さぬきうどんのメニュー、風習、出来事の謎を追う さぬきうどんの謎を追え

vol.14 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る讃岐うどん<昭和32年(1957)> 

(取材・文:  記事発掘:萬谷純哉)

  • [nazo]
  • vol: 14
  • 2019.09.05

県やマスコミといった権威筋の間では、「うどん」はまだまだ庶民の食べ物扱い

 戦後約10年を経た讃岐うどん界は、ビジネスとしては「小中規模の製麺会社による県内外への乾麺の製造販売」、生活の中では「小規模の製麺所による食堂や個人等へのゆでうどんの製造販売」という営みが粛々と行われていたようです。ただし、これらはいずれも戦後に始まったことではなく、戦前から同様のうどん製造販売業やうどん食の文化が存在していたことは間違いないでしょう。例えば、戦後すぐから新聞に頻繁に出てきた「ヤミ物資検挙」の記事でヤミ取引の中心商品の一つに常に「乾麺」が入っていたことから、香川県の乾麺製造が戦前から相当行われていたことが推測できますし、「昭和の証言」の戦前生まれの方々の証言からは、戦前に庶民の間で「うどん」が普通に身近に存在していたことが窺えるからです。

 しかし、香川における「うどん」はあまりに普通に存在しすぎていたためか、県や地元メディアの間ではそうめんの記事は生産量や出荷量や値段等の数字を伴って頻繁に出てくるのに、「うどん」はその生産状況も消費状況も報告や記事の対象にすらなっていなかったようです。さらに、「うどん」は対外的な地域のPRの素材(地域の特産品)的な扱いもあまりされていなかったことがわかってきました。

 それが昭和31年になって初めて、東京で行われた香川県主催の物産展示即売会で「手打ちうどんの実演」が出現し、少しずつ「讃岐うどん」が地域物産PRの表舞台に顔を見せ始めた…というのが前号までのあらすじ。そして昭和32年です。この年の「うどん」関連記事はちょっとおとなしい感じで、あまり大きな動きはありませんでした。まあ、歴史とはそうそう1年ごとに激動するものではありませんので、ゆっくり落ち着いて見てみましょう(笑)。

東京開催の特産品即売会で再び「手打ちうどんの実演」と試食会

 この年もさっそく3月に東京で、四国4県共同開催の「名産食料品即売会」が開催されました。

(3月18日)

人気呼ぶタイの浜焼 東京の特設四国名物売場

 東京日本橋、白木屋地下1階に14日から「特設四国名物売場」がお目見得し、都民に好評を博している。これは四国4県が共催で白木屋の増改築完成記念として郷土の香り豊かな名産食料品を陳列即売しているもの。香川県からはこれまであまり紹介されていなかった魚せんべい、タイの浜焼、三盆あられ、皮むきエビなど十数種類の食料品が出品されているが、とくに魚せんべい、皮むきエビ、タイの浜焼は珍しくて売行きは上々という。期間は4月14日まで。

 ただし、前年に好評を博した「うどんの手打ち実演」はこの時は行われていなかったようです。また、販売商品にも「うどん商品」の名は出てきません。そして続く4月にも同じく東京で中四国5県合同の特産食料品の即売会が催され、ここでは「手打ちうどんの実演」を行いました。

(4月15日)

手打うどんの試食会 香川など5県 東京で食料品即売会

 香川、広島、岡山、山口、愛媛5県協賛の「瀬戸内食料品即売会」が16日から28日まで、東京新宿の三越地下売場で開かれる。これは、瀬戸内海に臨む各県の特産食料品を東京市場にも広く紹介、販路を開拓しようというもの。このため、香川県からはこれまであまり都民に親しまれていない魚せんべい、ワカサギのふりかけ、タイだんご(玉むらさき)などを出品するが、特に手打うどんの作り方を披露し、試食会を催する。

(4月25日)

”郷土の味”に舌つづみ 東京の瀬戸内食料品即売会 平井郵政相、顔みせる

 平井郵政大臣は24日午後、折から東京新宿の三越地下売場で開かれている香川、広島、岡山、山口、愛媛5県協賛の「瀬戸内食料品即売会」にひょっこり顔を見せた。この即売会は、瀬戸内海にのぞむ各県の特産食料品を東京市場に広く紹介し販路を開くため、さる16日から開かれているもので、平井大臣も郷土の食料品の東京進出はなかなか結構というわけで、忙しい仕事をさいて訪れたもの。香川県特産の魚せんべいやワカサギのふりかけ、タイだんごなどの即売場を見たあと、手打ちうどんの実演場では試食。久し振りに郷土の味に舌つづみを打ち、自らも宣伝を買って出るなどなかなかの愛敬を見せていた。

