うどん店の広告が激増! 讃岐うどん界がにわかに動き始めたか?!
昭和47年の四国新聞に載った「うどん」関連の記事は、小さな話題がいくつか載っていた程度。また、昭和45年に壊滅的な被害を受けた県産小麦に関するニュースも、新聞紙上に全く出てこなくなりました。しかし一方で、前年から始まった「うどん店の広告の増加」はますます勢いを増し、いよいよ「うどん専門店の店舗展開時代」が本格化してきた感があります。
では、最初に数少ない「うどん関連記事」を時系列に沿って拾い、後半で「うどん店広告」を一挙に紹介していきましょう。
高松駅の立ち食いうどんにクレーム?!
まず、3月に四国新聞の読者から編集局へ「高松駅の立ち食いうどんへのクレーム」が届いたそうです。
コラム/旅人よ、讃岐の味ですよ
高松駅の手打ちうどん立ち食いは好評だが、本社編集局へ「立ち食い、すし詰め、ふきざらし、これがなんと60円、市内の店より安くない、苦情の通らぬ旅の客、独占企業の弘済会、取り放題はお家芸?」という五・七調のはがきが届いた。編集子いわく。立ち食いが風流なんだ。ふきさらしは港に駅があるから当然、市内は手打ちは平均100円、60円なら安い。味もまあまあ。しかし店員のサービスはワルイよ。つっけんどんだし…。旅人のこころを慰めるサービスを考えて…。
いつの世も、事実関係を精査せずに反射神経で断定的にご意見やクレーム等を物申す方々はいるものですが(笑)、ネットやSNSでそれが無尽蔵に垂れ流される今日に比べると、投書でもする以外は近所の井戸端会議レベル以上に広がらない昔の方が、何かと精神的に健康だったのかもしれません。とりあえず、コラムの筆者によると「(当時の)高松駅の立ち食いうどんの店は店員がつっけんどんでサービスが悪かった」とのことですが、あんまり追求すると妙なネット民が当時の店員を特定しかねないので、これぐらいで(笑)。
うどんとおでんの関係に新説(と言うほどではないか)
連載「村の風土記 町の風土記」/川原の市
(前略)…食べ物市で名高い三豊郡三野町の大坊市(だいぼういち)は春と違って秋のものだが、これも古くは大坊の傍の川原に市が立っていたという。明治の頃までは川原にはいくつもの小屋掛けができて、近郊近在は申すに及ばず、他国からやってきた遊び人が博奕(ばくち)を打っていた。晩秋のことであるから川原を吹く風は冷たい。そこで博徒たちは酒を飲み、おでんを食べ、うどんなどで腹を満たした。今ではもう、そうした風はすっかり衰えたが、おでん、うどん、大福餅、あげもんなどの食い物市の風習だけが残り、稲刈りを終えた農民たちの楽しみの市となっている。…(以下略)
「うどんとおでん」の関係が、こんなところにも出てきました。「香川のうどん屋にはなぜおでんが置かれているのか?」という質問がよく出ますが、食堂のメニュー起源説をはじめとする諸説の中に、「川原の市の博徒の飲食風習起源説」もちょっとだけ入れてやりますか(笑)。
「四国の観光と物産展」が2回目の大阪開催
「いらっしゃい、青い国・四国に」 好評の「観光と物産展」
「青い国・四国」を売り込む「四国の観光と物産展」が21日から大阪・心斎橋のそごう百貨店で開かれている。この催しは四国4県の共同開催によるもので、今年は2回目。観光客誘致のための四国共同キャンペーンの一つとして行っているだけに、各県とも大変な力の入れよう。特に今年は岡山までの新幹線開通に伴う「観光四国」のクローズアップで、連日押すな押すなの人の波が続いている。…(中略)…各県コーナーでは郷土の香りをいっぱいに振りまいて特産品の即売が行われており、香川県関係では、素焼きの手鍋やたこつぼ、しぶうちわなどが加わり、リバイバルプールを盛り上げている。人気を集めているのは食料品類で、産地直送のさぬきうどん、てんぷら、かまぼこなど“讃岐の味”が飛ぶような売れ行きを見せていた。…(以下略)
