さぬきうどんのメニュー、風習、出来事の謎を追う さぬきうどんの謎を追え

vol.38 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る讃岐うどん<昭和55年(1980)>

(取材・文:  記事発掘:萬谷純哉)

  • [nazo]
  • vol: 38
  • 2021.04.22

大平首相の急逝と、包装麺業界の過酸化水素問題が起こった年

 この年の6月、大平首相が就任後わずか1年半で急逝するという悲しい出来事がありましたが、讃岐うどん界では「包装麺」業界に大激震が走りました。包装麺はその製造過程で減菌剤や防腐剤として「過酸化水素」をずっと使ってきたのですが、年初の1月11日に厚生省の研究機関からいきなり「過酸化水素に発ガン性が確認された」という発表があって、包装麺業界はたちまち製造中止に追い込まれ、更に追い打ちを掛けるように全国から返品が殺到するという大騒動が起こったのです。

 この発表自体は「過酸化水素から弱い発がん性を確認した」というもので、「直ちに人体へ大きな害があるとは考えられない」という見解も加えられ、対策としても「使用禁止」ではなく「使用自粛の要請」というものでしたが、世間の多くは“科学”より“心理学”で動くのが歴史の理。案の定、短絡的に「包装麺に過酸化水素が入っている→食べたらガンになる」という話があっという間に拡散し、その結果、メーカーは「製造中止」、小売からは「商品返品」を余儀なくされて大騒動になったようです。何だか今も同じようなことがさらにエスカレートして起こっているようですが(笑)、では最初に、その「過酸化水素問題」を新聞記事で追って見ましょう。

過酸化水素問題が勃発

 年明け早々の1月11日に厚生省から「過酸化水素の発がん性あり」という発表があり、それを受けて17日の朝刊に、県下包装麺業界と行政の混乱の第一報記事が載っていました。

(1月17日)

過酸化水素の発ガン性 讃岐うどん大打撃 全国から返品の山、予想額3億円 業者、県に窮状訴え

 全国に「讃岐うどん」の愛称で親しまれている県下の包装麺は、「過酸化水素に発ガン性あり」とする厚生省の発表以来大きな打撃を受け、全国の納品先から返品が相次いでいる。県包装麺事業協同組合(中原伊八理事長)は「死活問題にかかわる」として16日、県をはじめ政府関係機関に窮状を訴え、対応策を求める要望書をまとめた。

 同組合によると、過酸化水素使用製品の販売自粛要請が出された11日以降、各地からの商品返品が相次ぎ、県内業者の返品予想額は約3億円にのぼるという。大手のある業者は、「これまでに返品された包装麺はコンテナ45台(1台5トン)にものぼり、このままでは倒産必至」と窮状を訴えている。同組合では「包装麺の製造過程では、過酸化水素を防腐剤としてではなく、減菌剤として使用しており、消費者の手元に届くころにはほとんど過酸化水素は残存しないはずである。しかし、今回の厚生省の指導もあり、今後は過酸化水素の使用は控える。ただ、現在返品が続いている包装麺は過酸化水素が残存していないものであって、この膨大な商品を何らかの方法で生かしてほしい」と当面の対応策をはじめ、補償、融資の措置を訴えている。

 業界代表は、さっそく同日、県にこれらを要望したが、井上副知事が「香川のうどんが名声を博している折だけに、今回の事態は遺憾である。被害を出来るだけ少なくする方法を考えなければならないが、県としては当面、制度融資の活用などで対応、業界に対して最大限の努力を惜しまない」と答えただけで、具体的な方策については結論を得なかった。なお、県下の包装麺業界は、1日当たり30万袋の包装麺を製造、全国に販売しているが、今回の事態で製造は中止されており、なおも約1カ月分の商品が返品されるのではないかとみられている。

 11日から1週間足らずで5トンのコンテナ45台分、225トンもの返品があったとのことで、一瞬にして世間が「科学の世界」から「情緒の反応」に染まってしまったことが改めてわかります。その結果、業界は行政の支援を仰ぐしか方法がなくなり、行政は「補償」や「融資」の手を打たざるを得なくなるという、何だかつい最近もよく似た話を聞いたような騒動が勃発しました。そして、事態は案の定、「行政支援」と「安全性の説明」に向かいます。歴史は何度でも繰り返します。

(1月26日)

過酸化水素問題で県が”つなぎ融資” 製めん業者に1件3000万円

 県は過酸化水素問題で打撃を受けている県下の包装麺業界に対し、当面の救済措置として、特別の「つなぎ資金」を融資する。…(中略)…このつなぎ資金は、中小企業に対する県の制度融資のうち、経済変動対策特別融資の中に「過酸化水素対策特別つなぎ資金」を新たに設置しようというもの。融資対策企業は、食品添加物としての過酸化水素の使用を自粛したうどん製造業者で、返品、回収、在庫処分などを与儀なくされ、経営に大幅な打撃を受けている業者。貸し付け限度額は1件当たり3000万円以内。融資利率は年6.3%(保証料利率0.83%)で、融資期間5年。県企業振興課内にある中小企業指導室で認定を受ければ直ちに融資を受けられるが、県としては今回の過酸化水素騒ぎで間接的な影響を受けた他のうどん業者に対しても融資する弾力的運用を考えている。県の調べでは、過酸化水素使用自粛の影響を受けている県下の包装麺業者は19業者で、返品などによる被害額は3億5300万円(22日現在)にのぼっているという。

 とりあえず被害規模を確認すると、県下の包装麺業者は19業者とあります。企業名は書かれていませんが、この3年前の「昭和52年」の香川県包装麺協同組合の広告に、以下の13社の名前が載っていました。

<昭和52年の香川県包装麺協同組合のラインナップ>

(志度町) 藤田製麺
(三木町) 寒川食品
(高松市) さぬき麵業
(高松市) 屋島麵業
(坂出市) さぬき坂出麵業
(坂出市) 上原製麺所
(坂出市) 柳屋製麺所
(丸亀市) 宮武製麺所
(丸亀市) 大王食品
(多度津町)村井製麺所
(綾歌町) サヌキ食品
(善通寺市)香川食品
(観音寺市)大文水産

 おそらく、その後廃業していなければこの13社に加えてその他の6業者が、この過酸化水素問題に巻き込まれたと思われます。そこでさっそく県が、風評被害を抑えようと、安全性を訴えるPRを始めました。

(1月30日)

さぬきうどん・かまぼこ 県が安全PR作戦 過酸化水素

 「さぬきのうどん・かまぼこは安心です」。県は過酸化水素問題でイメージダウンしたうどん、かまぼこ類の信用を回復するため、30日付の四国新聞にこんな広告を出した。県は実態調査で県下のうどん、かまぼこには過酸化水素が使われていないことを確認できたとして、県民へのPR作戦に乗り出した。引き続き、他の新聞にも同じ広告を出すほか、民放テレビのスポット放送でも”安全性”を呼びかけ、伝統のさぬきうどんの信用を回復したいとしている。

 30日付の四国新聞に掲載された県の広告は、「さぬきのうどん・かまぼこは安全です」の大見出しに続いて「業界では過酸化水素の使用を停止」「県は実態調査で使用していないことを確認」の太字が並んでいる。そして、本文では、過酸化水素問題の経緯、県の実態調査の結果などが要約され、最後に「さぬきのうどんやかまぼこは、過酸化水素の心配はありませんから、安心してお召し上がりください」と結んでいる。県はこれと同じ広告を他の新聞の県内版にも順次掲載するほか、民放3社にもスポット放送を流すことにしている。これら新聞、放送を使ったPR作戦の費用は占めて約320万円。県はすでに業界に対する緊急の融資対策も決めており、讃岐の伝統ある地場産業であるうどん業界へのテコ入れに追われている。

 なお、県が実施した実態調査によると、うどん関係は353業者のうち、なんらかの形で過酸化水素を使用していたのは70業者あったが、厚生省の発表以来すべて使用が停止されていることを確認。また、かまぼこ業者は62業者すべてが使用していないことを確認している。

S55年広告・県・過酸化水素

 しかし、影響を受けたうどん業界の業者は包装麺業者の19社に止まらず、「なんらかの形で過酸化水素を使用していたのは70業者」もあったようで、それらの業者も全て過酸化水素の使用を停止。「包装麺」だけでなく、かまぼこ業界にまで影響が及んだようです。そして、この混乱を受けてか、1月30日になって厚生省は「経過措置期間を設ける」という方針を打ち出しました。

(1月31日)

