大きな話題はないけれど、うどん店の広告本数は過去最多。業界はそれなりに順調のようです
昭和52年の四国新聞に載っていたうどん関連記事は、「県観光協会が『こんぴらうどんの会』の協力で東京の亀戸天満宮で献麺式とうどん1000食の振る舞いをした(2月8日)」とか「白鳥町の湊川沿いの“桟敷のたらいうどん”が例年より1カ月早く店開きをした(5月25日)」といった、項目も内容も前年のコピペみたいな記事で始まり、その他も特に大きな話題は見当たりませんでした。一方、うどん店やうどん関連企業の広告(多くが協賛広告)は、うどん業界の景気がいいのか広告の営業マンが頑張ったのか(笑)、過去最多の94本もあり、昭和40年代終盤から続く業界の勢いはまだ衰えていません。では、数少ない「うどん関連記事」を時系列に沿って、小ネタ混じりで拾ってみましょう。
「わら家」で冷たい「たらいうどん」?!
涼を求め”たらいうどん”(高松)
今年の梅雨は男性型。“梅雨入り”初日は終日うっとおしい雨に見舞われたが、9日は打って変わった快晴。気温も25.6度(正午現在)まで上昇。カラッとした青空が広がった。高松市屋島のふもとにあるうどん店では、暑さにまいった観光客が次々と店へ逃げ込み、よしずの下で”たらいうどん”に涼を求めるいつもながらの風景が見られた。近くに咲くアヤメも今が見ごろ。”降ってよし、晴れてよし”の紫は、目にもさやか。高松地方気象台の話では、今年の梅雨は雨の日と晴れの日が比較的はっきりしており、10日ごろから再びぐずついた天気になるとのこと。世の奥さん方にとっては、洗たく物の出し入れに頭が痛いシーズンとなりそうだ。
何の変哲もない「梅雨の合間の晴れ模様」の記事の中に、「高松市屋島のふもとにあるうどん店」が出てきました。場所や状況から推測すると、おそらく「わら家」ではないかと思われますが、もしそうだとすると「たらいうどんに涼を求める」とありますから、わら家が「たらいに入った冷たいうどん」を出していたということになります。1990~2000年代の「釜あげうどん専門店」のわら家全盛期のイメージからすると、ちょっと違和感もありますが、どうなんでしょう。
ちなみに、「たらいうどん」の本家と言われる徳島県土成町の「たらいうどん」は今、「釜あげ麺をゆで汁と一緒にたらいに取って、つけダシで食べる」と説明されていて、釜から取って水で締めていない「釜あげ麺」を使うのが定義になっていると思われます。実際、筆者も数年前にテレビで名のある「たらいうどん」の店主が「徳島のたらいうどんは釜あげ麺だが、香川の讃岐うどんは水で締めた麺を使う」と説明をされているのを見たことがあります(香川の「釜あげうどん」を知らないのか無視しているのか・笑)。
しかし、この「高松市屋島のふもとにあるうどん店」の「たらいうどん」は、釜あげ麺ではなく水で締めた「冷たい麺」(今で言う讃岐の「冷やしうどん」)であることは間違いありません。また、これまで何度も「夏の風物詩」として新聞記事に出てきた「白鳥町の湊川沿いの“桟敷のたらいうどん”」もおそらく水締め麺を使った「冷やしうどん」だと思われます。そして、白鳥のたらいうどんは昭和42年の新聞記事に「夏になると、ここ(白鳥)から奥の徳島県側に以前からタライうどんの店が出るが、遠いのが難点だった。しかし、ここ(白鳥)は国道からも比較的近いので…」という記述があったように、徳島のたらいうどんに倣ったものだと思われる…ということは、徳島のたらいうどんも当時は水で締めた冷たい麺だったのではないか? …という疑問が出てきました(「冷たい釜あげ麺」という謎の麺だったのかもしれませんが・笑)。
ついに県内のうどん店数が「4000軒」に(笑)
続いて、8月30日の広告特集の中に「うどんコラム」が掲載され、そこにうどんの小ネタがたくさん入っていました。
広告特集のコラム
