さぬきうどんのメニュー、風習、出来事の謎を追う さぬきうどんの謎を追え

vol.27 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る讃岐うどん<昭和44年(1969)>

(取材・文:  記事発掘:岡谷幸子・萬谷純哉)

  • [nazo]
  • vol: 27
  • 2020.06.04

讃岐うどん本の先駆の一冊、『随筆うどんそば』(山田竹系著)が発刊

 昭和44年7月21日午前11時56分20秒、アポロ11号が月面に着陸して「月の石」を持って帰って世界中が湧いたのですが、この年の香川の10大ニュースは「志度で幼い姉妹が誘拐される」「交通事故死者数が史上最悪を記録する」「丸亀のタクシー会社の社長が刺殺される」「番の州で公害紛争が起こる」「高松市で赤ちゃんがさらわれる」等々、暗いニュースが目白押しでした。でも、日本はまだ高度経済成長期の「いざなぎ景気」が続いています(来年まで続く)。そして、景気がいい時はどうも「うどん」の記事があまり新聞に取り上げられないようです(笑)。では2年連続、数少ない「讃岐うどん四方山話」をお楽しみ下さい。

昨年から続く値上げラッシュ

 好景気には「値上げ~インフレ」が付き物。前年の「うどん玉の卸価格の値上げ」に続いて、この年は4月から「小売価格の値上げ」の記事です。

(4月4日)

まるで野放し 値上げラッシュ
麺類は軒並み、クリーニング代も

 今年は年明け早々から「物価値上げの年」。この中旬に実現しそうな国鉄運賃の引き上げがそのシンガリかと期待されたが、まだそのあとにバス運賃やタクシー料金も続きそうな情勢で、一杯の「うどん」から洋服の仕立て料、大工さんの日当まで、それこそ軒並みの値上げ旋風が1月以降吹きまくっている。県統計調査課が1月から3月末までの間、高松市内を中心にした物価の値上げ状況を調べた結果によると、まず食べ物では飲食店の「どんぶり」ものや麺類は10円から30円のアップ。この中で「うどん」は40円から50円、チャルメラとともに町をゆく夜なきソバも10円高の90円。しょうゆは360円が390円へ、お酒も合成ものは400円から430円、マーガリン1箱80円が100円、牛乳もサミダレ戦術で普通牛乳が3円、特殊もので3円から5円高とアップ、アップの連続だ。…(以下略)

 飲食店の「うどん」は1杯40円から50円に、一気に25%も上がりました。遡ると、昭和35年頃からの約10年間で、うどん玉の卸値もうどん店のうどんメニューもおよそ2倍近くになりました。

またまた「夜なきうどん」が登場

 5月から7月にかけて、讃岐うどんの四方山話が3本。まずは、明善短大の先生が寄稿した「うどんの思い出」です。

(5月25日)

連載「今週の暮らし・食」うどんの思い出

 「Sのビフテキ、Yのうどん」、これは40年前、磨屋町で向かい合った家の主の食いしん坊の一面を言ったもの。当時、S弁護士は昼食に200匁(750グラム)のテキを食べておられ、それに対抗するように“高島ご用”の夜なきうどんは我が家の前に毎晩止まって商いをしたものだった。父は亡くなるまで食べられたのは麺類だけだった。

 讃岐のうどんは「うまい、安い、便利な食べ物だ」山陽線の車中で高松駅構内のうまいうどんの話を耳にしたし、日本女子大の前学長大橋広先生も榎井付近でマツタケ入り15円の1杯に驚かれたこともある。東京へも何軒か進出している讃岐うどん。いつでも客で一杯だそうだが、もっと他の地方にも紹介したい。(明善短期大学教授)

 まず前段は、固有名詞の関係はよくわかりませんが勝手に解釈すると、この筆者のお父さん(Yさん)とお向かいの弁護士のSさんが共に食いしん坊で、Sさんが750グラムのビフテキを食べるのに対抗してYさんは夜なきうどんをしこたま食べるので、夜なきうどんの屋台がそれを当てにして毎晩Yさんの家の前に止まっていたという話のようです。解釈が合ってるかどうかわかりませんが、とりあえず「昭和44年に高松市の磨屋町に夜なきうどんの屋台が出ていた」ことは間違いなさそうです。

