昭和41年の讃岐うどんは、それなりに、のんびりと(笑)
昭和41年はビートルズが来日し、日本の人口が1億人を超えた年です。香川県では4月20日に昭和天皇・皇后両陛下が来県して祝賀ムードに包まれ(といっても愛媛県の植樹祭にご出席された帰りに立ち寄られたということですが)、県木が「オリーブ」に、県鳥が「ホトトギス」に、県獣が「シカ」に決まりました。この年は景気もそれなりによく、うどんの話題もそれなりにのんびりとしていました(笑)。
昭和天皇・皇后両陛下が、国際ホテルで讃岐うどんを召し上がる
まず、香川県外の方と讃岐うどんの出会いの話題が3本見つかりました。1つ目は、四国新聞の正月特集に掲載されていた作家の寺内大吉さんと評論家の戸塚文子さんの対談記事。「四国おかめ八目」というタイトル通り、県外人から見た四国の観光や文化を語る対談ですが、その中でほんの一言、讃岐うどんに触れられていました。
対談「四国おかめ八目」…寺内大吉(作家)、戸塚文子(評論家)
…(前略)…
戸塚 香川県で印象に残っているのは丸亀のウチワもそうだけど、紙のタコね。竹の骨に張ったのがいくつもつながって竜のようなもの。あれはおもしろいですね。空にあげるとムカでのように動くの。タコあげしないで飾り物にしてもいいなあと思った。
寺内 それにさぬきうどん。もう全国的に名が通って有名ですよ。それに内海の小魚がうまい。
戸塚 四国でおいしいものは今おっしゃった讃岐のうどん、松山の五色ソーメン、宇和島のタイめし、鳴門のワカメにスダチ。高知へ来ると皿鉢料理。あれなんか日本離れしちゃって…。長崎のしっぽくとともに日本料理の両大関ですよね。(以下略)
3分の2ページにわたる長い対談記事の中で「讃岐うどん」が出てきたのはこれだけです。あっさりと流されている気もしますが、それでも寺内さんの発言に「讃岐うどんは全国的に名が通って有名」とあるように、讃岐うどんの知名度がもはや全国的なものであることは確実です。
続いて、「昭和天皇・皇后両陛下来県」の大きな記事の中に、こんな話題が載っていました。
コラム「一日一言」
…(前略)…両陛下がお泊まりになった宇和島の天赦園ホテルでは、早春にこの付近でとれるシラウオのつくだ煮や、大洲肱川のカジカを使った甘露煮などでおもてなし申したよしだが、高松の国際ホテルが讃岐うどんをご賞味願ったこととともに、うれしいニュースである。(以下略)
その昔、筆者は郷土史家の草薙金四郎翁から「かつて、讃岐うどんは足で踏むという工程があるため皇室に献上できなかった。あるいは自ら献上しなかった」という話を直接聞いたことがあるのですが、昭和41年の来県の際に「讃岐うどんをご賞味願った」ということは、「天皇陛下はそんなことはお気になさっていなかったのに周りが勝手に“忖度”していた」だけの話なのかもしれません。この時の国際ホテルが出したうどんは、ホテルの料理人が打ったのでしょうか。あるいはどこかの製麺所かうどん屋の大将が打った玉を仕入れて作ったのでしょうか。いずれにしろ「両陛下がお召し上がりになったうどんを作った方」は、大変な名誉だったと拝察します。
続いて、アメリカからの研修団が讃岐うどんを体験したようです。
讃岐の味に舌つづみ メソジスト東洋研修旅行団
来高中のメソジスト東洋研修旅行団一行は19日午前中、屋島、栗林公園を見物した後、高松ライオンズクラブの家庭を訪問するなど讃岐路の風物に接した。特に栗林公園では会仙亭で高松ライオンズクラブ有志が裏千家茶席とテンプラ、さぬきうどんなどの模擬店を設け、一行を歓迎した。一行は、初めて経験するものばかりだけに、初めは戸惑い気味だったが、佐々木団長らの手ほどきで“讃岐の味”に舌つづみを打っていた。茶席での正座には閉口していた。(以下略)
栗林公園の「会仙亭」は平成10年に焼失して、今はありません。来高した「メソジスト東洋研修旅行団」は、アメリカのキリスト教の一派の方々で、讃岐うどんを食べた感想は載っていませんでしたが、茶席での正座には「閉口していた」そうです。当時の新聞記事は、小気味よいほど正直でストレートです(笑)。
名士を集めて「手打ちうどん食味会」を開催
金子知事や国東市長をはじめとする地元の「うどん通」40人を招いて、「手打ちうどん食味会」が開催されました。