「四国の観光と物産展」は、大阪開催が第2回を迎えました。この数年、東京開催の記事が載らなくなりましたが、やっていないのか、やっているけど載せていないだけなのかはわかりません(予算からすると、東京をやめて大阪開催にシフトしたのではないかと思われますが)。あと、「リバイバルプール」というのが何なのかわかりませんが、大勢に影響ないのでスルーします(笑)。ちなみに、「青い国・四国」は四国の観光キャンペーンとして結構長い間使われていましたが、落ち着いたいいコピーでしたねえ。
サラリーマンの昼食仕様として「大衆セルフ店」が増え始める
弁当持ちは2割、幅きかす“200円昼食” 明善短大・川染教授がサラリーマン調査
「毎日、弁当を持って出勤するサラリーマンは約20%」…明善短大調理学研究室の川染節江教授(34)は、このほど「食事行動に関する調査研究・外食について(第二報)」をまとめ、20日から開かれる日本家政学会・中四国支部研究発表会で発表する。
同助教授の調査は、昨年6月から今年2月まで県下440世帯1750人を対象に調査したもので、“外食行動”を追跡している。中でも昼飯形態の調査では、毎日弁当を持って出勤するのは男子は約20%、女子約30%、いわば80%の男子と70%の女子の昼飯はいずれも外食。理由として「便利さ」「習慣性」「好きなものが食べられる」を挙げているが、主婦が弁当を作るのをいやがることも大きな原因としており、社会風潮の表われとしている。
特に男子の50%以上が、毎日外食をしている。県内に最近、増えてきたセルフサービスの“うどん屋”やソバの根強い人気の源といえそう。さらに、昼食費用では200円以上が男子37%、女子14%、150~200円は男子41%、女子52%で最も多い。これは好みも昼食費用を大きく左右していることを証明している。…(以下略)
川染先生による香川県民の昼食の動向調査によると、香川県内の男子サラリーマンの50%以上が毎日外食しているそうで、その結果(あるいは原因かも)「セルフサービスのうどん屋が最近増えてきて人気になっている」とのこと。いわゆる「大衆セルフ」型のうどん店は、どうも昭和40年代中盤あたりから“サラリーマンの昼食仕様”として増え始めたと言えそうです。
そんな中、三木町のサラリーマンの“うどん三昧”の寄稿が載っていました。
私の味覚 三木町・会社員(24歳)
食べ物と言えば一にうどん、二に寿司。うどんは毎日1回は食べる。これは専門店の方が値は張るがうまい。ショウガの香りを楽しみながらザルを空けるのは何とも言い難い。中学時代、私の家の前に手打うどんの店があって、空きっ腹を抱えてよく足を運んだものだ。野球をした後、遊んだ後…。できたてのうどんを丼に入れて生醤油をかけるだけだが、本当にうまい。これは“通”ならではの味。確か値段も10円か15円だった。懐かしい思い出だ。…(以下略)
子供の頃(おそらく昭和30年代中頃)は打ちたての麺で「しょうゆうどん」、サラリーマンになってからは専門店で「ざるうどん」を毎日のように食べているという、当時の讃岐の若き“うどん通”のレポートでした。
「讃岐うどん発祥の地」は琴平町だった?!
