「製麺所と食堂のうどん」の時代から「うどん専門店」の時代へ
万博の喧噪が明け、江夏がオールスターで9人連続三振を取った昭和46年。高度経済成長時代は「いざなぎ景気」が一段落して“一服”した感もありますが、日本は引き続き、それなりに好調です。そんな中、この年の「うどん関連記事」はこれまでと同じような類の話題がチラホラと見られる程度で、特に大きな話題はありませんでしたが、広告や記事に具体的なうどん店の名前がずいぶんたくさん出てきて、讃岐うどん界の時代が少し動き始めた感もあります。
では、「これまでと同じような類の話題」から見ていきましょう。
物産展が大阪に展開
まずは「物産展」の記事を3本。これまで東京のデパートで開催された物産展ばかりが紹介されていたところ、この年は大阪開催の物産展記事が2本出てきました。
讃岐うどんなど人気 大阪で全国観光物産展
「全国の特産品と観光展」が大阪・天満の松坂屋大阪店で16日から幕をあけた。この催しは在阪道府県協議会のキモ入りで開かれたもので、今年は第2回。北海道から沖縄まで全国各地から郷土色豊かな特産品の数々が展示、即売されており、初日から大変な売れ行きをみせている。県からも讃岐の物産約90点が出品されているが、今年は民芸品などのほかに、讃岐うどん、しょうゆ豆など盛りだくさんな讃岐の味が顔をそろえて人気を集めている。昨年は全体でざっと2000万円、県独自では約20万円の売り上げがあったが、今年は5割増程度を見込んでいる。会期は21日まで。
1本目は2月に大阪天満の松坂屋で開催された「全国の特産品と観光展」。記事中に「昨年は…」とあるので何回目かの開催だと思われますが、四国新聞で「全国の特産品と観光展」というイベントが紹介されたのはこれが初めてです。16日から21日までの6日間の開催で「県独自では約30万円の売上を見込んでいる(前年の20万円の5割増程度)」とのことですが、2年前の昭和44年に東京の三越で行われた「第18回四国の観光と物産展」は、同じ6日間の開催で4県合わせて「1000万円以上になるだろう」とあったので、単純に4で割っても香川だけで250万円以上。つまり、香川県にとっては大阪の「全国の特産品と観光展」は東京開催の「四国の観光と物産展」の8分の1以下の売上規模の物産展なので、新聞で毎年紹介するほどのものでもなかったのかもしれません。
続いてこちらは、大阪の心斎橋そごうで開催された「第1回四国の観光と物産展」。「四国の観光と物産展」は東京ではもう20回近く開催されていますから、これは大阪の「第1回」ということでしょうか。
四国の観光と物産展 浪速に一合まいたのメロディー 前だれ商法に汗だく 県コーナー売り上げ最高
“ハー、一合まいたモミのたね…” 時ならぬ懐かしいメロディーが浪速のど真ん中のデパートに流れ、買い物客は思わず足を止めた。これは11日から大阪・心斎橋そごう百貨店で開かれている「第1回四国の観光と物産展」に特別出演した讃岐の民謡パレードで、13日には午前11時から4回公演し、人気を呼んだ。この催しは「青い海、光りと緑の四国」のキャッチフレーズで香川をはじめ四国4県が共催で実施しているもので、各県それぞれの郷土物産を展示、アトラクションにも趣向をこらして四国のPRを繰り広げている。
この日は、香川から讃岐ばやし保存会(円尾清子さん他20人)の一行が、おなじみの「一合まいた」「こんぴら舟々」「讃岐ばやし」を披露、わんやのかっさいを浴びていた。即売コーナーでも手打ちうどんをはじめ、てんぷら、かまぼこ、日がさなど讃岐の物産が飛ぶように売れていた。香川からは35点の物産を出品、即売しているが、盆栽などに人気が集中、初日からの売り上げは香川県コーナーが最高を記録、県事務所の職員も日曜返上で前だれ商法に汗だくだった。16日までの会期中に、4県でざっと1400万円の売り上げを見込んでいる。