最終食品に残留させない 過酸化水素で協議(食品衛生調査会)

 厚生大臣の諮問機関である食品衛生調査会(委員長、山本正東京都臨床医学総合研究所長)は先に動物実験で弱い発ガン性が確認された食品添加物の過酸化水素の取り扱いについて30日午後、東京・千代田区の法曹会館で常任委員会を開き、協議した。この結果、午後7時すぎ「今後、過酸化水素を最終食品に残留する形で使用することは適当でない」との基本的な考え方をまとめ、同時にこの改定が実施されるまで一定の経過措置期間を置くことを認めた。

 厚生省は今後、農林水産省と合同でこの新基準を満たすための殺菌、加工方法を検討することにしているが、同調査会は同時に「たとえ経過措置期間中であっても過酸化水素は検出しない程度の仕様にとどめるべきである」と注文をつけており、これまでの「ゆでめん」や「かまぼこ」などのように過酸化水素が一定程度食品中に残留して殺菌効果を果たすことを期待するような使い方は事実上できないことになった。過酸化水素は古くから食品用漂白剤として使用されてきた経緯がある。

 というわけで、国(厚生省)の発表は2回。
●1月11日…過酸化水素から弱い発がん性を確認したので、直ちに人体へ大きな害があるとは考えられないが、使用を自粛して欲しい。
●1月30日…過酸化水素が最終食品に残留することは適当でない(いずれ禁止に向かう)が、改定が実施されるまで一定の経過措置期間を設ける。ただし、経過措置期間中も過酸化水素が最終食品に検知されないようにして欲しい。
という、流れは理解できるけれども、少々曖昧さの残る発表となりました。

 しかし、世間はもはや「過酸化水素=発ガン物質」という認識が蔓延していますから、当然、業界からは文句が出てきます。そして、そのあたりの感情を盛り込んだ記事がすぐに掲載されました。

(2月1日)

過酸化水素、無使用方針変えず 場当たり行政に不満
県下包装麺業界が確認 ほど遠い立ち直り

 厚生大臣の諮問機関である「食品衛生調査会」が30日、動物実験で発ガン性が確認された食品添加物・過酸化水素の取り扱いについて「最終食品に残留しない条件で使用を認める」との結論を下した問題について、県はさっそく31日、関係各課が協議した結果、これまで通り「出来るだけ過酸化水素を使用しないでほしい」との行政指導方針に変わりないことを確認した。一方、県内の包装麺業界は「今さら消費者の不信をかった過酸化水素を使うわけにはいかない。あっさり使用禁止を打ち出してほしかった」(中原伊八包装麺事業協同組合長)と、厚生省の一連の対応に強い不満を表明している。

 包装麺などの添加物に使われていた過酸化水素は、先に厚生省から「発ガン性がある」として使用自粛要請が出され、それに伴い県は県内の包装麺業者に対し、「出来るだけ使用しないよう」指導し、業界も自主的に使用を中止している。このため、「発ガン性あり」の発表があった1月11日以降、事実上、包装麺の製造はストップされ、全国に出荷していた包装麺の返品が相次ぎ、業界は深刻な打撃を受けている。「発ガン性あり」と確認された過酸化水素にどのような規制措置を講ずるか決めるため、「食品衛生調査会」が30日に開かれたもので、その結論は「最終食品に残留する形で使用することは適当でない」。しかも、一定の経過措置を講じることを認めている。過酸化水素水使用の全面禁止にはいたらなかった。

 すでに過酸化水素の使用をやめている県内の包装麺業界は、今回の決定に対して「ふんまんやるかたない。なま殺しのようなもの」と激しい怒りを訴えている。「猶予期間を置くような、このような措置が取れるのなら、なぜ1月11日に致命傷を与えるような発表をしたのか。今さら過酸化水素を使うわけにはいかない」と厚生省に対する不信をあらわにしている。また、別の業者は「消費者の手もとに入る段階には、出来るだけ過酸化水素の残留量を抑えるよう努力を重ねてきた。しかし、発ガン性ありとされた以上、使用するわけにはいかない」と話している。

 返品が相次ぎ、営業不振に陥っている業界では、県の「つなぎ融資」でなんとか当面を切り抜け、別の殺菌方法で営業再開の準備を進めている。熱殺菌工程の過程で酸性処理する方法で操業を再開した業者も出ている。この方法だと、保存期間は過酸化水素使用とほぼ同じといわれるが、若干の設備投資が必要なことや、コストもやや高くなるところから、県下包装めん業界が完全に立ち直るにはほど遠いといえそう。

 まあ、こうなれば過酸化水素の使用はいずれ禁止になると思われるので、業者は代替手段を講じるしかなくなりました。しかし、こういう経緯では当然、当面はこうやって揉めますね。

(2月1日)

包装麺業者つなぎ融資 13件、3億4200万円に

 県は過酸化水素問題で深刻な打撃を受けている県内の包装麺業者を対象に緊急の融資制度を設け、1月28日から融資申し込みを受け付けているが、31日までに融資申し込み額は13件、3億4200万円にのぼっている。ほとんどが返品に対する資金手当てのための融資で、業界の苦悩ぶりがうかがえる。

 今回の融資制度は倒産寸前に追い込まれている包装麺業界の救済策として、県が独自に制度融資「経済変動対策特別融資」の中に「過酸化水素対策特別つなぎ資金」を設けたもので、1月28日から受け付けを始めている。融資限度額は1件あたり3000万円で、利率6.3%(補償料率0.83%)、融資期間5年。31日までに融資の申込みがあったのは13件で、融資総額は3億4200万円。13件のうち11件が限度額いっぱいの3000万円を申請、残りは700万円が1件、500万円が1件となっている。

 そして、とりあえず県は「融資制度」で支援を始めますが、四国新聞の1面下コラム「一日一言」も「国の発表経緯」と「世間の感情的な過剰反応」に懸念を隠しません。

(2月1日)

コラム「一日一言」

 …(前略)…「うどんは別腹」といわれる土地柄、うどん好きの讃岐人は少なくあるまい。それだけに、過酸化水素問題は”他人事”でない。一時は、過酸化水素未使用の生うどんにまで深刻な影響が及んだそうだ。「疑わしきは使用せず」が食品衛生の本道だろうが、何から何までクロと決めつける過剰反応が、なくもなかった。県は実態調査の結果「さぬきうどん・かまぼこは安心です」との安全売り込み作戦に乗り出した。さぬきうどんのイメージアップ作戦に、過剰という言葉はない。だが、中央の紋切型的な厚生行政のしこりは、まだ尾を引くだろう。サル年だから、というわけでもなかろうが「朝三暮四」的な指導も気にかかる。製麺業者に対しては、あらゆる救済策が望まれる。「さぬきといえば=うどん」。筆者も「包装麺であれ、生うどんであれ、別腹」と平らげてきた。うどんで倒産が出るようなら讃岐人の体面にかかわる。

 「何から何までクロと決めつける過剰反応がなくもなかった」とあるのは、おそらく“世間の過剰反応”のこと。併せて「紋切型的な厚生行政のしこりはまだ尾を引くだろう」とありますが、先にも触れたように、その後の平成、令和のいろんな事象を見ていると「歴史はエスカレートしながら繰り返す」と言わざるを得ません。

 続いて2月4日に一連の騒動の総括的な特集記事が載っていましたので、歴史の記録として全文を引用しておきましょう。

(2月4日)

過酸化水素の波紋 3億円超す被害 全国から返品相次ぐ

 全国に名をはせた“讃岐うどん”がひん死の痛手を受けている。厚生省が先月11日、包装うどん(真空パック)に食品添加物として使われている過酸化水素は「発がん性あり」と電撃的な発表を行って以来、すでに20日余り。当然のことながら業界では、厚生省や県の指導を受けて直ちに過酸化水素の使用を自粛。このことは一夜にして製造の停止を意味することであり、全国市場に出回っていた製品の返品の山を抱えることだった。また、このあおりを受けて過酸化水素を使っていない生ゆで麺まで売り上げ不振が続くなど、その波紋は予想をはるかに上回るものだった。過酸化水素の規制基準を決める厚生大臣の諮問機関である「食品衛生調査会」は先月30日、「最終食品の残存量がゼロの場合は使用を認める」という結論を出したものの、発がん性の烙印を押された過酸化水素の使用は事実上不可能。県下の包装うどん業界は、食品衛生の指導に当たる厚生省に対する不信を募らせる一方、今、別の製法による操業再開への道を懸命に探っている。

