「うどんブーム」の文字が出現! 「讃岐うどん巡り」の提言も?!
前年に始まった池田内閣の「所得倍増計画」と値上げラッシュ、そして麦作(裸麦)の斜陽化がそのまま続く昭和36年。この年のうどん関連記事は、うどん店の営業状況やメニュー、うどんに関する風習等の様子が窺える“小ネタ”がたくさん見つかりました。まず、注目はこの記事。
昭和36年頃に「うどんブーム」があった?!
注文殺到、フル運転 牟礼村農協に製めん機設置
木田郡牟礼村農協では農協内に「製めん部」を設置して家庭用うどんの製造に乗り出し、目ざましい成果をあげている。同農協ではこのほど、1日1875キロ製造できる超大型の製めん機を購入して、組合員はじめ村民に呼びかけたところ、最近の“うどんブーム”も手伝ってか注文が殺到、1日600~650キロの製造に従業員はてんてこ舞い。多い時は2000キロの注文もあり、うれしい悲鳴をあげ、今のところフル運転、徹夜作業を続けている。
「牟礼村農協製造の家庭用うどんに注文殺到」という記事の中に、「うどんブーム」の文字が出てきました! ただし、どんなブームだったのかは全くわかりません。「讃岐うどんブーム」じゃなくてただの「うどんブーム」とあることから、おそらく「全国的な讃岐うどんブーム」ではなく、県外から香川にうどんを食べに来る「讃岐うどん巡りブーム」でもなさそう。さらに、「うどん店への卸し用うどん」ではなく「家庭用うどん」に注文が殺到したということは、「うどん店の出店ブーム」でもなさそう…とすると、香川県民の間で「家でうどんを食べるブーム」が起こっていたのでしょうか? そのあたり、いつものように謎のまま次へ行きます(笑)。
「讃岐うどん巡りブーム」の最初の提言者を発見?!
続いては「県外客のおもてなし」に関するコラムですが、そこに、今日の「讃岐うどん巡りブーム」に通じる先見の評論が載っていました!
コラム「一日一言」
きのうは春雨の中を朝からポンポン花火が上がると思ったら、全国市会議員野球に出場する選手団の高松入りを祝う歓迎花火だった。北から南から60に近い大チーム、1000人を超える選手団が高松市内の旅館へどっと流れ込んだとは、豪勢なものである。昨年伊東市で行われた大会は、折り悪しく安保騒ぎにかち合ったためか、やれ大名旅行だとか、官費で温泉へ芸者をあげに来たなどと、時局離れのしたのんきさに批判が集中したものだ。しかし、今年は所得倍増時代、レジャー時代というあつらえ向きの環境だから、大手を振ってそれぞれプレー(?)が楽しめようというものだ。
本当に野球を愛し、野球の好きな議員さんなら、野球のメッカともいえる高松の地を踏んでプレートに立つ喜びはひとしおであろう。しかし、野球は第二でまず観光という野心派(?)もいるだろうから、受け入れ側としてはあれこれ心を配らねばなるまい。温泉という武器を持たぬ高松で、こうした大名旅行族のお客さんを楽しませる施設といえば、まずキャバレーとか料理屋くらいしか頭に浮かんでこない。しかしそこで本当の“さぬきの味”が味わえるかどうかは疑問で、自然と人情の美しさのとけ合った“真のさぬきの味”は、やはり高松から一歩出て行かなければ皮膚に感じとることはできまい。
食べもの一つにしても、今は魚島直前で桜ダイの味は格別とはいえ、全国どこの旅館でも出されるモンキリ型の料理よりも、ちょっと小豆島へ渡ってへんろ宿の精進料理でも口にすれば、案外“さぬきの味”が味わえようというものだ。“10円のイカナゴで一杯やる味は、新橋、赤坂の数千円の料理に優るとも劣らない”と、前日銀支店長の星野大造氏も瀬戸内海でとれる小魚の味をほめていたが、本当の“さぬきの味”はこんなところにあるのかもしれない。あえてイカナゴを食わせとは言わないが、一流旅館でも“しょうゆ豆”か“てっぱい(ぬた)”の一皿ぐらいは膳に添えて、遠来の客を遇してほしいものだ。旅の人々がうまいさぬきの手打ちうどんを探しに出るような知恵も、こんなところから生まれてこなければウソだ。「ふるさとや 粗にして甘き 草のもち(占魚)」
市会議員の野球大会で全国から1000人を超える選手団が高松に来るというニュースですが、そこに「自然と人情の美しさのとけ合った“真のさぬきの味”は、高松から出て(県内各地に出かけて)行かなければ味わえない」「せめて高松の旅館でも県外客に郷土の味(しょうゆ豆やてっぱい)の一皿を膳に添えて欲しい」という評論があり、それに続けて「旅の人々がうまいさぬきの手打ちうどんを探しに出るような知恵が出てこなければ…」という、まさに今日の「讃岐うどん巡りブーム」に通じる提言が出ていました。この「一日一言」の筆者を、明治22年にあの瀬戸大橋を提言した大久保諶之丞になぞらえて「讃岐うどん巡り版・諶之丞」として称える、というのはどうでしょう(笑)。
うどんのダシに「鶏のキモ」?!
続いて、食中毒事件の記事中にあった「うどんのダシ」の話。
5人が食中毒 高松 鶏キモから
4日夜、高松市内で鶏のキモを食べた家族5人が軽い食中毒にかかった。5日午前9時ごろ、高松市花園町、製カン工○○○さん(46)から「家族5人が腹痛を訴えているが、日曜日で医者が来ない。なんとかしてほしい」と高松署へ連絡があった。同署ではパトカーを出し、○○さんの妻○○さん(39)長男○○君(15)、長女○○子さん(11)、二女○○さん(9)、二男○君(6)の5人を同市藤塚町の井川外科病院へ運んだ。同病院で調べたところ、4日夜、夕食のうどんのダシに使った鶏のキモが古かったのではないかと見られる。なお、症状は今朝8時ごろから痙攣と悪寒をもよおし、39度前後の発熱。今のところ大して心配はない模様。高松保健所が原因その他について調べている。
食中毒はお気の毒ですが、ここに「家で、夕食に家族でうどんを食べていた」という情報と「うどんのダシに鶏のキモを使っていた」という情報がありました。記事では単に「鶏のキモが古かったのではないか」とだけありましたが、うどんのダシに鶏のキモを使うことは特に驚くような話ではなかったのでしょうか。まあ確かにダシはいろんなものから取れるわけですが、かつて麺通団は、ばあちゃんのやっているうどん屋のダシが押し並べておいしいことから「ばあちゃんの手からダシが出ているのではないか?}という仮説を立てて一笑されました(笑)。やっぱり讃岐うどんはイリコダシが安心のうまさですね。
「離乳食にうどん」の話だけど…
次は乳幼児にスポットを当てた連載記事。話の内容に「ほんまかいな」と思わせるところもありますが(笑)、一応「幼児が離乳食にうどんを食べていた」という話が載っているので紹介しておきます。
連載/伸びる芽① ママが食事に注意 “ふうちゃん”は食べて寝て…
パパやママがたん精こめて育て上げた赤ちゃん。丸々と太った体にはパパやママの愛情がいっぱいだ。去る10日催された今年の春の赤ちゃんコンクールで見事最優秀賞に入選した讃岐の小さな代表たち12人と、未熟児を母親の愛情で立派に育て上げ、母親努力賞の1位に選ばれたおかあさんなど14人に登場願っていろいろ話を聞いてみよう。
父○○さん(28)
母○○子さん(23)
長女○○ちゃん(生後8カ月)
“ふうちゃん”は昨年の10月21日に白鳥町の病院で生まれた。生まれたとき看護婦さんが測った体重は3.3キログラム。「ママは身体が丈夫で、好きなオッパイはアタシのおなかにいつもいっぱい」とふうちゃんはニコニコ顔。だが、お母さんの○○子さんはもし“ふうちゃん”に下痢でもさせたらと、いつも自分の食事には注意し過ぎるくらい気をつけ、好きな生ものも今では一切口にしないそうだ。
この4月から離乳を始めているが、“ふうちゃん”はまだオッパイに未練があってオッパイと離乳食とカケモチ。“ふうちゃん”の好物は第一がママのオッパイ、その次はウドンとパン。この間もママが食べていたウドンを半分ほどたいらげ、パパやママを驚かせた。“ふうちゃん”に言わせると「アタシは食べるだけ食べてよく寝ていればよい」のだそうで、ママの役目はもっぱら「ふうちゃんのウンコの検査役」。お医者さんには今までカゼでいっぺんみてもらっただけ。「ふうちゃんはホンニしょう(性)のよい子だ」と近所でもほめられ通し。その上、今度県のコンクールで最優秀賞に入賞、パパやママは鼻高々だが、この高くなったパパ、ママの鼻を折らないようにするのが「アタシの役目」と“ふうちゃん”は力んだ。
愛称「ふうちゃん」と呼ばれる生後8カ月の乳幼児が、「ママが食べていたうどんを半分ほど平らげた」そうです(笑)。ちなみに、最寄りの乳児を持つ母親に聞いてみたところ、「生後8カ月は離乳食が始まってると思うけど、“ママの食べていたうどんを半分平らげた”って? それは盛っとるわ(笑)」とのことです。ただし、この子は何しろ県のコンクールで最優秀賞に選ばれているので、常識を超えたスーパー乳幼児なのかもしれません(笑)。
「マツタケうどん」は庶民のメニューだった?!
