「屋台のうどん屋」と「祭りの露店のうどん屋」と「店構えをしたうどん屋」が既にあった
「新聞で見る讃岐うどんの歴史」シリーズは、戦後から始めて平成30年までの記事発掘と解説を終了しましたが、その後、“発掘隊”の萬谷隊員“がさらに遡って新聞記事を丁寧に拾ってきたので、今回から「新聞で見る明治~大正~昭和戦前の讃岐うどん」シリーズを始めることにしました。『スターウォーズ』もエピソードⅣ、Ⅴ、Ⅵと行ってⅠ、Ⅱ、Ⅲに戻ったので、あんな感じで最後に「戦後の讃岐うどん」につなげていただければと思います(笑)。
では、第一弾は「明治20年代の讃岐うどん」。「四国新聞」の前身の「香川新報」が創刊したのが明治22年(1889)なので、そこから新聞チェックを始めました。ちなみに、明治22年は「日本国憲法」が公布された年で、前年の21年に「市制・町村制」が公布されていますから、大ざっぱに言えば、近代日本の形がようやく全国に浸透し始めた頃です。
*記事の原文は旧字や旧文体で書かれていて非常に読みにくいので、ある程度、現代の仮名遣いに直しています。
明治22年(1889)
12日午後10時頃、うどん屋が丸亀町通り外磨屋町の角に荷を降ろしてチリンチリンと鳴らしているところへ「おい、一杯温めてくれ」とやって来たのは2人の小僧。合わせて4杯すすり込んだ小僧らが「銭がない、半銭しかない。うどん屋さん、そこの岡田の本屋へ来てんか」と言う。「この2人はあの本屋の小僧か」と思ったうどん屋が「へい、よろしゅうござい」と返事すると、2人の小僧は「書林岡田店」の方へ帰った。
ところが、その2人が本屋からなかなか出てこない。しびれを切らしたうどん屋が店に行って「へい御免、残りの1銭5厘を」と言うと、店の後家が「何ですか、1銭5厘とは」。「いや、今、この店の小僧さん2人が食ったうどん代です」「はー? うちにも小僧はいるが、先程からどこへも出かけず、ましてや仕事中にうどんを食いに行くなどという行儀の悪いことはさせない。そりゃ大方、何かの間違いだろう。うちの小僧を御覧なさい」と小僧を呼び出した。出てきた小僧を見ると、「なるほど、顔は違うようにも思いますが、何しろ夜中ですからはっきりこの小僧さんでないともわからないのですが」と。かれこれ話し合っても果てしなきにより、ついに査公(警察)のお説諭に預り、ようやくうどん屋も納得したが、実に横着なり2人の小僧めら。気の毒なのはうどん屋と本屋。
「香川新報」にはこういうちょっとした事件が短い物語風に書かれたものがたくさん出てくるのですが、「うどん」が新聞に初めて出てきた記念すべき第1号は、「食い逃げ事件」の記事の中でした(笑)。
これによると、どうやら明治22年頃、高松市の丸亀町か磨屋町あたりに「荷を降ろしてチリンチリンと鳴らすうどん屋」があったようです。この表記から、おそらく屋台か何かの移動式のうどん屋だと思われ、「一杯温めてくれ」とありますから「うどん玉を積んで、注文があったらそこで茹で温めて出す」というサービススタイルだったのではないかと推測されます。
明治22年の「香川新報」から見つかった「うどん」の文字はこの1つだけ。非常に読みづらい紙面なので見落としもあるかもしれませんが、少なくとも見出しレベルでは、他に「うどん店」や「製麺所」の存在を匂わす記述は見つかりませんでした。
明治23年(1890)
梅雨時期の農作業に関する四方山話の中に、「半夏のうどん」が出てきました。
…「これだけ降ったら今日は一日水車は休むがよい。ああありがたい、よい潤いじゃ。晩にお寿司でもこしらえて皆の者に食わすがよい」とのことに、下女、下男共は喜び、多くの者がその日は一日寝たり起きたり歌ったりするうち晩が来て、兼ねて前触れのあったお寿司が出ると皆々打ち揃って「へい、ごちそうさまで。いやもうお酒あまり頂戴ませんも、へい」などと、半夏にはうどんの四、六、十杯も御免被るというやつなれば、ここを先途と必勢の力を出してしこたま頂戴つかまつり…
後半、現代文にどう訳していいかわからない表現も出てきましたが、何となく雰囲気で当時から「半夏にうどんを食べる」という風習があったことが窺えます。
続いて、「祭りの露店にうどん屋が出ていた」という記述がありました。
…14日午前は天気に懸念なく、「ああよいお祭りじゃ」と娘も孫もはでやかに衣着飾りて参詣するし、船も六艘、例の口調で押し出す囃子は例の通り、馬場行きは遅く、早き分は鍛冶屋町、古馬場町、亀井町その他……露店はというに、これも別に喜ぶほどのことなく例年の通り、善哉(ぜんざい)屋、うどん屋、だんご屋、菓子屋、なつめ、かき、梨等はいずれも麦藁葺きの仮小屋にて、何でもこの祭りで一儲けせんと腕によりをかけて…