 県下の包装うどん業界が厚生省に対し特に不信を募らせているのは、去る30日に出された食品衛生調査会の答申。この答申は、
①過酸化水素はこれまで発がん性が問題となった食品添加物の場合と異なり、科学的に不安定な物質であり、食品に使用されても最終的には残留しない場合もある。食品の殺菌方法として果たしてきた食品衛生上の有用性も十分評価できる。
②しかし、過酸化水素を使用する場合、最終食品に残留する形で使用することは適当でない。
というもので、発がん性を確認しながらも条件付きで使用を認める判断を下したのである。しかも、「行政措置を講じるに当たっては、他の殺菌方法や加工法に切り替えるまでの経過措置を講じることもやむを得ない」として、新基準の発動まで猶予期間を設ける柔軟な姿勢を示した。これまでは、発がん性や毒性が確認された食品添加物はチクロ、サルチル酸のようにいずれも使用禁止(添加物指定の取消)措置が取られており、今回の過酸化水素は全く異例のことである。零細なうどん業者は、そこに「何かがある」と感じるのである。

 食品衛生調査会の結論を知った高松市内のある包装うどん業者は、「物を言うのもバカらしい。いったん発がん性ありと発表された過酸化水素を条件つきにしろ使用しても、消費者が買ってくれるはずがない。食品業者としての良心からも使うわけにはいかないですよ。猶予期間を置くような結論を出すのなら、致命傷を与えるような11日の発表はもっと配慮があってしかるべきだ」と苦々しい口調だ。

 11日の発表とは、厚生省の研究班が動物実験の結果、「過酸化水素から弱い発がん性を確認した」というもの。「直ちに人体へ大きな害があるとは考えられない」という見解も加えられていたが、「食品に残存するのは好ましくない」とする観点から関係業界への使用自粛要請が出された。長期保存のため過酸化水素を「滅菌剤」として使用していた包装うどん業者にとって、使用自粛は製造中止を意味するもので、事実、発表翌日の12日からは県下の包装うどんは製造が一斉にストップ。この製造中止に追い打ちをかけるように、12月に出荷していた製品の返品が全国から相次ぐ“二重苦”。県包装麺事業協同組合(中原伊八理事長、12業者)がこれまでにまとめた被害額は3億円を上回るという。

 被害は製造業者だけにとどまらない。県下の大手包装うどん業者の販売部門を請け負っている東京に本社を持つある商事会社の場合、全国の小売店から回収したうどんは先月30日段階で5200万円にも上るという。回収費用もばかにならず、東京では可能なものから焼却処分にしている状態。この商事会社の社長は、「うちが倒産することは製造会社の倒産に直結するわけで、何とか乗り切ろうとしているが、われわれクラスの資金繰り能力を超えたもの」と悲壮な面持ち。県商工課へも融資問題で相談を持ちかけるなど、東奔西走の状況。有力地場産業の一つであるうどん業界の窮状ぶりに、県も前川知事が直接国に救済策を訴えた他、当面の運転資金対策として“災害並み”の低利つなぎ融資を独自に設け、テコ入れに大わらわ。また、消費者のうどん離れを防ぐため、新聞、包装を使った“安全PR”も行うなど、信用回復に力を入れている。この結果、売上が落ちていた生ゆで麺も上向き傾向にあるという。

 いずれにしても、包装うどん業界が立ち直れるかどうかは新しい無害殺菌方法の開発に期待する以外にない。長年使い慣れてきた過酸化水素との切り替えは容易ではない。丸亀市内のある業者は、数日前から再び包装うどんの製造に取りかかった。熱殺菌工程に工夫を凝らして、過酸化水素を使わなくてもある程度保存が利くというものだ。低温ケースでの販売を行えば大丈夫という。高松市内のある業者も、酸性調整の方法で製造を行っている。味覚などにやや解決すべき問題はあるが、共通しているのは「全国に名を馳せた讃岐うどんの火を消したくない」という願いが込められていることだ。まだフル稼働には程遠いが、“過酸化水素ショック”にいつまでも浸っているわけにはいかないというのが実情だ。

 そして、県は2月16日に追加の支援策を打ち出しました。

(2月17日)

過酸化水素問題 打撃のうどん業界に県単独で利子補給

 
 岩崎県経労部長は16日の県議会文教厚生委員会(平木春男委員長)で、過酸化水素問題で損害を受けた県下うどん業界に対する「つなぎ融資」について、県単独で利子補給措置を講ずる方針を明らかにした。委員の質問に答えたもので、同部長は「国に対して利子補給措置を求めているが、非常に困難であるという回答を得ている。うどん業界は県下地場産業に大きなウエートを占めているので、県単独でなんらかの対応が必要と思っている」と表明。さらに、具体的措置を正されたのに対し、同部長は「第一義的には国に措置を求めるものであるが、手をこまねいてるわけにはいかない。今月末までに意思決定する方針で、何%の補給をするかなど具体的問題について、過去の事例も参考にしながら鋭意検討を進めている」と述べ、今月中に具体的な利子補充措置を決める方針を示した。…(以下略)

 さらに、騒動勃発から半年後、研究機関から過酸化水素に代わる腐敗防止策が出てきました。

(7月4日)

ゆでめんの新保存方法開発 県食品試験場の中山主任研究員

 今年1月、厚生省が「うどんなどの食品の殺菌、保存に用いる過酸化水素に発ガン性がある」と発表して以来、「讃岐うどん」の名で全国に知られる香川県内のうどん業界では需要が減り続けていたが、香川県発酵食品試験場でこのほど、うどんの周りを多糖類を溶かした酸でコーティング(被膜で覆う)する新しい保存法が開発され、正念場の夏を迎えたうどん業界の注目を集めている。

 この方法を開発したのは同試験場の中山重徳研究員(45)。中山さんは厚生省の発表以来、腐敗防止の効果がある酸類を中心に研究を続けてきた。その結果、豆腐の凝固剤として広く使われているグルコン酸にキサンタンガムという多糖類を溶かし込み、粘りの出た溶液にゆでたうどんを浸し、うどんをミクロン単位の薄い皮膜で覆う方法を開発、今年4月、知事名で特許を申請した。工場段階でも、「従来真空パックの直前にうどんを浸していた過酸化水素溶液に代わってグルコン酸溶液につけるだけ」という簡単な方法。変質や腐敗は表面から起こるため、酸性の被膜によってこれを防ぐことができ、食べるとき湯通しすれば被膜は流れ落ち、うどんの味は変わらないという。

 パックうどん(ゆで麺)の場合、商業ベースに乗せるには最低2カ月の保存が可能なことが条件とされる。このため、同試験場では3月からパックしたうどんを100袋単位で摂氏30度の保温器に入れるテストを続けているが、100%が合格で、現在でも変質も腐敗もなく、おいしく食べられるという。また5月からは業者の要請で講習会や大規模な公開実験を開始、すべて成功している。

 以上が、昭和55年の讃岐うどんの「包装麺業界」を襲った「過酸化水素問題」の大まかな概要です。包装麺業界だけでなく飲食を中心とする「うどん店業界」も“風評被害”を少なからず受けたようですが、いずれにしろ包装麺業界はこの突発的な災難を乗り越え、ここから「半生麺」をはじめとするさまざまな“脱過酸化水素”技術を高めていくことになります。

大平首相が首相在任中に急逝

 そしてもう一つ、大平首相が6月12日、首相在任中に心不全で急逝されました(享年70歳)。大平首相に関する四国新聞の記事にはよく「うどん」の文字が見えるのですが、この年は生前に2本、ご逝去後に1本ありました。まずは、生前の2本。

(1月18日)

首相同行メモ/うどんに舌つづみ 英語の演説に及第点

【オークランド17日浅野本社特派員】メルボルンのナショナル・ギャラリーで、17日催されたフレーザー首相主催の午さん会の席上、大平首相は直接英語で日豪両国間の友好協力関係を訴えたが、出席したオーストラリア要人は「ベリーナイス」と及第点を献上。午さん会にはオーストラリアの政官界、経済人ら約350が同席。フレーザー首相の演説に続いて登壇した大平首相の演説に耳をすませた。テレビも大平首相の表情をアップで追い続けた。約20分間の英語でのスピーチ。内容、発声、間合いの取り方も”なかなかよかった”と点数をあげた。