 続いて後段は、県外の人にも讃岐うどん人気が知れ渡っているというエピソードですが(ちょっと文法が変ですが原文のまま)、そこにまた「(琴平町)榎井のうどん」(「昭和43年」参照)が出てきました。マツタケ入りで1杯15円です。さっき「高松市内のうどんが1杯40円から50円になった」という値上げ記事がありましたが、マツタケ入りうどんの「15円」がいつの話かわからないにしろ、相当安いのは間違いありません。うどん玉の卸しは組合の談合的な統一価格が主流ですが、うどん屋さんのうどんの値段は自由競争なので、地域や店による差がかなりあるのかもしれません。

壺井栄さんはうどんが好物だった?!

 続いて、「一日一言」に出てきた「うどん」の“微”ネタを3連発。

(6月24日)

コラム「一日一言」

 昨日23日は、小豆島が生んだ作家壺井栄さんの三回忌であった。壺井文学を愛する郷土のグループは、壺井さんの好物だった手打ちうどんを食べながら故人の思い出を語ったというが、壺井忌と手打ちうどん(あるいは小豆島の手延べそうめん)といえば、いかにもピッタリした組み合わせと言えよう。…(以下略)

 壺井栄さんがうどん好きだったという話は、新聞に初出です。そういえば、どこかのサイトで「菊池寛がうどん好きだった」という話を見たことがありますが、壺井さんも菊池さんも「うどん好き」を物語るエピソードがほとんど何も語り継がれていないので、どれほどのうどん好きだったのかはよくわかりません。香川県出身者なら「うどん好きだった」と言っておけばかなりの確率で当たりそうなので(笑)、間違いではないと思いますが。

やっぱりうどんは「コシコシ」だ(笑)

(6月24日)

コラム「一日一言」

(前略)…最近、県観光協会が出した観光ガイド「光あふれる香川」の“讃岐の味”にも、手打ちうどんと打ち込み汁について詳しく書かれていたが、今や手打ちうどんといえば、讃岐では押しも押されもせぬ観光資源の一つにのし上がった。「釜から上げてあまり時間の経たないうちにさっと締めて、ひねショウガ、ネギを散らしたイリコのだしにつけて一気にすする。しなやかでコシコシした歯ごたえ、生ビールを飲むように味わうのがコツだそうだ」と、観光ガイドは“食通の推すもの”として「湯だめうどん」をこう説明している。観光客ばかりでなく、郷土人のうどんへの愛着も深く、田植えの終わる半夏の頃は、農家はこぞって手打ちうどんを作る。その季節感を踏まえたのが、ふるさとの味を懐かしむ「讃味会」の6月の献立を見ても、手打ちうどんが主役になっていた。…(以下略)

 2年前の昭和42年の「讃岐の冬の味」というコラムの中に「手打ちうどんのコシコシした舌ざわり」という表現が出てきましたが、今度は一日一言子が「コシコシした歯ごたえ」と表現していました。舌触りと歯ごたえの違いはあれど、どっちも「コシコシ」です。これはますます、一体誰がいつ讃岐うどんの麺の感触を「しこしこ」と言い始めたのかが気になり始めました(笑)。

お茶会の点心席で手打ちうどん

(7月7日)

コラム「一日一言」

(前略)…七夕と言えば、志度寺門前に「交通安全」その他の願いを書いた大七夕竹が立てられていたが、“生き仏さん”と言われた竹林上人が入定してから170回目にあたる追悼茶会の時点としては、申し分ないデモンストレーションであった。その竹林上人住職寺自性院の手打ちうどん(点心席)も年ごとに味を増し、一日一膳を固持しているネコ足鳩を毎年寄付する町民がいるのも志度町なればこそと微笑ましく、今年の客は1600人に近いとのことだった。(以下略)

 さすが讃岐、お茶会にもうどんです。志度寺に隣接する自性院常楽寺で竹林上人を追悼するお茶会が開かれ、その点心席(ちょっとしたお食事の席)で1600人近くのお客さんに「手打ちうどん」が振る舞われたとのことです。「年ごとに味を増し…」とありますから、毎年うどんが出ていた上に、だんだん腕が上がってうまいうどんが出始めたということでしょう。

うどんの漂白と殺菌に過酸化水素

 続いて、食品衛生に関する社説の中にうどんの話題が1つ。

(9月7日)