金刀比羅宮 参拝客舌つづみ こんぴらうどん奉献式
金刀比羅宮では2日午前10時から“こんぴらうどん”奉献式が行なわれた。これは仲多度郡琴平町内の「こんぴらうどんの会」が今年初めて奉献したもので、式のあと、本殿横の絵馬堂で“こんぴらうどん”作りの実演を行ない、出来上がったうどんを参拝客に接待した。
讃岐の手打ちうどんの始まりは、弘法大師が唐から秘法を持ち帰り教えたものが起因として伝えられている。金刀比羅大権現の信仰が盛んとなった天正年間(1573年)に参拝客が多くなった頃、「手打ちうどんはいかが」とサービスに努めたとされており、この時代から作り続けてきたことになる。最近さぬきうどんが盛んとなっており、全国的に普及しているが、さぬきうどんの発生の地は琴平町で、これを“こんぴらうどん”としてますます盛んにしようと同町内の位野木峯夫さんら町内のうどん業者5人が集まって「こんぴらうどんの会」を結成。これを機会に“半夏生”の2日に奉献式を行った。
式は午前10時から本殿で行われ、位野木さんらが白装束にかみしも姿でかごに材料を入れ、「手打ちこんぴらうどん」ののぼりを立て、行列を作って石段を上った。さっそくうどんを作り、神前に捧げて今年の豊作を祈願、八少女舞を奉納した。式後、絵馬堂で“こんぴらうどん”の実演をし、出来上がったうどん玉1000個を参拝客にサービスした。日曜日とあって観光団体が多く、思わぬ接待に舌つづみを打っていた。この“こんぴらうどん”奉献式は毎年続けられる。
今日「讃岐うどん発祥の地」を謳っているのは綾川町(旧綾南町)で、「空海の甥の智泉大徳が空海から中国伝来の麺の作り方を教わって、香川で初めて実際にうどんを作った」とか「空海が中国から持ち帰ったうどんの原型である団子状の“こんとん”を智泉大徳が切り麺状にしてうどんを作った」とか、詳細は語る人によって微妙に違いますが、とにかく「智泉大徳」さんを根拠に「讃岐うどん発祥の地・綾川町」という説がかなり定着しているわけです。
ところが、この昭和47年の四国新聞には、何の疑いもない文調で「さぬきうどんの発生の地は琴平町」と書かれています。そしてこの年、「讃岐うどん発祥の地・琴平」のうどんを「こんぴらうどん」として売り出そうと、「同町内の位野木峯夫さんら町内のうどん業者5人が集まって『こんぴらうどんの会』を結成」したそうです。ちなみに、「位野木峯夫さん」とは、あの『灸まん』の先代社長です。
新聞によると、昭和47年の『灸まん』は「町内のうどん業者5人」のうちの1人として扱われています。しかし、『灸まん』のうどん店である『灸まんうどん』は、『灸まん』のホームページの中に「昭和49年創業」とありますから、新聞もホームページも正しいとすれば、『灸まん』は昭和49年に『灸まんうどん』を開店する前から、何らかの形でうどん屋もやっていたのかもしれません。
しかしそれにしても、当時は新聞も疑ってすらいなかった「讃岐うどんの発生の地・琴平町」説が、なぜ今、当時は影も形もなかった「讃岐うどん発祥の地・綾川町」に取って代わられたような状況になっているのでしょうか。
ちょっと筆者の記憶を辿ってみますと、讃岐うどん巡りブームが最初のピークを迎えた2000年前後のある日、NHKのローカルミニ特番で、屋島の四国村に野外セットを組んで、麺類研究家の故小島高明先生が「空海が中国から持ち帰った“こんとん”を再現する」という企画をやりました。筆者もその番組に一緒に出て、餃子の皮状に延ばした小さくて薄くて丸い“うどん生地”のようなものを茹でて醤油か塩だけを付けて食べさされて「まずいなあ」と思った記憶があるのですが(笑)、確かその数年後、当時の綾南町でどなたかが音頭を取られて、婦人会の方々を集めて同じような「“こんとん”を再現する実演試食会」が開催されました(筆者も招待されて食べてきました)。そしてその後(あるいは多少前後していたかもしれませんが)、「綾南町はうどん発祥の地」だとか「智泉大徳さんが云々…」という話がかなり突然出てきたように記憶しています。