 大平首相はニュージーランドのオークランドに着いた17日夜、地元大使館員らの好意で志げ子夫人とともに、異国の地で久方ぶりの讃岐うどんに舌つづみをうった。小山田大使が東京から空の便で特別に取り寄せた讃岐うどんで、大使館員の夫人方が慣れぬ手つきでゆで上げ、差し出した。首相は「ここまで来て讃岐うどんが食べられるとはうれしいね」と言いながら、夫婦水いらずで大玉をつるつる。「これでハラごしらえも出来た。あすに控えて少し勉強でもするか」とかたわらの資料に目を通していた。…(以下略)

(5月10日)

恋し? 讃岐うどん 大平首相、食欲旺盛

 大平首相は8日間の3カ国訪問も無事終え、肩の荷が下りたとあってか、睡眠と運動不足は続いているものの、食欲旺盛。バンクーバーからボンに向かう途中、アンカレジに給油のため1時間立ち寄ったものの、実質フライトは12時間半。食事をはさんで打ち合わせをした後、しばらく読書をしていたが、それも2時間ほど。残りの時間はほとんど寝ていた首相だった。これまで各地の自慢食と機内食が相次ぎ、和食の味も忘れかけた頃。「大好物のうどんが特に食べたそうな顔つきだった」とは側近の話。ぐっすり睡眠をとった首相だったが、夢の中で讃岐うどんの味に舌つづみを打っていたのかもしれない。

 1本目はオーストラリアからニュージーランド訪問。2本目はカナダのバンクーバーから旧西ドイツの首都ボンに向かう途中。いずれも「うどん」の一ネタ付きの記事です。

 そして、ご逝去後に書かれた「うどん」入りの記事が1本。

(9月20日)

大平前首相の百日祭開く 鈴木首相ら出席、故人しのぶ

 大平前首相が死去して100日目の19日夜、東京・瀬田の大平邸でキリスト教式による百日祭が開かれ、鈴木首相ら約400人が故人をしのんだ。午後6時すぎ、白菊に囲まれた故人の遺影を前に高畠靖立教女学院チャプレン(牧師)が聖書を朗読、追悼ミサが始まった。次いで同女学院聖歌隊17人が聖歌を斉唱し、さらに高畑チャプレンが祈りの言葉をささげた。このあと参加者は白いカーネーションを献花し、故人の好物だった讃岐うどんを賞味したり、生前の活躍を伝える映画に見入るなど、故人をしのんだ。

 ご逝去の3ヵ月後に東京で行われた「百日祭」でも、参加者に“大平元首相の好物”として讃岐うどんが振る舞われました。東京の教会で後任の鈴木善幸首相ら要人をはじめとする400人を招いた“偲ぶ会”でも「うどん」が振る舞われるということは、やはり「大平首相と讃岐うどん」は全国的に認知されていたのだと思います。

「食は讃州に在り」の連載始まる

 では、その他、讃岐うどんの文化や歴史に関するいろんな話を拾ってみましょう。

 まず、四国新聞で「食は讃州にあり」というコラムの連載が始まりました。連載タイトルは中国で昔から伝わる「食在広州(食は広州に在り)」という言葉をもじったもので(のちに四国新聞社から同名で本が出版されました)、その中にうどんに関する記述がいくつも出てきましたので、抜粋して並べてみます。最初はおなじみ、山田竹系さんの寄稿から「讃岐うどん」に触れた部分をご紹介。

(1月1日)

連載「食は讃州に在り」/さぬき名物バンザイ(山田竹系)

(前略)… さぬき手打ちうどんについては、くわしく言うまでもない。今や全国を風靡(び)しているが、それはとくに戦後のことで、戦前は今の二割程度の普及であった。やわらかくて腰が強く、そのうまい出し汁とともに、これはやはりほかでは真似(まね)のできない特産物で、県下東西どの地方でも「うちのうどんが一番うまい」とところ自慢する。みんな自信を持って打っているからだ。うどんがなければ、いろいろな農作業などもできないし、寄り合いも成り立たないというのは特異な風景だろう。

 近ごろは、乾めんのほか生うどん、ゆでめんなどをみやげにする人も多い。いよいよさぬきうどんは花盛りで、まだまだ伸びる目途もあり、先ゆきはすこぶる明るい。優秀な製めん機もいくつか地元でできるし、百メートルあまりの日本一の製めん機を使いこなす製めん工場もあり、県下のうどん屋は合計三千七百五十軒、高松市内に二千五百軒もあるし、年商二十億円近くのうどん屋もある。…(以下略)

 「讃岐名物」という回で山田竹系さんが郷土の食を紹介していましたが、うどんに関する記述では、

●戦前の讃岐うどんは、昭和55年頃に比べると2割程度の普及だった。
●うどんのお土産は「乾麺」が主流で、「生うどん」や「ゆで麺」のお土産商品もあった。
●県下のうどん店は「3750軒」、そのうち高松市内に「2500軒」もある。

と紹介されていました。ただし、戦前の讃岐うどんの何が「2割程度」だったのかについては、具体的な記述はありません。また、うどん店の数は前年に県の商業調査で出た「約600軒」という数字には触れることなく、依然として「数千軒」レベルの話が出ていました。

塩江の打ち込みうどんの名店「もみじや」の記憶

 続いて「打ち込みうどん」の回では、映画通で知られる帰来雅基さんが、今はなき打ち込みうどんの名店、塩江の「もみじや」を紹介していました。

(1月9日)

連載「食は讃州に在り」/打ち込みうどん(帰来雅基)

 阿讃のふところ、塩江町上西。塩江温泉の奥の湯まであと少しというこの地に、うまい打ち込みうどんを食べさせてくれる所があるということでさっそく出かけて見た。「もみじや」という店に入る。旧美馬街道に面しており、かつて宿屋もしていたという古い造りだ。大正時代からこの場所で打ち込みうどんを打っていうという。今では、もうほとんど見られなくなった囲炉裏(いろり)。その前に座る。初めてのことなのに何となく落ち着いた気分になるのは不思議である。僕の心に、囲炉裏への潜在的郷愁があるということなのかもしれない。年月を経た黒くて太い梁(はり)。うどんをゆでるための「おくどさん」。郷土料理という物を食べようとするには、まず、それ相応の環境がなくては、味までが、もう一つピンと来ないのではなかろうか。やはり打ち込みうどんというものは、こういう山峡の古い店で食べるのが一番あってるような気がする。高松から1時間で、こんな静かな所がある。タイムトンネルに入ったみたいな気がした。

 三代続いているというこの店の主人が手ぎわよくうどんを打つ。煮干しと自家製の味噌でだし汁をとり、ジャガイモ、ニンジン、ゴボウ、大根、油揚げ、ネギなどを入れ、生うどんと一緒に炊く。味噌汁の中にうどんが入っていると考えればよいのだが、このうどんは塩を入れていない。これを知らない人が多いのだそうである。…(以下略)

 「もみじや」は1998年頃までは営業していましたが、当時筆者が編集発行した『讃岐うどん全店制覇攻略本第1巻(1998年発行)』の「もみじや」の紹介文に、「相当奥にあるので、不安になっても進め」と書いてあります(笑)。塩江の内場池のさらに奥にあった秘境的うどん店で、健在なれば長尾の山奥の「八十八庵」と並んで「山奥の田舎打ち込みうどん」の両雄としてプロモーションできたかもしれません。時の流れは仕方ありませんが、“古き良き昭和”のいろんなものがなくなっていきます。

仲南町「恵光寺市」の“お接待うどん”

 次は「手打ちうどん」の回で紹介された、仲南町・恵光寺の「恵光寺市」で行われている“お接待うどん”の話。執筆者の名前が見当たらなかったので、四国新聞の記者が書かれたのかもしれません。

(3月26日)

連載「食は讃州に在り」/手打ちうどん

 (前略)…ここは琴平町と仲南町の境で字買田。50メートルほどの小高い丘の上に真言宗御室派の香積山日晴院恵光寺がある。日ごろは閑静なこの丘も、毎年5月8日の”恵光寺市”には老若男女が雲集して時ならぬにぎわいをみせるという。この”恵光寺市”には檀家の人たちが参拝者のために手打ちうどんをお接待として振る舞うそうだ。一説によるとさぬきうどんの発祥は金毘羅参詣(けい)や八十八ヶ所霊場巡拝のお接待に端を発したというから、いわば恵光寺のうどんは今に残る「お接待うどん」といえるかもしれない。…(中略)…

