「高松砂漠」の渇水を乗り越えて
昭和48年の夏、香川県は「高松砂漠」と呼ばれる大渇水に見舞われました。特に高松市は大変な状況になって、給水車が出動し、遠く府中湖や満濃池から救援送水が行われ(香川用水が開通したのは翌昭和49年)、高松まつりは中止になるなど、後世に語り継がれるレベルの大災害になってしまいましたが、それでもうどん業界は、いろいろと前に向かって動いています。ではいつものように、新聞に載ったうどん関連記事と広告を吟味していきましょう。
「品質分析」と「うどん自販機」のテクノロジー系の話題を2題
讃岐うどん作りの世界は、元々は家庭や町の製麺所における「原始的で素朴な手作りの時代」から始まったと言えるのですが、昭和40年代中盤あたりからうどん専門店の増加に伴って「職人の手作りの時代」に発展し始め、同時に大手製麺会社を中心として「機械化によるうどん商品の大量生産の時代」も到来しつつありました。そんな動きの中でこの年、微妙にテクノロジー絡み(笑)のうどんの話題が2つ出てきました。
まずは、「うどんの品質を科学する」という話から。昭和45年に「讃岐うどんを産業として発展させるためには、科学的なデータに基づいて製造しなければいけない」と言って讃岐うどんの麺の製法を科学的に分析した多田正敏技師(「昭和45年」参照)の再登場です。ちなみに、多田技師は昭和45年の記事には「県農業試験場主任技師」と書かれていましたが、この年は「県食品工業開発研究所加工部主任技師」となっていました。
讃岐うどんの極意をさぐる(県食品工業開発研究所)/メーカー品は合格取れず 理想にいま一歩 業者、研究資料にソッポも
香川の郷土の味といえば“讃岐うどん”。四国を訪れる観光客なら一度は目にする。最近は外国人までみやげに持ち帰るほど有名になったが、「讃岐うどんの独特の風味とうまさの秘けつは、原料の配合とねり具合の微妙なハーモニー。今のメーカー品はどれも昔の手打ちには今一歩だ」という研究結果が県食品工業開発研究所(高松市仏生山町)でこのほどまとまった。
この研究は、同研究所の多田正敏加工部主任技師が中心になり、“日本一”の評判をとっている讃岐うどんを、もうひとつうまいものにするため、農林省の地域食品点検事業の一環として讃岐うどんの中の「ゆでめん」の品質分析を行なった。この分析は、同時に讃岐うどん本来の“うまさ”を科学的に解明することもねらった。県下にある435製めん業者から15業者のうどんを取り寄せ、ヨーロッパでパンの品質分析に使われる実験機で、塩かげん、水分、伸び具合、腰の強さ、太さ、歯ごたえなど、うどんの持つ大切な特性についてあらゆる角度から検討した。分析されたメーカー品はどれも平均以上の合格点は取れず、理想のうどんに一味足りない。つまり、この研究によると、消費者たちは「まあまあの味」を“これぞ讃岐うどん”と思いこまされていたというわけ。
分析に当たった多田技師は、「集めたうどんは、伸びが良くても歯ごたえが悪かったり、堅くて太過ぎたり、残念ながら合格点はつけられない。結局、うどんのうまさは数値では表現できないが、すべての条件がバランス良く備わったものが一番うまいということでしょう」という。このデータは各業者に示され、名実ともに“うどん日本一”を目指す資料に提供される。この分析について高松市内の製めん業者は、「うどんづくりはカンと熟練が必要。研究データを基にうどんをつくっても、果たしてお客さんに喜んでもらえるのかねえー」と半信半疑。現代の機械づくりのものは、伝統の手打ちうどんにはどうしてもかなわないということか。農林省では将来このような地域の特別食品で優良品と認められれば、ある一定のランクを設け「JAS」に準ずるマークをつけて、消費者の便宜を図る方針で、県下ではうどんなど10品種が対象になっている。
この年、香川県内に製麺業者が435もあったそうですが、そこから15業者の「ゆでめん」の品質を抜き打ち調査した結果、すべてにおいて「歯ごたえが悪い」「固すぎる」「太すぎる」等の理由で「不合格」の判定となったそうです。多田技師率いる研究チームは、昭和45年に科学的分析で、
●食塩は8%程度で、粉をねった後、3時間熟成(寝かし)させること。この熟成が粘りを出すポイントになる。これ以上時間をかけても無意味。
というデータを示し、
●「手打ちうどん」は「機械打ちうどん」に比べてタンパク質(グルテン)が交錯し水分の量が多い。
●食塩は「機械打ちうどん」の場合4%程度だが、「手打ちうどん」は6%で、粘弾性に富んで美味の要因となっている。