つまり、元々の「讃岐うどん発生の地・琴平町」説は、おそらく「こんぴら参りとうどん」という史実をもとに昭和47年には定説のように認識されていたけれど、「讃岐うどん発祥の地・綾川町」は平成10年前後以降に「空海~智泉大徳」という素材を軸にして、新たに“プロモーション”されたものだと思われるわけです。さらに言えば、讃岐うどんの著名な語り部である山田竹系さんや佐々木正夫先生は、そもそも讃岐うどんの「空海起源説」などには全く触れていないどころか、空海以前の奈良時代に中国から伝わった説をとっておられますから(「昭和44年」「昭和45年」参照)、綾川町の「空海~智泉大徳」という素材自体も平成以降の巧みなプロモーションかもしれません。
そんなことをいろいろ考え合わせると、「琴平町説」が有志を中心に地道に活動していたところへ「綾川町説」が行政もうまく取り込みながらプロモーションを仕掛け、それが成功して一気に抜き去ったのではないか? というのが、筆者の「状況証拠のみに頼った個人的認識(笑)」です。まあ、「発祥の地」というのは、地域活性化にとって「奪い合うほどの金の卵」でないことは全国の数多の事例を見ても明らかなので(笑)、厳密にどっちだと決める必要もないとは思いますが。
地元の民俗学者が見た「半夏とうどん」
続いて、7月恒例の「半夏とうどん」の話が久しぶりに出ていました。コラムを執筆されたのは、多度津町出身で多度津町長も務められた民俗学者の武田明先生です。情報がいくつも入っていますので、小分けにして見てみましょう。
連載「村の風土記 町の風土記」/半夏とうどん
讃岐の農家の人々は半夏を農事の一つの区切りとしていたようである。…(中略)…仲多度・三豊などの地方では「半夏のハゲダンゴ」と言って、昔は小麦粉の団子にアンをまぶしたものを食べていた。…(中略)…この日はまた、団子の代わりにうどんを食べるという土地も多い。高松市の近郊農家などでは新しく穫れた小麦で作ったうどんを主人が打って、大きい丼鉢に水を張った中に入れて、つけ汁につけて食べていたという。
「半夏にダンゴ」は中西讃の風習で、「半夏にうどん」は高松近郊の農家の風習だという話が出てきました。半夏のうどんとしては、「昭和の証言」では「どじょううどん」がよく出てきますが、ここでは、伝聞情報気味の文調ながら、今で言う「冷やしうどん」のような食べ方が書かれています。基本的には伝聞情報より体験談(証言)の方が優先されるのですが、学者先生の伝聞ですので、とりあえず「一説」として未来に遺しておきましょう。
「湯だめうどん」の説明がちょっとあやふやですが、武田先生もやはり「湯だめうどんがうどんの比較的古い食べ方だった」とおっしゃっています。また、うどんの「つけ汁」は、高松市あたりが甘めの味付けだったそうです。ばら寿司は、高松や東讃より中西讃の方が間違いなく甘めなんですが(笑)。
「昭和の証言」では、法事に出てくるうどんは圧倒的に「湯だめ」が多かったのですが、武田先生の話もそれを裏付けています。しかし、湯だめよりもっと古い食べ方は「打ち込み汁(要するに打ち込みうどん)」だそうです。さらに、「しっぽくうどん」は新しい食べ方だと。そこのところ、佐々木正夫先生のご意見(昭和46年」参照)とは相容れませんが、どちらを信じるかはあなた次第です(笑)。
昭和47年当時すでに、「家に打ち板とめん棒があって、自家製のうどんを作って食べる」という風習はすっかり廃れていたようです。
といったところで、「うどん関連記事」は以上。讃岐うどん業界の大きなニュースはありませんでしたが、風習や起源に関する話題や諸説が結構いくつも出てきました。
うどん店のオープン広告が5本も!