続いて、「マツタケ」と「マツタケうどん」の話題。
コラム「一日一言」
「マツタケが 鎮座まします クリの上」 大阪のある新聞に出ていた読者の川柳である。秋の香味を代表するマツタケが、今年は近年にない不作で、本場の京阪神でもはしりの値段が1本500円と聞かされ、目玉が飛び出るほど驚いた。本場もののマツタケは、例年なら10月初旬から出始めて、高松の秋祭り前後の中旬がピークとなる。最盛期となれば値段も下がるので、お祭りにはすしに、汁に、焼きものに、マツタケは欠かせぬ材料だったが、今年の秋祭りは店頭に並べられたにおいさえかげなかった。
祭りが終わったら多少出回るかと心待ちにしたが、依然姿を見せない。夏の干ばつがよほどこたえたのだろう。高松の青果市場に聞き合わせてみたら、1日に1キロそこそこ出るには出ているという。それも平年の300キロ前後に比べると全くうそみたいな量である。値段もキロ当たり2500円という高姿勢。品物が少なければ高くつくのが物価の原則とはいえ、年ごとに秋の味覚の王様として親しまれてきたマツタケが庶民の台所に姿を見せぬとは、物足りないことおびただしい。正月のカズノコが貴重品となったように、マツタケまでがその希少価値ゆえに貴金属扱いされるようになっては、食欲の秋も半ば吹っ飛ぶ思いがする。別に栄養的にはそれほど貴重なものでもなかろうけれど、秋10月といえばどこの八百屋にもマツタケがユズやスダチとともに並べられ、うどん屋には「マツタケうどん」の貼り紙が見られる日本の秋の風景は、いつまでも失いたくないものだ。
米づくりや野菜づくりと違って、マツタケ山の方は相手が菌だけに、すべて“あなた任せ”ということになるのかもしれない。しかし、農業技術や養殖技術の進んだ当節、おてんとさまだけに依存する他力本願から抜け出して、マツタケの増産を狙う手は打てないものだろうか。江戸前の人がサンマの味に秋を知るように、関西人はマツタケを食うことはすなわち秋を食うことだと心得ている。そのマツタケが倍増時代にそっぽを向けて姿を見せぬとは、秋の情趣も半減する。「とりあえず 松茸飯を 焚くとせん(虚子)」 庶民のすべてがこの句のダイゴ味を味わい、毎年手軽にマツタケが買える秋の再来を待つものである。
マツタケが不作で1本500円という「目玉が飛び出るほどの値段」になった、という記事ですが、記事中に「マツタケが庶民の台所に姿を見せないのは物足りない」「うどん屋に『マツタケうどん』の貼り紙が見られるのは日本の秋の風景」「毎年手軽にマツタケが買える秋の再来を待つ」とあるように、この頃のマツタケはかなり安くて庶民の食べ物だったことが窺えます。ちなみに、林野庁の資料から主なキノコの平均市場価格(1キロあたり・円)の推移を見てみると、
マツタケ……(昭和40年)1591円→(平成30年)30862円…1939%
乾シイタケ…(昭和40年)2056円→(平成30年) 3363円… 164%
生シイタケ…(昭和40年) 360円→(平成30年) 1006円… 279%
ナメコ………(昭和40年) 667円→(平成30年) 388円… 58%
エノキタケ…(昭和50年) 589円→(平成30年) 248円… 42%
となっていました。マツタケの平均市場価格はこの53年間で20倍近くに跳ね上がるという突出した値上がりぶりを見せていますが、大量生産化されたナメコとエノキは逆に半分くらいに価格を落としています。さらに、昭和40年のマツタケは乾シイタケより安かった(!)という事実も。だから庶民の台所に普通にマツタケが姿を見せたり、うどん屋で普通に「マツタケうどん」が出たりしていたわけですね。
うどんのお接待の話を2題
続いて、うどんのお接待に関する話題が2つ出てきました。まずは、総本山善通寺で参拝客にうどんの接待が行われたという記事。
あいにくの曇りでした お休み・彼岸の中日 熱いうどんを接待 総本山善通寺
彼岸中日の21日、香川県西讃地方では古くから伝わる四国霊場をめぐる7カ所参りが行なわれ、インスタント遍路としゃれこむ若い二人連れや家族連れが目立った。特に真言宗総本山善通寺はこれらの人たちや一般の参拝者、観光客が詰めかけ、御影堂付近は終日手を合わす人の波が続いたが、同本山境内の観智院では善通寺市西部長寿会=山口幸七会長(67)=が奉仕して参拝者にうどんの接待を行なった。接待にはおよそ40人の役員が出て2000人近くの参拝者にうどんを振る舞ったが、これは西部地区内の家庭700軒余から集めた小麦8俵を加工したもの。彼岸とはいえうすら寒い天候だったため、参拝者は思わぬ暖かいうどんに大喜びだった。山口会長は「接待はこれが初めてだが、みんなが大変喜んでくれるのでこれからも続けたい」と話していた。
善通寺市西部長寿会会長のお話によると「接待はこれが初めて」だそうですが、総本山善通寺が行った初めてのうどん接待なのか、長寿会が行った初めてのうどん接待なのかが残念ながらわかりません。ちなみに、「インスタント遍路」が一瞬「インスタ遍路」に見えてしまいましたが(笑)、「インスタ遍路」、何かできそうな気がしません?