というデータを加えて、「カンと口伝えだけで製造されている“讃岐うどん”が科学的データに近い」と結論づけていました(「昭和45年」参照)。そこで今回の分析ですが、記事には「15の製麺業者」とあるだけで、この分析が「手打ち」と「機械打ち」の比較かどうかが明確ではありません。高松市内の製麺業者の「うどんづくりはカンと熟練が必要。研究データを基にうどんをつくっても、果たしてお客さんに喜んでもらえるのかねえー」というコメントからすると、435の製麺業者の中に「手打ち業者」と「機械打ち業者」が混在していると思われる…つまり、この記事は厳密に言えば「比較のポイントが整理できていない」と言わざるを得ないのですが、堅いことを言わずに情緒的に読めば、
●大量生産の機械打ちうどんを出している「メーカー品」は、科学的分析による「理想のうどん」には不合格である。
という結論だと思われます。この分析について、新聞は「消費者は“まあまあの味”を“これぞ讃岐うどん”と思いこまされていたというわけ」と、メーカー品に対して少々暴走気味の辛辣なコメントを加えていますが(笑)、「大手」に対するこういう物言いはいつの世もマスコミのお得意技。また、高松市内の製麺業者の「科学データよりカンと熟練が必要」というコメントも、職人技の世界ならいつの世にもある「頑固な職人の抵抗(笑)」です。しかしいずれにしろ、昭和40年代にはすでに「うまいうどん作り」に対する探究心があちこちで芽生えていたことは確かで、これが時を経て「カンと熟練」と「科学」が融合して今日の讃岐うどんの麺の高いクオリティにつながってきたと言えます。
ちなみに、「理想のうどんの食塩は8%、手打ちうどんの食塩は6%、機械打ちの食塩は4%」という数字が出ていますが、うどん職人の方に聞くと「この数字は塩分濃度としてもボーメ度としても低すぎる」とのことで、これが何の数字なのかはちょっと謎です。
続いて、「うどんの自動販売機」が登場しました。
27秒ですべてOK さぬきうどんに新兵器 ブーム呼ぶ「めん類自動調理販売機」
うどんの本場香川へ、関西から“うどんの新兵器”が逆上陸してきた。川崎製鉄計量器部で開発された「めん類自動調理販売機」というのがそれで、鉄鋼業界をリードしてきた川鉄の技術の最高水準をゆく計量器部門が2年余をかけて作り上げた自販機の新種である。生なうどんの味を27秒で自動調理し、1日24時間、いつでも人手をかけずに熱いうちに味わってもらおうというもので、昨年10月に発表されてからテレビなどでも紹介され、いま全国的に大きな反響を呼びつつある。
香川でもこのほど高松市の国際ホテルで展示試食会が開かれ、この新兵器が公開されたが、町のうどん屋さんをはじめ、深夜操業の会社、工場から、モーテル、ドライブイン、スナック、軽食堂経営者などが次々に見に来、インスタント食品では味わえない手作りの本物の味の良さに驚いていたという。また、調理に人手がかからず、その上5度から95度までの冷熱二段階で処理され、きわめて衛生的なのも好評だったようで、見に来たほとんどの人はその場で設置を申し込んでいる。…(中略)…香川では丸亀市の丸中商事の手で、もう川鉄のうどん自販機が町のうどん屋やスナックに備えられ始めている。…(以下略)
「うどん自販機」の発祥はうどんの本場香川ではなく、県外からの逆輸入でした。前年(昭和46年)10月に発表されて以来、全国の各地の施設等で設置され始めていたようですが、昭和48年についに香川にも進出。丸亀市を皮切りに、記事掲載の3週間後には津田町でも設置した方がおられます。
けっこう売れる自販機のうどん
たばこ、酒、コーラと最近は自動販売機ばやりだが、ついにうどんの自動販売機が津田町内に出現した。24時間営業とあって売れ行きは上々のようだ。この自販機を置いたのは津田町津田、会社員○○○○○さん(33)。同販売機は左半分が冷蔵庫になっており、発ぽうスチロールにうどん玉と具を入れて、80食分を入れることができ、右側が湯わかし、だしを入れる部分になっている。金を入れるとうどんを温め、だしを入れて27秒で出てくる仕組み。今のところきつねうどんだけを販売しているが、昼間よりも午後9時から午前3時ごろまでの夜間に定期便の運転手、深夜族などがよく利用、平日で60食が、土、日曜ともなると100食ほどが売れているそうだ。これからは釣りシーズンも本格化し、早朝、夜釣りの人たちにも受けそうだ。料金は100円だが、味もよく、県下のトップを切って設置した○○さんは「けっこう売れてます」といっている。
これと同じものだったかどうかは定かではありませんが、筆者は昭和50年台の前半頃、高松のジャンボフェリー乗り場の待合室で「自販機のうどん」を食べたことがあります。お金を入れると自販機のランプがだんだん下に降りてきて、30秒ぐらいで一番下の取り出し口から発泡スチロールに入った熱々のきつねうどんが出てきて、麺はそうでもなかったけどダシが結構うまかったのを覚えています。うどんの自販機は今でも置いている施設がいくつもありますが、とりあえず新聞記事を信用して「香川に出現したのは昭和48年」としておきましょう。
「讃岐うどん・空海説」が出てきた!