ではここから、うどん店の広告を見ていきながら、「うどん専門店の時代」の到来をひしひしと感じてみましょう。まず、この年掲載された「オープン広告」が6本もありました。
何と何と! あのえびせんべいの「志満秀」が高松市丸亀町の「かまど」の西側にうどん店をオープンしていました! 店舗は1階が海産物の手焼き、えび天、えびせんべいの店で、地階が「讃岐手打うどん」と「四季の内海珍味のおにぎり」の店だと書かれています。さらに広告には「讃岐手打うどんの高松店」とありますが、「志満秀」は高松以外にもうどん店を出していたのでしょうか? 「志満秀」のホームページにかなり詳しい会社の沿革が載っていますが、「うどん店を出した」という記述はどこにもないのですが…。
この頃どんどん勢力を伸ばしていたと思われる「さぬきうどん」が、高松市内の国道11号線北バイパス沿いの新川の畔に屋島店をオープンしました。かなり立派な店舗のようです。
客席120席、駐車場30台の郊外型大型うどん店、「かな泉屋島店」がオープンしました。「かな泉」を展開する会社は、この時はまだ「有限会社金泉食糧商会」です。
さて、この「かな泉屋島店」のオープン広告には、佐々木正夫先生がエッセイを寄せています。そこに、当時の讃岐うどんの様々な情報がちりばめられていますので、再掲して内容を確認してみましょう。
手打うどん礼賛 (佐々木正夫)
讃岐のお家芸のことを聞かれると、「手打うどんです」と答えてはいたが、最近になって、ほんとうに、讃岐を代表するものは手打うどんだと思っている。コシコシした舌ざわり、ツルッツルッとノドにすすり込む痛快さ、薄めのダシの味など、文句なしに天下一品だと自賛している。先だって、宮脇朝男氏(全国農協中央会長)とテレビで“うどん対談”したが、宮脇さんは、わたし以上のうどん礼賛で、日本一のふるさとの味だとほめていた。わたし自身も、全国のあちこちでうどんを食べているが、食べながら思い出すのは讃岐の手打うどんである。そういうわたしだから、旅に出たときなど、大阪あたりまで帰るところころいとノドが鳴る。宇髙連絡船に飛び乗ると、すぐデッキのうどん売店で、むさぼるようにうどんを食べる。
お家芸といっても、手打うどんは、全国どこにでも売っている。金沢のキナコをもぶしたうどんも珍らしいが、ダシがなく、あとで顔を洗わないと表通りは歩けない。名古屋のキシメンも名物だが、讃岐のように、すすり込むわけにはいかない。伊勢のうどんはカラすぎて、あとで水の二杯も飲まなければならぬし、北海道の北見のうどんなどは、あれはうどんではなく、ダンゴのウス汁ですすっている感じだった。旅には、味と宿とみやげの三つが揃っていることが絶対の条件。おかげさまで、香川県内には、うどんを食べさせる店が二千軒もあるといわれるが、もうけ主義ではなく、讃岐のお家芸をけがすことのない手打うどんで旅情を楽しませてほしいとねがっている。
こんど、“うどんの庄”の泉川さんが屋島店を出すことになったが、この人は、少しヘンコツだが、ほんとうの手打うどんを食べさせてくれる“うどん人”である。新しい屋島店は、話題の源平古戦場の中心地にあり、歴史絵巻と味を満喫させてくれるはずである。うどんの庄で、讃岐の秋の風物詩をかなでてくれることをねがっている。
まず1段落目から。佐々木先生も讃岐うどんの麺の食感を「コシコシ」と書いているではないですか! もうこれは間違いなく、讃岐うどんはかつて「コシコシ」だった! と断言しましょう(笑)。もう一点、「薄めのダシの味…」という表現があることから、うどんの汁を「つゆ」ではなく「ダシ」と呼ぶ習慣がこの頃すでに定着していることが窺えます。また、讃岐のうどん食いとして名高い宮脇朝男会長のお名前も登場。さらに、すでに宇髙連絡船に立ち食いうどんが登場していることもわかります。