社説
食品行政の徹底を

 このところ毎日のように食品の不当表示問題が紙面を賑わしている。「羊頭を掲げて狗肉を売る」ということが昔から言われているが、現在は「豚肉の挽肉」と偽ってウサギやマトン(めん羊)の肉を混ぜて売っていた。(中略)…さきの丸亀、多度津におけるモニター調査でも指摘されたが、食品の人工着色が多いというのは注目される。特に最近目につくのは、タラコの着色、綿菓子の着色などで、見るからに嫌悪感を催す色と言えよう。

 食生活の向上、食料加工技術の進歩によって、食品に添加物が多く使われるようになってきた。自然色の食品に少量の添加物を加えることが食品をきれいに見せ、食欲をそそり、食品の長期保存に役立つことは否めない。しかし、これらの食品添加物が有毒かどうかも確かめずに、ただ見た目がきれいだからといって使用するのは、人命を軽視した、ただ売らんかなの商業主義でしかあり得ない。

 県下に起こった例では、うどんに許可量を上回る過酸化水素を混ぜ、摘発された。過酸化水素は適量なら漂白と殺菌を兼ね、讃岐うどんを一層引き立たせるが、過ぎたるは及ばざるで、消化不良を起こすなど人体に害を与える。こうした食品は、我々が毎日口にするものだけに、食品添加物に対する規制措置は早急に厳しく実行されなければならない。(以下略)

 食品の不当表示や人工着色料、食品添加物の氾濫等に警鐘を鳴らしている中、うどん業界で「過酸化水素の過剰投入で摘発」という事件があったようです。記事にもあるように、過酸化水素はうどんの殺菌と漂白に使われていたのですが、殺菌が目的なら経費節減のために最低限の使用で止めるはずのところ、「過剰に使った」ということは、よっぽど「漂白」したかったのでしょう。「昭和42年」の項で「地元の粉は白さの点で敬遠されがち…」という記事がありましたが、業界がこぞって「漂白」に向かっていたとすれば、やっぱりこの頃は「大衆は白いうどんを求めていた」「うどんは白くないと売れない」という時代だったようです。「昭和の証言」で「ちょっと色のついた地粉のうどんがうまかった」という年配のうどん好きの方の話が出てきましたが(今でもそんな話をする年配の方々がいらっしゃいますが)、それは一般人ではなくてよっぽどの“うどん通”のご意見なのか、あるいは「昔はよかった史観」でちょっと記憶を美化してるのかもしれません(笑)。

山田竹系著『随筆うどんそば』発刊!

 郷土史家の山田竹系さんが「讃岐うどんをテーマにした本」のおそらく第1号である『随筆 うどん そば』を出版され、詩人の河西新太郎さんが書評を寄せていました。

(11月28日)

書評「うどん・そば」(山田竹系著)
“ふるさとの味”満喫 食欲そそられる楽しさ

 山田竹系著「うどん・そば」が出た。これは、うどん好きの讃岐人にとっては、まことになつかしい随筆集である。うどん王国を誇る香川県の、あの町、この村を訪れての、うどんに関する逸話や、さまざまな作り方など、読んで楽しく素朴なふるさとの味に食欲をそそられるのである。

 文献によれば、うどんは奈良朝時代に中国から伝わった唐菓子の一種である。小麦粉のだんごにアンを入れて煮たもので、最初は「こんどん」と呼ばれ、転じて「うんどん」となり、江戸時代になって「うどん」と名前が変わり、現在のような線状の麺類となったのである。うどんの線状化に伴って、そば粉もまた現在のような「そば」として、奈良の東大寺で産声を上げたのである。従って、うどんもそばも日本における発祥地は奈良と言えよう。ところが、いつからか「信州信濃の新そばよりも、わたしゃあなたのそばがよい」などという歌が出るほど、そばは信州の名物となった。

 さて、うどんだが、戦前までは名産地はなかった。強いていえば、東海道・芋川の宿のうどんが有名で、弥次喜多時代には、うどんのことを「いもかわ」と呼んだほどだが、これは昔の話だ。ところが、戦後20数年、讃岐うどんの名声は今や天下に鳴り響いて、讃岐と言えばうどん、うどんといえば讃岐と言われるようになった。これは、うどん関係業者の努力の賜であり、郷土の観光宣伝にも大きな役割を果たしていることに感謝したい。2、3日前にもテレビドラマを見ていたら、東京のそば屋で客が「讃岐うどん」を注文し、店の女の子が「さぬきいっちょう」と呼ぶ場面があり、讃岐人として私も肩身の広い思いであった。