 前年の記事に「新宿(の展示即売会)では手打ちうどんの実演が大変な人気を呼び、飛ぶような売行きを示している」とあって、「何が飛ぶように売れたのか? 乾麺か? ゆで麺か?」という疑問を呈しましたが、今回の記事では「魚せんべい、ワカサギのふりかけ、タイだんご」といった販売商品と手打ちうどんの「実演と試食」しか書かれていない。ということは、もしかしたら手打ちうどんの実演はただのにぎわいづくりのデモンストレーションで、うどんの商品は乾麺も生麺もゆで麺も何も販売していなかったのかもしれません。もしそうなら、「讃岐うどんはこの頃、いわゆる“お土産うどん”はまだできていなかったのかもしれない」という新たな謎が出てきました。

庶民生活の中の「うどんの存在感」

 続いて、読者投稿の中に当時の“生活うどん”の様子が窺える記述が出ていました。

(1月14日)

読者投稿/こだま

 うどんは代用食だと言われた時代はもう昔のこと、今は完全な主食になっております。私たち社会人のうちで、嫌いな人は別にして1週間もうどんを口にしない人はそう多くはないだろうと思う。そして、うどんは私たち貧乏人の常食と言っても決して過言ではない。その証拠に最近、どこへ行っても飲食店とくに軽飲食店と言われる「うどん屋」の増えたことでもよくわかります。

 しかし、このうどん屋でうどんを食べているとき、うどんに時々、カミの毛、ハエなどをはじめ、ひどい時には輪ゴムなどの汚物が混入されているときがあり、不快な感じを抱かされる場合がしばしばあります。これはうどん屋の不注意により混入されることもあり、またうどん製造の際に混入されることもあるとは思いますが、私たちが口にしていて、この汚物を見ると全く食い気がなくなります。こんなことは食品衛生上からもよくないことはわかっているのですから、小売店、製造業者もともに十分気をつけて頂きたい。また保健所もその取り締まりを厳重にしてもらいたい。(高松・M生)

 「うどんの中に輪ゴム」より「うどんの中にハエ」の方がひどいのではないかと思いますが(笑)、不潔なうどん屋の話はさておき、投稿人によると、この頃、うどんは「1週間も口にしない人がそう多くない」ほどの「完全な主食」になっていて、「貧乏人の常食」だったそうです(表現が多少オーバー気味ではありますが)。加えてこの頃、「うどん屋が明らかに増えている」とのこと。「軽飲食店」と併記されているので、今のようなうどん専門店というより「うどん食堂」の類かもしれませんが、当時は高度成長期の始まりで「神武景気(昭和29年12月~32年6月まで)の真っ只中につき、好景気でいろんな店がどんどん増えていたのでしょう。

(2月13日)

ここにも定通生の悩み 法律に伴わぬ”給食施設”

 働きつつ夜間定時制高校に学ぶ生徒は県下で約4300名いるが、このほど県高等学校定通部会で定通教育の現状を調査したところ、約2100名が学校給食を強く希望していることが分った。昨年国会を通過した「夜間学校給食に関する法律」によって新年度から給食に対して補助が出ることになり、生徒たちに大きな福音となったものの、どこの学校でも予算難のため給食施設にまで手が届かないのが実状で、苦学する生徒たちの表情は相変らず暗い。県下で定時制を持つ学校が24校、分校を合わすと52校あるが、給食施設はわずか12校にすぎず、10坪以上の給食施設を持っている学校は4校しかない。

 「勤務を終わり、始業時間に遅れまいと夕食もとらずにすぐ登校する人たちがほとんどで、空腹を抱えてひたすら勉強に励む生徒たちにとって凍りつくような冬の寒さは一しお身にしみるものがあり、不規則な食生活は健康によいはずはなく、同時に行った生徒の健康調査でも全日制生徒に比べると体格がかなり貧弱である」と、調査をまとめた高瀬高校浪越主事は語っている。給食希望者の希望内容を見ると、うどんが圧倒的に多く、価格は20円が736名、15円が607名、10円が745名となっている。

 定時制高校で給食希望者のニーズを聞いたところ、「うどん」を希望する者が圧倒的に多かったという報告。選択肢が何だったのかがわかりませんが、まあ普通に想像すれば「ご飯よりも、パンよりも、うどんが食べたい」という希望だったと考えられます。たぶん、香川県以外で同じアンケートを採ったら「うどんが圧倒的に多く」とはならないだろう…と考えると、やっぱり香川の食生活における「うどん」の存在感は、この頃すでに全国で群を抜いていたのではないでしょうか。

 次は、うどん屋がよろしくない行為の根城になっていたという話。

(9月10日)