続いて佐々木先生、讃岐うどんを礼賛するあまり筆が走ったか、他県のうどんをコテンパンにこき下ろしています(笑)。「きしめんはすすり込めない」とか「伊勢うどんが辛い」とか、ちょっと感想に疑問符の付くものもありますが、“佐々木節”は誰にも止められませんので、きっとそうなのでしょう。いやー、“炎上”のない時代でよかったよかった(笑)。
続いて10月1日、今度は志度に「源内」がオープンしました。そして、こちらのオープン広告には山田竹系さんが文章を寄せていましたので御紹介します。ちなみに、作家の「佐々木正夫先生」は「先生」で、随筆家の「山田竹系さん」は「さん」付けしているのは、単に筆者のお二方に対する勝手な印象というか呼称の習慣なので(笑)、どうぞご容赦ください。
“さぬきうどん”について (山田竹系)
ひと月ほど前、必要があって、東京と大阪に“さぬき手打ちうどん”という看板の店がいくつあるかを調べたところ、なんと五百軒以上もあることがわかった。このほか、きしめんの本場名古屋にも、神戸にも、岡山にも、そして北九州方面へも、もの凄い勢いで進出している。香川県下には、うどんが食べられる店が、二千二百軒ほど、製めん所は、生めん、乾めんあわせて四百五十軒ほどある。どうしてこんなに、にわかにうどんの店がふえたのか、いろいろ考えてみてもわからない。しかし、いまになって、さぬきうどんの真価がみとめられたということは、なんとしてもうれしい事実である。
だが、この現象を、手放しでよろこんでいいものだろうか? 大阪の、業界の専門家にいわすと、うどんももはや限界点に来ているという。このまま、安易な気持ちでいると、業者はちかい将来、共倒れにならないとも限らない。お互い競争しているのだから、まずいうどんは、自然淘汰されるに決っている。さぬきうどんの真髄ともいうべき湯だめうどん、打ち込み汁あるいは、むかしからあるしっぽく、きつねうどんなどは、もちろん大切にのこしておいて、このほかに、いまの時代向きに、たとえば油っこいスタミナうどん、サラダうどん、肉や魚をつかったうどんすきなど、新しい分野の“うどん料理”を開拓すべきである。
さて、源平古戦場の屋島、八栗や、源内先生のふるさと志度方面は、西讃におとらず、むかしからうどんのうまい地方である。こんど、屋島山下には“さぬきうどん”“かな泉”が店びらきし、庵治には名代湧泉亭があるが志度には国道十一号線沿いに、本格的な手打ちうどんの店“源内”が開業する。この店は、ここまで漕ぎつけるのに、長い期間の勉強と準備をしていた。独特の源内うどん、源平うどん、山菜うどんなども出すそうだから楽しみである。
この店の屋上からは、清澄な秋空のもと、屋島、八栗が手にとるようにのぞまれ、その手前には、湖水のような志度湾が光っている。街中の騒音と、汚れた空気からのがれ、こんないい環境のなかで、本格的なさぬきうどん、そして時代を先取りした新しいアイデアによるうどん料理が味わえるのも、さぬき人の余得というべく地下の源内先生もさぞかしうらやんでおられることだろう。
「かな泉」が佐々木正夫先生で来たら、「源内」は山田竹系さんの寄稿文で対抗です。さらに広告の末尾に「源内は下記の方々のご推せんをうけています」として、俳人や歌人、随筆家、作家、書家等のお名前を列挙して権威付けのダメ押しもしています(佐々木正夫先生のお名前も並んでいます)。この「源内」の広告は「かな泉」の広告の約2週間後の掲載ですが、竹系さんの寄稿文中に「屋島山下には“さぬきうどん”“かな泉”が店びらきし…」とありますから、「かな泉」の広告を見て同じような広告を打ってきたのかもしれません。
さて、寄稿文によると、当時香川県内には「うどんを食べられる店」が2200軒ぐらいあったとのこと。先に佐々木正夫先生は「2000軒もあるといわれる」と書かれていましたので、大体そのあたりの数字の認識だったのでしょう。ただし、これは「うどんを食べられる店」の数であって、2000軒の中にはメニューに「うどん」が入っている食堂や喫茶も含まれていると思われますから、その中でいわゆる「うどん店」の数がどれくらいだったのかはわかりません。