1万人の悲願達成 丸亀の田尾さん 10年間、散髪の奉仕
1万人の散髪奉仕を悲願としている丸亀市福島町、理髪業、田尾○○さん(62)は、19日で10年目、延べ1万人の散髪をして悲願を達成する。現在9990人の散髪奉仕を終わっているが、19日午前9時から市立養老院「亀寿園」で老人10人の散髪奉仕をして悲願を達成する予定で、同院の老人たちは田尾さんの悲願達成を祝福して感謝会を催す。田尾さんはさらに今年から向こう10年間、2回目の延べ1万人散髪奉仕を目ざし、19日午後2時から善通寺市養老院「五岳荘」へ行き、1万1人目の散髪奉仕に入るが、田尾さんは自費でうどん玉を買って行き、老人たちに食べてもらう計画を立てている。
街の散髪屋さんも「うどんでお接待」です。全国にはおそらく「うどんでお接待」という文化はほとんどないと思いますが、香川では当時からどこにでも普通に根付いていたことが、改めてわかります。
引き続き「値上げ」の話題
讃岐うどん界の経済面のニュースは、前年から続く「値上げ」に関する記事が今年も目立ちました。
うどんは25円に 詫間共栄飲食業組合
三豊郡詫間町、詫間共栄飲食業組合は、4月1日から一部飲食物の値上げをする。それによると、うどんは一杯25円、中華ソバは40円とそれぞれ5円の値上げ、カレー、チキンなどのライス物は10円くらいの値上げになる。同組合では「正式に組合で決めたものではなく、店によって値段も違うだろう」と言っている。
前年に「高松市内の飲食店がうどんやそばなどを5円程度一斉に値上げする」という記事がありましたが、今年は詫間町の飲食組合が同様の値上げを表明しました。高松と同様に、「うどん玉の1円値上げ」を受けて「うどんは5円値上げ」。当時の物価は今(2020年頃)の大体10分の1です。
コラム「一日一言」
年越しソバを食べる日もあと10日余りとなったが、県下のうどん玉、そば玉が突如として8円から10円に値上げされた。今年に入ってすでに二度目の値上げであり、値上げムードに始まって値上げムードで暮れることしの幕切れは、ぜひ“値上げそばで”という魂胆なのであろうか。もともとパンやうどんなどという主食に準ずるものが値上げになる場合は、その原料の小麦粉が高騰した場合しか考えられぬが、小麦粉は上がっておらず、従ってパンの値上げも聞かないのに、うどん玉だけが独走するのはどうしたことか。単に人件費の上昇を問題にするなら、どの中小企業だって同じことだし、うどん玉もこの春値上げしているのだから、それでカバーされているはずだ。年末の書き入れどきを見込んで二度目の抜き打ち値上げをするなどとは、どう考えても便乗値上げのそしりはまぬがれず、一般消費者にとっては迷惑至極な“お歳暮”であろう。
先日も書いたことだが、コンニャクのように原料が2倍にもはね上がれば値上げも仕方なかろうし、消費者もヤボなことは言うまい。しかし、今度のうどん玉の値上げばかりは納得いたしかねるものがある。大みそかの大量消費日を目ざして所得倍増をたくらんだとしか思えないからである。うどん屋さんの中には、玉の値上げに順応してさっそく25円のうどんを30円に値上げした向きもあるときく。しかし、25円に据え置いている店も多い。これらの店も目に見えて分量を減らしたり、かやくの質を落したりするわけにもいくまいし、良心的な店では収入がマイナスになるかも知れない。
このほど問題を呼んだ西讃のパン騒動では、小売店が12円の菓子パンを最初ボイコットしたのがことの起こりだと聞く。県下のうどん屋さんも、ひとつ思い切って玉屋さんの一方的な値上げに抵抗して、自家で玉を打つような方法を考えてみてはどうだろうか。さぬきうどんの味は全国的に知られているが、本当にうまいのは手打ちうどんの味だ。今では昔のように自家製手打ちうどんやそばを食べさせる店もない。
前年10月に高松製麺組合がうどん玉の卸値を「1玉6円から7円に」値上げされましたが(「昭和35年」参照)、それがこの年8円に上がり、さらに年末には10円に上がりました。しかし、注目はこのコラムの最後。「県下のうどん屋さんも自家で玉を打つような方法を考えてみてはどうか」と「今では昔のように自家製手打ちうどんを食べさせる店もない」という記事から、「昔は自家製の手打ちうどんを食べさせる店があったが、昭和36年頃のうどん店は玉を仕入れてくる店ばかりだった」ということが窺えます。
ただし、昔あったという「自家製の手打ちうどんを食べさせる店」が、今の「職人が手作りするうどん専門店」だったのか(そうではないような気もしますが)、「製麺所がついでに食べさせてくれるような店」だったのか、あるいは「たまたまそこで手打ち麺を出すようなうどん食堂」だったのか、そのあたりの形態はわかりません。また、このコラムの筆者の知らないところで「自家製手打ちうどんの店」があったかもしれません。しかしいずれにしろ、当時は今日のような「職人型の手打ちうどん専門店」が稀だったことは間違いないようですから、この後、歴史のどこかで讃岐うどん店の在り方が大きく変わっていくことになるはずです。
うどんの「出前」に逆風?!
うどん玉の値上げに加えて人件費の負担増や人手不足も表面化してきたようで、うどんの「出前」もだんだん厳しくなってきたようです。
コラム「一日一言」
(前略)…… しかし、米屋さんはやお屋、魚屋さんなどとこと変わり、いちいち家庭へ運ばねばならない。それだけ人件費もかかるわけで、うどん屋の出前さえとやかく言われる時代に少ないマージンで重いものを運ぶことは、いくら商売とはいえバカバカしくもなろう。今度の米屋さんの要求は「配給米販売のマージンを倍増しろ」ということだが、消費者価格の値上げには反対しているので、台所の「値上げ心配ムード」には関係なさそうに見える。ところが、厚生省ならぬ食糧庁は「とてもそこまで予算がない」と突っぱねている。とはいうものの、「百姓一揆」的なこの米屋さんの抵抗も古い食管法をゆさぶるアリの一穴にならぬとは断言できないのである。米価問題はまた新しい時限爆弾を抱え込んだとも言える。
このコラムの本編は「米屋さんの苦難」の話ですが、そこにチラッと「うどん屋の出前さえとやかく言われる…」という表現が出ていました。そしてついに、県内飲食業界からお客様に「出前をご遠慮ください」という呼びかけが…
出前遠慮願います 県飲食業者が取り決め
香川県飲食業組合連合会(鈴木英夫会長、会員1040人)は12日、県下に7万枚のビラを配布し、「出前を遠慮してほしい」と利用者に呼びかける。連合会の話では、人手不足のシワ寄せを受け、出前持ちのなり手がなく、しかも出前1回につき9円から10円につくという。高賃金を払って出前の専任者を置くこともできないので、お客さんにできるだけ店へ来て食べてもらうよう呼びかけることになったわけ。県職業安定課の調べでも、今春中卒者1578人、高卒者551人が県下の423事業所へ就職したが、そのうち176事業所がなお1262人の人手不足を訴えている。
「出前1回につき9円から10円」という人件費は、店にとっては厳しいけど求職者にとってはあまり割に合わない(出前持ちのなり手がない)という相場だったのでしょう。昭和36年は日本の高度成長期(昭和30年頃~昭和40年代後半)の真っ只中で、神武景気に続く岩戸景気(昭和33~36年)のピークにあるという年ですが、景気が上昇して「消費の拡大→生産増強」のサイクルが回り始めると、生産現場で「人手不足→賃金上昇」という現象が起こるのは経済の原則。そして、人件費高騰分はそのうち景気(販売拡大や物価高等)が吸収してくれるのも原則です。ちなみに、近年は「商品生産の増強を伴わない消費」が拡大したり「生産性の向上以上の賃金上昇」が起こったりして、状況はかなり複雑になっているようですが…。