三木武吉翁は高松中学時代、夜泣きうどんの屋台をひっくり返して退校、菊池寛は食い逃げの名人…讃岐人のいかにもうどん好きを物語るエピソードである。「ねり加減、湯がき加減、打ち加減」と言われるが、何よりも塩加減ひとつ。俗に「土三寒六」という。夏の土用は水3杯、冬の寒中は水6杯を、塩1杯に対して入れる。粉をこね、ゴザに巻いて足で踏む。踏めば踏むほど麩(ふ)がつながる。シコシコと腰の強い讃岐のお家芸「手打ちうどん」がこうしてできあがる。
うどん王国だけあって、県内のうどん屋さんは、ざっと4000軒、卸しも370軒ある。喫茶店でも売っているとあって、県外客は目をぱちくり。その食べ方や入れる具についても、なかなかにうるさい。「うどんの真髄を味わうには釜あげに限る」とか、「ツユは生じょうゆをもってよしとする」とか、「湯だめの薬味は和がらしで、ふりかけるのは黒ゴマがオーソドックス」…といったあんばいだ。讃岐に生まれ、讃岐で育った者にとって、うどんこそが土着の文化とっても過言であるまい。
香川県内のうどん店の数は、ついに4000軒に達しました(笑)。広告特集内のコラムなので、おそらく新聞社か広告代理店の依頼を受けたコピーライターが書いた文章だと思われますが、書き手も読み手も誰も店の数をちゃんと調べないのでどこからもチェックが入ることなく、伝聞情報がどんどんエスカレートしながら広がっていきます。いずれ「さすがにそれはないやろ」という数字の手前で止まると思いますが(もう「それはないやろ」に近いですが・笑)、とりあえずどこまで行くのか見届けたいと思います。
その他の小ネタでは、
●「三木武吉と菊池寛のうどんエピソード」がおなじみの「土三寒六」の話が語り継がれています。
●「踏めば踏むほど麩(ふ)がつながる」とあります。「麩」は要するにグルテンのことですから、当時からメディアレベルに「讃岐うどんの麺の善し悪しにグルテンが関係している」という認識があったことがわかります。
●麺の表現は「シコシコ」です。ここへ来て、どうも「シコシコ」が主流になりつつあるという印象です。
●「うどんの真髄を味わうには釜あげに限る」とあります。「讃岐うどんの真髄(?)」については、これまで「讃岐うどんは湯だめに限る」という話が何度も出てきましたが、昭和50年代には「釜あげうどん」がその地位に台頭してきていたことがわかります。のちの「釜あげうどん専門店」の東西の雄、「わら家」と「長田」は、もちろんすでに絶賛営業中です。
●「湯だめの薬味は和がらしで…」という話が再び出てきました。「うどんのつけダシにカラシ」という話は、昭和38年の加藤增夫さん(1895年生まれの郷土の歌人)のコラムが初出ですが(「昭和38年」参照)、昭和52年のここにも「そう言ってはばからない“うどん通”がいる」という文脈で出てきたということは、これは讃岐うどんのかつての常識だったと言えるかもしれません。「湯だめのつけダシはカラシ」という食べ方は今はほとんど消えかかっていますが、復活させるべき讃岐うどん文化かもしれません。
国鉄箕浦駅構内に「かな泉」が出店
予讃線の箕浦駅(豊浜町)構内に「かな泉」が出店しました。
遊休地利用し、無人の国鉄予讃線箕浦駅構内にうどんの店 弘済会、業者とタイアップ
対象はドライバー 売り上げ年間4000万円見込む
愛媛県との県境・豊浜町箕浦の国鉄予讃線箕浦駅(無人)構内の約850平方メートルが、7日午前10時オープンした。国鉄利用客の”国鉄離れ”と不況で売り上げが低迷する鉄道弘済会とうどん業者がタイアップする話が持ち上がった。この話が”国鉄商魂”をいたく刺激して早々と開店の運びとなった。この手打ちうどん店の営業は、鉄道弘済会四国支部(五十嵐明正支部長)と讃岐うどんの「かな泉」(泉川隆亮代表取締役・高松市)がタイアップ、それぞれ2000万円を出資してオープンしたもの。年間売上はざっと約4000万円を見込んでいる。営業は「かな泉」が行い、敷地、店舗などの管理は鉄道弘済会が担当する。