11日から16日までの6日間で「4県合わせて1400万円」の売上を見込んでいます。先述の昭和44年に東京の三越で行われた「第18回四国の観光と物産展」は、同じ6日間の開催で「4県合わせて1000万円以上」の売上予測でしたから、2年後とはいえ、東京開催に全く引けをとらない数字。つまり、香川県は「全国の物産展」に出るより「四国の物産展」に出る方が売上が断然多い、という結果です。
ついでにもう一つ、高松で開催された全日本麺類業組合総連合主催の「麺類の試食・展示会」の記事がありました。
手打ちうどんをどうぞ 高松で麺類の試食・展示会
伸び悩みの麺類の需要をアップしようと全国の各都市でキャンペーンを展開している全日本麺類業組合総連合(東京)は、30日午前10時から午後4時まで、高松市民会館2階で「麺類の試食・展示会」を開いた。会場には讃岐の手打ちうどんやかまあげうどん、スパゲティ、そうめんなど生麺、乾麺製品が展示され、栄養豊かな麺類を盛んにアピールしていた。また、特設コーナーでは、できたての手打ちうどんをサービス、会場を訪れた人々は舌つづみを打っていた。展示された麺製品約2500食分は展示終了後、市の福祉施設に寄贈された。
この頃、麺類の需要が全国的に伸び悩んでいたそうです。「讃岐の手打ちうどんやかまあげうどん」とありますが、「手打ちうどん」と「かまあげうどん」が別物という認識だったのか、あるいは記者が適当に書いちゃったのか(笑)。
「五色打ち込み」と「竹林茶会」
続いて、「うどん作り」と「うどん振る舞い」の記事が2つ出てきました。まずは、綾歌中学の生徒が五色台学習で打ち込みうどんを作ったという話題。
コラム「一日一言」
このごろ流行の“おふくろの味”に対して“おやじの味”を持ち出したのは讃岐生まれの料理タレント土井勝さんで、おやじの味とは他ならぬ手打ちうどんだったので、わが意を得たりと思った。その手打ちうどんを、小麦粉と水をまぜてこねたり、新しいビニール製のゴザで巻いて足で踏んだり、のべ棒に巻いて伸ばしたり、屏風畳みにしたのを包丁で刻んだり、それを棒に並べてすだれのようにしてから、具が煮えたぎっている大ナベに入れるまでのコースを、目の当たりに見た。しかも、そのうどん職人が、おやじならぬ中学2年のグループだから、うれしかった。
23日からきのう27日まで、4泊5日の五色台教育に来ていた綾歌郡綾南中学の男生徒の晩めし作りで、うどん粉に塩を入れなかったのは、打ち込み汁を作るためとわかった。その打ち込み汁も、生徒たちの発想で、山の家にちなむ「五色打ち込み」。赤峰のニンジン、青峰のネギ、白峰のとうふ、黄峰の油あげ、黒峰はゴマの声も出たが、盛りつけてからのせる焼きノリに決まったと、家庭科の竹内先生が教えてくれた。
150人を超える女生徒たちは、それらの野菜を昔ながらのまな板の上で刻んだり、すりばちで田舎味噌をすったり、別のグループは、マキが燃えるかまどにのせたカワラ(ほうろく)の豆を炒って、郷土名物しょうゆ豆を作っていた。しょうゆ豆も、生徒にアンケートした結果、パーンと豆がはねるまで弱火で炒ったのを調味汁に入れ、ほうろくでふたをしてその上に火種をのせる原始的なものから、炒った豆を水につけてやわらかくし、調味料の汁につける近代的なものなど、4種類も作り方があることを教えられた。
打ち込み汁も、あくまでみそ汁としての持ち味を失わぬため、みそを2回に分けて入れることも知らされたが、ふるさとの味を守るため、中学の家庭科がこれほど研究していることに心打たれた。また、食前食後には一同が合掌し、モチつきしたお初穂は近くの根来寺と白峰寺にお供えしたという伊賀校長のしつけには、涙ぐましい感激を覚えた。
再び土井勝先生のお名前が登場。やはり、讃岐うどんの歴史に土井勝先生は欠かすことができません。