続いてこちら。
ウドン屋にルームクーラー出現
大川郡大内町三本松の某飲食店にこのほどからルームクーラーが2台新設され、町の話題となっている。世をあげて電化時代とはいえ、田舎のうどん屋までルームクーラーがお目見えするとは「ご時世ですなあ」と、うどんをすする客の中からカンタンの声がもれた。このクーラーは水冷式。店の主人は「商売はサービスが第一、それにセンスも必要だ。たとえうどん一杯、そば一杯食べてもらっても、夏は涼しく冬は暖かくしてお客さんから喜んでもらえれば…。それにルームクーラーが思ったより安かったんでね…」と涼しい顔。
うどん店の「プチ景気のいい話」でした。
7月恒例「半夏生」のコラム
久しぶりに、戦後何度目かの「半夏生とうどん」のコラムが載っていました。
コラム「一日一言」
今日2日は農家の休日「半夏(はんげ)」である。半夏生(はんげしょう)と呼ばれるドクダミに似た草が伸びる季節なので、この名があるといわれるが、1年を72に区切った中国の暦に基づくもので、夏至から11日目にあたり、昔から田植えはこの日までに終わるべきものとされていた。そこで、田植えの骨休みとして祝う「さのぼり(さなぶり)」などもかち合い、農家では大きな年中行事となっている。
昔はこの日の天候で稲作の吉凶を占う風習があり、半夏の雨は天から毒気が降るものとして恐れられたが、今年などは半夏を待たないで全国的に集中豪雨という大毒気にあてられた。半夏雨は「半夏半作」などという言葉まで生み、「半夏のハゲ上がり」が順調な気候とされている。しかし、カラ梅雨の年には半夏雨だって結構めぐみの水となるのだから、科学の進んだ現在、こんな非科学的な迷信を肯定する人もなかろう。むしろ、「半夏半値の大奉仕」などとPRして農家の消費ムードをそそのかすような町の商魂の方に興味がそそがれる。都会の若い人々は半夏などといっても、何のことかわからぬ向きも多かろう。しかし、町の古老たちは農家の伝統をふまえて半夏という古い言葉に新しい衣装をほどこし、所得倍増のバスを走らせているのだ。農家の人々もこのセンスだけは見習っても損はすまい。
「半夏」といい、「さなぶり」といえば必ず農家に登場するのが手打ちうどんだが、讃岐の手打ちうどんも、このごろは有名になって東京まで進出し、その風味を賞美されるようになってきた。しかし農民が手ずから打ち、手ずからだしを作るうどんの味はまた格別で、これこそ真の讃岐の味と思われる。近代化されつつある農業生産の場においても、この手打ちうどんのような味の細かい個性と技術だけは失わないでほしいものだ。何事によらず、ブームは個性にとっては大敵で、近代化し、機械化すれば味が落ちてくるのはうどんだけではない。つゆ晴れのころ、よく農村から売りに来たはったい(麦の粉)売りの声も、このごろはすっかり聞かれなくなった代わりに、町の八百屋などでも売っているが、農家で作る麦こがしの味に比べるとだいぶん落ちる。半夏ということばには、農家のひなびた食べものへの郷愁も多分にあるようだ。「むせるなと 麦の粉くれぬ 男の童(召波)」
ご存じの方にはあえて説明するまでもありませんが、筆者がご存じじゃなかったので一応確認すると、「半夏生」はもともと草の名前だったんですね。あと、一説によると「さのぼり」の「さ」は「田んぼの神様」のことらしく、田植えの前は「さ」が天から「降りてくる」ので「さおり」と呼び、田植えの後は「さ」が天に「上っていく」ので「さのぼり」なんだそうです。ちなみに、「桜」は「さ」の神様が「座っているところ(座=くら)」だ、と知人の天気予報士のおじさんが言っていました。
コラムの最後は、当時の「讃岐の手打ちうどん」の状況に触れています。簡単にまとめますと、
・讃岐の手打ちうどんは有名になって、東京にも進出している。
・しかし、本当にうまいうどんは「農民の手打ちうどんと手作りダシ」によるものだ。
・ブームや近代化、機械化はうどんの味を落とす。
という話。麺のクオリティはともかく、当時は「農家の数だけうどんの味と個性があった」と言えます。それを思うと、かつての讃岐うどんのバリエーションの非常に多くが今、失われてしまったのではないでしょうか。今日、家で自分でうどんを打つ人はほとんどいなくなってしまいましたが、昔自分でうどんを打っていたおじいちゃん、おばあちゃんに“昔取った杵柄”でうどんを打ってもらってみんなで食べるイベントなんかどうでしょう。打ち手のおじいちゃん、おばあちゃんを一堂に集めてやってもいいし、1年中、日時を変えて県内あちこちの家か会場で打ってもらって客が巡ってもいいし。「どこかの会場に名店を集めるみたいなイベント」よりおもしろそうな気もしますが。
次は「夏の麺類の効果的な食べ方」の記事ですが、小麦粉や麺類のいろんな豆知識が載っていましたので、項目ごとに拾ってみましょう。
氷片の浮かぶ夏のめん類 つけ汁のくふうを ゆであがりの光沢とのび
暑さにうだる夏の食卓はやはりパンよりめん類が人気の的。氷片の浮かぶひや麦や冷たいだしですするそうめんの味は格別です。そこで製粉協会、製めん組合、栄養改善普及会で聞いためん類の話を…。
めん類の原料として使われる小麦粉の消費量は、35年度でみると小麦粉消費総量約168万トンのうち39%、約66万トンで、このうち34万トン弱が乾めんになりますが、夏はめん類の中でもこの乾めんが圧倒的に食べられています。めん類にはこの乾めんのほか生めん、ゆでめんなどがありますが、もとはといえばみんな同じで、小麦粉に水を加え、ミキサーでこね、ロールにかけて帯状にのばし、細く切断したもの。切断されて出てきたままの状態が生めんです。生めんは営業用が主で、市販されているのは中華そばぐらい。生めんをゆでたものがゆでめん(玉うどんとも言っています)、生めんを乾燥したのが乾めんというわけです。
ここに出ている小麦粉の消費量は全国の数字ですが、麺類用の約66万トンのうちの半分が「乾麺」に使われているようです。乾麺は、そうめん、冷や麦が最も多いと思いますが、うどん系では稲庭うどんやきしめんも基本「乾麺」なので、おそらく大半がこの中に含まれています。これまでの新聞記事を見ると、香川のうどんも戦後はずっと「乾麺文化」がかなり強かったみたいですから、それもおそらくこの中。加えて、「生麺で市販されているのは中華そばぐらい」とあるように、当時のうどんの流通は乾麺とゆで麺が主流で、ここに「半生麺」のうどんが登場するのはずっと後のことです。
乾麺の太さによる呼称の違い(ゆで麺の太さではありません)。現在のJAS規格(幅1.3ミリ未満=そうめん、1.3ミリ以上・1.7ミリ未満=冷や麦、1.7ミリ以上=うどん)ができるずっと前の規定です。
「もともと日本のうどんは軟質の内地麦が原料」「戦後に育った人は硬質の外麦で作ったものしか知らない」という説明が出てきました。ということは「戦後のうどんは全部外国産小麦で作ってたのか?」という話になりますが、少なくとも香川では当時、農家が作った小麦を製麺所等で粉にしてうどんにして食べていましたから、これはちょっと誇張した記事かもしれません。
昭和36年の香川の小麦消費は、香川県産と外国産が半々だった?!