続いて、金刀比羅宮で「こんぴらうどん奉献式」が行われたというニュースですが、記事中に注目すべき表記がいくつか出てきました。
かみしも姿で実演 金刀比羅宮 「こんぴらうどん」奉献式
金刀比羅宮で2日午前11時から「こんぴらうどん奉献式」が行われた。琴平町内の「こんぴらうどんの会」(小河仲太郎会長)が奉献したもので、式のあと、本殿横の絵馬堂でこんぴらうどん作りの実演をして、出来上がったうどんを参拝者に接待したり、早食い競争をした。
讃岐の手打ちうどんの始まりは弘法大師が唐から秘法を持ち帰り教えたものと伝えられている。金毘羅大権現の信仰が盛んとなった天正年間(1573年)の参拝者が多くなった頃「手打ちうどんを…」とサービスに努めたとされており、この時代からうどんが作り続けられてきたことになる。最近は全国的に讃岐うどんの名が高まり、発祥の地といわれる琴平町の「こんぴらうどん」をますます盛んにしようと昨年7月2日、町内の位野木峯夫さんの発起で「こんぴらうどんの会」を結成、奉献式を始めた。当時は会員が5人だったが、現在では10人に増えている。
式は午前11時から本殿で行われ、小河会長らが白装束にかみしも姿でかごに材料を入れ、「手打ちこんぴらうどん」ののぼりを立て、行列を作って石段を登った。さっそくうどんを作り、神前に供えて商売繁盛を祈願、八少女舞を奉納した後、絵馬堂前で実演をし、出来上がったうどん玉1000個を参拝者にサービスした。アトラクションとして早食い競争を行ったが、観光客たちは接待に舌つづみをうっていた。
まずは何と言っても「讃岐の手打ちうどんの始まりは弘法大師が唐から秘法を持ち帰り教えたものと伝えられている」の一文!
讃岐うどんの発祥に関する説は、昭和44年に山田竹系さんが著書『随筆うどん・そば』の中で「うどんは奈良朝時代に中国から伝わった唐菓子の一種である」と書かれ、翌昭和45年には佐々木正夫先生も四国新聞への寄稿文中に「うどんの歴史は古い。遠く奈良時代に中国から渡来した唐団子だといわれ…」と書かれていたように、当初は「奈良時代に中国から伝わった」という説が通説となっていました。ところが、今日ではそれが「空海が中国からうどんの原型を持ち帰った」という話になっていて(しかも空海は平安時代の人物だから、「奈良時代に伝来説」は否定されています)、一体どこで空海説が出てきたのかが謎だったのですが、こんなにあっさりと、しかも何の注釈も解説もなくシレッと出てきました(笑)。
しかし、この出方はいかんでしょう(笑)。筆者が編集長なら「竹系さんや佐々木先生の書かれている話と違うじゃないか。ちゃんと調べて書け」と言って原稿を差し戻すところですが、載っちゃったからしょうがない。いずれにしろ、「讃岐うどんの発祥・空海持ち帰り説」の新聞初出はこれです。でも、説の根拠は全く示されていませんので、誰がどう言い始めたかは未だ謎です。
次に、「最近は全国的に讃岐うどんの名が高まり、発祥の地といわれる琴平町の「こんぴらうどん」をますます盛んにしようと…」とあるように、ここでもまだ“讃岐うどん発祥の地”は「琴平町」であり、旧綾南町(現綾川町)の名前は全く出てきません。
そしてもう一つ、その「こんぴらうどん」を金刀比羅宮に奉納する「奉献式」が2回目の開催となりました。この式は「手打ちこんぴらうどんの会」の面々が白装束に裃姿で材料を入れたカゴを持って金刀比羅宮の本殿に上り、そこでうどんを作り、神前に捧げて今年の豊作を祈願し、八少女舞を奉納するという本格的なもの(「昭和47年」参照)。今でこそ、うどんの奉納は中野天満宮(高松市)や総本山善通寺の「献麺式」、金刀比羅宮の「三麺献麺式(出雲大社と奈良県の大神神社の持ち回り)等で行われていますが、「うどんを神社に奉納する」という行事は、おそらくこの「手打ちこんぴらうどんの会主催のこんぴらうどん奉献式」が最初です。
PRイベントの記事は2本
この年の物産関連イベントで記事になっていたのは2本だけ。いつもの「四国の観光と物産展」のレポートは行われなかったのか記事に扱われなかっただけなのか、載っていませんでした。
諸国名産麺類まつり
東京・銀座の松坂屋地階食料品売り場でこのほど、讃岐うどんなど麺類ばかり45点を集めて開かれた。実演販売したのは讃岐うどんだけで、他は乾麺類。主なところは、きしめん(名古屋)、温麺(宮城)、信州そば(長野)、播州そうめん(兵庫)、かまあげうどん(岡山)、三輪そうめん(奈良)、出雲そば(島根)などが出品され、讃岐うどんがうまさでは群を抜いていた。
まず、銀座・松坂屋の食料品売場で行われた“全国の麺まつり”みたいな催しに讃岐うどんが登場。「実演販売したのは讃岐うどんだけ」ということで、東京では讃岐うどんはもはや“王者の風格”を漂わせている感じですが、名古屋のきしめんや長野の信州そば、奈良の三輪そうめん、島根の出雲そば等々の有名どころに混じって、岡山が「かまあげうどん」(しかも乾麺)で出ているのが解せません(笑)。
“青い国”売り込む 人気呼ぶ物産と観光展
「“青い国四国路”を行く観光と物産展」(香川県、高松市、香川県物産協会の共催)が東京・上野の松坂屋6階催し場で18日までの6日間開かれ、“青い国四国”を都民に売り込んだ。