 「やあ、来るんが遅いけん、もう粉練りにかかっとんですワ」。振り返る庫裡(くり)の裏手にかいがいしく立ち働くエプロン姿の中に、長身を大きな白いビニール袋のエプロンで包んだ赤ら顔のかくしゃくとした老人が、一塊の麺の素材と化した小麦粉のダンゴに乗りかかるようにしてこねている。この人が打ったうどんを、だれかが「恵光寺の観音うどん」といわしめた藤井信一さん(78)である。若いころから山での伐採や搬出を生業としてきたというだけあって、とても元気な人である。ふつふつと沸き立つ大釜にマキをくべる人の横に立って、少しばかりの前知識を披露してみる。「小麦の産は? 塩加減は?…」。

 私の知るさぬきうどんは、「元祖」「本家」の名のもとに厳選された材料と洗練された技術を要するものばかりであった。恵光寺のうどんは違うのである。小麦粉は一般に売られているものでよく、これにかかわる秘伝も秘術もないという。ただ無心に粉をこねる。その無心の中に塩加減、水加減が教えられるのであるから小麦粉にはこだわらないという。藤井さんの使う細くてしなやかな麺棒が一往復するたびに、一塊2キロの小麦粉は生き物のようにぐんぐんと延びて広がる。聞いてみると、これで23玉分とれるという。藤井さんの打つうどんはあまり太くない。食べやすいようにとの配慮からだ。カイバ切りの刃を小さくしたような幅広い包丁で切られた麺は、すばやく先ほどの大釜に入れられる。このゆで時間と温度がポイントなのだろうが、藤井さん、それを無意識にやってのけるのである。

 やがて卓に運ばれたのは、鉢に盛られたピカピカの湯だめうどん。そしてネギと下ろしショウガの薬味である。だし汁の小鉢から煮干しの香りがする。聞いてみると、前日からコンブと腹わたを除いた煮干しを浸しておいて、それにしょうゆとみりんで味をとったという。「おいしい!」。ひと味違うのである。それは欲得を離れ、手間ひまをかけて一生懸命に作った心の波動の強さではなかろうか。”観音妙智力能救世間苦…”今はもうなくなりつつあるお接待というさぬきの心で体を満たした法悦に浸りつつ山門を下る私の耳に、観音経が春風にのって聞こえてきたようだ。ひょっとするとあのおじいさんは観音様の化身かもしれないと思ったりした。

 「恵光寺市」の“うどんお接待”は、「檀家の人たちが参拝者のために手打ちうどんをお接待として振る舞う」というスタイル。先般紹介した山本町の大興寺でのうどんお接待(「昭和54年」、「昭和の証言vol.302」参照)も地元の方々によって行われていましたから、お遍路さんへの「讃岐のうどんお接待」は基本的にお寺や行政が主体となって行うものではなく、地元の人々がボランティアで行っていたことが改めてわかります。ということは、讃岐の“うどんお接待”の盛衰は「香川県民の“お接待の心”の盛衰」だとも言えるわけで、そう考えればここらで一つ、みんなで「四国霊場八十八カ所」のお寺の“うどんのお接待”を見直そう、というより、お接待の数と質を一気に今の数倍、数十倍にグレードアップして、世界の追随を許さない圧倒的な「おもてなし県、おもてなし県民」のイメージを創り上げてはどうでしょう。

小豆島の「たらいうどん」

 続いて、小豆島の「たらいうどん」の話が出てきました。

(7月2日)

連載「食は讃州に在り」/千本箸

 (前略)…この日おうかがいしたのは、土庄町の佐伯さん宅。…(中略)…前栽に面した広い廊下で、今しも「盥(たらい)うどん」「千本ばし」が始まろうとしていた。千本ばしと言うのは、大勢の箸が輪になって取り囲むさまを言ったのであろうか。土地の人は「盥うどん」のことを「千本」とも言っている。ひと抱えほどもある大きなうどん鉢を、家族や親類、隣近所の人たちが輪になって囲み、水に浸したうどんを自分自分のだし汁につけてすする。濃い口しょうゆで味つけしただし汁にネギやショウガなどの薬味を入れて食べるのだが、だし汁は煮干しイワシのほかに、必ず大豆を煮出しているのが盥うどんの特徴とか。

 …(中略)…昔は、家々でうどんを捏ねて作っていたものだが、「おで板」でうどんを延ばすのは力仕事なので、麺棒を使うのはもっぱら父親の仕事だった。農家にとって「千本」と言えば、ハレの日にしか食べられないごちそうだったし、何よりもそこには親子家族、人と人とのふれあいがあったが、今では日常茶飯の食べ物になってしまい、「こころもうすれてきたように思える…」とため息をつかれる。…(以下略)

 「水に浸して」とあるので、小豆島の「たらいうどん」は「冷やしうどん」らしく、つけダシは、煮干しイワシ(イリコ)に大豆も使って作るそうです。
また、うどんを打つ時に使う「おで板」という聞き慣れない名称が出てきました。この「千本(箸)」という“冷やしうどん”は「ハレの日のごちそう」から「日常食」になってきたそうですが、今は島の郷土料理として「島そうめんの千本箸」というメニューがよく紹介されています。「千本箸」はどこかで「うどん」から「そうめん」に変わったのでしょうか。

香川町・勝光寺の「供養うどん」

 次は、香川町の勝光寺で「“夏まいり”にうどんが振る舞われる」というお話。

(8月20日)

連載「食は讃州に在り」/勝光寺の夏まいり(香川町)

 (前略)…旧暦の6月28日といえば、麦のしまいも終わり、田植えもすまして、激しい労働に追われた農家も、ホッとする。そのころ、檀家の農家はめいめいに今年穫れた小麦を1升、2升と持ち寄って阿弥陀さまにおまつりし、そのおさがりでうどんを作って、檀家の衆だけでなく、この日おまつりに来るだれかれに振る舞ったのが始まりだという。…(中略)…お寺にはこのため、うどんを作る道具一式がそろっている。オクドサンは、レンガ造りのものが一列に3基並んでいる。移動用のものもある。釜は鉄の平鍋。直径は70~80センチもある。

 「昔は何十貫も小麦粉を用意したものですが、今は30キロくらいに減りました」と、うどんを打つ老人は世の移り変わりを嘆いた。広い台所で粉を練る人、のばす人、それを切る人も、みんな信徒である。ダシは、イリコと出しコンブ。ネギを刻む人、ショウガをおろすのは、婦人方である。ゆであげたうどんは、手押しポンプでくみあげた手の切れるような冷たい水でさらす。…(中略)…本堂の中で、縁側で、庫裡(くり)で、思い思いの場所でウリの酢のものと、しょうゆ豆をそえて頂くうどんの味には、200年の重みがある。いつまでも続いてほしい、勝光寺の供養うどんである。

S55年・勝光寺・夏まいり

 コラムによると、勝光寺の「夏まいり“供養うどん”」は、その昔にあった「農家の人が収穫した小麦を持ち寄ってお寺の阿弥陀様に供え、そのお下がりでうどんを作ってみんなで食べる」という風習が起源だとか。写真を見る限り、うどんは「ざる」か「冷やし」のようで、添え物には「瓜の酢の物」と「しょうゆ豆」があったそうです。

 ちなみに「勝光寺のうどん接待」は、これに先立って8月1日に記事でも紹介されていました。

(8月1日)

手打ちに舌つづみ 香川町・勝光寺でうどん接待

 戻り梅雨とかで涼しい夏が続いているが、31日、”うどんの寺”として知られる香川町川東下の浄土真宗勝光寺で恒例の夏まつりが行われ、法会のあと参拝者にうどんが接待された。このうどん接待は江戸時代から続いている真夏の風物詩で、この日、檀家の人たちが手分けして100人分のうどんを打ち上げ、法会のあと参拝者にふるまった。もともと信者が持ち寄った小麦粉でうどんをつくり、夏負け防止としたものらしく、太平洋戦争中も行われたという伝統の行事。参拝者はお年寄りが多かったが、夏休み中の小学生も加わり、”ツルツル”と手打ちのうどんに舌つづみを打っていた。

 何と、勝光寺は当時、「うどんの寺」として知られていたそうです。讃岐うどん巡りブームの今、「うどんの寺」と言われてもパッと思い浮かぶお寺がないのですが、どこかがうまくプロモーションすれば“一人勝ち”できるかもしれませんね。煩悩まみれの話ですが(笑)。

「牛乳うどん」が登場

 ここから一般のうどんの話題です。まず、「牛乳うどん」が出てきました。

(2月27日)