出てくる地名から推察すると、高松市街中心部あたりで行われている祭りの様子。祭りの露店は「ぜんざい屋」「うどん屋」「だんご屋」「菓子屋」が定番のようです。以上、明治23年の「うどん」が出て来た記事は2本でした。
明治24年(1891)
この年は、うどん屋のケンカの記事が1本見つかりました(笑)。
一昨夜10時頃、東座の見物中にありし通名「山月」といううどん屋の徳蔵と呼ぶ者が、いかなる事からか勘定方の若者と口争いを生じ、かれこれ悶着の末、徳蔵自ら刃物を持って切腹しようとし、場内の見物人たちが驚いてこれを取り押さえた。幸い命に別状はなかったが、重症を負って目下治療中。
「東座」というのがどこにあったのかは不明ですが、1930年頃、高松市内町に「東座」という映画館(高松大劇の前身)があったそうなので、そのさらに前身の芝居小屋だったとすれば、事件の場所は内町。そして、明治24年に場所はわかりませんがおそらく高松市に、「山月」といううどん屋があったことがわかりました。しかしいずれにしろ、これで「屋台のうどん屋」と「お祭りの露店のうどん屋」と「街中のうどん屋」が新聞に出揃いました。
明治25年(1892)
「日本商業雑誌」という、おそらく中央の出版物の記者が、当時の香川県の様子を評論していました。特にうどんに関する記述は見当たりませんが、ちょっとおもしろいので少し現代文に直しながら再掲します。
●日本商業雑誌記者、讃岐を評す
かつて本県を訪れた同記者は、その雑誌第11号の紙上に次のように評論された。
マルサスはかつて「人口論」を著し、「人口が増えても事業はこれに伴って増さず、ついには遊食浮食の徒を増し、生活の程度を下落させる」と説いたが、私は香川県に入ってみて初めて、その言の正しいことを悟った。我が3府42県中、一里四方の人口が5000人以上に上るところは、ただこの県あるのみ。しかし、私が各地方を巡遊したところ、この県ほど貧民が多い県は未だかつて見たことがない。
そもそも香川県は讃岐の一国を支配し、気候極めて温暖で、山を負い、海に臨み、天然の良国なるが故に衣食の苦痛も少ないため、自ずから人口濫増している。ことにいわゆるこんぴら参りや四国遍路客をあてに乞食の徒が他府県より入り来てこの地に留まることも、人口が年々に増加している一因でもある。
しかし、産業はそれに比例して増すこともなく、気候が温暖であることが概して人性の懶惰心を誘起し、朝寝、昼寝等に耽る者が多く、かつ、この国の物産として称されるいわゆる「三白品」、すなわち綿、砂糖、塩の三種中、綿と砂糖は近年舶来品に圧倒されて衰退の悲運に向かい、わずかに塩だけが主要の物産となっているため、人口多くして賃金甚だ低く、1日2、3銭の薪を得るために終日山野に奔走する者多し。
収入が少ないためにその生計程度は甚だ低く、高松市のような県庁所在の地にしてほとんど入浴に足るべき湯屋がなく、市内屈指の旅館にしても常に浴湯を沸かさず、また市外に住する人民の過半は芋と麦とを食するのみ。徳島県より香川に入り、引田、白鳥、三本松、長尾等の各町を歩き、高松市に滞在して、私はこのように人口多くして生計程度の低きを知った。これらは旧高松領下に属するいわゆる東讃であり、東讃は商工業の最も振るわざる所である。
その後、阪出町を過ぎて西讃に至れば、事情はやや面目を改める。すなわち、丸亀、琴平、多度津は商業がやや盛んであり、人は活発(むしろ狡猾と言うべきか)、その生計の程度ははるかに東讃の上にある。よって思うに、東讃は往時松平氏の治するところ、今は県庁、裁判所、師範学校等のある所であるが、商工業が振るわないため衰退している。一方西讃は往時丸亀京極氏の治むる所にして、その封域小なりと言えども商工業の旺盛なるがために、今日の繁栄ははるかに東讃に優る。…(以下略)
香川県は貧民が多い、気候が温暖で怠け者が多い、主要な物産は塩しかない、収入が少なくて生計程度が低い…等に始まって、高松市内にはちゃんとした風呂屋もなく、旅館は毎日湯を沸かしてない、市外の住民の半分はイモと麦を食べている…等々、まあえらい言われようです(笑)。県外から来た雑誌記者の、おそらく短い滞在での雑感だと思われるので描写の内容が全て事実とは限りませんが、「東讃より西讃の方が発展していた」とか、「それは東讃の松平氏と西讃の京極氏の地域の治め方の違いから来ている」とか、興味深い報告や考察もあります。
あと、いくつかわかったところでは、
(1)「3府42県中、一里四方の人口が5000人以上に上るところは、ただこの県あるのみ」というのは、にわかに信じられないけど「香川県は当時、全国(3府42県)で最も人口密度が高かった」ということでしょうか? ちなみに、明治4年の廃藩置県時には藩をそのまま県に置き換えたので「3府302県」もあったそうですが、その後、何度も合併が繰り返されて、明治22年に「3府42県」に落ち着きました。蛇足ながら、当時の「3府」は東京府、大阪府、京都府の3つです。