約500平方メートルの会場に香川の特産品など総数1万点を展示、即売した。香川のコーナーは20コマを使い、源平もち、瓦せんべいなどの菓子類、さぬき手打ちうどん、にぼしなど海産物珍味類、民芸品玩具では讃岐一刀彫実演即売やうちわ、金刀比羅絵馬、ミニ凧(だこ)と、それぞれコーナーを飾った。小豆島コーナーではオリーブ、もろみ、ワカサギ、手延べそうめん、県東京事務所コーナーはえびせんべい、しょうゆ豆、漆器類などが並べられ、讃岐の物産品が一堂に集められていた。このほか、高知、愛媛県(各5コマ)徳島県(8コマ)の出品もあった。実演コーナーでは、讃岐手打ちうどん、甘酒まんじゅう(以上香川)、イモけんぴ(高知)などの即売も行われ、訪れた人たちの舌も楽しませていた。…(中略)…同展は1回から5回目まで九州、6回姫路、7回浜松で実施してきたが、8回目の今年は東京へ進出した。後援は観音寺市など25団体だった。
こちらは、香川県関係だけの共催だけど四国の物産も集めた「“青い国四国路”を行く観光と物産展」というイベント。新聞に載ったのは初めてですが、もう8回目にもなるそうです。
うどん玉の値上げに拍車がかかる!
11月1日に「うどん玉値上げ」のニュース。
ああ、また値上げ キリンビール、うどん玉
諸物価値上げラッシュの中で、県下では1日から名物の讃岐うどんや国鉄の駅ホーム、列車内で売られているポリ容器入りお茶、それにキリンビールが値上げされる。サッポロ、アサヒ、サントリー3社のビール値上がりの中で、価格据え置きになっているはずのキリンの小売り値が11月1日から高松市内を中心に全県的に上がる。…(中略)…うどんの値上げは、46年12月以来1年11カ月目。高松市内の大手3社が主製品のうどんを35%値上げし、これまで1玉当たり16円の卸値が20円に、小売値が20円から25円になる。すでに屋台の中華そばは150円から180円にアップされている。(以下略)
これまでの値上げの経緯は、こうです。
昭和35年…1玉7円に値上げ
昭和36年…1玉8円に値上げ
昭和40年…1玉10円に値上げ
昭和43年…1玉12円に値上げ
昭和45年…1玉14円に値上げ
昭和46年…1玉15円に値上げ
昭和47年…1玉16円に値上げ
昭和48年…1玉20円に値上げ
昭和47年の新聞には「うどん玉値上げ」の記事が載っていませんでしたが、今回の記事に「16円の卸値が20円に」とありますから、46年の「15円に値上げ」の後、どこかで16円に上がったということで、仮に「昭和47年に16円に値上げ」としました。しかしそれにしても、16円から一気に20円アップは過去最大の値上げ幅ですが、その背景にはジワジワとしのびよる不穏な気配が。そうです、年配の方ならお気づきの通り、第一次オイルショックがすぐそこにやってきていました。昭和48年10月に勃発した第四次中東戦争に端を発した第一次オイルショックを受けて、日本は同11月に石油緊急対策で総需要抑制を開始。その結果、翌昭和49年には20%を超える物価高騰、いわゆる「狂乱物価」がやってくるのです。さあ、来年はどうなることやら…。
自然食品ブームを背景に、無漂白の家庭用小麦が発売
続いて、大手製粉会社が家庭用小麦粉を全て「無漂白」商品に切り替えたというニュース。
家庭用小麦粉を無漂白に N製粉
“無漂白小麦粉”が売り出されている。N製粉の家庭用小麦粉がそれで、一般家庭で使われている薄力粉、強力粉、中力粉のすべてを今秋から無漂白とする。最近は“手づくり”のお菓子や手打ちうどんがブーム。家庭用小麦粉の消費が増えているところへ自然食品への要求がますます高まっているのに応えたもの。「見た目は多少黒っぽいようですが、粉本来の風味は生かされています。むしろ漂白したものの場合より、原料は一層吟味してあります」という。
無漂白粉は、今までにも関西の灘生協やNメーカーの一部製品で出されていたが、家庭用を全面的に無漂白にしたのはこれが初めて。さしあたって関東を中心に、来月初めごろから関西、順次全国的に売り出される。原料価格の引き上げまでは、現行値段のまま。パッケージには、使用方法、簡単な料理などを刷り込み、今までより用途に応じて使いやすいよう工夫されている。
讃岐うどん用の小麦粉の“色”については、昭和42年の記事に「色の白さの点で最近地元の小麦粉は敬遠されがち…」という記述があったように、当時から香川県民は色のついた県産小麦より色の白い外国産小麦粉(主にアメリカ産)で作ったうどんを好んでいたようです。そこで、県産の小麦粉は色を白くするために過酸化水素を加えて漂白するようになったわけですが(昭和44年には「うどんに許可量を上回る過酸化水素を混ぜていた業者が摘発される」というニュースが記事になっていました)、ここへ来て自然食品ブームと手作りお菓子や手作りうどんブームが起こったらしく、N製粉が家庭用小麦粉を全て「無漂白」に切り替えたとのこと。でも、何で唐突に伏せ字の「N製粉」なのか(笑)。一応、日清製粉や日本製粉や日讃製粉など、選択肢は複数ありますけど。まさか本当にアルファベットの「N製粉」という名前の製粉会社があったんでしょうか?