“牛乳うどんはいかが” 大川農協酪農婦人部が試作 まろやかな舌ざわりが好評

 ”牛乳は飲むもの、食べるもの”を目指して研究を進めていた酪農婦人部の人たちの努力が実り、「牛乳うどん」の試作試食会がこのほど寒川町で行われ、自信を高め広く普及に乗り出すことになった。このユニークな食品加工の発想は、「牛乳の消費拡大のため酪農家たちも何とか新分野を開発しよう」という大川農協婦人部の熱意にこたえて試作研究していた県立石田高校の有馬忠教諭(畜産担当)の研究結果が大きな支えになっている。

 この日、農協酪農婦人部はじめ普及所、地元農協の担当課長ら約30人が地区の布勢公民館に集まって、まずテキスト片手に有馬教諭から牛乳うどんの作り方の手ほどきを受けた。なにしろ「牛乳うどん」とは讃岐うどんの本場さえ奇想天外と思われるだけに、試作ぶりに注目した。牛乳うどんの作り方は、小麦粉1キログラム(中力粉7、強力粉3)、打粉100グラム、これに水に代わって牛乳500cc、並塩50グラム(うどん玉20~30個)、これがすべての基準材料。あとの手法は、こねる、延ばす、切る、ゆでるなど手打ちうどんの作り方と変わらない。「硬軟その他はそれぞれ独特な工夫をすればよい」というのが講師の弁。

 やがて出来上がった「牛乳うどん」をザル、かま上げ、かけうどんなどにして、みんなで試食。普通のうどんとも食べ比べた結果の評は、「まろやかな舌ざわり、牛乳臭もなく、これはいける」となかなかの好評だった。特に特色としては、①脂肪、タンパク質があって栄養が高い。②滑らかな味覚。③牛乳嫌いの子も喜ぶ。④家族だんらんの手作り。⑤牛乳の消費拡大につながる。…など、”一石三鳥”にみんな大喜びであった。なお、うどん玉代は普通うどんに比べて10円見当高くなるそうだが、讃岐うどんの業界に「特製牛乳うどん」がお目見えするのではないかと早くも関係者から関心を集めている。

 水の代わりに牛乳を使うということは、小麦粉を塩水で捏ねるのではなく「塩牛乳」で捏ねる(!)ということでしょうか。「牛乳うどん」より「塩牛乳」の味を知りたいですが、試してみる勇気はありません(笑)。ちなみに、1990年代前半に中讃の南部あたりで「牛乳うどん」の看板を掲げたうどん屋を見た記憶が薄くあるのですが、どうも定着はしなかったようです。

「うどんの具材に山菜」が2題

 うどんの具材に入れる山菜の話題が2本見つかりました。まずは、山本町の山菜うどんを紹介したコラム。

(3月20日)

コラム「早春八景」/舌先に広がる感触 山菜うどん(山本町)

 讃岐と手打ちうどん。独特の“コシ”となめらかな舌ざわりで食通のノドをうならせる。諸説あるが、うどんは平安朝の中ごろ、中国から伝わった点心(てんしん=菓子)の一つ。混沌(こんとん)と呼ばれたダンゴ状のものが始まりらしい。混沌はやがて温飩から饂飩、うどんへと姿形と一緒に変化する。手打ちうどんの表面は機械打ちに比べてデコボコが多いため、表面積が広く、それだけ汁がよく馴染んで味が絡まりやすい。ワラビやタケノコ、フキなど季節の味を添えて“山菜うどん”もおつなもの。早春の感触が舌先にも広がる。…(以下略)

 山菜うどんを年中出しているうどん店がたくさんありますが、コラムに「早春の感覚」とあるように、山菜うどんは本来、春の季節メニューだったんですね(言われてみれば当然ですが)。あと、うどんの起源について「平安朝の中頃、中国から伝わった点心の一つ」と言い切られています。弘法大師の名前は出てきませんが、「奈良時代渡来説」と「弘法大師(平安時代)持ち帰り説」の折衷型となっております(笑)。

 続いて、讃岐の食の対談特集の中に出てきたうどんの話題。

(4月26日)

対談特集/しゅんの素材を生かす うどんだしにマダケを

<出席者>
井上澄子 (栄養士・ふるさと研究会・香川民俗学会会員)
亀井敬 (県観光課長補佐)
山田竹系 (郷土研究家・日本文芸家協会会員)
(以下略)

…(前略)…
山田 タケノコのうまさの実力を発掘するのは「うどんだし」です。マダケをグツグツ煮てだした味は”傑作”といえますョ。
井上 半夏のころのうどんだしにマダケを入れることを現代人はほとんど知らないでしょうネ。
…(中略)…
井上 四季折々においしいのが「すし」です。ハルイオがこれから旬になりますが、讃岐各地には形は違っても多くの種類のすしがあります。たとえば小豆島には「いしきりずし」「のうまずし」、生のアナゴを酸づけにした「アナゴずし」「おしぬきずし」「まるたずし」など、どれも米どころ、魚どころならではの味ですワ。
亀井 少数だが高松市内の旅館で宿泊客へ「おしぬきずし」をご飯がわりに、「かけうどん」をおつゆがわりに食卓に並べて好評のところもある。これは讃岐の昔からの”セット料理”の一つといえますよ。
山田 高松の石清尾さん(八幡)の春市に、昔はどこの家庭もこしらえる一番のごっつぉ(ごちそう)が「かきまぜ」と「うどん」ですワ。すしの季節の具を入れて上にサワラの酢ずけをのせていましたナ。これがなかったら春市の料理といえなんだぐらいだった。

 「うどんのダシをとるのにマダケ(タケノコ)を使う」という話が出てきました。「現代人はほとんど知らないでしょう」とあるので、昭和55年時点にはほとんど消えていた食文化だと思われますが、要するに「野菜ダシ」の一種ですね。山田竹系さんも「傑作」とおっしゃっていますので、復活させてみる価値はありそうです。後段は讃岐の「うどん」と「寿司」の切っても切れない関係について。県外人にいくら「炭水化物on炭水化物じゃないか」と言われようが、このコンビは讃岐の歴史そのものだから譲れません(笑)。

まだ「うどん店2000軒」という記述が出てきます

 続いて、「香川の日本一・世界一」という特集記事の中に「県下にうどん店が2000軒」という記述がまた出てきました。

(4月26日)

特集「香川の日本一・世界一」/うどん 歴史誇るこね方

 「手打ちうどんといえば讃岐」というほど、本県の手打ちうどんは全国的にも評判が高い。その素朴な味が好まれているのである。この「讃岐手打ちうどん」は、かなり古い歴史をもっているようで、すでに元禄年間、滝宮の逢坂水車でうどん粉をひいていた記録もある。これは、わが国最初の水車といわれている江戸品川水車とほとんど同時である。以後も綾川筋から讃岐の各河川で水車が設けられ、盛んに粉ひきが行われていたことが讃岐人をうどんづくりに駆り立てたとも思われる。手打ちうどんは、塩加減、粉のねり方、延ばし方にコツがあることはもちろんだが、本県の風土がうどんやソウメンに適していることなどもあるだろう。風土と長い歴史の力であろう。といっても県下に2000軒といううどん屋で本物の手打ちうどんを食べさせてくれるところは、そう多くはない。…(以下略)

 記事に署名がありませんので、これもおそらく四国新聞のどなたかが書かれたのだと思いますが、「県下に2000軒といううどん屋」という表記がまだ出てきています。前年末に発表された県の商業統計の数字なんか、誰も計算していないようです(笑)。

「半夏のダンゴ」も“正解”になりつつあります(笑)

 続いて7月2日の半夏生の日に、記事とコラムで「半夏のだんご」に触れていました。

(7月2日)

きょう半夏生

 2日は雑節でいう半夏生(はんげしょう)。夏至から11日目に当たり、農家にとっては多忙だった田植えが一段落、ほっと一息入れる時期だ。正確にはこの日から5日間が半夏生に当たる。田植えが機械化される以前は、この日以後に田植えをすると半夏半作といって収穫が少ないという。また、全国的にも半夏生の日を田植え終了の日としている土地が多い。県下でもかつて、早乙女たちの田植え料の精算をする”算用日”とし、ダンゴやうどんで慰労した習わしがある。…(以下略)

(7月2日)

コラム「一日一言」

 半夏生(はんげしょう)は、農耕生活と深くかかわっている。夏至から11日目。今日が暦の上でいう半夏生。カラスビシャク(半夏)の生えるころ、という意味らしい。田植えが機械化される以前は、半夏生までに田植えを終わるもの、とされていた。農作業が一段落する季節でもあった。半夏を過ぎての田植えは「半夏半作」などといって避けてきたという。ほかに「半夏梅雨なか」「半夏のはげあがり」という言葉もある。半夏生には、天から毒気が降り、地に毒草が生じる、と言って野菜類を食べない地方もあるそうだ。「汲(く)まぬ井を 娘のぞくな 半夏生」(言水)の句は、その言い伝えが背景としてある。「小麦は毒を消す」といって、県下でもこの日、だんごや、うどんをつくって食べるところが少なくない。…(以下略)