「やっぱりうまい」手打ちうどん食味会(高松)
さぬき名物手打ちうどんの食味会が17日午前11時から高松市栗林公園内商工奨励館北ホールで開かれた。これは、伝統のさぬきうどんが最近インスタント麺類に押され気味となっていることから、本当の味を知ってもらうため、業者が日頃の腕を発揮したもの。「さぬき手打ちうどんうずしお会(森善清会長)」が中心となって高松製麺協同組合の協賛で初めて開いたものだが、この日招待された人たちは、いずれも手打ちうどんの愛好者ばかり。金子知事、田中副知事、国東高松市長、久保田助役らも出席、素晴らしい手打ちうどんに今さらながら感心していた。
会場ではこの道55年という高松市内町、高橋繁一さん(67)が伝統の“手切り”を実演披露した他、40人の職人たちが招待者のうどん作りに汗だく。試食した人たちも本当の手打ちうどんの味には二度びっくり。中には2杯、3杯とお代わりする人もあって、なかなか好評だった。業者たちは「これを機会に県外デパートでも実演会などを行って“さぬきうどん”のうまさを全国にPRしたい」と語っていた。
天下の讃岐うどんが「インスタント麺類に押され気味」とは何事か(笑)。マーケティング的に言えば、「当時の讃岐うどんはインスタント麺類と変わらないレベルの付加価値しか出していなかった」という話になりますが、確かに「うどんのコシがどうだ、艶がどうだ、伸びがどうだ」等々と盛んに言われ出したのは1990年代後半の「讃岐うどん巡りブーム」以降のことですから、当時はそういう一面もあったのではないかと思われます。
ちなみに、金子知事が讃岐うどんの愛好家であったことはよく知られていますが、高松市の国東市長もなかなかのうどん通だったようです。筆者の知る限り、昭和の県知事と市長の中で「うどん通」の横綱は金子知事、大関に国東市長。平成以降では高松市の増田市長がかなりのうどん好きだったように記憶しています。あと、讃岐うどんに無関心だった市長の代表は、全国的な讃岐うどん巡りブームに沸いていた2000年頃にブームのことを全く知らなかった某市の某市長です(笑)。
加えて、「さぬき手打ちうどん・うずしお会」なる団体の名前が初登場です。「昭和40年」の新聞記事中に金子知事と和田画伯が音頭を取った「讃岐手打ちうどんの会」という団体が出てきましたが、同じ団体なのか、別団体なのか…何となく同じ団体のような気もしますが。ちなみに、この「手打ちうどん食味会」は「一日一言」のコラムでも触れられていました。
コラム「一日一言」
…(前略)…手打ちうどんはすっかり有名になったが、このほど栗林公園で讃岐の手打ちうどんを食べる会が開かれたのは壮観だった。ちょうど掬月茶会と重なったので、その点心席を思わすような風流な会となったが、コシのある手打ちうどんの醍醐味を心ゆくまで味わわせてくれた。
うどんも夏はほとんど冷やしうどんに相場は決まっているが、暑い時に熱いうどん、特に讃岐独特の打ち込み汁なども悪くない。「打ち込みや ようやくうまき ねぎの味」森安華石さんがこの句に添えて、打ち込み汁のことを次のように説明していた。「讃岐の田舎では、冬季、地粉でうどんを打ち、ゆでることを省いて味を付けた汁の中へ投じ、うどんが浮くのを待って火から下ろし、粘りが出ぬ熱いうちにいただく。これを“打ち込み汁”という」。なかなか見事な解説で、正しくはネギがうまくなる冬の味であろうが、ドジョウ汁代わりに土用の打ち込み汁もまた乙なものである。高松にはこの打ち込み汁でめしを食べさせるひなびた店があるが、旅の人は珍しそうに「打ち込み汁って何ですか?」とたいてい聞いているようだ。
40人の「うどん通」の名士を集めた食味会は「壮観だった」そうです。讃岐うどん関連の催しは、平成から令和の時代に入って「フェスティバル型」や「体験レジャー型」、「おもてなし型」等に大きく移り変わっていますが、こうした「うどん通」や県内の「職人」たちを中心とした“讃岐うどん愛”にあふれる大きな「会」を復活させてはどうでしょうか。
土井勝先生がテレビの料理教室で「手打ちうどん」を紹介
8月10日の新聞のテレビ欄に、こんな番組が載っていました。
関西テレビ11:00「土井勝料理教室」…「手打ちうどんの生ジョウユ」