夏休みの反省⑥/犯罪防止 めだつ桃色遊戯 親のひいき目は捨てよ

 学校から解放された夏休みにはいろいろな青少年の犯罪が発生する。盆おどり、花火大会、海水浴場、キャンプと青少年のまわりには常に誘惑が待っている。この夏休みにも青少年の犯罪はあったが、大てい社会人で、学校生徒の関係した事件は少なかった。しかし、たとえば、某高校運動部生徒4人は練習帰りに毎日、ウドン屋に寄っているうち、その家を根城に桃色遊戯にふけるようになった。このため、金に困り悪に入る一歩手前だったが警察に補導された。また、高松市福岡町のO家に下宿していた無職Y男(18)は自室へ女3人男2人を入れ、毎日たわむれていたのを高松署員が見つけ補導したが、みんな家出した未成年者ばかりだった。

 同署防犯係は夏休み中、市教委、学校と連絡、夜の街をパトロールしたが、「何、サツか? 好きな者同士一緒にいて悪いか?」と食ってかかる者もいたという。県下で補導された青少年は8月中に20人ばかりあったが、不純交際がほとんど。検挙した者には凶悪な者が多く、窃盗、恐カツが大半。一方、幼児に対するイタズラもこの夏は増えた。丸亀市の某は小学6年のH子ちゃんをだましイタズラしようとしたが、母親に見つけられて未遂に終わっている。親たちも子供に「下腹部は人間で大事なところで、おなかを出したり見せたりするものではない」と教えるべきで、頭から「こわい人がいるから」では恐怖心をいだかせるだけマイナスである。「大人たちも子供たちの前で不用意な言葉は慎むべきだ」と県警防犯課でも語っている。

 市内のほとんどの高校は個人の映画鑑賞を禁じている。しかし、映画館で補導された者も多い。また、制服でたばこを持っている者が多く、補導された生徒の中には職業補導所の生徒もいた。小学生の中にはマン画、映画のまねをする子供も多く、これらの刺激も相当強いことがわかる。高商の場合、女子生徒はソデ無しシャツを禁止していたが、やはり相当短いソデがいた。高校生がサンダルをはき、アロハを着るようになったらもう不良化は始まっている。こんな格好の者は必ずたばこを吸っている。とにかく親は「うちの息子だけは心配ない」とよく言うが、自分の子供の性質、友人関係、持物を知っておかなければならない。

 「部活帰りに毎日うどん屋に寄っているうち、その家(そのうどん屋?)を根城に“桃色遊戯”にふけるようになった」そうです。うどん屋が不純異性交遊の根城になるという時代ですか。いや、そう言えば「昭和の証言」に、同じ昭和30年代に「年上のきれいな女性にうどん屋に誘われてドキドキした」という丸亀の某うどん屋の大将の少年時代の思い出話が載っていたような…(笑)。というわけで、以上が昭和31年の四国新聞で見つかった「うどん」に関する記事です。数は少ないですが、なかなか当時の「うどんの存在感と浸透度」が窺える良質の情報(笑)でした。

そうめん業界に逆風が…

 続いて、製麺業界の記事が2本。

(5月23日)

製めん最盛期に入る 来月には全国へ出荷

 古くから夏の主食代用に都会でも田舎でも愛用された乾めん類の製造は、もう最盛期に入った。現在では昔からあるいわゆるソウメンの需要よりは、冷麦(ひやむぎ)と呼ばれるめん類の需要が多い。ソウメンよりはやや太く、干うどんよりは細く、ピンクや淡青など色とりどりの見るからに涼味をそそるこのうつくしい冷麦が、現代の好みに適しているためであろう。全国的に精麦の生産量を誇る坂出は乾めん類の製造も盛んで、雨の時でも生産を続けられる県下唯一の室内移行乾燥装置を持つ工場もあり、目下業者は出荷期を前にして製造に大わらわである。来月に入ると、四国はもとより阪神、北陸、九州から遠く北海道まで出荷される。値段は昨年と大差なく18キロ入り1箱1100円前後となる見通しである。5月の日差しを一ぱいに受けて真白いスダレのような乾めん類が干されている風景は、いかにも初夏を呼ぶ風物詩である。

 昭和31年時点で、「そうめんより冷麦の需要が多い」と書かれています。ピンクや淡青の色のついた麺が涼味をそそって人気だったそうです。うどんと冷麦とそうめんは単に「太さ」で分類されているそうですが、季節で分けると、うどんは年中食べられ、そうめんと冷麦は夏の消費が断然多い。従って必然的に「そうめんvs冷麦」という競合関係が生まれるわけですが、当時優勢だった冷麦は、今日の香川ではそうめんに大きく水をあけられてほとんど話題にも上らないという状況になっています。別の文献で「冷麦は昭和50年代に人気がなくなっていった」という記述を見つけましたが、その数字的な裏付けや原因を分析した記述は見つかりませんでした。