同駅は国鉄の営業近代化に伴って46年11月から無人駅となり、1日の乗降客はわずか200人。従って、構内営業といっても国鉄利用者を対象にしたものから営業方針をガラリと一変させ、同駅と並行して走る国道11号線を利用するマイカー、トラック運転手などの主な利用を見込んでおり、駐車場も30台が収容できる。当初は24時間営業でスタートするが、午前2時から4時までは通行量がぐんと減ることが予想されるため、客の入り具合によってはこの時間は休むことも考えている。
いずれにしても、構内に遊休地を抱えている国鉄無人駅の一つの方向を打ち出すモデルケースとして、全国的にも注目を集めてのスタートだけに、泉川社長も「当店の全力を挙げて営業に当たる」と、付きっ切りの熱の入れようだ。同店のおすすめ品はザルうどん、釜(かま)上げうどん各250円とお値段の方もお手ごろ。また本格うどんすきは1500円となっている。
うどん店のオープンが広告でなくて記事になるのは珍しいのですが、国鉄とのタイアップということですから、“国鉄関連のニュース”という扱いで載ったようです。箕浦はすでに無人駅になっていて利用客も少ないため、国鉄が遊休地を利用して「ちょっとでも収入を」という目論見で「かな泉」とのタイアップ出店になりました。「かな泉箕浦店」は駅より立派な(笑)フルサービスのうどん店でしたが、2003年に閉店し、その後、同じ場所に「上戸」がオープンしました。
「漂白小麦粉」の終焉
続いて、小麦粉に関するニュースが2本。まずは、「白い粉で作った白い麺のうどん」へのニーズの高まりから生まれた「漂白小麦粉」が、ついに全面的に姿を消すことになったようです。
姿消す漂白小麦粉 製粉業者のカルテル認可(公取委)
食品の安全上問題があるとして消費者団体などからクレームがつけられていた「漂白小麦粉」が、年内にも全面的に姿を消すことになった。これは製粉業者から申請の出ていた漂白小麦粉の生産調整合理化カルテルを公正取引委員会(橋口収委員長)が31日、認可したのに伴うもので、突然変異や染色体異常を引き起こす疑いがあると指摘されている漂白剤の使用を製粉業者が自主的に自粛する形となる。…(中略)…
小麦粉は通常、真っ白に製粉されたものほど高級品とされ、値段も高く売られている。このため、製粉の途中で表皮などが混じってやや黄色がかったものも漂白剤で漂白するという処理が大正時代から行われてきた。最近でも年産約400万トンの小麦粉のうち約60%が漂白され、食パンなどでは約90%、めん類でもほぼ半分近くのものにこの漂白小麦粉が使われている。(以下略)
この頃、国産小麦の約6割が漂白されていたそうですが、麺類も「半分近くに漂白小麦粉が使われている」とのことです。これが「年内にも全面的に姿を消すことになった」ということは、その結果「讃岐うどん界に漂白していない“色のついた麺”が増えた」か、あるいは「色の白い外国産小麦の比率がいっぺんに上がった」か、いずれにしろ突然、讃岐うどんの麺に何かが起こったのではないかと思われます。
農林省の「パンやうどんに米の粉を入れよう」との要請に製麺組合が猛反発
次に、国から「うどん用小麦粉に米粉を入れよう」という信じられない要請があったそうです。
「製品の味落とす」、高まる米粉混入反対運動 県下パン、うどん
「パンやうどんに米の粉を入れよう」との農林省の要請に対して、製めん、製パンの小麦粉関連業界から強く反対する声があがり、各地で反対運動が起こっている。県下でも県製麺組合連合会(大川優会長、300業者)を中心にこの反対運動に呼応、「小麦粉への米粉混入反対運動」に関する請願のための署名を集めるなど、反対運動はにわかに活発化している。全国に名高い讃岐うどんの根幹を揺るがし、その経営を左右するものだけに、運動の輪はさらに広がる様相を見せている。
県製麺組合連合会によると、米粉は粉砕段階でうどん粉のように粒子が小さくならない。そのために米粉を小麦粉と混ぜると粉のデン粉の”のり化”に差異が生じ、製品の中に硬い部分と軟らかい部分とができ、うどんのこしが弱くなってうどんの味が落ちる。また、米の方が老化が早く、腐敗しやすいという。さらに、現在の小麦粉価格1俵(25キロ)約2900円に対し、米粉を混ぜると原価で300円余りの割高となり、うどん1玉当たりに直接影響するなど消費者の減退は必至だという。