土井勝先生(高松市出身)といえば、今、テレビ等で活躍されている料理研究家・土井善晴先生のお父さんで、讃岐うどんの「つけダシ」の最高峰と言われる「長田in香の香」のつけダシのルーツに関わった一大功労者です。その土井勝先生が、当時の長寿人気番組「土井勝の料理教室」で「手打ちうどんの生ジョウユ」を取り上げていました。料理教室で「生醤油うどん」って、「料理」と言うよりほとんど「うどん作り」だけじゃないか(笑)というツッコミがあるかもしれませんが、あえてそれを取り上げたところに、郷土讃岐のうどんに対する強い思い入れが窺えるではありませんか。
一日一言子、NHKの「新日本紀行」の高松編にかみつく(笑)
続いては、一日一言子の“強い強い郷土愛”に満ちあふれた「怒りのコラム」です(笑)。
コラム「一日一言」
NHKの「新日本紀行」はいつ見ても大変おもしろく、茶の間旅行ができる上からも好きな番組の一つとなっているだけに、3日の「高松」に寄せる期待は大きかった。それだけに、手ぐすね引いて見た後の拍子抜けはどうしようもない。何の予備知識もなく見た他府県の人々は、案外興味深く接したかもしれぬ。しかし、地元高松の市民としてはキツネにつままれたようで、アレヨアレヨと思った人も多かろう。呆れる以上に、このほど市と合併したばかりの山田町の人々は怒っているかも知れぬ。
というのは、白羽の矢が立って新皇居の庭を飾ることになっている山田町の由良石が、テレビでは庵治石にすりかえられてしまったことだ。庵治村の工場で加工はしていても、出所は巌とした由良石であることに変わりはない。こんな事実を地元のNHKが知らぬはずもないのだが、実はこの番組を制作したのは松山中央局。旅行者の立場からという企画の狙いがそうさせたのかも知れぬが、高松局の手でやっていればこんな結果にはならなかったのではなかろうか。
高松とは切っても切れぬ手打ちうどんにしても、高松駅の売店はいいとして、市内にたった1軒しかない「うどんを売る喫茶店」をあれほどしつこく追及するなら、延べ棒で手打ちうどんを作るカットぐらいは当然あってしかるべきだ。汁がたっぷり残っている丼のアップなどは、どう贔屓目に見てもいただけぬ。第一、東京あたりの塩辛い“うどんかけ”と違うのだから、うどんのおつゆを残すなどということは、うどん好きの高松市民とも思えぬ。
ヨットハーバーや小豆島の分教場の描写もさることながら、「源義経」以来NHKとは切っても切れぬ屋島の表現に至っては、タヌキにつままれたようなぼやけ方だ。庵治石をあれほどPRする半分でも、古戦場と現代のつながりに目を向けるべきではなかったか。
「高松」の看板を出して、栗林公園が1カットすら出ないのも七不思議の一つ。撮影はしたはずだから、他のダラダラした部分をカットして当然入れるべきではなかったか。最後を香川町の「ひょうげ祭り」で盛り上げようとした意図もわからぬではないが、これとて「一合まいた」でフィナーレを飾ったNHK劇団の「高松繁盛記」の観劇にははるかに及ばなかった。
NHKの「新日本紀行」は今も昔も、他県を取り上げた時はとても興味深く見られるのに、自県が取り上げられると必ずと言っていいほど違和感があるんですね(笑)。ということは、「他県を紹介している時の番組も、あまり内容を鵜呑みにしてはいけない」ということにもなりますが、いや、とてもよくできた番組だと思いますよ(笑)。ちなみに、「『源義経』以来NHKとは切っても切れぬ屋島」とあるのは、この年のNHKの大河ドラマが『源義経』だったからです。
ちなみに、「市内にたった1軒しかない『うどんを売る喫茶店』」とはおそらく「アズマヤ」のことだと思いますが、「昭和の証言」の中には昭和30年代の記憶で「うどんを出す喫茶は高松市内に何軒もあった」という話がいくつか出ていました。昭和41年頃にはもう「アズマヤ」だけになっていたのか、あるいは「アズマヤ」の認知度が高すぎて、その他の「うどんを出す喫茶」が知られていなかったのでしょうか。
「四国の観光と物産展」は、回数がちょっと怪しい…
この年の“県外出張物産展”の記事は、おなじみの「四国の観光と物産展」1本だけでした。
四国の観光と物産展、好評、盛況で閉幕 500万円を売る