 こうして、讃岐うどんの喧伝される時代に「うどん・そば」を出して讃岐うどんの詳細を伝えてくれた著者の労を多とするとともに、本書の社会的意義を高く買いたいのである。「誰が何と言っても機械なんか使えるか」と44年間完全な手打ちうどんを打ち続ける香川翁の話や、うどんをうまくする塩加減、薬味の入れ方など、うどん王国に住む者ならぜひ知ってほしいこともたくさん書かれている。うどんは庶民的な味覚と言われるが、うどんにふさわしい素朴な文章の中に、移りゆく郷土の四季折々の風情を配して、平易簡潔に書いているのもうれしい。讃岐うどんの本場にこんな本が一冊ぐらいあっていいのである。いや、なくてはならないのである。俳人一茶でさえ、「信濃では 月と仏とおらがそば」と詠んで信州そばの宣伝に努めている。本書は讃岐うどんの宣伝書では断じてない。しかし、讃岐うどんの名声を裏書きしてくれる貴重な読み物であり、心温まる好著である。(日本詩人主宰・河西新太郎)

 山田竹系さんの『随筆うどんそば』は、讃岐うどんの歴史を語る方々の多くがそこに出てくる話を“正史”として引用しておられるという意味では、日本の歴史学会における『日本書紀』みたいな部分があるかもしれません。県立図書館に現物がありますので、興味のある方はぜひご覧になって下さい。ちなみに、この書評には「うどんは奈良朝時代に中国から伝わった唐菓子の一種である」と断言調で書かれています。今、権威のある方々が語る讃岐うどんの歴史は「空海が中国からうどんの原型を持ち帰ったと伝えられる」という話で始まりますが、空海が中国に渡ったのは平安時代です。どこで“正史”がすり替わったのでしょう(笑)。

 あと、文中に「テレビドラマで東京のそば屋で“讃岐うどん”の注文を受けた店の女の子が“さぬきいっちょう”と呼んだ」という話が出ています。ドラマではありますが、本場香川のうどん店には「讃岐うどん」などという名前のメニューはたぶんないと思いますが、昭和44年の東京では「讃岐うどん」というメニューが違和感なく“アリ”だったのでしょうか(笑)。

東京の讃岐うどん事情

 続いて、正月の特集号に「東京の讃岐うどん事情」が窺える記事が載っていました。まず、前段は「讃岐うどんが東京で新名物にのし上がっている」というレポート。

(1月1日)

素朴なうどんの味 コシの強さとネバリが自慢

 「名物にうまいものなし」とは言い古された言葉だが、近ごろ東京の新名物にうまいものが2つあるという。讃岐うどんにサッポロラーメン。銀座の町にお目見えしたのは今からかれこれ5、6年ほど前にもなろうか。これがアレヨアレヨという間に都内に広がってしまった。今や60軒を超える繁盛ぶりとはなった。もちろん、これらの中にはおよそ“さぬき”とは似ても似つかぬ代物(しろもの)もあるが、これとても看板に「さぬきうどん」を出さなければ“商売”にならぬというから、およそ時の勢いというものはおそろしい。しょうゆ味の濃いダシに、量産の機械打ちうどんに慣れた東京人にとって、このいかにも田舎風の素朴なさぬきうどんの出現は驚異であった。あの、しこしことした味、そこには人間の何か忘れているものを思い出したその感慨に似ていまいか。

 一応数字を信用すると、東京では昭和38年から39年頃に銀座に讃岐うどんの店がお目見えし、それがどんどん都内に広がって昭和44年時点で60軒を超えているとのことです。東京の讃岐うどん店については、「昭和38年」の記事中に「東京の(讃岐)手打ちうどんの元祖は高松市出身の鈴木力男さん(32)。今では都内2、3の出店の他、待望の自分の店『讃岐茶屋』を持ち、都内に5、6軒ある『讃岐うどん』もみんな鈴木さん方を独立して始めた…」とありましたから微妙に年がずれていますが、まあ大局で「昭和38年頃が東京の讃岐うどん店の一つのエポックメイキングな年だった」と捉えておきましょうか(笑)。