(6月7日)

製メンなど43工場 実績減り保税許可取消す

 坂出税関事務所では製メン工場40、手袋工場2、製粉工場1、合計43工場に対し、保税工場の許可を今月中に取り消す事になった。今回保税工場の許可を取り消されることになった43工場は過去2年間ほとんど実績がなかったためで、実績が激減した理由は次のようなものである。
【製メン工場の場合】一昨年までは毎月平均8000箱のソウメンが沖縄方面に輸出されていたが、沖縄ではソウメンが主食になっており、これを輸入に依存してばかりおられぬと一昨年から製メン機械を輸入して沖縄でソウメンの製造が開始されたこと。さらに10%の輸入税を課す事になったため、輸出が皆無状態になってしまったもの。
【手袋工場の場合】主としてアメリカに輸出されていたが、フランス、イタリアなどで高級手袋の製造が始められ、アメリカ市場に多く出回ったので、これに押されて大衆向けの日本製手袋の需要が次第に減少したもの。
【製粉工場の場合】県下にあった41工場のうち、40工場が前記理由で輸出が皆無となり、これに粉を回していた製粉工場も関連してその必要がなくなったもの。

 香川県製粉製麺組合の43の工場が輸出を促進するために保税工場の許可(関税が優遇される)を受けたのが、昭和29年の4月(「昭和29年」の項参照)。そして、昭和32年6月に製麺工場40、製粉工場1について「過去2年間ほとんど実績がなかったために保税許可が取り消された」ということは、香川県製粉製麺組合は「許可を受けてからたった1年で43工場中41工場の輸出が壊滅した」ということになります。その主原因は、「最大の輸出先である沖縄が自前でそうめんの生産を始め、それを保護するために輸入税をかけ始めたことにある」とのこと。昭和29年に保税の許可を受けた工場は小豆郡12工場、三豊郡11工場、坂出市7工場などとありましたから「そうめん」が主力だったことは明らかですが、そのほとんどが許可後1年で輸出が皆無になったとは、災難というか見通しが甘すぎたというか…。というわけで、昭和32年のそうめん業界は「冷麦ブーム」と「沖縄の自前生産」によって逆風が吹き始めたようです。それを踏まえてその他のそうめん生産の記事を見てみると…

(1月6日)

手延そうめん生産最盛期 質、量ともに昨年を上回る

 島名産の手延そうめんは今、生産の最盛期である。主産地の池田町では100軒の業者が早朝から家族総動員で大活躍。今年は原料小麦の品質がよいので粘りが強いそうめんが出来、味は上々。昨年以上の生産が予想され、3万5000箱(1箱18キロ入り)以上と見込まれ、相場も昨年の1箱1250円を上回る模様で、仕向地はほとんど九州である。

(7月2日)

そうめんの生産、最盛期へ

 お盆を前にしてそうめんの本場、小豆島では昨今その生産の最盛期に入った。機械そうめんは1月から8月まで製造され、全島では月産1万箱(1箱4貫800匁入り)に達し、価格は昨年と大差ない1箱産地渡し870。仕向先は広島、九州、阪神方面が主である。

(12月11日)

3万箱へスタート 池田特産”寒ゾーメン”

 池田町特産”島ソーメン”作りが始まった。シーズンは3ヵ月で約100軒の業者が3万箱(18キロ入)を生産、6月から7月にかけ特にお盆用として九州、阪神方面へ出荷する。これらは ”寒ゾーメン”といわれ、都会の主婦たちから喜ばれている。

 確かに、これまでよく出ていた「沖縄」の文字がこの年は全く見当たりません。でも、「最盛期」とか「喜ばれている」とか前向きな表現になっているということは、そうめんの総生産量に対する輸出の比率はそう高くなかったのかもしれません。

農家が小麦の新品種にチャレンジ

 小麦の話題は1本だけ見つかりました。

(5月30日)

半収で6石半とれる 高松市の植原さん 小麦珍種栽培に成功

 今年の麦は冷干害などで一般に平年作を相当下回ることが予想されているおり、これはまた反収6石半(15俵)は大丈夫という多収品種を育て、農家の話題になっている。試作しているのは高松市中間町、植原米太郎さん(51)で、広島県福山の篤農家から小麦の品種「尊農号」を譲り受けて約3畝を試作したもの。昨年10月17日に種をまき、11月15日に移植し、肥料は他品種と同じ分量を施したが、1株60本以上分ケツ、穂の長さも普通のものの2倍を超えて25センチもあり、経験者の話では反当り15俵はまず確実とみられている。この小麦の特徴は、茎が丈夫で病害に強く、土入れなど手入れに手間がかからないといわれている。植原さんは「来年さらに全面的に栽培したい」と語っている。