去る15日から東京日本橋の三越で開かれていた第15回四国の観光と物産展(四国4県、国鉄四国支社共催)は「新しい四国遍路の観光と南国の物産を訪ねて」と銘打って四国PRをつとめていたが、連日満員の盛況だった。…(中略)…
実演即売コーナーでは香川の手打ちうどん、魚せんべい、徳島の祖谷そば、サバずし、ヤキモチの実演に黒山の人だかり。「四国茶屋」も開設されて、食券売り場は行列ができるほど。手打ちうどんなどをおみやげ用にいくつも買っていく人が多かった。(以下略)
ここには「第15回四国の観光と物産展」とありますが、実は前年(昭和40年)に「第5回四国の観光と物産展は去る9日から13日まで5日間にわたって名古屋市内丸栄デパート8回で催され…」とありました。前年の「第5回四国の観光と物産展」が「名古屋で開催されたのが5回目」という意味に無理やり取れないこともないのですが、以前にも物産展の記事で回数が合わないことがありましたので、とりあえず新聞に載った「物産展の回数」は「確定」じゃなくて「参考」程度に見ておいた方がいいかもしれません。
一方、「実演即売コーナーで香川の手打ちうどんに黒山の人だかり」の後に「『四国茶屋』の食券売り場に行列」と書かれていることから、これまで物産展の目玉のように行われてきた「手打ちうどん実演」のコーナーでは「打ったうどんは生麺のまま販売していた」という可能性が高くなってきました。もし、手打ち実演コーナーで「かけうどん」等にして食べてもらっていたのなら、そっちにできていたはずの行列にも言及しているはずだし、後ろに「手打ちうどんなどをお土産用にいくつも買っていく人が多かった」とあるからです。あるいは、手打ち実演コーナーで打ったうどんを「四国茶屋」で茹でて出していたのかもしれませんが。
高松東農協が「味噌とうどんの委託加工」
高松東部農協が戦後すぐあたりから「味噌とうどんの委託加工」を行っていて、大繁盛していたようです。
みそ、うどん委託加工 良品、格安で人気呼ぶ(高松東部農協)
高松東部農協では組合員の要望に応え、年末から新春にかけてのシーズンを控えて味噌製造と生うどんの製造に追われている。同農協の家庭用味噌の委託加工は合併前の古高松農協時代から始められ、20年の古い伝統を持ち、今では6000人の全組合員の供給ばかりでなく、近接農協からも申し込みが殺到するという繁昌ぶり。何しろ味噌は日常欠くことのできない栄養源になるのと、農協味噌は品質がよくて格安だという魅力が人気を呼び、利用拡大につながっているという。農協が年間農家需要の100%という利用率を上げている例は全国にも珍しいケースと言われている。…(中略)…
委託加工は、農家から原料の精米と大豆(大豆がなければ農協側が供給)を持ち込み、8人の専従職員によって麹の製造、大豆の煮込み、調理など一切の工程仕上げを済ませ、農家へは賃加工料だけで引き渡すという仕組み。…(中略)…
一方、生うどんの製造販売もこの農協の特色のようで、毎日100キロ以上の小麦粉からうまい手打ちうどんを作って、家庭はもちろん、給食方面からも好評を受けている。
当時の「農家」と「農協」と「小麦」と「うどん」の関係については、「開業ヒストリー」や「昭和の証言」で何度も出てきました。その基本的な流れは、
①農家が、収穫した小麦の大半を農協に納め、一部の「うどんにしたい小麦」を近所の製麺所に持って行く。
②製麺所は、農家が持って来た小麦を製粉所で小麦粉にしてもらい、その量を「持って来た農家の小麦粉」として帳面につけてキープしておく。
③農家は、必要な時に製麺所に頼んで、キープされた自分の粉から「うどん」にしてもらって受け取る。
というものでした(「開業ヒストリー」の「がもう」の項等参照)。加えて、「昭和の証言」の中に「農協でも製麺所と同じようにうどんに加工してくれるところがあった」という話もいくつか出てきましたが、高松東部農協はそれをかなり大々的に行っていたようです。ただし、「毎日100キロ以上の小麦粉からうまい手打ちうどんを作って…」とありますから、「小麦」ではなく「小麦粉」を持ち込むというシステムだったのかもしれません。
手打ちうどんの広告は、前年に続いて「川福」と「源芳」
昭和41年の四国新聞に載っていた「手打ちうどん」を冠した広告は、前年に続いて「川福」と「源芳」のみ。広告に限って言えば、どうやら当時はこの2社が先頭に立っていたようです。