さて、五色台学習に来た綾南中学の生徒は女子だけで「150人を超える」とありますから、男女合わせて300人前ぐらいの打ち込みうどんを作ったのでしょうか。しかも、小麦粉と水を混ぜるところから作ったようなので、これはなかなかの本格的うどん作り体験です。ちなみに、「打ち込みうどんはうどん粉に塩を入れない」というセオリーは一日一言子も知らなかったようですが、それは打ち込みを作る農家だけの知識であって、作らない人には当然わからないことなので、通ぶって責めてはいけません(笑)。
次は、昭和44年にも紹介された“うどんの出る茶会”でおなじみ(?)の「竹林茶会」の話題。
猛暑の中、竹林茶会 県内外から茶人いっぱい
県下三大茶会の一つ竹林茶会が4日午前8時から大川郡志度町の志度寺、自性院、竹林庵などで催され、早朝から県内外から多くの茶人が訪れ、盛況だった。この茶会は、人助けと社会事業に一生をささげ、好んで竹の絵を書き、茶道に精通して地元の人たちから“竹林さん”と親しまれていた竹林上人の遺徳をしのんで開かれている。
この日は、早朝から暑く、茶席中央には氷柱も置かれていたが、午前6時過ぎには早くも茶人が姿を見せるなど県内をはじめ岡山、徳島などからも続々と訪れ、本席の志度寺表書院、協賛席の志度幼稚園、香煎(せん)席の竹林庵の各席は茶人でいっぱいで、石州流県支部、官休庵流・蔦の会社中、橋村月光社中のお点前でお茶を楽しんでいた。また、岡田珠甫社中が担当した自性院での点心席の名物うどん、真覚寺での協賛色紙も人気を集めていた。
「讃岐の良寛さん」と呼ばれる竹林上人を偲ぶ「竹林茶会」は、令和の時代に入っても継続中です。自性院の点心席では今もうどんが振る舞われていますので、さぬきうどん文化に思い入れのある方はぜひ一度ご体験を。
「八十八庵の団蔵うどん」の起源
続いてこの年、歌舞伎役者の「八代目市川団蔵」を偲ぶ、あのうどんメニューの発祥が記事になっていました。
コラム「自由港」
41年、お四国巡りをすませた後、関西汽船から投身自殺を図った故市川団蔵の供養接待祭が30日、霊場めぐりの最後の寺、大川郡長尾町多和の大窪寺山門前茶店「八十八庵」で行われた。同寺を訪れるお遍路さんが供養に立ち寄り、故市川さんのめい福を祈った。
市川団蔵が同寺を訪れた時、この茶店でうどんを食べ、隠れるようにして立ち去ったが、帰りぎわ「おいしいうどんを食べさせていただきました」の言葉を残したことに茶店の店主がすっかり感激。その記念に「団蔵うどん」と命名。供養を兼ねて“接待”した。かつては鈴の音を響かせながら札所を巡るお遍路さんの姿も近年貸し切りバスによる札所巡りですっかり姿を消し、最近の同寺では年1回、徳島県美馬郡脇町の阿串地区の人たちが総出で接待に訪れるだけ。この日も約100人を超えるお遍路さんが貸し切りバスで訪れた。この店ではこれから「団蔵うどん」を名物にして売り出す計画。
「八十八庵の団蔵うどん」は要するに「ざるうどん」ですが、マニアの間ではちょっと知られているそのネーミングの起源の話が出てきました。昭和41年の5月から6月にかけて四国霊場の巡礼に出た八代目市川団蔵が、巡礼最後の88番札所大窪寺の門前にある「八十八庵」でうどんを食べて「こんな美味しいうどんは食べたことがなかった」と言ったことから命名されたということですが、八代目のその後の足取りについては「小豆島で一泊した後、大阪に向かう船から入水自殺した」とか「坂出から乗船した後、入水自殺した」とか、人によって記述がぶれていてよくわかりません。ちなみに、天下の『るるぶ』のネットサイトで「八十八庵の団蔵うどんは市川団蔵が命名した」という記述を発見しましたが、それはどうも間違いのようです(笑)。
「コシコシ」「しこしこ」に続いて「シッコリ」が登場(笑)
続いて、例の「うどんの“コシコシ”」に新表現が登場しました。
月曜随想/高松印象記(高松家裁首席調査官・野田芳平)