特に同連合会が重視しているのは、今年4月に行われた公取委の公正競争規約改正に伴う名称問題。それによると、県下で「本場」「名産」「特産」という名称が使用できるのはサヌキだけの伝統製法で作られている讃岐うどんだけ。しかし、米粉混入が実施されると、そのおいしさのゆえんであるすすりやすさ、こしの強さが失われ、有名無実の讃岐うどんになると憂慮している。県連合会では今月中旬、東京で開かれる全国製めん業者の決起大会に代表者を送るなど、今後全国の製めん業者と足並みをそろえ、より強い態度で「小麦粉への米混入反対」の運動を展開していく方針という。
昭和40年代後半頃から日本人の食の欧米化とコメの生産性の向上が相まって「コメ余り」が始まり、昭和50年代に入ると、ついに「古米、古古米、古古古米」と言われるほどの「何年も前の米」が倉庫にあふれてしまいました。従って、「うどん用小麦粉に米粉を入れよう」という要請は、国の「コメ余り対策」の一環だと思われます。製麺業界の反対で「米粉入りのうどん」は実現しなかったようですが、もし作ってたら、「ビーフン」か「フォー」にちょっと寄ったみたいな麺が出現してたかもしれません。
その他、「栗林公園で「観光と物産まつり」が開催され、会場で「さぬき手打うどん」の販売が人気を呼んだ(11月4日)」「志度町で志度地区交通安全協会の方々が歳末特別警戒中の警察官を慰問訪問して、温かいうどんを提供した」といった“微ネタ”が見つかりましたが、この年のうどん関連記事はそれくらいでした。では最後に、うどん関連の広告を見てみましょう。
うどん店の広告は過去最多の94本!
冒頭にも触れた通り、昭和52年の四国新聞に載っていたうどん関連の広告は94本を数え、昭和50年の85本、51年の62本を超えて過去最多を記録しました。内訳は以下の通りです。
<県内うどん店>
(8本)…「さぬきうどん」(高松市栗林公園前、他)
(6本)…「いずみや」(高松市トキワ街ダイエー地下・味の町)
「番丁」(高松市県庁裏門前、西宝町店)
(5本)…「どんとん」(高松市瓦町)
(4本)…「久保製麺」(高松市番町)
(3本)…「源内」(志度店、郷東店)
「さぬき麺業」(高松市松並町)
(2本)…「かな泉」(高松市紺屋町、他)
「源芳」(高松市番町)
「寿」(高松市屋島西町)
「米八うどん」(高松市田町)
「源家」(高松市春日町)
「ゆたか」(高松市)
「わら家」(屋島店、丸亀店)
「やしろ」(丸亀店・坂出店)
(1本)…「井筒」(高松市西の丸町)
「讃岐平野」(高松市田町)
「更科」(高松市ライオン通)
「白樺」(高松市番町)
「すゑひろ」(高松市中野町)
「羽島」(高松市片原町)
「花車」(高松市元山町)
「松下製麺所」(高松市中野町)
「森製麺所」(高松市番町)
「山鹿」(高松市内町)
「わたや製麺所」(高松市観光通)
「味の里」(大内町)
「八十八庵」(長尾町)
「トミタ」(香南町)
「ドライブイン橋元」(坂出市)
「さぬき庵」(坂出市)
「いごっそう」(丸亀市)
「さぬきや」(丸亀市)
「亀山」(丸亀市)
「讃州屋」(善通寺市)
「おおもん」(善通寺市)
「長田うどん」(満濃町)
<県外うどん店>
(3本)…「松野たらいうどん」(徳島県土成町)
(1本)…「御所温泉」(徳島県土成町)
「玉藻」(東京都新橋)
<県内うどん業界>
(4本)…「さぬき麺機」(高瀬町)
(3本)…「斉藤機械」(豊中町)
(2本)…「下河食品研究所」(高松市鬼無町)
「麺房日根」(志度町)
(1本)…「香川県包装麺協同組合」
「日清製粉坂出工場」(坂出市)
「民サ麵業」(高松市勅使町)
「合田照一商店」(豊浜町)
「古川食品」(高松市川島東町)
この中から、ジャンル別にいくつかピックアップしてみましょう。
うどん店のオープン広告も過去最多の13本!