(2)かつて昭和の時代に「讃岐三白」と言われていた「綿、砂糖、塩」は、明治25年時点ですでに「三白品」として知られていたことがわかります。
(3)「こんぴら参りや四国遍路の客を狙って他府県から香川にやってくる乞食がたくさんいて、それが香川に住み着いて香川の人口が増える」という、今の我々にはにわかに信じられないような話が出てきました。
続いて、盗難未遂事件の記事中に「うどん粉売り」という商売が出てきました。
香川郡鷺田村のうどん粉売り某が一昨日午前10時頃、高松市兵庫町に商いを為す折、荷箱の上に置きありし財布を奪いて逃げ去らんとせし者ありしを後より追いかけて取り戻したは幸い幸い。
先の記事に「うどん屋が丸亀町通り外磨屋町の角に荷を降ろして」というのがありましたが、こちらは「うどん粉売りが兵庫町で商いをする時、荷箱の上に置いた財布を奪われた」という話。当時、あのあたりに荷を降ろして商売をする人が結構いたようです。
続いて、何やら揉め事の顛末を物語風に書いた記事の中に、「うどん屋」が出てきました。
(前略)…蔦葛のお何は浅野へ帰ってから独り寝の閨(ねや)が寂しく、この間の村祭りの晩に近所の喜伊太と懇(ねんご)ろを通じ、怪しげなるうどん屋の裏座敷を逢い引き所と定め、去る14日の晩も例の如く忍び合いて…(以下略)
全文中、香川町浅野の蔦葛という所に住む「お何」さんという後家さんが、独り身が寂しくて村祭りの晩にうどん屋の裏座敷で逢い引きをしたというくだりですが、注目は「うどん屋の裏座敷」という表記。これは当時、逢い引きができるほどの裏座敷を擁するうどん屋があったということでしょうか。もしそうなら、明治時代の香川のうどん店像がちょっと変わってきそうな気もしますが。
明治26(1893)
今度はセコい詐欺のニュースに「うどん屋」が登場していました(笑)。
高松市南新町の呉服店、その名を聞けば子供も知れる「松屋」へ「はい御免」と言いながら入って来たのは年頃30近い一人の男。「私は片原町の延寿閣から来ましたが、今度、延寿閣へやって来た片岡我久十郎の一座が明日“町まわり”をするため、何か見栄えの変わった浴衣を揃えたいということで、ついては少し柄を見たいので参りました」と言う。その男の風体は特に怪しくも見えないので疑いもせず、直ちに丁稚に反物を担がせて付けてやると、その男は片原町延寿閣前のうどん屋の前まで行くと丁稚に向かい「おい、反物を貸してくれ。ちょっと小屋へ行って見せてくるから、ここで待っていてくれ」と言いつつ浴衣地七反を受け取り、延寿閣へ入ったまま待てど暮らせど出てこないので、「はて怪しい」と思って延寿閣で尋ねてみると、「左様な男は知らん」と言うに…
事件の内容はさておき、高松市の片原町の「延寿閣」という所の前にうどん屋があったようです。文章からすると、これは屋台ではなくてちゃんと店構えをしたうどん屋のように読めます。ちなみに「延寿閣」は、明治10年に片原町にできた芝居小屋です。
明治27(1894)
その片原町に「高砂」といううどん屋があったようですが、前年の記事に出ていた「片原町延寿閣の前のうどん屋」と同じうどん屋かもしれません。
昨日午前11時頃、高松市片原町東ノ丁「高砂」といううどん屋の煙突から盛んに火焔出で、まさにわら屋根に燃えつかんとするところを見つけて消し止めたるが…
以上、明治20年代の「香川新報」に載った「うどん」関連記事から、以下のようなことがわかりました。
●高松市の丸亀町か磨屋町あたりに、「屋台のうどん屋」が出ていた。
●高松市内の祭りに、「露店のうどん屋」が出ていた。
●高松市内に「山月」といううどん屋があった。
●香川町浅野に、裏座敷のあるうどん屋があった。
●高松市片原町の「延寿閣」という芝居小屋の前にうどん屋があった。そのうどん屋は「高砂」という名前かもしれない。
●高松市兵庫町に、「うどん粉売り」の行商が出ていた。
●「半夏にうどんを食べる」という習慣が既にあった。
どうやら当時から、「屋台のうどん屋」と「祭りの露店のうどん屋」と「店構えをしたうどん屋」があったことは間違いなさそうです。ただし、それぞれの形態の店で出ていたうどんの玉をどこで誰が打っていたのかについては不明。また、「香川新報」は当初から高松市域を中心にニュースを拾っていたようで、中讃~西讃のうどん関連情報も不明、一般の家でうどんがどう食べられていたのかについても、新聞からはまだ全くわかりませんが、今後の発掘記事にご期待ください。