(前略)…郷里を出発前「全国美味い物案内」とかいう小冊子をある人が貸してくれた。香川県の頁を読むと、四国新聞の記者の方が郷土料理や名産、銘菓のことなど色々書いていた。名物の第一は讃岐うどん、白味の魚のうまさ、源平鍋、讃岐三白のことなど…椰子(やし)の実のように孤独の私はうどんを食べに街にでる。繁華街は心斉橋に倣ったとか、縦横に広く店舗はなかなか立派である。衣装店が多いがデパートが1つしかないのは、四国の玄関都市にしては少し淋しい。この都市は通過都市かも知れない。うどんはシッコリと歯ごたえがありこれは成程うまい。…(以下略)
関東出身で仙台から高松に赴任してこられたお役人の方が「高松の印象」を語ったコラムの抜粋ですが、「うどんはシッコリと歯ごたえがあり…」という表現が出てきました。語源は何でしょう。「シッカリとコリコリしている」なら「コリコリ」がうどんの麺の表現として違和感があるし、「シッカリとコシがある」なら「シッコシ」だし(笑)…。
というわけで、これまで出てきた表現を整理すると、
「コシコシ」…四国新聞のコラムニスト(昭和42年)
「コシコシ」…四国新聞の一日一言子(昭和44年)
「しこしこ」…東京在住と思われる記者(昭和44年)
「シッコリ」…関東~仙台在住だったお役人(昭和46年)
となっておりまして、依然として、
①生粋の香川県人(だと思われる)は「コシコシ」
②県外人はそれ以外
という図式は崩れておりません。
ゆで麺の「表示不良」と「値上げ」
続いて、小売の「ゆでうどん」に関するニュースを2つ。まずは、ゆでうどん商品の「表示不良」です。
製造月日ほとんどダメ 公取委高松事務所、ゆで麺類など検査
公正取引委員会高松地方事務所は23日午後1時から高松市番町の総合会館で、ゆで麺類と包装かまぼこ類の試買検査会を開いた。消費者代表、業界代表ら18人が出席して検査した結果、あい変わらず製造年月日の表示のないものが多く、公取委では業界を通じて警告や指導をすることになった。
ゆで麺類は、4県でそれぞれ製造販売されているうどん、そばを香川5点、愛媛12点、徳島9点、高知7点、その他2点を試買、検査した結果、香川の5点は表示不良2点、標示事項不備5点と全部が製造年月日の表示がなく、中には不良と不備がダブっている悪質なものも見られた。包装かまぼこは香川10点、愛媛11点、徳島3点、高知6点、その他15点を試買、検査したところ香川10点のうち7点に製造年月日の表示がなかった。
公正取引委員会の抜き打ちチェックによると、香川県で調べられたゆで麺類の商品5点すべてに製造年月日の表示がなく、そのうちの2点はさらに別の表示不良も重ねていたという結果。これがうどん業界に限ったことかどうかはわかりませんが、「あい変わらず製造年月日の表示のないものが多く…」とありますから、当時のうどん業界で“いい加減な表示”が常態化していたことがわかります。
しかし、それでも「値上げ」はきっちりと実践しています(笑)。
“讃岐の味”値上げへ うどん玉、卸し値1円アップ
讃岐を代表するうどんが来月から値上げされそう。高松市内の大手製麺業者が12月1日からうどん玉の卸し値を1円アップに踏み切ったためで、小売値の値上げはもちろんだが、うどん屋で食べる「讃岐うどん」への波及も必至で、物価値上げ旋風に、讃岐名物も例外でなかったようだ。高松市内3軒の大手製麺業者は、他の府県の業界が2年前から1玉の小売値が20円になっていることや、原材料費、諸物価、人件費などの高騰などによるコストアップを理由に、1日から現在の卸し値1玉14円を15円に、小売値17円を20円に値上げすることに踏み切った。
「昭和45年」の項でまとめた「うどん玉値上げの経緯」にこれを加えて再掲すると、
昭和36年…1玉8円に値上げ
昭和40年…1玉10円に値上げ
昭和43年…1玉12円に値上げ
昭和45年…1玉14円に値上げ
昭和46年…1玉15円に値上げ
となりました。「4年で2円値上げ」から「3年で2円」、「2年で2円」ときて、今回は「1年で1円」の値上げ。「2年も待てない」という感じで値上げスピードがアップしてきました。
うどん店の名前が続々登場!