しかしそれにしても、天下の四国新聞が、製粉協会、製めん組合、栄養改善普及会で聞いた話とは言え「戦後に育った人は硬質の外麦で作ったものしか知らない」と書いていますから、一応確認のために、データから当時の香川県で流通していた小麦の「県産」と「外国産」の内訳を推測してみることにしましょう。
まず、前年(昭和35年)にこういう記事がありました。
▶スウェーデンの新造船ソナタ号がバンクーバーからカナダ産小麦1万2563トンを積んで坂出港に入港。
▶この小麦は香川県9463トン(約75%)、愛媛、徳島両県へそれぞれ1500トン、高知県へ100トン配分される。
▶昭和35年は1月から6月までに小麦が2万1000トン輸入されており、今後も坂出港に四国全体の小麦がどしどし輸入される見通し。
「1月から6月までに2万1000トンの小麦が輸入され、今後もどしどし輸入される見通し」ということは、昭和35年の四国への輸入小麦の量は年間にしておそらく4~5万トンあったと推測されます。そのうち約75%が香川用だとすると、香川への輸入小麦量は年間約3万~3万5000トンという計算になります。
一方、当時の香川県産小麦の収穫量を調べてみると、木下製粉さんのホームページ資料から「昭和26年~昭和35年までは年間3万トン弱で推移している」というデータが出てきました。ということは、当時香川で出回っていた小麦は県産小麦が3万トン、外国産輸入小麦が4~5万トンで、「半分以上が外国産だった」ということになります。すると、先の記事にあった「戦後に育った人は硬質の外麦で作ったもの(うどん)しか知らない」という状況は、やはり香川ではちょっとおかしい。加えて、今日よく言われる「オーストラリア産のASWが入ってくるまで、香川のうどんはほとんど香川県産小麦で作られていた」という話にも疑問が出てきました。
しかし、1月にはこんな記事も。
連載/小麦
日本一うまいと言われる讃岐うどんの作り方のコツは秘中の秘だといわれる。だが、原料の小麦粉がいいことも否めない。讃岐は松平12万石をはじめ穀倉地が多く、稲作も麦作も昔からよかった。天災にもめったに合わないという地形的な利点が大きく物を言っているのだとも言われる。日本もこれからパン食に変わって行こうが、この原料はほかでもない、やはり小麦。稲やサツマイモにも同様に固有名として農林番号がついており、小麦は96号(34年10月)までついている。今年と同じ番号の小麦「農林61号」は暖地栽培用として佐賀県立試験場で作られ、「西海75号」の系統番号がついている。この両親(?)は福岡小麦18号と新中長で、この両品種の交配で実ったものだが、香川県では農林61号より農林26号、農林67号、農林96号(ジュンレイコムギ)の方がよくできる。(以下略)
「日本一うまいと言われる讃岐うどんは良質の小麦粉に支えられている」という導入の後に香川県産小麦の名前が並んでいて、外国産小麦には触れられていません。つまり、この記事からは「当時、讃岐うどんは(ほとんど)香川県産小麦で作られていた」というふうに読めます。では、県産小麦とほぼ同量が輸入されていた外国産小麦は、一体どこに使われていたのでしょうか。
「香川で食べられるうどんは県産小麦3万トンで全て賄われ、外国産小麦3万トンは全てうどん以外に使われていた」という仮説もしっくりこないし、「外国産小麦で作ったうどんは全て乾麺にして県外に出し、県民は食べていなかった」という仮説も、県内の家庭で乾麺が食べられていたことは「昭和の証言」に何度か出てくるから違うだろうし…。とりあえずここでは答えがわからないので、「昭和36年の香川の小麦消費は、数字では香川県産と外国産が半々だったけど、外国産小麦が讃岐うどんにどう使われていたかは、新聞からはわからない」としておきましょうか。
日清製粉坂出工場落成、完工式 県下一の高層工場
日清製粉株式会社では総工費3億5000万円で坂出市にさる34年12月から新工場を建設中であったが、先月完成したので、25日午前11時から金子知事、鎌田坂出市助役、食糧事所長ら関係者約350人を招いて完工式を行なった。
活気づく坂出港 小麦積んでギリシャ船入港
坂出港へ今年最初のアメリカ小麦を積んだギリシャ船アトランチック・グローリー号(1万145トン)が14日入港、15日から1万3515トンの小麦の陸揚げ荷役が始まり、埠頭地帯は久しぶりで活気を見せている。同船は去る2月25日ポートランドを出港して坂出港に直航したもので、20日までに荷役を終わり、再びアメリカへ向け出発する。14日には神戸植物防疫所坂出出張所が同船の小麦を検査したところ、コクゾウ、グラナノヤコクゾウ、コクヌストコクゾウなどの害虫を発見したので、神戸向け1771トン、小松島向け450トンを除き、坂出港に陸揚げする1万1294トンは各倉庫に入れてクンジョを行ない、次の通り四国四県に配分する。香川県9444トン、愛媛県1500トン、徳島県600トン(小松島直送分450トンを含む)、高知県200トン。
しかしいずれにしろ、この年も坂出の製粉業界は盛況で、港には外国産小麦がどんどん入ってきています。
裸麦から小麦への転換が進むが…
ここで、昭和36年の四国新聞に載っていた香川の小麦生産に関する記事をまとめておきましょう。
まず、2月に「昭和36年産の麦作に関する動向調査」(香川県穀物改良協会が行った農家300戸からのアンケート結果)が掲載されていました。それによると、
①小麦の作付面積は前年比162%の増反。(裸麦の作付面積は前年の62%に減少し、減少分の75%は小麦に転換。その他はナタネ、エンドウ、ジャガイモ、野菜に転換)
②小麦の作付品種は、農林26号が67%、ジュンレイ小麦が23%、農林67号が5%、その他5%。(裸麦は香川ハダカ1号29%、ユウナギハダカ29%、三保珍子20%、セトハダカ12%、佐賀ハダカ2%、その他8%)
③小麦は生産量の51%が販売され、49%が自家消費。自家消費のうち14%が飼料用。(裸麦は生産量の65%が販売され、35%が自家消費。自家消費のうち70%が飼料用)
とのこと。この年も「裸麦離れ」は加速しているようで、裸麦の作付面積は小麦や野菜にどんどん転換され、作られる裸麦もその7割が家畜の飼料になっていると書かれていました。小麦の品種は「農林26号」が主流で、生産した小麦の行き先は「販売と自家消費が半々ぐらい」というアンケート結果です。
ちなみに、前記木下製粉さんの資料によると、昭和36年の香川県産小麦の収穫量は「約5万トン」。一方、吉原食糧さんの著書『だから「さぬきうどん」は旨い』の中に「昭和30年の香川県産小麦粉の供給量が2万2000トン、昭和40年が2万6000トン」という試算がありました。こちらは小麦粉ベースなので、同データにあった「小麦粉にする時の歩留まり75%」という設定で小麦に換算し、「生産量」と「供給量」の差も考え合わせると、おそらく昭和36年時点で県産小麦の収穫量は「約4万トン」あたり。両者に1万トンぐらいの違いはありますが、まあおよそ年間4~5万トンの県産小麦が収穫され、それに見合う量が(少なくとも3万トンぐらいは)供給されていたと思われます。
加えて、先述の吉原食糧さんの著書の中では「当時の香川県の小麦粉需要量」が約2万5000トンと試算されていて(歩留まりを戻して小麦換算すると3万トンぐらいになる)、小麦粉の需要と県産小麦粉の供給量がほぼ同じになるので、著書では「うどん店が使用する小麦粉、あるいはうどん店が仕入れる製麺所の小麦粉は全量、農林26号が主体の県産小麦だったはずです」と分析されています。とするとやはり、「年間3万~3万5000トン」の輸入外国産小麦の行方がよくわからない…けど、本稿は「小麦粉探偵団」ではないので、謎を放置したまま次に行きましょう(笑)。
県 本年度麦生産改善事業急ぐ 小麦転換進める パイロット地区設定が中心
香川県は本年度の麦生産改善事業実施を急ぐことになった。これは昨年大きい成果を収めたことから農村地帯では人気があり、大、ハダカ麦転換対策特別措置法案が先の国会で流れたため一時見合わせていたが、次期国会で再提出されることになり、同対策を急ぐことになった。小麦パイロット地区の設定が中心で、大、ハダカ麦を絶対量の少ない小麦に転換させ、機械化の導入による共同作業をして労力を省き増産を図ろうというもの。いわゆる省力栽培。