続いて、「しっぽくうどん」についての記述。「しっぽくうどん」はこれまで、佐々木先生は「素朴、讃岐の伝統、おふくろの味、田舎の風物詩、という意味では“しっぽく”が随一」と絶賛し(「昭和46年」参照)、前出の民俗学者の武田明先生は「シッポクうどんなどというのもあるが、これはその上にたくさんの具をかけるところから見ても新しいもののように思われる」と、やや冷めた見解を述べていましたが、竹系さんは「むかしからあるしっぽく」と述べています。ただし、「さぬきうどんの真髄」は「湯だめうどん」と「打ち込み汁」で、「しっぽくうどん」は一歩下がった位置づけのようなので、皆さんの話を総合すると、さぬきうどんの歴史におけるしっぽくうどんの位置づけは「よくわからない」という結論に至りました(笑)。
それにしても、山田竹系さんと佐々木正夫先生の両巨頭の、しかも同じようなテーマの文章がこんなに近くで並ぶと、物事に対する考え方のスタンスや文章構築の手法、文章のテイストなどの違いがよくわかっておもしろいですね。あと、細かいことですが、「てうちうどん」は佐々木先生をはじめ広告のほとんどが「手打うどん」と表記していますが、山田竹系さんだけは送り仮名を付けて「手打ちうどん」と書かれていました。
あと2軒のうどん店オープン広告は、こんぴらさんの参道口にできた“釜上げ手打うどんとおみやげ”の「かどいち」と、高松市中心部の中新町交差点にできた“うどん料理”の「ゆたか」です。
「かな泉」の時代がやってきた
この年、目立って多く広告を出していたうどん店は「かな泉」で、屋島店のオープン広告に加え、協賛広告、求人広告の計6本も見つかりました。いよいよ「かな泉時代」到来の予感です。
美しく撮影されたメニュー写真をメインビジュアルに使うという広告デザインは、うどん店広告としてはおそらく「かな泉」が先駆者です。そして、1980年代あたりの全盛時には「かな泉」と言えば「うどんすき」のイメージがすっかり定着していたのですが、「かな泉」の広告に初めて大きく出てきたメニューは「うどんすき」ではなく、「弁けいなべ」といううどん料理でした。加えて、おみやげ用、贈り物用のうどんセット(だしつき)などの商品も揃っています。左上の囲み部分を見ると、「かな泉」は紺屋町の本社工場と大工町店、屋島店に加え、「福山店」が登場しています。
先述のように、「かな泉」を展開する会社は「有限会社金泉食糧商会」。求人広告には「うどんの金泉」とあって、いろいろ呼称を使い分けていたようです。求人内容を見ると、給料もずいぶん上がってきました。
その他の複数回広告は「さぬきうどん」と「長田うどん」
かな泉に続く複数回の広告を出していたうどん店は、ここ数年にわたって主役級の露出を見せる「さぬきうどん」と、満濃の「長田うどん」です。
満濃の「長田」と言えば“釜あげうどんの王者”としてその名を轟かせた名店ですが、この時期の広告には「釜あげうどん」の名前は全く出てきません。広告の中のイラストもどうも釜あげではなさそうですが、どのあたりで「釜あげうどんの長田」が出てくるのでしょうか。続報を待ちましょう。
うどん店の協賛広告が続々
では、前年に続いて年末にうどん店勢揃いの協賛広告が掲載されていましたので、そのラインナップを見てみましょう。
まず、2年連続登場は、
・山鹿
・いち藤
・うどん房
・川福
・久保製麺
・さぬき一番
・三十一代
・かな泉
という顔ぶれ。このうち、「川福」の広告には「川福チェーン店」として「高松空港スナック ハワイ・ホノルル 和風レストラン舞妓・山水をご利用下さい」と書かれていますが、具体的な内容はよくわかりません。続いて新顔は、
・手打うどん「大黒屋」…高松市郷東町
・手作りうどんの店「都由」…高松市常盤町
・手打うどん「なみき」…高松市香西本町
・打込どじょううどん・手打うどん「羽島」…高松市片原町
・セルフの店・手打うどん「わたや」…高松市観光通り