さて、この年の秋から冬にかけて「うまいもの屋」というグルメコラムの連載が始まり、そこに具体的なうどん店の名前が3軒出てきました。
連載コラム「うまいもの屋」…新車
「ああ、うどんの新車」と、うどん通ならかなり遠方まで名の知れた木田郡三木町は平木橋のすぐ隣に大正8年から“細め”とダシのうまさで通の舌をしびれさせてきたのが「新車」だ。長尾街道がまだ舗装されるどころか三木町一帯は青々とした田園風景が見られ、道行く子供は“わらぞうり姿”の半世紀も前に店開きしてから現在の店主、白井一夫さん(43)は三代目。うどんだけだったメニューも時代の変遷から別棟の喫茶店を増築、また奥の部屋には宴会室もでき、丼物から生ビールまで揃った。
特徴ある細めうどんは、うどん50円、湯だめ・冷やし60円、玉子とじ80円、かやく90円、肉・カレー140円といったところ。昔は店で打っていた玉は現在独立した元従業員が打って配達してきており、昔の通りとか。ただし、ダシの作り方は門外不出の“秘中の秘”。午前10時から午後8時まで。第一、第三日曜日以外年中営業の店内は広いが、昼時は駐車場も店内も超満員になるほどの繁盛だ。
「大正8年創業で、最初の頃のメニューがうどんだけだった」ということは、「大正時代から三木町にうどん専門店があった」ということです。「細めのうどんが特徴のうどん店」も初めて出てきました。
連載コラム「うまいもの屋」…田吾作
観音寺市大和町の「田吾作」は、打ち込みうどん、手打ちうどん、おでんの店として左党に知られ、夕方ともなるといつも常連がカウンターに並ぶ。“田吾作名物”とまで言われている「打ち込みうどん」は、土鍋にエビ、カシワ、す巻き、ネギ、シュンキクなどをかやくとして入れ、炊き込んだもの。「コップ酒のあと、虫おさえとして食べれば最高」と評判。…(以下略)
続いての登場は、観音寺の「田吾作」といううどん店。「うどんとおでんを出す店」が新聞に初めて出てきました。打ち込みうどんは「コップ酒の後で食べるのが最高」ということは、「酒の締めにうどん」という慣習がすでにあったということでしょうか。
コラム「うまいもの屋」…かな泉
高松市大工町のフェリー通りほぼ中央にあるうどんの店。店の主人が「うどんの集大成の店を作ろう」と昨年末開店した。だから、うまい物は当然のことながら、うどんとなると釜あげ、ざるなどいずれも無漂白の県産のうどん粉しか使わないという。客の目の前で生うどんを土鍋で茹でてヤマイモのタレで食べさせたりもする。
店頭には直径2メートルの大きな赤ちょうちん。玄関脇には四国作家同人の佐々木正夫氏が書いたうどん処を説明する「讃州うどんの庄」を掲げ、足元に「右こんぴら道、左八栗道」の道標を置くなど、凝った店作り。店内にはランプの他、船虫の食った船底を飾るなど、民芸調を出している。営業は午前11時から深夜まで。場所柄、大きなちょうちんが目を引くのか、夜間は観光客なども多い。高松市紺屋町の日銀高松支店脇にあるセルフサービスのうどんの店は、この「かな泉」の本店。
そして、この年の締めのコラムは、昨年の暮れにオープンした大工町の「かな泉」。記事にいろんな情報が入っています。
まず、「無漂白の県産小麦しか使っていない」ということは、当時の大工町の「かな泉」の麺には少し色がついていたと思われます。また、「かな泉」と言えば「店頭の手打実演」が代名詞のように語り継がれていますが、当初は店頭の手打実演ではなく、「客の目の前で生うどんを土鍋で茹でる」というパフォーマンスが紹介されています。
一方、店の外観については、店頭に直径2メートルの大きな赤ちょうちんがあり、佐々木正夫先生が書かれた「讃州うどんの庄」の表示板がありました。あと、「かな泉」と言えばこの大工町の店が一番に浮かびますが、紺屋町のセルフ店の方が「かな泉」の本店だったそうです。ちなみに、香川県内に「セルフの発祥」を謳ううどん店は数軒あるそうですが(笑)、少なくとも新聞に出てきた「セルフサービスのうどん店」は、このかな泉の紺屋町本店が最初です。
年末にうどん店の協賛広告が一挙掲載!