パイロット一地区の農家が20戸で、耕地は8~10ヘクタールとなっている。導入機械は施肥ハ種機、刈取機、乾燥機などいずれも小型用。1セット国費補助は24万3000円で、半額は県費と地元負担。昨年は高松市上天神など県下で9地区が指定されたが、県農林部の調べでは労働時間は半分以下になっており、ドリルまき採用では一作50時間というのが出た。収穫も具体的には出していないが従来の赤字を消し、大きく黒字になった。特に余った時間の利用が目立ち、養鶏、養豚から出かせぎ(左官、大工)などが多くなっている。
今年は農林省から36地区が指定されることに内定したが、県下の市町村から指定申請が殺到、合計56地区にのぼっている。10月頃には麦まきが始まるので、遅くとも9月中間には指定されよう。昨年の実績から希望地区が多いため、共同作業の可能地区、大、ハダカ麦の転換ができる地区などの基準を置いているようだ。県下は昨年は約80ヘクタールだったパイロット地区も今年は300ヘクタールほどになりそうだ。
香川県で36部落 小麦省力栽培パイロット地区指定
香川県農林部では36年度の麦作改善対策事業としての小麦省力栽培パイロット地区指定について農林省と折衝していたが、9日、県下で36部落が指定されることに決まった。前年度の4倍の指定で、県農林部はこれらのパイロット地区を中心に県下で1万8000ヘクタールの省力栽培普及を決めている。この省力栽培は、「麦は作れば損をする」という労力を使う作業から時間を少なくしてそれ以上の収穫をあげようと、昨年から農林省が始めた。この一部落は1ヘクタールのモデル地区で事業をするが、機械化費として国から23万3000円の補助がある。県農林部は昨年度の実績から「反当2000円程度の赤字が、8000円の黒字になる」と言っている。
というわけで、小麦は国が省力栽培のパイロット地区を設け、裸麦からの転換を勧めています。そんな流れの中、香川では「生産性日本一」を獲得した小麦農家も現れました。
麦作日本一に丸亀の広瀬さんら 5人で専心研究 グループ賞の栄輝く
「小麦作り日本一」を競う第2回小麦作改善競作大会の入賞者(個人34人、グループ29団体)が11日、農林省から発表された。この大会は農林省、全国農協中央会、製粉協会の共催で昨年から始められたもので、今年は個人2953人、424グループが参加、全国1位には個人の部で長野県更級郡更北村の深沢広美さん、グループでは香川県丸亀市飯野町の広瀬頼雄さんたちのグループが入賞した。グループ日本一の栄誉を受けた広瀬さんら5人は、それぞれ10アールずつ計50アールを耕やして競作大会に参加、10アール当たり平均812キロの収量を上げた。付近では10アール当たり600キロの収量が普通だが、お互いに呼吸を合わせ、みっちり技術研究に取り組んだ成果が「グループ日本一入賞」となって実った。
続いて10月に、昭和36年の全国の麦類の実収が発表されました。
小麦実収は戦後最高 麦類、サツマイモの反収も 農林省発表
農林省は25日、36年度麦類その他冬作物の収穫量とサツマイモの予想収量(10月1日調査)を発表した。それによると、いずれも豊作で、麦類とサツマイモはともに反収が戦前戦後を通じ最高を記録。また、小麦の実収量は戦後最高となった。調査結果は次の通り。
【麦類の実収】
・小麦…178万1000トン(昭和15年の179万2000トンに次ぐ2番目の記録)
・ハダカ麦…84万9000トン
・六条大麦…84万1000トン
・二条大麦(ビール麦)…28万6100トン
この合計は375万7000トンで、前年に比べ7万3000トン(2%)下回る。小麦は反収272キロ(作況指数123%)、六条大麦は310キロ(同112%)、二条大麦298キロ(同113%)、ハダカ麦は251キロ(同113%)といずれも平年作を1割以上も上回っているが、小麦、二条大麦を除き六条大麦、ハダカ麦はいずれも作付け面積が大幅に減ったため収量は減少。この減少が小麦、二条大麦の増加分を上回ったため、全体では減収となった。
昭和36年の麦生産は、大きく分けると大麦(裸麦、六条大麦、二条大麦)が53%、小麦が47%という比率で、大麦は主力である裸麦と六条大麦が大幅に減反されているとのことです。ちなみに、この年の国の麦対策は、
①大麦とハダカ麦の作付け転換の促進
②新管理方式(小麦の無制限買い取りと、大麦及び裸麦の買い入れ制限)
の2つが柱として打ち出されました。県内では丸亀市がこの路線に沿った「5カ年計画」を策定し、麦の減反や飼料作物の栽培(合わせて畜産の振興)、換金作物や果樹栽培の促進等を開始。白鳥町ではビール麦(二条大麦)の栽培に注力する等、県内の農家はあれこれ手を尽くしていたようです。また、「県は斜陽作物の麦作に代わるものとしてビート栽培を推進している」という記事もあり、「大麦減反→小麦や野菜等への転換」の流れは、もう止まりません。しかしそれでも、いずれの策も麦作(裸麦)に代わる決め手とはなっておらず、農業政策は国も県も行き詰まりの色が濃くなっています。
黄昏期を迎えた「水車」
では最後に、うどんの周辺情報を拾っておきましょう。まずは「水車」のお話。
連載/現代の遺跡⑰ 水車 疲れはてた無残さ
満身創痍、疲れ果て見るも無残なこの水車は寒空にひとり寂しく取り残され、過ぎ去った昔を次の通り語るのだった。
「今は無用の長物として誰一人相手にしてくれませんが、これでも50~60年前までは時代の先端を行き、この土地の産業発展に大いに役立ったものですよ。私が若かりし時はこの谷川の水を腹いっぱい飲んで、毎日元気に駆け巡ったものです。今では見る影もない私ですが、この土地になくてはならない存在でした。というのも、この部落のほとんどがこの私とともに明け暮れ、私の力で栄えてきたのです。星かわり年が過ぎ、次第に機械化されて私は後にとり残され、同僚は次々姿を消してゆきますが、私はありし日の功労者だと自己満足し、思い出多い文化財だと自負しています」と、余命いくばくもない水車は哀れな身の上をこう語った。しかし、水車の回る音と谷川のせせらぎは谷間に聞こえる懐しい牧歌であり、老人たちには幼いころの子守歌のように生涯忘れることのできないリズムである。独りごとをつぶやくこの水車は、今日も寒空に吹かれながら凍りつくような冷水をのんで働きの手を休めない。
「50~60年前までは時代の先端を行き」とあるように明治時代に全盛を誇った「水車」も、昭和36年には「(当時の)見る影もない」と、擬人法の「水車」さんが語っています。黄昏期を迎えた水車の歴史については「峠の会」発行の『讃岐の水車』に詳しく記されていますので、興味のある方はぜひ図書館等でお読みください。
そうめんと冷や麦の話題
続いて、毎年のように新聞で取り上げられているそうめんの記事。今年は小豆島そうめんの歴史に触れていました。
手延べそうめん 生産農家が減少 労働時間が長すぎる欠点
産業は何がきっかけで芽ばえ、発展するかわからない。今から約360年前の慶長年間のこと。池田地区のお百姓衆が伊勢参宮に出かけた。一行が大和の国(現在の奈良県)三輪を通り過ぎようとした時、あちこちの農家の軒先に干している絹糸のよゆうになめらかで美しいそうめんを見つけた。「これは何やろうか」「えらいきれいやのう」と口々にしゃべりだした。ある農夫が「よし、わしが聞いてきてやる」とつかつかと門をくぐった。しばらく経って出てきた農夫が「おい、これは手延べそうめんちゅうもんや。農家の副業としてはもってこいだというで」。それから数ヶ月経ち、池田から数人の弟子が三輪に派遣されることになった。もちろん若者ばかり。そしてみっちり修業を積んで帰島、初めての「手延べそうめん」の製造が始まった。
昔のこととて、製めん法は原始的でしかも幼稚。まず、小麦を畜力(牛)によって石臼で製粉。あとは食塩と水を混ぜ合わせ、食油で細く延ばしてゆく。だが、実際においては口では言えない難しい技術がいる。これまでの農家は麦、サツマイモを本業とし、さして懐具合は温かくなく、現金収入となるこの産業導入は農家にとっては福音だった。一時は池田地区だけではなしに小豆島全島に普及し、農産加工業の花形としていん盛をきわめた。明治初年ごろは製造戸数1000戸、生産高15万箱に達し、九州の長崎をはじめ、廣島など瀬戸内海沿岸地方に販路を求めた。