・井筒の釜上げうどん「井筒製麺所」
・本場手打うどん「やしろ」…坂出市府中町
の7店です。この中には「なみき」「井筒」「わたや」「久保」といった大衆セルフ店が何軒も入っていて(「かな泉」紺屋町店のセルフもすでに営業中)、この頃から讃岐うどん発展の大きな原動力の一つである「サラリーマンの昼飯仕様」というスタイルが明らかに加速しつつあることが窺えます。
加えて、小豆島の佐伯甚助商店が「完全自然食・手延こびき生うどん」の広告を出していました。「こびきうどん」はそうめんを作る途中の「小引き」という工程の段階で出てくる「まだそうめんになる前の太い麺」をそのまま取ったもので(ちょっとしか引っ張ってない状態なので「小引き」と言うそうです)、「昭和の証言vol:262」にも小豆島の年配から「こびきうどん」の話が出ていました。この年、同商店はこの協賛広告以外にも単独で「こびきうどん」の広告を出していました。
写真の麺は真っ直ぐな乾麺ではなさそうですが、そもそも「小引き」の段階はまだ乾燥させていませんし、協賛広告の方には「こびき生うどん」とありましたので、おそらく生うどん状態で売っていたと思われます。
「福一」の“うどん鍋”
続いて、うどん専門店ではないけれど「うどん」を大きく打ち出した料理屋とレストランの広告が2本見つかりました。
まずは、高松市瓦町の「福一」。キャッチに「お好み天ぷら」とありますが、広告のメインは「本場手打・うどん鍋」です。「うどん鍋」の内容はほとんど「うどんすき」と同じようなものだと思われますが、もしかすると「川福」が数年前から打ち出していた「うどんすき」に敬意を表して、よく似たメニューだけど違う名前で売り出したのかもしれません。しかしそれにしてもこのイラスト、ミニスカートで正座する女性の太ももを見てコーフンする男性って、今なら完全にアウト(笑)。
続いて高瀬町のレストラン「ダイイチ」。「和風レストラン」ですが、「本格派さぬき手打うどん」とあって、釜あげ、てんぷら、うどんすき、うどん定食と、うどんメニューがなかなか充実しています。
“たらいうどん”を打ち出した店が2軒
続いて、「たらいうどん」をメインに打ち出した店が2軒出てきました。
1軒目は、前出の「源内」の広告の中の山田竹系さんの寄稿文にも出てきた、庵治町の「湧泉亭」。たらいうどんより高い「泉うどん」なるメニューが気になります(笑)。
2軒目は、五色台の「銀水苑」。ここは、元は昭和44年の広告に出てきた「たらいうどん『かすが』五色台仮支店」です…が、店舗概要はともかく、広告の小さい文字の方のコピーが仰天もの!
「青々とした玉藻の浦を眺め 蟻の様な下界の人の生活を見る時 皆様の心は豊になり 生きる希望がわく事と思います」
…って、いいのか、そんな物言いをして!(笑)
まだまだ出てくるうどん関連広告
トキワ街にあったジャスコ高松店の屋上お食事コーナーに、「味よし」といううどん店が入っていました。
県庁裏の「番丁」も当時、「実演手打うどん」を打ち出していました。
「ビヤガーデン トキワ」のオープン協賛広告(社名のみの広告)の中に、「源芳製麺所」と「ふたば製麺所」と「丸川製麺所」の文字が見えました。
「富田製粉乾麺工場」が、乾麺商品(うどん、ひやむぎ、そうめん)の広告を出していました。
ちなみに、広告の中に載っている週刊現代の「雑談」というミニコラム(記事体の広告かもしれませんが)は、以下のような文章です。
「富田製粉乾麺工場」は東京にも営業所を構え、商社を通じて乾麺商品を全国発売していたようです。さらに「富田食品尼崎店」(実演手打うどん)とありますから、尼崎でうどん店も経営していたと思われます。
最後はこれ、高松市檀紙町に「さぬき手打うどんの会」なるものがあったそうなのですが、その会社でも店でもなさそうな名前の「会」が「ご進物・おみやげに、ざるうどん」という広告を出していました。以上、昭和47年の讃岐うどん界は、会社や店や有志たちがあちこちで動き始めたようです。