そして年末に、佐々木正夫先生の「そば・うどん」を語った寄稿文を囲んで、一挙に16軒のうどん店の協賛広告が掲載されていました。
まず、佐々木先生の寄稿文をブロックごとに味わってみましょう。
うどんクンありがとう
うどんに明け、うどんに暮れようとしている讃岐。われよく戦えり…といえるほど、ことしも、おらが国さの手打うどんは善戦してくれた。東京、大阪、九州などで開かれた讃岐の観光と物産展では、うどんの屋台がデパートに乗り込んでくれたし、ふるさとの味を県外へ…ということで、おみやげうどんが飛ぶように売れた一年だった。うどんクンよ、ありがとう、そんなコトバを投げかけてやりたい讃岐の手打うどんである。
「讃岐うどん」の1年の総括として佐々木先生が取り上げたのは、全国の物産展で人気を博し続けている「讃岐うどんの手打実演販売」の話題。それに伴って「お土産うどんが飛ぶように売れた」と絶賛しておられます。ちなみに、文中の「讃岐の観光と物産展」は「四国の観光と物産展」だと思いますが、佐々木先生だから誰も訂正できません(笑)。
しっぽく
ことしの食べおさめに“しっぽく”うどんはいかが。作り方は簡単。だいこん、にんじん、あげなどをタンザク切りして、ウスクチの醤油でグツグツ煮る。それを、うどんにぶっかけたのが“しっぽく”なのである。素朴、讃岐の伝統、おふくろの味、田舎の風物詩、という意味では“しっぽく”が随一。
「讃岐の伝統、おふくろの味、田舎の風物詩」という意味で、讃岐うどんの随一のメニューは「しっぽくうどん」だそうですが、「昭和の証言」には、讃岐の伝統食や田舎の“おふくろの味”的な食事として「打ち込みうどん」はよく出てきたものの、「しっぽくうどん」はほとんど出てきていません。果たして昭和の「田舎の家庭におけるしっぽくうどん」は讃岐の“随一”の風景だったのか? 恐れ多くも佐々木先生の文章ですが、今後の新聞記事や証言の聞き取り等から傍証が出てくるのを待ちましょう。
年越そば
そばは信州のもの、などといわれているが、これは大間違い。祖谷、西讃の琴南町などで作られるそばは文句なしにうまい。そば花が咲くころ、濃い霧がたちこめる阿讃の風土がそば栽培にいいのだ。数年前までは、年越はうどんが多かったが、近年では、そばがよく売れるらしい。
「“そばは信州のもの”というのは大間違い」と断定するのが“佐々木節”です(笑)。その佐々木先生の当時の“伝聞情報”によると、「香川の年越しは昭和40年頃まではうどんが多かったが、その後、“年越しそば派”が増えてきている」とのことです。
では、広告で16軒もまとめて出てきたうどん店を見てみましょう。地域別に見ると、一番多かったのは高松の中央商店街あたりのうどん店で、以下の8店が出ていました。
●手打うどん「山鹿」(高松市内町)
●生そば・手打うどん「更科」(高松市ライオン通)
●讃岐手打ちうどんの総本家/うどん割烹「川福」(高松市ライオン通、大阪店、松山店)
●うどんの庄「かな泉」(高松市大工町店、紺屋町店)
●味の店・手打うどん「瀬戸」(高松市瓦町)
●さぬき名物手打うどん「きみや」(高松市トキワ街)
●手打うどん「さぬき一番」(高松市南新町)
●生そば・うどん「田舎」(高松市田町)
ライオン通の「川福」は、昭和44年の広告には大阪店までしか載っていませんでしたが、この年には松山店が登場しています。
続いて、商店街周辺の中心市街地からは、この4軒。
●本場手打ちうどん「いち藤」(高松市中央通り)
●「ふる里本店」(高松市古新町、観音寺店)
●さぬき名物手打うどん・たらいうどん・釜上専門店「うどん房」(高松市番町源芳ビル2階)
●実演販売総本家「久保製麺」(高松市番町)