明治32年ごろになって、同島最大の川、伝法川中流付近で水車を利用した製粉工業(?)が発達した。当時、中山を中心として30軒近くが営み、製粉は主に「そうめん用」となった。今でも7、8軒が当時の面影を残しており、年間400袋(22キロ入り)を生産、島の手延べそうめんに使われる全体の3分の1を占めている。
時代は流れ、原動機の発明により産業革命が起こった。大正初年ごろ、機械そうめん、機械うどんが出現、盛んな量産とコスト低下による安い販売価格で、これらに需要先を食われ始めた。さらに昭和16年ごろからの統制企業の整備、物資不足などによって、生産高、生産戸数が大きく減少した。戦後の平和復興とともに世の中も落ちつき、「手延べそうめん本来の味」に現代人の嗜好がマッチして次第に需要が高まりつつある。
ところが残念なことに、一時1000戸近くあった生産農家が今では130戸に減少、さらに下降線をたどっている。その生産量が5万箱(18キロ入り)で需要に追っつかないというのに……。その最も大きな原因として、労働時間が長いことだ。一家総動員で老人、子供まで仕事を分担し、朝は2時、3時頃から夜は7時頃まで、実に1日16~17時間働く。昔からこれらの農家でこういうことをよく言う。「嫁にやったら親の死に目にあえない」と。
それでも創始当時は一年中が製造期間だったが、今は11月中旬から翌年の春3月いっぱいに限られているので、「ずいぶん楽になった」という古老もいる。しかし、数年後からの機械化にもかかわらず、若者たちがこのそうめん事業に振り向きもせず、都会へ飛び出してしまう。わずかに老人と子供たちが三百数十年前から続く先祖からの伝統を守っている。いわば島の特産に赤ランプがついている状態とも言えそうだ。
小豆島のソーメン 生産におおわらわ
日ごとに増す寒さに歩調を合わせるかのように、小豆島の池田町で手延べソーメン生産のピッチが上がっている。シーズンは来年3月までだが、1、2月の厳寒ものが格別おいしいとされている。同町全体の生産目標は5万6000箱で、130戸の農家は生産に追われている。しかし、注文量に生産が追いつかない状態で、価格は1箱(18キロ入り)1400円見当。
小豆島のそうめん産業の全盛期と昭和30年代を比較して、
(明治初年頃)製造戸数…1000戸、生産高…15万箱
(昭和30年代)製造戸数…130戸、生産高…5万箱
という数字が出ています。この間、製造戸数は8分の1に激減し、製造期間も「1年中」から「11月中旬~3月の5カ月弱」と半減していますが、1戸あたりの生産高は150箱から385箱に増加(約2.5倍)して大忙し。しかし、「若者が跡を継がず都会に出てしまう」という昭和36年の状況です。
続いて、冷や麦の話題が出てきました。
すべてオートメ化 冷や麦の製造 原料は高価で良質 坂出
坂出市内のN製めん工場では今、冷や麦製造の最盛期に入っているが、今年からすべてオートメーション化して雨の日でも乾燥できる製造施設、自動計量器などを備え、包装も紙からセロファンやポリエチレンに変え、荷造りも木箱からダンボール箱にするなど、昨年とは見違えるような改良が加えられている。食生活の向上から価格は高くても良いものが好まれるようになったので、原料の小麦粉も1袋(22キロ入り)960円のものを使っていたが1200円の上質粉を使っている。
その製造も全部機械力で仕事が運ばれる。乾燥室へは重油パーナーで35度から38度の熱風を送り込んで乾燥させるが、水分を適度に含んだ熱風を送風できる浅野式熱風乾燥装置を採用している。これは、従来の熱風乾燥では表面だけが乾いて内部が湿っていて割れたり折れたりする欠点があったのを改良したわけである。乾燥を終わった冷や麦は一定の長さに切断、重さを量って一束一束、束にして包装していたのを、新発明の藤菊式乾めん包装機に乗せると、自動的に計算した一束分が4秒ごとにポリエチレンの袋に入るようになっているので、人手を節約できる上、能率が数倍あがるという。
こうしてできあがった冷や麦は衛生的で美しく、近代人の好みに合っており、荷造りも殺風景な木箱からスマートな段ボール箱に300グラム束を30束ずつ詰めるので、婦人や子供にも容易に持ち運びできる9キロという手頃な重さである。製品は300グラムのものの他、「インスタント冷や麦」と名づけた180グラム入りのスープ(粉)付きがあり、前者が25円、後者が35円(小売価格)で出荷されている。
四国新聞に香川県の「冷や麦製造の最盛期」なる記事が載ったのはたぶん初めてだと思います。生産高をはじめ「冷や麦業界」の規模には触れられていませんので、あまり大きなビジネスではなかったのかもしれませんが、それにしても「N製麺所」って、何で伏せ字? うどん王国香川で冷や麦を製造するのは、何か“やましい”ビジネスだった…わけないですよね(笑)。
香川の「ドジョウ」と徳島の「たらいうどん」の話題
続いて、ドジョウの記事を1本発見。
ドジョウシーズン入り
柳の新芽が伸びるとドジョウ獲りのシーズン。あちこちのドブでは胸までゴム服で包んだドジョウ獲りが汚いドブをものともせず、網やザルを手ぎわよく駆使する。育ったばかりのかわいらしいドジョウがピチピチはね、これが人間様の活力源として1キロ当たり100円前後で売りさばかれる。「ドジョウ汁は栄養になりまっせ」と、ドブから金を掘り出すようにおっさんの顔は真剣そのもの。
昭和36年は「ドジョウ」がまだまだ食材として流通していたようです。でも、こんなに「ドブ、ドブ」と連呼されたら、業者にとっては「営業妨害じゃ!」…とはならんかったんかなあ(笑)。
あと、正月に徳島の「たらいうどん」の記事が載っていましたのでどうぞ。
お正月の珍しい風習 徳島のタライうどん
これは古くから徳島県板野郡土成町御所(ごしょ)で元日の朝に祝われるタライうどんの珍風俗。直径1mの新しいタライにハシを突っ込んで、つるつるとすすりあげるうどんの長さほどに長寿を全うしようと縁起をかついだものだが、一家はもとより一族の面々が本家に集まり、タライを囲んでにぎやかにお正月を楽しもうという趣向。なにしろ一タライのうどんの量が8キロ、ドンブリにしてざっと100杯分はあり、これを手で打つ主婦たちは大みそかから徹夜でてんてこまいするのが毎年のならい。吉野川の清流にいるジンゾクという小魚でこしらえたダシにたっぷりと浸すと、野趣豊かな味わいとなり、娘さんでも5、6杯というのが普通で、20杯以上のおかわりをする剛の者も現れるほどだ。(徳島新聞社提供)
直径1mのタライ(でかい!「わら家」の家族うどんのタライの数倍!)1杯に8キロのうどんが入っているそうです。「ドンブリでざっと100杯分」だそうです。8キロでドンブリ100杯ということは、ドンブリ1杯が80グラム…? ん? 今、うどん1玉は平均して250グラムぐらいあると言われているけど、その3分の1以下しかないぞ(笑)。昭和30年代の徳島のたらいうどん、1玉の大きさとドンブリの大きさに謎が出てきました(笑)。
麦食推進キャンペーン広告
「麦(裸麦)離れ」を必死で食い止めようと、精麦組合と農林省が新聞広告で麦食推奨のキャンペーンを始めたようですが…今ならJAROからイエローカードが出そうな文面が(笑)。まずは、「富士子さん」から世の奥様方に「旦那様の健康のために麦ご飯を食べさせましょう」と訴えています。
<富士子の食生活メモ> 奥さま! ごぞんじ? 高血圧に麦ご飯
白米偏食は栄養が偏り、血管の老化を早めて高血圧の原因になると言われます。旦那さまを高血圧からお守りするのはお奥さまの工夫一つ。麦3米7の割でたいた麦ご飯です。麦ご飯を毎日食べているだけで、ビタミンはたっぷり自然に栄養のバランスがとれて血圧の心配はありません。このたび、お麦が一層安くなりました。これからもどしどしお召し上り下さい。
●全国精麦工業協同組合連合会、後援/農林省
(1月25日)
<富士子の食生活メモ> 奥さま! ごぞんじ? 血管を若返らせる麦ご飯 旦那様の高血圧が心配!