紫雲中学が簡易食堂でうどんを出していた
続いて、「学食のうどん」のちょっといい話。
簡易食堂たってうどん大盛りヨ
高松市紫雲中学校では、弁当を持ってこない生徒のために、うどんやおにぎりを販売する簡易食堂を開店。冬の寒い日でも暖かいうどんが安く食べられるとあって、生徒はもちん、教職員たちも盛んに利用している。この簡易食堂は「完全給食が行なわれていないため、弁当を持ってこない生徒はパンだけですませている。家庭的な温かくなるものを食べられるようにしては」という教職員の願いから開店した。開店してから1年余。生徒たちは昼休みになると先を争って食堂に駆け込み、大変な盛況。学年ごとに三交代制で食堂を利用しているが、1日の利用者は600人前後。委託業者も食欲盛んな生徒たちの大食ぶりに、大盛りのサービスに努めている。
紫雲中学校ホームページ内の資料によると、昭和48年の紫雲中学校の生徒数は「1624名」。「うどんやおにぎりを販売する簡易食堂」なので、おそらくメニューは「うどん」がメインだったと思われますが、そこへ1600人中600人が毎日押し寄せていたというのは、「大変な盛況」であるとともに「うどん人気」の凄さも表しています。ちなみに、マンモス校として有名だった昭和の紫雲中学の生徒数のピークは、昭和37年の「3553名」(1学年1100人以上!)。当時の紫雲中学に通っていた方から「全校遠足で石清尾山(紫雲中から約1.5キロ先にある標高230メートルぐらいの山)に上がった時、先頭の組が山上の峰山公園に着いてお弁当広げよる時に、うちらの組はまだ学校を出発してなかったんよ」という話を何度も聞かされて、その都度「学校におったら先頭が峰山で弁当広げよんの見えんやろ(笑)」と言って笑いながら信用してなかったんですが、どうもそれほど「盛った話」じゃなかったみたいです(笑)。
「讃岐うどん自慢」を3題
では、昭和40年代に入って増えてきた「讃岐うどん自慢」の記事をいくつか。まずは、県内の著名な「佐々木さん」3人による「ふるさと談義」と題した座談会の記事が載っていましたので、うどんに関する発言のあたりを抜粋しましょう。
対談「ふるさと談義」/無くしたいもうけ主義 素うどんが一番 20玉食べた人も
出席者(敬称略)
佐々木 了(58)会社重役。
佐々木正夫(46)「四国作家」主宰。
佐々木正美(41)劇団ドラマサロン代表。
(前略)……
了 讃岐のいいところは、私たち県人にはわからないですね。僕らもよく旅をするんですが、讃岐にないものを旅先で見たりすると「いいなあ」と思う。やはり香川を離れた県人でないと、そのよさはわからないんじゃないですかね。
正夫 そうですね。県外で働いている人とか、観光業の方がよくわかるでしょうね。観光客が言うには「空気がうまい、内海の小魚がうまい、うどんがうまい」と、この3つがベストスリーですな。
正美 うどんは県外人でなくても、私らも讃岐うどんはうまいと思いますよ。よそへ行ってうどんを食べても、讃岐うどんに比べると味はガタ落ち。食べられたもんじゃありませんね。
了 うどんは自信を持って県外人に勧められますね。私も東京、大阪などからお客さんが来れば、必ずうどんを食べてもらう。自信がなければ、とても食べて下さいと言えませんからね。
正夫 県下には、うどんを食べさせるところが2500軒近くありますが、まだまだ国道沿いなどに増えていますね。「讃岐をPRするうどん」というところですかね。
正美 うどんを食べさせるところが多くなっているんですが、もうけ主義からか、肉うどんだの月見うどんだのが多過ぎますね。うどんの本当の味を消してしまう。あれではもったいないですよ。
正夫 うどんの本当の味は、やはり湯だめでしょうね。素うどんを20玉くらいたいらげる人もいますね。私は人にうどんを食べさせる時、湯だめがなかったら一番安い“かやくうどん”を食べさす。月見うどんでは、うどんの味を消すと思いましてね。
劇団ドラマサロンの佐々木正美さん曰く、「よそへ行ってうどんを食べても、讃岐うどんに比べると味はガタ落ち。食べられたもんじゃありませんね」と、当時の“讃岐うどん応援団”は容赦しません(笑)。しかもその発言がそのまま新聞に載るという(あるいは記者がわざと過激に書き直したのかもしれませんが)、古き良き時代です。いや、「良き」かどうかわかりませんが(笑)。また、佐々木正美さんも佐々木正夫先生も、「肉うどんや月見うどん等の具材の入ったうどんはうどんの味を消す」と言って、湯だめや素うどんを高く評価。これぞ、真の“麺食い”です。