1990年代終盤に閉店するまでサラリーマン御用達の大人気セルフ店だった「久保製麺」の、この時のキャッチフレーズは何と「実演販売総本家」。筆者は1980年(昭和55年)頃から久保製麺でよくうどんを食べていましたが、「実演販売」のイメージは全くなく、まさか当時こんなキャッチが付いていたとは思いませんでした。
続いて、高松市郊外からはこの3軒。
●「さぬきうどん」(高松市栗林公園前店、高松駅前店、太田下町店、徳島店、岡山店、博多店、大分店)
●手打の味・安くてうまいさぬきうどん「むらかみ」(高松市東ハゼ町)
●手打うどんの店「三十一代」(高松市成合町)
「昭和45年の広告」にも出てきた香川町の「讃岐製粉株式会社」が展開する「さぬきうどん」(店名です)が、県外にどんどん店舗を増やしています。同社はこの年、四国新聞に求人広告もバンバン打っていましたから、もしかすると当時の讃岐うどん界の最大勢力だったのかもしれません。
そして最後に高松市以外から1軒。
●本場手打うどん「長田うどん店」(仲多度郡満濃町)
かまあげうどんの“西の雄”、満濃町の「長田うどん店」が広告を出していました。
ちなみに少し解説しますと、こういう協賛広告というのはほとんどが店側から申し込んでくるのではなく、企画(この場合は「佐々木正夫さんの寄稿文を囲んだ広告企画」)をもとに広告代理店の営業マンが「広告しませんか?」と言って売りに行くもので、営業マンはたいてい「広告実績やコネのある店に頼みに行く」か「お金の出そうな店や会社に飛び込み営業をかける」ことになります。そして、この企画はたぶん高松市にある広告代理店が中心になって営業をかけているため、手っ取り早いところで高松市内のうどん店がたくさん網にかかっている(失礼)と思われるわけです。そう考えると、唯一の高松以外の店である満濃の「長田うどん」は、当時から県下に相当名前が轟いていたのかもしれません(営業マンのコネかもしれませんが・笑)。
他にも讃岐うどん店の広告が続々!
その他、この年は讃岐うどんの店の単独広告(これは基本的に店側から広告掲載を申し込んできたもの)もたくさん見られましたので、列挙してみましょう。
「さぬきうどん」の栗林公園前本店がオープンしました。また、別に掲載されていた商品広告には、3種類のパッケージに入った「おみやげ用さぬきうどん」の写真が載っていました。ただし、中味が乾麺なのか生うどんなのかはわかりません(まだ「半生うどん」が出てきたという記事はありません)。
「川福」もお土産うどんの広告を出していました。こちらは「生うどん」ですが、保存可能な日数はわかりません。
協賛広告にも出てきたトキワ街の「きみや」は、本店が中華そばの店、支店が手打うどんの店で、いずれも「実演」を前面に打ち出しています。「昭和の証言」の中に、「ライオン通の川福は昭和35年頃から客の前で手打実演をやっていた(vol.72)」とか、「片原町の羽島は昭和40年代から店で手打実演が見られた(vol.279)」という話が出てくるように、この頃、高松市の中心街では手打実演が見られるうどん店が結構点在していたようです。
坂出市のうどん店の広告が初めて出てきました。「連日終夜営業」で、「手打うどんの本当の味を教え」てくれる店だったようです(笑)。
協賛広告に、精麦の「高畑精麦」と製麺の「合田照一商店」と「さぬき麺業」が並んでいました。「さぬき麺業」はこの頃、まだスパゲティが主力商品の一つです。
東京で頑張る讃岐うどんの店の「玉藻」が、正月の年賀広告を出していました。「さぬき手打ちうどんと源平鍋の店」です。
というわけで、昭和46年の四国新聞には、明らかに個別の「うどん店」の名前が数多く登場し始めました。何となく、戦後以来の「製麺所と食堂のうどん」の時代から「うどん専門店」の時代へ移り始めたような、そんな気がします。