高血圧は日本人の死亡率の最高を占めていますが、それは白米に頼り過ぎ、塩分の摂り過ぎが原因だといわれています。旦那さまはいつまでも若く健康に……これが幸福な家庭をつくる奥さまの願いです。麦3米7の割で炊いた麦ご飯は幸福のシンボルです。ビタミンはたっぷり、自然の栄養のバランスがとれて血管の老化を防ぎます。このたび、お麦が一層安くなりました。これからもどしどしお召し上り下さい。
●全国精麦工業協同組合連合会、後援/農林省
麦ご飯は今も健康食として認知されていますので「その通り」というところですが、続いて今度はちょっと微妙な、「子供の頭がよくなる」という話に持っていって…
<富士子の食生活メモ> 奥さま! ごぞんじ? 頭が良くなる薬がほしい…
試験勉強に追われるお子さまを見るたびにそう思わずにいられないのが親心です。お薬を飲んで秀才になることはできません。しかし、育ち盛りのお子さまにバランスのとれた栄養を与えて頭脳の発育を促すのは秀才への道へつながります。ことに麦3米7の割でたいた麦ご飯はビタミンがたっぷり、お子さまを秀才に育てる最高の栄養食です。このたび、お麦が一層安くなりました。これからもどしどしお召し上り下さい。
●全国精麦工業協同組合連合会、後援/農林省
(2月17日)
<富士子の食生活メモ> 奥さま! ごぞんじ? 知恵を育てる麦ご飯
頭が良くなる薬があれば…とはお母様方共通の願いです。飲めばすぐ効く薬はなくとも、育ち盛りのお子さまにバランスのとれた栄養を与えて頭脳の発育を促すのは秀才への道へつながります。ことに麦3米7の割で炊いた麦ご飯はビタミンがたっぷり、お子さまの知恵を育てる最高の栄養食です。このたび、お麦が一層安くなりました。これからもどしどしお召し上り下さい。
●全国精麦工業協同組合連合会、後援/農林省
そして「富士子さん」は最後に鉄板ネタ、奥様の「美容」に攻め込みます(笑)。
<富士子の食生活メモ> ごぞんじ富士子の美容法? 毎日食べる麦ご飯!
ビタミンはたっぷり、いつまでも若く美しく。このたび、お麦が一層安くなりました。これからもどしどしお召し上り下さい。
●全国精麦工業協同組合連合会、後援/農林省
「富士子さん」はここでお役御免。10月からは「健康ネタ」の新シリーズが始まりました。
江戸の昔、時の将軍とその奥方が原因不明の病気で亡くなりました。この病気が、白米病だったのです。でも、それを知らない江戸の人々は、白米にぜいたくなおかずを食べる将軍さえも病むこの病気を“江戸わずらい”と言ったのです。そして、白米によるビタミンB1の欠乏は現代も多く日本人に見られます。あなたのご家庭でも米七麦三の麦ごはんを召しあがってください。麦ごはんはB1欠乏の心配がなく、常食しておられる方はどなたでも体の調子が良いとおっしゃいます。
●全国精麦工業協同組合連合会、後援/農林省
(12月19日)木枯しヒューヒュー モリモリ麦ごはん
冷たい北風はイヤなお客さん。でもボクの身体は麦ごはんが守ってくれる。麦ごはんはビタミンB1や、たくさん栄養が入っているし、消化がとってもいいから自然に丈夫な身体を作ってくれる。だから、これからも毎日、麦ごはんを食べてカゼなんか受けつけないよ。
●全国精麦工業協同組合連合会、後援/農林省
こうしたキャンペーンの効果も虚しく、麦食はどんどん廃れていきます。それに連動して、大麦(裸麦、六条大麦、二条大麦)の全国の作付面積は、
(昭和35年)84万ha
(昭和40年)42万ha
(平成29年) 6万ha
と激減しています。一方、小麦の作付面積は、
(昭和35年)60万ha
(昭和40年)48万ha
(平成29年)21万ha
という推移。昭和40年には小麦が大麦を抜いて日本の麦作の主流になり始め、平成29年までに半減したものの、外国産小麦の攻勢の中でまだまだ踏ん張っています(数字はいずれも農林水産省「作物統計」より)。
協賛広告に木下製粉が初登場
昭和35年もうどん関連の単独広告はありませんでしたが、協賛広告に初めて「木下製粉」の名前が登場しました。
(1月1日)
宇高連絡船内売店・高松駅構内立売・売店/●高松駅弁当株式会社
寿し・麺類・丼物/●四五銭亭
(1月4日)年賀広告
●小豆島手延素麺製粉協同組合
(1月5日)年賀広告
●日讃製粉株式会社
<協賛広告>
(9月1日)祝・寒川町町制施行
製粉・製麺・生麺・小売・卸/●有限会社木下製粉製麺工場
(11月28日)四国新聞創刊70周年記念
●日讃製粉株式会社
「アズマヤ」が年間9本の単独求人広告を掲載!
うどん・そば関連の求人広告は、「金泉」と「丸ふく」の2件が載っていました。
▽男女従業員募集/年齢25才迄 住込可能な方
●(有)金泉食糧商会
(10月1日)
▽パートタイマー募集/健康な女子、17歳より30歳、午前11時半より午後2時半まで3時間勤務、時給150円。
●高松市片原町 生そば 丸ふく
あと、うどん屋じゃないけど「うどんを出す喫茶」でおなじみの「アズマヤ」が、1月~10月にかけて年間9本も単独で求人広告を出していました。
▽ウエイトレス・レジスター/20才前後、寮住込、週休制、初給1万円、年次有給休暇実施、お茶、お花など教養講座あり
●洋菓子・喫茶 アズマヤ
(2月19日)女子従業員募集
▽調理雑務(見習)/通勤35才まで
▽ウエイトレス(入寮)/20才前後
●洋菓子・喫茶 アズマヤ
(4月10日、)女子従業員募集
▽レジスター・ウエイトレス/20才前後、入寮・初給1万2000円
▽調理見習/35才まで、通勤9500円
週休制、年次有給休暇実施、入寮者には茶・華道講座あり
●洋菓子・喫茶 アズマヤ
(5月1日)女子従業員募集
▽調理見習/初任給9500円(通勤)、年齢35才まで、週休制・年次有給休暇実施
●洋菓子・喫茶 アズマヤ
(6月9日)女子従業員募集
▽レジスター・ウエイトレス/20才前後
▽調理見習/35才まで、通勤9500円(午後の通勤可能な方)、週休制、年次有給休暇実施
●喫茶・洋菓子 アズマヤ
(7月19日)女子従業員募集
▽ウエイトレス/20才前後、初給9500円、週休・通勤、午後の勤務の可能な方、年次有給休暇及完全週休体制実施
●洋菓子・喫茶 アズマヤ
(8月11日)女子従業員募集
▽ウエイトレス/20才前後、入寮者1万2000円、通勤者9500円、完全週休制及年次有給休暇実施、入寮者に茶・華道の教養講座有
●洋菓子・喫茶 アズマヤ
(11月16日)女子従業員募集
▽ウエイトレス/通勤初給10000円、完全週休制・二交替制・慰安旅行、年次有給休暇・昇給・賞与2回
●洋菓子・喫茶 アズマヤ
女子従業員の入寮者で月給1万2000円、通勤でも1万円に乗りました。ちなみに、この年の職安の求人にも「男子うどん製造見習い/通い月収10000円」という製麺所からの募集がチラホラ見えました。高度成長期の中で、いよいよ月収1万円台の到来です。