まず、うどん店のオープン広告を時系列に沿って並べてみます。昭和52年は、昭和50年の3本、51年の7本を大きく上回る13本も載っていました。
●3月13日オープン…「花車」(高松市元山町)
●8月11日オープン…「米八うどん」(高松市田町)
●9月3日オープン…「さぬき麺業・小山店」(高松市勅使町)
●9月28日オープン…「わら家・丸亀店」(丸亀市昭和町)
●10月7日オープン…「番丁・天神前店」(高松市天神前)
●10月10日オープン…「どんとん」(高松市瓦町)
●10月18日オープン…「白樺・中央店」(高松市番町)
●10月23日オープン…「讃岐平野」(高松市田町)
●11月30日オープン…「寿本店」(高松市屋島西町)
●12月17日オープン…「うどん源家」(高松市春日町)
●12月17日オープン…「源内・郷東店」(高松市郷東町)
●12月19日オープン…「井筒屋」(高松市西の丸町)
●12月末オープン…「さぬき庵」(坂出市元町)
上半期は「花車」の1本だけでしたが、下半期の9月以降に11軒ものオープン広告が載っていました。また、広告は出していないものの、この年には「かな泉」が箕浦店と松山店をオープンし、「番丁」も西宝町店が増え、「さぬきうどん」も名古屋店をオープンするなど、讃岐うどん界はどうも空前の開店ラッシュ期を迎えているようです。
ちなみに、「坂出駅前に12月末オープン」とある「さぬき庵」は、全国にキャバレーを展開する「ハワイ」グループが新たに「東京を中心に100店舗のさぬきうどんチェーンを展開する」にあたってその第一弾としてオープンする店だそうです。残念ながら「さぬき庵チェーン」はその後、一大グループに成長するには至らなかったようですが(讃岐うどんブームがあと20年ぐらい早ければ今頃…笑)、もしかすると、これが「讃岐うどんの多店舗チェーン展開」というビジネスモデルの草分けかもしれません。
あと、10月18日オープンの「白樺・中央店」は、広告内に小さく「coffee salon」とありますから、おそらく喫茶店だと思われます。喫茶の改装オープン記念の特設メニューが「うどん3種」とは、「喫茶店にもうどんがある」という“讃岐うどんあるある”の面目躍如です(笑)。
いろんなうどんが登場してきた
次に、具体的なうどんのメニューや麺の種類が記載された広告を拾ってみました。
「盆栽うどん」
下河食品研究所(これまで何度か出てきた「下河製粉」の新規部門でしょうか)が、謎の「盆栽うどん」なるものを打ち出してきましたが、詳細は全くわかりません。今は耳にすることがないメニュー(?)ですが、讃岐うどんブームが定着した今、何かの形で再興してはどうでしょう(笑)。
「どじょううどん」
善通寺の「讃州屋」と丸亀の「さぬきや」がキャッチコピーに「どじょううどんの店」を掲げていました。
「いごっそううどん」
丸亀の土佐料理「いごっそう」が「いごっそううどん」なるものを出していました。内容は不明です。
「冷凍生うどん」
10月10日に高松市瓦町にオープンした「うどんの巧・どんとん」が、「冷凍生うどん」を日本で初めて開発したそうです。前出の「どんとん」のオープン広告内にあった「初めて開発された公開特許のうどん」というコピーは、これのことだと思われます。
「手打冷凍うどん」
「さぬきうどん」の広告に「手打冷凍うどん」の表示がありました。「どんとん」の冷凍うどんと合わせて、新聞に「冷凍うどん」が出てきたのはこの年がおそらく初めてです。
「香川県包装麺協同組合」の組合員名がズラリ
前年、綾歌町の「サヌキ食品」が広告で「包装うどんのパイオニア」と打ち出していましたが、この年の正月に「香川県包装麺協同組合」という組織が年賀広告を出していました。その名の通り、包装した麺の商品を扱っている当時の業者の組合だと思います。
「長田うどん」は「琴平」を名乗っていた
最後に小ネタですが、釜あげうどん専門店でおなじみの「長田うどん」の所在地は満濃町ですが、「満濃町」では知名度が低いということなのか(笑)、新聞広告ではこれまでずっと「満濃町」と打たずに「四国琴平」と表記しています。
以上、昭和52年の讃岐うどん界は大きな話題はないものの、うどん店やうどん業者は引き続き活性化の真っ只中にあるようです。