あと、佐々木正夫先生が「県下にはうどんを食べさせるところが2500軒近くある」と書かれています。佐々木先生は前年の「かな泉屋島店」のオープン広告に寄せたエッセイの中で「香川県内には、うどんを食べさせる店が2000軒もあるといわれる」と書かれていましたが、そのすぐ後に山田竹系さんが「源内」のオープン広告に寄せたエッセイの中で「香川県下にはうどんが食べられる店が2200軒ほどある」と書いていました。まさかそれに対抗して「2500軒」に増やした…のではないと思いますが(笑)、筆者の記憶では確か、昭和60年頃には「香川にはうどん屋(うどんを食べさせる店?)が3000軒ほどある」という話がまことしやかに語られていましたので、今後、もうちょっと増えていくものと思われます(笑)。
続いては、転勤族の奥様の「煮込みうどん」賛歌です。
コラム「わが家の味」/煮込みうどん(高松市高松町 ○○○○子さん)
主人の勤めの関係で再三転居しましたが、どこへ行っても我が家は不思議と人が集まり、集まれば自然に食事をともにする事が多くなります。なんの前ぶれもなく友人を連れて帰る事がありますが、こんな場合、これといった自慢料理もありませんので、なんとかその場を切り抜ける機転料理を作らなければなりません。心をこめたおいしいもの(家庭の味)を皆で楽しく食べる事を心がけ、料理のまずさを補っております。
高松に来てうれしい事は、手打ちうどんのおいしい事です。シャキッとした歯ざわりは、よそでは味わう事の出来ないさぬきの味です。よそ者の私が、さぬきうどんの講釈でもないと笑われそうですが、うどんは用途も広く、主食、副食も兼ねるので、わが家の機転料理に欠かせないものになりました。さぬきの人は、ほんとの手打ちの味は、釜揚げ湯溜といいますが、私の郷里伊予では、うどんといえばほとんどが煮込みうどんです。寒い夜の煮込みうどんは、母の味を思い出しますが、味つけは淡口しょうゆと合せて固形スープ、又は「コンソメ顆粒」を使い、タマネギ、ベーコンを色づくまでいためて入れるとコクが出て若い人に受けます。
前ぶれのない来客には、うどんすきに限ります。野菜の下ごしらえをしておき、とり肉が牛肉になったり白身の魚でも良く、かきかカイ柱やえびに変わったり、しいたけ、かまぼこ、豆腐とそのときの買い置きの材料で適宜にかえて良く、大ざらに盛り、にんじんの花型切りを散らせば準備完了。話の場から離れる事も少なく、相手に気をつかわせず煮ながら食べられるのは最高です。味は淡口しょうゆで、だし汁には「ほんだし」(かつお風味)を使い、うどんを入れあたたまったところでダイタイのしぼり汁をかけると、おいしくいただけます。…(以下略)
「高松の手打ちうどんはおいしい」という話から、「香川では手打ちうどんを味わうには“釜揚げ”か“湯だめ”と言われるが、郷里の愛媛県ではうどんと言えば“煮込みうどん”だ」と展開し、「前触れのない客には“うどんすき”に限る」と締めています。ちなみに昨今、愛媛のうどんと言えばアルミ鍋の「鍋焼きうどん」が人気だそうですが、この奥様の言う「煮込みうどん」がそのルーツなのかもしれません、知らんけど(大阪のおばちゃん風に・笑)。
次は、「一日一言」の讃岐うどん賛歌。
コラム「一日一言」
讃岐を訪れる観光客にご賞味願うものといえば、まずは手打ちうどん、となろう。讃岐人は、うどん好き。推奨品にあげるのも人情。自家製は少なくなったが、昔はうどんを上手に打つことが嫁入り条件の一つに数えられた土地柄だ。
東京・江戸川区役所に勤務している塩江町出身の宮武孝吉さんが、同区役所の「職員報」に讃岐うどんの話を書いていた。「長い旅を終えて連絡船が高松へ到着すると、一目散にうどん屋に飛び込む。なつかしい山河も、おふくろも、まずは駅でさぬきうどんを一杯かきこんでから--これがふるさとを離れてこのかた、帰郷の際の私の欠かせぬ習いとなっている。「うどんのうまさは、さぬきを離れては決して味わうことができないものである。その歯ざわり、のど通り、そして腹へのおさまり具合いまでがまるでちがう」と、宮武さんのうどん自慢は続く。故郷を離れて改めて知る“うどんの味”だろうか。