 新聞に初めて、「個人農家が小麦の新種栽培に取り組んだ」という話題が出てきました。これまで新聞に出てきた県産小麦の品種は「農林6号、64号、51号、26号、埼玉27号、新中長、神吉1号、江島玲子」等々、いずれも県が農家に種子を配布して栽培されていたものばかりですが(「昭和26年」参照)、この広島発の「尊農号」は個人農家のチャレンジです。しかし、こんなに優れた品種だというのに、個人で取り込んだのか、県が無視したのか、県産小麦としては全く普及しなかったようです。ちなみに、今日の香川県産小麦は「税金を投入しないと採算がとれない(民間ビジネスとして成立しない)」という状況にありますから、個人農家が補助金に頼らず個人でリスクをとって「小麦の品種の研究や試作」に乗り出すなんてことは、もうないんでしょうね。

食生活は「栄養不足」が盛んに叫ばれていましたが、そこに「うどん」が出てこない…

 では、この年に出てきた「香川県の食生活事情」が窺える記事を並べてみます。この年は特に「栄養不足を改善せよ」という内容のものが目立ちました。まずは、塩飽諸島の「茶粥」の話から。

(4月19日)

塩飽諸島の食生活を改善 主食の茶ガユ追放 離島振興対策で実態調査

 香川県では離島振興対策の一つとして、塩飽諸島をモデル・ケースとし、島の暮らしのもとである食生活を確立させるための調査団を編成、島の実態調査に乗り出す計画を進めている。

 現在、塩飽諸島では米が全然とれず、麦作を主としている。このため同島では伝統的に茶ガユを主食としているので、栄養失調、胃拡張などの病気が多い。この現状では島の将来が心配されるので、県では食生活の実態を医学的、経営面の両面から調査のメスをふるい、島の食生活の確立をはかろうというもの。計画としては1ヵ年計画で、6月ごろ第1回の調査団を派遣、来年2月ごろに調査を終えることになっている。いま県が考えている茶ガユを廃止してこれに代わる改良案としては、蒸し焼物(3種類)、ダンゴ類(2種類)、蒸しパン(4種類)の3種類をあげており、茶ガユからパン食に移行させるわけ。この調査団には香大教授、県衛生研究所の人達が参加する予定。

 なお、島民の茶ガユとは、水にハブ茶などを入れ、このなかに米を1合~2合または、麦、サツマ芋、蚕豆を混合してカユ状にして食べるもの。1日3食とも食べているのが全体の2割~2割5分もあり、全体として1日に1回はこの茶ガユを常食している。また栄養価からみても非常に低い。

(9月3日)

茶ガユの改善に相当の努力必要 佐柳島の食生活調べ

 香川県では離島における食生活を改善するため、第1回の調査を8月末、仲多度郡佐柳島で実施。同島における生活実態の大要が2日、次の通りまとまった。同島30戸について調査したが、詳しい結果は約1ヶ月後にまとまる見込みである。また第2回調査は10月20日ごろ実施の予定。

・茶ガユは完全に同島の食生活にとけこんでおり、早急に改善するには相当の努力が必要とみられる。
・副食が極めて単調である。すなわち茶ガユにキウリ、ナス、ラッキョウなど季節もの一色である。
・調理技術がまずく、指導を必要とする。
・全般に胃病、特に胃ガンが多かった。これは熱い茶ガユを常食するところから多いのではないかとみられる。
・台所改善は全然行われていない。煙突のないかまどを使用しているのが大部分である。
・飲料水は簡易水道を設置しているので案外良かった。しかし常に断水処置がとられている。

 地域素材の情報に詳しい人なら、「塩飽諸島の茶粥」は聞いたことがあるかもしれません。昨今は「地域の活性化」とか「地域グルメの復活、継承」等を背景に茶ガユを出す店や茶ガユのお接待を行うところも数軒あり、栗林公園のレアなお楽しみアイテムである「花園亭の朝粥(あさがゆ)」でも指定すれば「塩飽諸島の伝統料理“ちゃがい(茶粥)さん”」を食べることができたりして、「島の茶粥」は結構マニアックな“島グルメ”的扱いをされているようです。しかし、そのルーツは言うまでもなく「島の貧しい食事」であり、この時代は「栄養失調を招く改善すべき食べ物」として、県が追放運動までやっていたんですね。でも今はもちろん、「おいしい茶粥」にいろんなおかずがいっぱい付いていますので、ご心配なく復活させてあげてください(笑)。

 続いては、農家の栄養不足に対する県からのアドバイス。

(6月25日)