 ちなみに、この記事は東京在住の記者が書いたと思われますが、讃岐うどんを「しこしことした味」と表現しています。香川の記者やコラムニストは「コシコシ」、東京では「しこしこ」です(笑)。そして記事は続いて、銀座の「四五九」(おそらく「しこく」と読むのではないかと)といううどん店のレポートに入ります。

 銀座八丁目。「四五九」。客の7、8人も入ればいっぱいというこじんまりとした店。「うどんのチャンピオン、さぬきうどんを日本料理として評価してもらいたい」とは、2年間、本場・四国高松で修業、じっくり腕を磨いたここの主人の弁。うどんの原料はもちろん讃岐産の小麦粉。粉をこねる場合の水と塩かげんによってコシの強さとネバリが生まれ、これがさぬきうどんの味の決め手になっている。薬味はワケギ、ショウガ、ゴマにトウガラシ。「うどん本来の味が生きるようにゆであげて30分以内に食べてもらう。そのためにはお客さんに少々の時間は待っていただく」と板前さんも強気。そこは「うまいものを食べてもらうんだ」という自信がのぞいている。

 「讃岐うどんを日本料理に」という、今日の讃岐うどん界でも稀にしか見つけられない高い志を持ったうどん職人が、昭和44年の銀座に店を出していらっしゃいました。ちなみに、店頭に置かれたパネルの拡大写真が新聞に載っていましたが、そこにはこう書かれていました。

<饂飩由来記>
うどんの歴史は遠く奈良時代に中国から渡来した唐菓子だといわれ、最初はアンコ入りでした。名前も、餛飩、温飩、饂飩となり、江戸時代からうどんと呼ばれるようになったといわれます。讃岐手打うどんがうまいのは、第一に気候温暖の内海沿岸で穫れた小麦粉、第二は土三寒六の製法にあります。夏季は塩水一に対して水三、冬季は塩水一、水六の割りあいで粉をこねます。 讃岐名代 うどん坊主人敬白

 前出の山田竹系さんの『随筆うどんそば』の記述と全く同じ、「うどんは奈良時代に中国から来た唐菓子で、アンコが入っていた」と書かれています(同書から取った文章かもしれません)。いずれにしろ、ここまで新聞にはまだ「空海が中国からうどんの原型(こんとん)を持って帰った」という話は出てきません。「讃岐うどん空海起源説」は、一体いつ、どこから出てくるのでしょう。

 あと、記事の最後に東京の讃岐うどん店の名前が3軒出てきました。

 うどん店ではこの他、京橋「さぬき茶屋」、新橋「玉藻」、日本橋「ニュー高松」などがあり、県人経営の店が東京都内のうどん店全体の60%を占め、ここでは「本場の味」が生きている。昼時の店内はどこもいっぱい。中には「四国まで修業に行ってこい」という資本家も出てきているという。

 「さぬき茶屋」はこれまで何度か出てきましたが(新聞では表記が「讃岐茶屋」と「さぬき茶屋」の両方が出てくるので、正しい表記はわかりません)、新顔で「玉藻」と「ニュー高松」、それと前出の「四五九」が出てきました。「東京都内のうどん店全体の60%が香川県人の経営する店だ」という、にわかに信じられないデータも書かれていますが、事実はどうなんでしょう(笑)。

香川県民は外食費のうちの28%をうどんに使っている?!

 続いて、香川県のいろんなデータを整理した「県勢動態指標」なるものが発表され、その結果から香川の県民性がいろいろ推測されていましたが、その中に香川県民の「うどん好き」がわかるこんなデータが出ていました。

(1月24日)

県民消費支出からみた讃岐人気質
見え坊、半面実利的 節約「老後へゼニためる」

(前略)…全国平均の数値と対比し、まず消費支出について見てみると、被服費や住居費、雑費は全国で34~35位。ところが飲食費の方は45位と、全国でもビリの方。全国ビリの食料費の支出の内容を分析すると、高松市民の場合、副食費の率が全食料費の71.1%に達し、松山市の70.8%、高知市の69.2%、徳島市の67.4%に比べ、食生活の内容は全体の支出比率が低い割に充実しているところがうかがえる。家計費の中に占める食料費の割合、つまりエンゲル係数は低いほど生活水準が高いわけだが、香川県民のエンゲル係数は35.3と全国平均(35.2)とほぼ同水準。四国では松山市の36.1、高知市の39.0より低く、徳島市の34.5にはやや及ばないという現状。