讃岐では、うどんのダシ汁は、おおむね“甘口”である。豊浜出身の文芸評論家・福田宏年氏も「子供のころ、観音寺市内で食べたうどんの味が忘れられない」と、ある雑誌に書いていた。それかあらぬか「東京都23区内のどこででも食べられるというほど“讃岐うどん”はこのところ知名度が上昇」と“東京だより” (本紙)も伝えている。県内でも本場手打ちうどんの店が増えた。こちらの方は「讃岐のサルまね」の部類かも知れない。「観光用うどんが値をつり上げ、味を下げた」とボヤく“食通”もいる。
それにしても讃岐うどんの人気は衰えない。口うるさい“うどん党”が伝統の味を支え、陰の励ましをしているからだろう。香川県食品工業開発研究所では讃岐うどんの腰の強さ、塩かげん、歯ごたえなどに科学的な品質分析を行なった。製めん業者は「夏三寒六」というように、うどんづくりは科学的データよりカンと熟練だという。“日本の風味”には科学で解けないナゾがある、といいたげだ。讃岐うどんの味は、その土地で採れた材料が醸す“オーケストラの味”でもある。名もない店でうまいうどんにめぐりあうのも、うどん党の楽しみである。
「讃岐うどんの味は“オーケストラの味”だ」と、ちょっとうまいこと言うた、みたいなコラムにまとめてありますが(笑)、ここに「夏三寒六」という言葉が出てきました。これは、讃岐うどん作りに使う塩水の塩分濃度の目安として今も語り継がれている「土三寒六常五杯(夏は塩1に対して水3、冬は塩1に対して水6、その他の時期は塩1に対して水5)」のことだと思いますが、実はこの「土三寒六常五杯」という言い回しには謎がある。すなわち、うどん職人の方々に話を聞くと、今のうどん作りのセオリーから言えば「そんな配合をしたらあまりに塩分が濃すぎて(現在の2倍近い塩分濃度!)うどんにならない」そうなのです。さらに、「夏に水3杯、冬に6杯」というのも「あまりに差が大きすぎる」とのこと。これは一体どういうことなのか?
まず、「土三寒六」の塩分濃度の高さについては、「昔の塩は純度が低かったため、それくらい入れないとうどんに適した塩分濃度にならなかったのではないか」という説があります。実際、明治時代には塩の純度が70%台だったと言われ、それを現在のほぼ100%の純度の塩に換算すると、「土三寒六」の「寒六」の方は現在とよく似た塩分濃度になるそうですが、「土三」の方はそれでも濃すぎるそうです。また、夏と冬の差が大きすぎるという問題も、明治時代の香川の四季の寒暖の差がそんなに大きかったのかどうかはちょっと怪しい。
いずれにしろ、もし塩の純度が関係していたとしても、昭和に入ると塩の純度は90%を超えていたようですから、「土三寒六常五杯」という言い回しが通用していたのはおそらく明治時代以前の話であって、昭和以降はすでに「昔話」になっていたのかもしれません。ちなみに、某製麺業老舗のご老人が「“土三寒六常五杯”という言い回しは昔はなかった。あれはのちに誰かが語呂よく作った言葉ではないか?」とおっしゃっていました。もしかすると、この記事中にある「夏三寒六」の方が本来の呼び方だったのかもしれません。
東京と北海道の讃岐うどん
続いて、県外のうどんの話題が2つ見つかりました。まずは東京からのレポート。
東京だより/知名度ぐんと上昇 讃岐うどん、“正統派”が30数軒も
「讃岐うどん」が東京で静かなブームを呼んでいる。都内23区のどこでも食べられるというほど「讃岐うどん」はこのところ知名度が上昇しており、「讃岐うどん」は手づくりのうどんの代名詞にまでなってきた。都内での店は数は増える一方だが、県内出身者が経営する“正統派”だけでも30数軒にのぼっている。“讃岐”ののれんを出すと売れゆきが違うといわれ、都会人が素朴な田舎の味を求め、食べ歩きコースの一つにまでなってきた。
一般に辛いしょうゆ味を好む東京人にとっては、讃岐の味に慣れるまで、うどんにしょうゆを入れて食べる人もいたが、最近では、うどんの歯ごたえと食べた後までタレの味が舌に残る讃岐うどんを好む人も多くなり、「東京の味にアレンジしてきた」と評する人も出てきた。「初めは多少抵抗があった。だが一度食べたら独特の風味が忘れられない」(中年のサラリーマン)という。常連は、やはり高松に住んだことある人が多い。さらに県出身者で郷里の味を求めてくる人、商談や同窓会に利用する人などさまざま。中には東京へ出張してきて味が舌に合わず、1週間通いつめた人もいるとか。