農繁期の栄養食 中間食で調整を 米飯は栄養とは無関係

 ネコの手も借りたいほどの田植の季節が来ました。今月は年間を通じて一番忙しい月です。1日の栄養量は男子が熱量で3500カロリー、タン白質110グラムほど必要です。これを農閑期の食糧構成と比較しますと、4割から6割程度材料を多くしなければなりません。食糧構成が増えるということは、食事の量を増やすことですから、1日3回の食事では胃腸の負担が大きいので、どうしても4回から5回に分けるとよいわけです。同時にタン白質性の食品や油、新鮮な野菜を多くとり、その上にイーストパンと牛乳1合くらい飲めるとさらに栄養効果が上ります。反対に「銀飯」は口当たりは大変よいのですが、栄養上はよくありません。押麦を混ぜることをビタミンB1摂取からもお勧めしたいものです。

 次に、農繁期の1人1日中の献立で、保存食を中心にした一例を紹介してみましょう。

【朝食】飯は米と麦の混食で1.25合。鉄火みそ(みそ10匁、大豆、ゴボウ2匁、白ゴス小サジ2杯、油小サジ2杯、ニボシ粉2匁)の作り方は、ゴボウの皮をとり、そぎ切りにする。別に大豆をいり、ナベに油をわかしてこの2品をいため、みそと砂糖、いりゴマを加えてねり上げ火からおろします。ゴボウの量が多いと日もちしません。つけ物はキウリ20匁をさっと洗って適宜に切って塩もみして副食にします。

【昼食】ごはんはやはり1.25合、お菜は「大和煮」と「小魚の酢油づけ」、それにキャベツの即席づけを添えます。大和煮(鶏肉、タケノコ、コンニャク10匁、砂糖、しょう油適量)の作り方は、コンニャク、タケノコを一度ゆでてから切り、鶏肉も親指大に切り、濃い目に調理いたします。これをビン詰にしておいた保存食です。小魚の「酢油づけ」(小魚10匁、油小サジ2杯、酢大サジ2杯、塩、砂糖、トウガラシ少量)は、小魚を油いためしておき、酢の中へ砂糖、トウガラシをとり、刻んだものをつけ汁の中へつける。つけ汁がたっぷりあると日を持ちます。キャベツのもみつけはこまかく切って塩でもみます。

【中間食】3時ごろおやつ代わりに出します。これには食パン(半斤)牛乳1合、この副食に小魚の酢油つけか、即席つけを添えます。

【夕食】ごはん1.5合に増やし、副食物「けんちん汁」(トウフ3分の1丁、ゴボウ5匁、シイタケ2枚、しょう油、塩少量、ニボシ2匁、ジャガ芋5匁、新豆10匁、油大さじ1杯)の作り方は、まずトウフをマナ板を斜にした上にのせ、水を切ってくだいておく。ゴボウはこまかく切って水につけ、あとで水を切っておきます。シイタケを水でもどし、適宜切ります。ニボシは荒く刻み、ジャガ芋は皮を切り取ります。こうしてナベに油をわかし、この全部の材料をいため、湯か水を差し、塩、しょう油で味をつけます。けんちん汁とは別に、塩サバを焼いてゆでジャガ芋と紅ショウガを添えた副食物を出します。つけ物はやはりキウリの塩もみでよいでしょう。(香川県農業改良課・面川章子)

 冒頭の「3500カロリー」は「3500キロカロリー」の間違いだと思いますが、ここまで細かくアドバイスされている中、米とパンはお勧めされているのに、同じ炭水化物で同じようなカロリー源であるはずの「うどん」には全く触れられていません。百歩譲って朝食や夕食はさすがにうどんではなくても、中間食でさえ「うどん」ではなくて「パン」が勧められています。先に紹介した読者投稿では「うどんは今や完全な主食になっている。社会人のうちで1週間もうどんを口にしない人はそう多くはない。うどんは貧乏人の常食と言っても決して過言ではない。その証拠に最近、どこへ行っても「うどん屋」が増えている」と書かれているくらいなのに、なぜ? 

 推測するに、まず、先の投稿人の言う「うどんが主食になっている社会人」とは主に“街の人”の視点であって、農家の人はそうではなかったのではないか? 農家にとってのうどんは農作業の節目(田植えや稲刈りが終わった後)や“ハレの日”に食べるものであって、それほどの日常食ではなかったのではないか? そのため、農家の食生活改善プランにうどんがお勧めされなかったのではないか? というのが第1の仮説。

 事実、「昭和の証言」でも「田植えや稲刈りが終わった後に打ち込みうどんを食べた」とか「祭りの時にうどんと寿司が出た」とか「法事にうどんが出た」とか「街で映画を観た帰りに食堂でうどんを食べた」とかいう話はたくさん出てきますが、農家で「毎日のように家でうどんを食べていた」という話はほとんど出てきません。また、「しょっちゅう製麺屋にうどん玉を買いに行かされていた」という証言もいくつか出てきますが、その証言者の多くも“街の子”で、“農家の子”からはそういう話があまり出てきません。