 おもしろいのは、食料支出費の6~7%を占める外食費の中で「うどん代」の占める割合は徳島県の18%、愛媛、高知両県の21%に対し、香川県民のそれは28%と断然大きく、讃岐人のうどん好きがはっきり出ている。

 昭和44年の香川県民のは、外食に使うお金の28%が「うどん」だという調査結果ですが、うどんは他の外食より間違いなく単価が安いので、「回数」で言えばおそらく「外食の2回に1回以上がうどん」ではないかと推計されます。ちなみに、筆者の周りには令和の今日、「外食回数の8割がうどん」というサラリーマンが結構湧いていますが(笑)。

 加えて記事では、
・貯蓄率…………全国1位
・教育費…………全国4位
・理容・衛生費…全国4位
・教養娯楽費……全国7位
・保健医療費……全国29位
・交通通信費……全国24位
・交際費…………全国36位
等の数字を挙げ、

 消費支出の内容は少ない食料費が目立ち、食生活では食料費を切り詰めている割に内容が充実している。そして、清潔好きで教育熱心、自家用車は持っていても、家族も乗れて物も運べる軽四輪が多い。所得は高水準にありながら消費支出は極力押え、貯蓄高は全国一だ。県民生活の現状をざっと見渡すとこんな具合である。

 とまとめていました。この記事にある「貯蓄率」というのがどういう計算なのかわかりませんが、香川県の「1世帯当たりの貯蓄残高」は平成の時代になっても全国トップクラスなので、高い貯蓄傾向は香川県民に相当長く根付いている特徴のようです。

(11月12日)

香川そうめんに人気 東京三越で四国観光物産展

 四国4県と国鉄四国支社共催の「第18回四国の観光と物産展」が11日から6日間の日程で、東京日本橋の三越本店で始まった。会場入り口近くには洋服姿の現代風お遍路さんや昔ながらの白装束のお遍路さんの人形や土佐犬、小説「坊っちゃん」で有名な道後温泉の振鷺閣などの大判カラー写真が並ぶ。「霊場の四国をたずねて」をテーマに掲げ、会場内には2カ所の特設観光案内所が設けられ、「観光四国」を大々的に売り込んでいる。

 物産コーナーには各県300種、計約1200種類もの特産品が展示され、今年から始めた推奨品コーナーでは高知の銘酒やカツオブシ、徳島のしじら織、香川のそうめん、オリーブ、徳島のひじき、イリコなど海産物が特に人気を呼んでいる。会場内に特設された名物茶屋も、徳島の祖谷そば、香川の讃岐うどん、高知のカツオのたたき定食、愛媛の坊っちゃん団子など満員の盛況で行列ができるほど。一方、屋上では1日2回、高知のよさこい鳴子踊りや香川のこんぴら囃子が披露され、盛んな拍手を浴びた。主催者側の話だと、1日平均入場人員は約8万人、期間中の総入場人員は約50万人近くと見込んでおり、売上も昨年の700万円を軽く突破し、1000万円以上になるだろうと見込んでいる。

 「四国の観光と物産展」は、この年も東京日本橋の三越で開催されました。記事に出てくるPRコンテンツは、

香川…お遍路さん、そうめん、オリーブ、讃岐うどん、こんぴら囃子
徳島…しじら織り、ひじき、イリコ、祖谷そば
愛媛…道後温泉、坊っちゃん団子
高知…土佐犬、銘酒、カツオブシ(高知)、カツオのたたき定食、よさこい鳴子踊り

というラインナップ。「物産コーナーには各県300種、計約1200種類もの特産品が展示され…」とあるように上記はほんの一部ではありますが、記者がその中からこれらを記事に書いたということは、このあたりが当時それなりに有名だったり注目だったりしたということでしょう。ちなみに、この年は「小豆島そうめん」ではなくて「香川そうめん」と表記されていますが、何か意味があるのでしょうか。

