東川橋に来てしまった。その橋の上で高松市兵庫町のうどん屋にぶつかって初めて本気に返り、「ここはどこですか」と尋ねると、うどん屋が「高松の入口だ」と答えたのを聞いて鶴吉は大変驚き、事情を聞いたうどん屋が気の毒に思って丸亀町派出所に連れて行った。同派出所の小林巡査は鶴吉を本署に同行し、一夜留置の上、昨朝実父源吉を呼出して引き渡したが、狸につままれてか何だか間の抜けた話。

 夢遊病みたいな話でしょうか。うどんには全く関係ない事件ですが、一応「うどん屋」が出てきたので、「結構あちこちにうどん屋がいたんだなあ」ということで(笑)。

醜聞と売春をチクった投書が2本

(4月10日)<投書>

 丸亀市米屋町の○○とかいう者は、国家のために身を犠牲にした人の四十坂近き寡婦に現を抜かし、頭の道具は愚か、金側時計など好みに任せて買い与えてホクホク喜んでいることさえ気の毒なのに、この淫婦はそばに離れぬ某うどん屋の主人の他に憂き身をやつしている。その秘密を知る人は皆、哄笑していますぞ。

 投書人が「丸亀の○○という男が戦争未亡人の女性にうつつを抜かしているが、その未亡人は某うどん屋の主人らとも付き合っている」という話を暴露しておりますが、そんなのが新聞に載ってた時代です(笑)。

 もう一つは、またまた善通寺の飲食店で売春が行われているという投書。

(9月12日)<投書>

 善通寺の一般飲食店(主としてうどん屋)に今なお“醜業婦”が多くいて、それに軍人が密集しているが、これら淫売目的の雇い入れがない店はかえって客足が少なく、いつも寂しくて不景気を嘆く者が多い。夜間、市内を歩いていると、大道で男は裸のみ、女は両肌を露出したまま涼んでいるのをしばしば目撃する…。

 「善通寺の飲食店で売春婦を雇っていたのはうどん屋が一番多い」という情報です。善通寺の夜は、かなり怪しい光景が見られたようですが、「売春婦を雇っていない店は客足が少ない」という悲しい事実もあったようです。

大川郡が煮干イワシの製造に注力

 大川郡の各市町村に、「煮干イワシをもっとしっかり作れ」というお達しが発令されました。

(7月18日)
煮干いわし製造督励

 大川郡においては、煮干いわし製造について去る13日、各市町村に下記の督励を発し、大いに奨励を促した。煮干いわしは本県主要の水産製造品であり、その需要は非常に大きい。従って、その豊凶並びに品質の精粗は直接市場の高低に関係してくることは明らかである。しかし、県下の製品は概ね粗製乱造の劣品が多く、その価格が安くなっていることは誠に遺憾である。来たる8月は原料となるイワシ漁の最盛期となるので、産額を増加するとともに、その品質を上げるために留意してもらいたい。なお、県水産試験場が製造技術の改良を目的として三豊郡伊吹島に模範製造場を設けたので、実地に赴いて調査し、将来改良発達の実を挙げられるようにしてもらいたい。…(以下略)

 「県下の製品は概ね粗製乱造の劣品が多く…」ということは、前年に伊吹島や東讃にイリコ製造試験所が作られたのは、こういう状況を打破する目的が強かったのでしょう。「新聞で見る昭和の讃岐うどん」の項では、戦後しばらくイリコの産地は東讃と小豆島が中心で、伊吹島のイリコの記事がなかなか出てきませんでしたが、この後、県下のイリコ製造はまた何か様相が変わったのかもしれません。

 以上、明治39年までを見てきましたが、香川県内のうどんは庶民生活の中にすっかり浸透しているようで、対外的な「香川の名産・讃岐うどん」というイメージも「乾麺」の製造の本格化により、少しずつ広がっていきそうな気配がしてきました。

(明治40年以降に続く)

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