 ちなみに、かく言う筆者も昭和30年代に西讃の兼業農家の子供でしたが、うどん玉をしょっちゅう買いに行かされた記憶もないし、家で家族でうどんを食べたという記憶もありません。あえて挙げるなら、子供時代に年に数回、家族で駅前の食堂にうどんを食べに行ったのと、小学校の帰りに腹が減って、近くの製麺屋に寄って、残り物の半分干からびた、箸で持ち上げたらうどん玉の形のまま持ち上がってくるようなうどん玉を小さく切った新聞紙に包んでもらって、それをかじりながら帰っていたら、最後の新聞紙を剥がしたうどんに相撲の結果が写っていた、というどうでもいいエピソードくらいです。

 従って、「当時の農家ではうどんはそれほど日常食ではなかった」というのは、あながち間違いとは言えないでしょう。さらに言えば都市部でも、「毎日のようにうどんを食べる県民」の数は昔よりもサラリーマンが圧倒的に増えた今の方がかなり多いのではないでしょうか。今、多くの人が「香川県では昔からそこいら中で日常食としてうどんが食べられていた」というイメージを持っているかもしれませんが、それはブームの後でちょっと美化されたイメージかもしれません。あと、第2の仮説は「香川県農業改良課の面川章子さんがうどん嫌いだったのではないか?」ですが、たぶん違いますね(笑)。

 しかしいずれにしろ、この記事から「専門家の方は農家にうどん食を勧めていない」ということだけは確かです。そう言えば、これまで「麦を食べよう」「人造米を食べよう」「強化米を食べよう」「パンを食べよう」という記事は何度も出てきましたが、「うどんを食べよう」という話は一度も出てきていない。そのあたり、昔の讃岐うどん文化を語る上で無視できない一つの観点だと思います。

 続いて社説では、農村の食事に限らず、社会的な栄養不足改善の必要性に触れていました。

(8月18日)

社説/必要な食生活の改善

 暑さがきびしい時はどうしても食欲が減退する。うどん、ソバなどめん類や「漬物でお茶づけ」といったあっさりしたものに魅力を感じがちである。しかし、そうしたのどを通りやすいあっさりした食品は栄養価の乏しい点に問題がある。

 暑さによって体力の消耗するときは、それだけ栄養分を補給しなければ健康のバランスがとれない。体力の方は消耗するのに、あっさりした栄養価の少いものを腹に詰め込んで単に満腹感だけを味わうというようなことをしていると、栄養分の不足がつもりつもって何らかの形で健康上のマイナスとなって現れざるをえない。この道理は極めて自明のものであり、失われたものを補給することは健康な生活を続ける上での基盤であるはずだが、いざ実際生活となると三度三度の食事に栄養補給を頭において調整するということはなかなかの仕事のようだ。

 日本人の必要とする基準熱量は1日2180キロカロリーだが、これをさらにたん白、脂肪、カルシウムなど栄養素に分けて必要量を確保するとなると、一工夫も二工夫もこらさねばならなくなる。栄養士のようにこうした分析なり計算を業としている人たちはそれほど苦労しないでも必要な栄養分を盛り込んだ献立をあみ出すことができようが、一般家庭の主婦にはそう簡単にできることではない。そうした栄養学的な立場には目をふさいで、とにかく三度三度の調整をして食卓に供するという家庭がかなり多いのではないかと思われる。

 これは単に推定の域に止まるのではなく、香川県が行った昭和31年度の国民栄養調査の結果に数字となってはっきり表れている。この調査は商業地区として高松市西浜、農業地区として同市成合の各町を選定、男女100人ずつを対象に実施したものだが、これによると、日本人の基準量に対し、西浜、成合ともにビタミンCを除いてはすべて不足している。たん白はまずまずとしても、脂肪、カルシウム、ビタミンAなどは基準量に対して大幅に不足しているのが目立ち、これらの栄養分不足が体の上にもいろいろな症状となって現れている。県ではこの資料に基いて今後はとくにビタミン補給の強化策を講じるということであるが、各家庭も香川県民は総体に栄養が不足しているということを頭において食生活の改善に努めるべきであろう。

 食生活の改善、栄養の補給を問題にする場合、いつも問題になるのは収入面である。収入が限られており、その中で食事にさきうる割合が決まっているのだから、栄養をとらなければならぬとわかっていてもなかなかできにくいということはよく言われる。収入の多い都市生活者の栄養状態がよく、収入の少い地方のものが劣っている現状からすれば、この「収入が少いから栄養が十分とれない」という言い分にも一理があるが、しかし、限られた収入のなかでもっと栄養をとることは可能であり、そうした努力が傾けられていいと思われるのである。