 では最後に、いつものように求人を含む「うどん関連広告」を列挙しましょう。

川福、羽島、冨田製粉が求人広告

 まずは求人広告を3本。

<社員募集>
●女子従業員及びレジ係…若干人
年齢/18歳~50歳迄、勤務時間/午前9時~午後6時、午後6時~午後12時
●男子見習…若干人
年齢/16歳~30歳迄、
*給与/男女共22,000円以上(食事付)
*寮完備、通勤費支給、各種社会保険制度有り、学歴不問
手打ざるうどんの総本家・うどん・割烹の店 
川福(高松市ライオン通りライオン館前)

<男女従業員募集>
●調理洗い場係
昼の部(午前10時~午後5時)2人
夜の部(午後5時~午前0時)2人
パート可、時間給130円
手打うどん羽島(高松市片原町古天神内)

<男子従業員募集>
●乾麺製造工…3人
年齢/60歳まで(経験不問)
待遇/初給25,000円~40,000円、昇給・賞与年2回、各種社会保険・退職金制度あり、通勤費全額支給
(有)富田製粉乾麺工場(高松市観光通り二丁目)

 昭和40年頃から、「うどん店で月収2万円台、製麺工場で3万円台」という時代に入ってきました。片原町の「羽島」が新聞に初登場です。

製麺会社の協賛広告

 続いて、製麺会社の協賛広告が、次の4社見つかりました。

●日清製粉株式会社坂出工場
●麺類製造卸販売/森善清商店(高松市扇町)
●麺類製造卸/わたや製麺所(高松市観光通り)
●手打うどん・中華そば・その他麺類各種製造卸/有限会社井筒製麺所(高松市西の丸町)

 讃岐の製麺業界の重鎮とも言える「井筒」さんは、当時すでに「釜上げうどんの井筒」といううどん店(直営食堂)を持っていたようです。「かまあげ」の表記は「釜揚げ」でも「釜あげ」でもなく、「釜上げ」です(笑)。ちなみに、高松市観光通という結構狭いエリアに、前出の「冨田製粉乾麺工場」と「わたや製麺所」の2つのうどん関連会社が出てきましたが、森善清商店のある高松市扇町も狭いエリアながら、同じ扇町で戦前から続いていた「松川屋」さんが「開業ヒストリー」の中で「うちの近所でもライバルが4軒もあった」と証言されていました。この頃は街中のあちこちで、かなりの密度で製麺屋さんが林立していたようです。

うどん店の単独広告は、「川福」と「たらいうどん・かすが」

 うどん店の単独広告は、2軒が見つかりました。まずは、おなじみの「川福」。

 「秘法を守り継けて百年」です。ざるうどんとうどんすき鍋は「政府登録」です(何が政府に登録されたのかはわかりませんが)。大阪店も出ました。高専(高松専門店会)にも加盟して、クレジットカードも使えるようになったようです。いろんな意味で、川福がどんどん大きくなってきています。

 続いて、昭和42年に「さぬきたらいうどん」と銘打って広告を出していた「軽食堂かすが」(高松市木太町)が、「たらいうどん かすが」と改名して五色台に“仮支店”をオープンしました。

 さらにもう1店、この年の4月から2カ月にわたって徳島で「四国博」なるイベントが開催されたのですが、その前売り券の発売場所の一覧の中に、高松駅前の「さぬきうどん本店」の名前が出てきました。

東京の讃岐うどん店の広告が2件

 この年は、香川県外のうどん店の広告が3本見つかりました。まず、東京の讃岐うどん店の広告が2つ。1つ目は、キャッチコピーに「さぬき手打うどんと源平鍋の店」と銘打った新橋の「玉藻」。2つ目は、10月1日にオープンした「ニュー高松・有楽町店」。いずれも先の記事で出てきた店です。

 ちなみに、「ニュー高松」は1月1日付けの記事ですでに名前が出ていますので、「東京店」は昭和43年以前にオープンし、この度、2店目の有楽町店がオープンしたということでしょう。

大阪の「美々卯」が万博への出店準備中

 そしてもう一つ、こんな広告を見つけました。

 大阪のうどんすきの名店「美々卯」が、翌昭和45年に大阪千里で開催される「大阪万国博覧会」への出店を決め、香川で社員募集をかけていました。ちなみに、「大阪万博は讃岐うどんを全国に轟かせる大きな契機になった」という話がいろんなところで語られていますが、次回、その話がひっくり返るかもしれない新聞記事が出てきますので、お楽しみに(笑)。

(昭和45年に続く)

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