「讃岐うどん」の看板が初めて東京に掲げられたのは昭和30年の5、6月ごろ。東京・新橋駅近くだったというから、すでに18年のキャリアをもったうどんということになる。“食通の先人”たちは、讃岐の味を伝えるため原料を地元から取り寄せたり、高松へ製法の研究にやらせたりして「讃岐うどん」の伝統を守ろうと努力している。
東京で讃岐うどんがそれなりに人気だというレポートですが、ここに「讃岐うどんの看板が初めて東京に掲げられたのは昭和30年の5、6月頃」という具体的な時期が出てきました。ただし、昭和30年の四国新聞にはそんな話は一切載っておらず、「昭和38年」の記事に「東京の本場(?)手打ちうどんの元祖は、高松市出身の鈴木力男さん(32)。今では都内2、3の出店の他、待望の自分の店『讃岐茶屋』を持ち、社員20人を使う讃岐食品株式会社の社長さん」という記事があったのみで、唐突に「昭和30年の5、6月頃」と言われても整合性を確認する術がありません。もし、「昭和30年の5、6月頃に東京で初めて讃岐うどんの看板を掲げた店」が高松出身の鈴木さんの始めた「讃岐茶屋」のことであれば、鈴木さんは24歳で東京に店を出したことになりますが、どうなんでしょう。
続いて、佐々木正夫先生が「北海道の讃岐うどん」に触れられていました。
寄稿「北海道の旅」(佐々木正夫) 讃岐うどんにびっくり
…(前略)…札幌でびっくりしたのは、讃岐の手打ちうどんである。近ごろ、東京や大阪には“おらが国さの手打ちうどん”が進出しているが、松原さんという人が経営している「むぎ屋」では、札幌に18軒、室蘭に1軒、手打うどんの店を出しており、さらに釧路、小樽にもなぐり込みをかけようというのだからアッパレ。…(以下略)
「むぎ屋」はこのあと、四国新聞に掲載された広告にも出てきます。
うどん広告のトップ2は「さぬきうどん」と「かな泉」
では、広告を見ていきましょう。昭和48年のさぬきうどん関連広告で出広回数の多かった店(会社)は、「さぬきうどん(7回)」と「かな泉(6回)」の2社でした。まず、「さぬきうどん」の広告に支店の全リストが併記されていましたので、その勢力をご覧ください。
続いて「かな泉」の広告はこんな感じ。
これまでもそうですが、うどん店の広告の中で「かな泉」だけがデザインやコピーに意識して力を入れているのがわかります。「かな泉時代」は、ただ店舗数の多さだけでなく、店舗デザインや器選びから広告をはじめとするPR戦略まで、明らかに先例の常識を打ち破っている。やはり「かな泉」は、ただ者ではなかったと言わざるを得ません。
次に、この年3回広告を掲載していたのは、何と、記事にも登場した「うどん自販機」でした。まずは、4月(高松国際ホテル)と5月(丸亀市民会館)で開催された「うどん自販機展示実演会」のセールスプロモーション広告が2本。
そして、「北海道展」の協賛広告にも1枠登場していました。
続いて、本社工場を新築落成した三木町の「藤井製麺」も、年末の協賛広告を含めて年3回の出広です。
以下、その他のうどん関連広告を並べてみましょう。まずは、満濃の「長田」と志度の「源内」と高松市中新町の「ゆたか」。
「八十八庵」のキャッチフレーズに「遠国そば」「たらえうどん」なる謎のメニュー名が書かれていました。そうめん流しもやっていたようです。
昨年、今ならセクハラまがいのイラスト(笑)を使って広告を出していた「福一」が、同じイラストの「男性から女性の太ももに伸びる視線の点線」だけをカットして再び登場です(笑)。
うどんメニューを打ち出したレストランの広告を2本。
次は、県外のうどん店の広告です。まずは東京の讃岐うどん店の名刺広告が2本。
徳島からは、「松野たらいうどん」の広告が。
さらに、前出の佐々木正夫先生の寄稿文に出てきた札幌の「むぎ屋」が、遠く四国新聞に広告を出してくれました。
昨年登場した「さぬき手打ちうどんの会」というサークルみたいな名前の団体(?)が、「手打茹干うどん」と銘打った商品(下部には「ざるうどん」と書いている)を掲げて2年連続登場です。
最後に、年末恒例になった「年越しの協賛広告」。三木町の「新車」は、これが新聞広告初登場です。