 昭和44年に発行された山田竹系著『随筆うどんそば』の中に、「“半夏のはげだんご”は団子のことではなく、団子状になってしまった出来の悪いうどんのことである」という記述がありましたが、当時からすでに「半夏のはげだんご」を団子のことだとして半夏に団子を食べる農家もあったようで、竹系さんはそれを嘆いておられました(「昭和54年」参照)。しかし、残念ながら竹系さんの声は世間に届かず(?)、「半夏のはげだんご=団子→半夏に団子を食べる風習」という“とても自然に見える説”が、このあたりでは明らかに「正解」になっていこうとしています。

「北海道の讃岐うどん」に苦言が一つ

 北海道を旅した記者が、コラムの中で「北海道のさぬきうどん」に苦情を申しておりました(笑)。

(9月12日)

コラム「初秋の北海道⑤」/讃岐うどん

 洞爺湖を背にして広がる洞爺湖温泉街のはずれと帯広市で、「さぬきうどん」の店を見つけた。だが、箸で持ち上げただけでポロリと切れる麺。”旧友”と再会したような喜びは腹立たしさにかわる。食べ物は、その気候風土や立地条件の中から生まれ、そして微妙に変わる。「ジャガイモやトウモロコシの甘さは、北海道の乾燥した涼しさの中で味わうから本当のうまさがわかる」とは、ある道産子の解説…。北海道で味わった「さぬきうどん」の苦情をいったら、帯広市の観光部長がお返しに、北海道を「クマのかっ歩するような、未開の地」的な先入観を捨てて、見たままの姿をもっとPRしてほしいと話した。…(以下略)

 今も昔も、ご当地の名産の名前だけを“騙る”店は全国に健在です。どんなうどんを出しても、「讃岐うどん」と掲げさえしなければ讃岐人からツッコミが入ることはないんですがねえ。ちなみに、苦情を言ったらそれには答えずに「じゃあそっちも…」と返すのは、「質問に質問で返す」という“議論の御法度”と同じで、観光部長ほどのお方がそれを言っちゃあいけません(笑)。

再び竹林茶会の“点心うどん”の話題

 「点心にうどんが出る茶会」として知られる竹林茶会が、久しぶりに記事になっていました。

(10月19日)

日曜随想/竹林茶会から(小倉洋三)

 「竹林茶会は暑いなあ」とよくいわれます。今年は例年より少しはしのぎやすく、世話人一同ほっとしました。しかし1300人近い人が志度のこのお茶会に集まることは不思議だと思われるかもしれません。「毎年来るのだが、そのたびにあまり暑いので来年はもうやめようと思いながら、この時節になるとまた来たくなる」と述懐していた老茶人もおられましたが、何か暑さに負けない魅力があるのかもしれません。一服のお茶に清涼を見出すのがお茶人さんの知恵だという人もいます。朝の涼しい間に、高松から電車で古い町並みの志度の茶会に年一度訪れるというのも優雅な消夏法だといえましょう。

 このお茶会の特色としては、暑さのほかに3つあげられると思います。第一が点心のうどん、次が竹林庵の副席、もう一つは竹心会といって、お茶会のお世話をしている会です。点心のうどんは戦時中も続けられたもので、5つくらいおかわりする人もみかけました。近ごろはせいぜい3つくらいで、讃岐っ子も少し食傷気味かと思います。しかし、広い書院で食べる味は格別で、竹林さんのシンボルともいえる竹の葉をあしらった砥部焼の器が風味を増します。この点心席が設けられる自性院が、竹林上人が住職をしていたお寺です。ここから約2キロ西南に副席の竹林庵があります。志度寺の本堂の前からマイクロバスが折り返し運転していますが、バスで連絡する副席は全国的にも珍しいのではないでしょうか。…(以下略)

 「竹林茶会」は、“生き仏さん”と呼ばれて親しまれていた竹林上人の住職寺「自性院常楽寺」(志度寺に隣接)で竹林上人を追悼するために昭和10年から開かれているお茶会だそうですが(「昭和44年」参照)、そのお茶会の点心の席でうどんが振る舞われるという、何とも讃岐ならではの風景です。昭和44年の新聞記事に「今年の客は1600人近い」とありましたが、ここでも「1300人近い」と書かれているように、かなり大きな規模の催しでした。今は参加者数が減っているみたいですが、まだ続いているそうです。地元メディアの方にはぜひ、再度盛り上げていただきたいものだと思います。

屋台の「夜なきうどん」は明治~大正にかけて大盛況だった

 「川福」の広告の中に、うどんのコラムが載っていました。

(11月23日)

「川福」広告内コラム「うどん」

 たばこ屋より、うどん屋の数の方が多いと言われる市内、喫茶店のメニューにまでうどんがあって観光客はよろこんだりふしぎがったりする。これほど讃岐地方にはうどん好きが多いが、その起源はさだかではない。一説では、讃岐の生んだ高僧、弘法大師が唐に渡って小麦の種子を持って帰ったとも、製法を伝えたとも言われている。

 手打ちうどんは、ねり加減、打ち加減、切り加減、ゆで加減、水と塩のあんばいなどあらゆる条件がそろわないと本当にうまい味は出ないと、手打ちうどんの名人は慎重な手つき。「土三寒六」と、土用の暑いときには塩を三倍水でとき、寒い冬は、六杯の水でうすめる。うどんの味比べはきびしく、一般に西高東低と西讃のうどんの味を賞める人も多いが、中央に位置する高松は味でも食べ方でも標準とされている。

 明治の終り大正にかけては、素うどん一ぱいが一銭五厘、きつねうどんは二銭だったという。それにもましておいしかったのが「夜なきうどん」だった。同じ屋台車にもそれぞれファンがあり、ひいきにする屋台車がくるまで待っていた。北風が人影まばらな街角を吹きすぎる夜など、遠くから近づいてくるひいきの車を待つ心は、うどん好きな高松人でなければ知らぬ楽しみだった。四番丁のゴン(時鐘)が鳴ると、夜なきうどんの売り声が風にのってひびいてきたという。

 「空海持ち帰り説」と「土三寒六」の他に、新しく「讃岐うどんは西高東低で、西讃のうどんの方を褒める人が多い」という話が新聞に初めて出てきました。讃岐うどん巡りブームが起こった1990年代以降、「うどんの本場は中西讃」とよく言われていますが、昭和55年時点でも、すでに讃岐うどん文化に“西高東低”のイメージが定着していたことがわかります。また、「明治から大正にかけて、屋台の夜なきうどんが多かった」という話も再度出てきました。それも「屋台車にそれぞれファンがあり、ひいきにする屋台車が来るまで待っていた」ほどの盛況ぶりだったそうです。

第2回「さぬきうどん品評会」の入賞者がズラリ!

 前年に始まった「さぬきうどん品評会」の第2回が行われました。第1回の記事では入賞者が載っていませんでしたが、今回は全入賞者のお名前が掲載されていました。

(5月17日)

光沢よく技術向上 さぬきうどんの品評会

 県民は1日1回は口にしないと落ち着かないという「さぬきうどん」。その第2回品評会(県、県製麺組合連合会主催)が16日、高松市番町の県総合会館で開かれた。製造の合理化が進むにつれ、ややもすれば伝統の味に低下傾向がみられるため、品質の向上と消費の拡大を図るのがねらいだが、過酸化水素による汚名の返上も目指している。

 県内の製造業者で”玉売り”を主とする業者が出品対象者で、この日はゆでめん八87点、真空包装めん7点の計94点が出品された。審査員は、食品評論家の山田竹系さん、料理学校長の北川保夫さん、消費者代表の織田雅子さんら16人。業者名がわからないように紙ザラに盛られたうどんを、ながめたり、つまんだり、口に入れて、つやや腰、形、塩味、風味などを審査した。審査は三次にわたって行われ、農林水産大臣賞、知事賞など33点の入賞が決まった。今年は、
①全般的に技術の向上のあとがうかがえ、品質がすぐれていた。
②光沢のよいものがそろっていた。
③特に上位入賞のものは粘り、弾力性、硬さ、風味など、さぬきうどんの特質を備えていた。
のが特徴。23日に表彰式と記念講演会、栗林公園内で無料接待が行われる。

 入賞者は次の通り。(敬称略)
●農林水産大臣賞……………桑原毅(高松市)
●食糧庁長官賞………………久保義明(高松市)
●中四国農政局賞……………道久正男(詫間町)
●知事賞………………………鳥塚晴見(高松市)、吉本和生(大内町)
●全国製麺協組連合会長賞…丸山巧(高松市)、香川豊(善通寺市)
●県農林部長賞………………田村定美(綾南町)、香川豊(善通寺市)
●県食品産業協議会会長賞…丸川精一(高松市)、飯間静男(高松市)
●県食品加工技術研究会賞…坪井文雄(庵治町)、植田信義(高松市)
●県製麺組合連合会長賞……入谷操(長尾町)、三好清(坂出市)、中村要(高松市)、牟礼武夫(志度町)、彦江久義(坂出市)、香川政明(坂出市)、丸木満(白鳥町)、古川正則(高松市)、中原伊八(高松市)、古市豊三郎(三木町)、位野木峰夫(琴平町)、谷本紀美夫(高松市)、■野武(香川町)吉本仁子(香川町)、大谷武雄(高松市)、成本在慶(琴平町)、前場豊(綾歌町)、飯島只芳(高松市)、秋山繁(琴平町)、上原一(坂出市)

 昭和55年(1980)の製麺所の“大将”たちの名前がズラリ。のちの讃岐うどん巡りブームを牽引した「久保」「道久製麺所」「丸山」「田村」「入谷」「日の出製麺所」「彦江」「まえば」…等々の“手打ち名人”大将の名前も見えます。

県が「笑点」とコラボした観光ポスターを制作

 県が「うどん」をメインテーマにした観光ポスターを作りました。コラボしたのはお笑い番組の「笑点」です。

(4月17日)

さぬきうどんの名声ばん回 県が観光PRポスターを作成、近く全国の国鉄主要駅へ掲示

 県では過酸化水素騒ぎでイメージダウンした「さぬきうどん」の名声をばん回するため、このほど観光ポスターを作成。近く全国の国鉄主要駅などに掲示、味覚による観光客の誘致に努める。ポスターはB全判(縦103センチ、横72.8センチ)4枚1組というスーパーワイドで、テレビの人気番組「笑点」の舞台を再現したもの。桂歌丸ら人気タレントを起用し、「さぬきうどん」と県内観光地をナゾ解き構成している。県観光課が企画、電通高松支局が制作したもので、今月末までに3000組(1万2000枚)を全国にはり出す。制作費は1500万円。なお、県下の製麺業者で希望があれば実費で譲ることにしている。

S55年・笑点・観光ポスター

 若き日の桂歌丸さんや林家木久蔵さん、林家こん平さんたちが並んで、「さぬきとかけて○○ととく、その心は、○○」というコピーがいくつかついています。記事に「ナゾ解き」とありますが、「なぞかけ」ですね(笑)。

「物産展」の記事は3本

 この年の「物産展」の紹介記事は3本。内容はこれまでと大体同じなので、項目だけを並べておきます。

●1月17日~「四国の観光と物産展」/福島市・中合デパート
●2月14日~「全国の特産品と観光展」/大阪天満橋・松坂屋
●2月15日~「四国の観光と物産展」/東京新宿・小田急百貨店

 1月と2月の「四国の観光と物産展」はいずれも「四国4県物産斡旋協会」の主催とありました。協会、大忙しです。そして、どの記事にも「讃岐うどんが大人気」と書かれていました。昭和40年代から50年代にかけての「讃岐うどんを打ち出した物産展」ラッシュは開催地の大半が東京と大阪なので(「昭和54年」参照)全国的な讃岐うどんPRキャンペーンとは言えませんが、開催地の人たちには「香川の名産は讃岐うどん」という認識を確実に高めていったと思います。

「うどんの慰問」と「うどん教室」の記事も合わせて3本

 続いて、この年も「うどんの慰問」と「うどん教室」の記事が3本ありました。

●9月15日…琴平ロータリークラブの社会奉仕委員会が、「琴平老人の家」と満濃町長尾の老人ホーム「満濃荘」をプレゼントや手打ちうどんで慰問。
●9月24日…善通寺市のボランティアグループ「たけのこ会」が、善通寺市民会館の料理実習室に老人ホーム「五岳荘」のお年寄り22人を招いて、手打ちうどんをプレゼント。
●12月29日…琴南町の「ふる里教室」が、造田集会場と町総合センターの2会場に西小学校の児童20人を招いて、地元のお年寄り5人を講師に手打ちうどん作りを指導。

豊浜町の「干しうどん」

 記事の最後は、豊浜町の乾麺作りの話題。

(12月21日)

生産に大わらわ、伝統守り乾めんづくり(豊浜町) 

 小豆島の手延べそうめんに代表される讃岐の乾麺(めん)だが、豊浜町でも古くから乾麺づくりが盛んで、今でも”伝統の味”を守りながら年末年始の需要にこたえている。広い乾燥場に運び込まれた干しうどんは、幾重にもすだれ模様を描きながら一昼夜かけてじっかり乾燥、讃岐干しうどんとして出荷される。町内の製麺業は明治の終わりから大正にかけて始まったもので、現在、4軒の業者が干しうどんや冷やむぎ、そうめんなどの生産を続けている。元来、乾麺などの需要は夏場が中心だったが、最近では歳暮など年末から年始にかけての需要が伸びたこともあって、生産ピークも年2回を数えるようになった。出荷先は主として中・四国方面で、生麺よりもコシがあると評判も上々。…(以下略)

 明治の終わりから大正にかけて始まったらしい豊浜町の製麺業は、昭和55年当時は干しうどん、冷や麦、そうめんなどの乾麺を生産していたとのことです。

うどん関連広告は依然として好調に推移

 昭和55年の四国新聞で見つかったうどん関連広告は83本。そのうち、オープン広告は4本で、昭和50年代に入ってここまでずっと好調に推移しています。広告のラインナップは以下の通り。昭和49年以来6年ぶりに「かな泉」が広告本数トップに返り咲きました。

<県内うどん店>

(11本)…「かな泉」(高松市大工町本店他)
(8本)…「さぬきうどん」(高松市栗林公園前他)
(6本)…「川福」(高松市ライオン通) 5月30日ワシントン地下街店オープン
(3本)…「いずみや」(高松市トキワ街ダイエー地下)
     「番丁」(高松市県庁西門前本店・天神前店・西宝町店)
     「丸川製麺」(高松市中新町)
(2本)…「更科」(高松市ライオン通)
     「久保製麺」(高松市番町)
     「さぬき一番」(高松市南新町) 12/13引田店オープン
     「さぬき麵業」(高松市松並町) 9/18ジャスコ栗林店内オープン
(1本)…「山鹿」(高松市内町)
     「大吉うどん」(高松市瓦町)
     「井筒製麺所」(高松市西の丸町)
     「松下製麺所」(高松市中野町)
     「すゑひろ」(高松市中野町)
     「出晴」(高松市塩上町)
     「桃山饂飩」(高松市勅使町)
     「なみき」(高松市香西東町)
     「わら家」(高松市屋島中町)
     「なかむら」(高松市太田上町)
     「花車」(高松市元山町)
     「やしろ」(坂出市・丸亀市)
     「七宝亭南店」(観音寺市) 4月29日オープン
     「長田うどん」(満濃町)
     「うどん亭讃岐」(豊浜町)
     「権平うどん」(白鳥町)

<県外うどん店>

(2本)…「川福」(大阪市南区・キタ・道頓堀・仙台)
(1本)…「松野たらいうどん」(徳島県土成町)
     「玉藻」(東京都新橋)

<県内製麺会社>

(2本)…「井筒屋」(引田町)
(1本)…「天野製麺所」(高松市木太町)

<県内製粉会社>

(3本)…「日清製粉」(東京本社・坂出工場)
(2本)…「高畑精麦」(善通寺市)
(1本)…「吉原食糧」(坂出市)
     「日讃製粉」(多度津町)

<その他うどん業界>

(4本)…「さぬき麺機」(高瀬町)
(1本)…「鎌田醤油」(坂出市)
     「斉藤機械」(豊中町)
     「香川県製麺組合連合会」
     「香川県製麺協同組合」
     「さぬき製麺事業協同組合」
     「香川県包装麺事業協同組合」
     「さぬきうどん音頭」

S55年広告・さぬきうどん音頭

(昭和56年に続く)

  • TAGS: 
  • 関連URL: 

ページTOPへ