 金をかけて栄養をとるということはいとやすいことだ。大して金をかけず、日常手に入るような材料によって、しかも栄養たっぷりの調理をするということがわれわれの食生活改善の目標でなければならない。この目標に向ってすでに婦人団体、婦人学級などで栄養食の指導が行われてきているが、それがなかなか家庭の日常生活の中にとり入れられないところに「県の栄養調査結果が日本人の平均を下回る」という事実になってあらわれているのであろう。県民全体として考えなければならない問題である。

 「日本人の必要とする基準熱量は1日2180キロカロリー」とありますが、前出の運動量の多い農業従事者が3500キロカロリーで、いずれも今と同じような数字。全体にまあ一般的なことが述べられていますが、うどんは「あっさりした食べ物で栄養価が乏しい」という評価です。

 では食生活情報ついでに、「米のヤミ値が急騰している」という記事と「給食のパンがまずい」という記事を2本。

(5月10日)

高松で一升125円 米のヤミ値、うなぎ昇り

 2年続きの豊作で一時は1升105円を割り、希望配給米より安いと言われた米のヤミ値が最近うなぎのぼりで、高松市内の米屋さんではヤミ米が底をついたところもボツボツ現れてきている。このヤミ値は昨年暮れごろから上りはじめ、2月から3月ごろにかけては1升112~113円となり、4月に入ってからは10日ごとに1升当り1円から2円ほど高くなるという高騰ぶりを示し、現在高松市内では1升120円から125円見当となっており、農家渡しでも1升110円から115円という高額をみせている。これは、昨年の暮ごろから今年のはじめにかけて農家が一度に米を売りつくして余剰米がなくなったためと見られており、市内の某米屋さんに聞いて見ると、ヤミ米は次第に不足するのでまだまだ高くなり、7~8月ごろには1升130円から135円にも上るのではないかという。

 つい前年、「政府買い上げの麦価が高くて、客が割安感のあるヤミ米に走っているため麦が売れなくなっている」という話が記事になったと思ったら、さっそくヤミ米の値段が急騰しています。買い手が増えたら値段が上がるのは、経済の初歩的な原則です。

(7月11日)

総体に品質は向上 県下の給食用パン批判会

 香川県下の学校給食用パン批判会が10日、農林省香川食糧事務所で行われた。これは約160校、10万人の児童生徒に栄養たっぷりなおいしいパンを食べてもらうため、県教委、同食糧事務所が39工場の指定パン工場から31工場の製品を抜打ちに集めて審査批判したもの。

 集めた31点について、燒き、形、色などの外観、内容ではパンの相、味、触感、すだち(パンの断面)、人工甘味料の有無、添加ビタミンなどについてそれぞれ専門の立場から採点評価した。この結果、上位が5、中位20、70点以下の下位は6だった。審査員の話によると、総体的には規格(原料小麦100グラム、ビタミンB1が0.5ミリグラム、B2が0.3ミリグラム)に合っており、品質も向上している。しかし、下の部に属したものなどは焼きも不十分で、プンと鼻をつく臭気があり、「こんな非良心的なものを食べさせられては子供がかわいそうだ」と参観のPTAの人たちはもらしていた。なお、高松市内には上位になったものは一つもなかった。

 高松市内の給食のパンがかなり悲惨な評価だったようですが、当時の給食を食べていた方々、思い起こせばいかがでしたか?

「伊吹のイリコ」の記事が初登場。でも「水揚げサッパリ」だって…

 では最後に、イリコ関連の記事を3本。

(1月24日)

にぼしイワシ豊漁

 香川県小豆郡福田湾の”にぼしイワシ”漁業は今、ネコの手も借りたいほどの忙しさでにぎわっている。地元の福田漁協組はじめ、橘、室生、江島方面からも出漁者が多く、漁夫たちは厳冬にもめげずイワシの水揚げに余年がないが、豊漁にその顔は明るい。1日の漁獲高は福田漁協だけで1000貫に達している。同組合の”にぼしイワシ”は品質のよいのが評判で、1袋(800匁入り)350円から400円で売り渡されてゆく。

(7月12日)

一統1日4000貫を 東讃海岸 イリコ漁まっ盛り

 梅雨明けを間近にひかえ、東讃の海岸は時折みせる晴れ間にドッと持ち出されたイリコで浜一帯が銀一色に塗りつぶされている。津田以東13統のイワシキンチャク網は6月下旬ごろから一斉に出漁し始め、最近ようやく水揚げも増え、1統1日あたり4000貫という大漁に港では大漁のぼりを立てた風景も時折見受けられるようになった。水揚げされたイワシの加工場であるイリ場は、梅雨期の雨天にイリコの乾燥が思うようにならず、空模様とにらめっこの操業続き。ここ数日は、時折訪れる晴れ間は海とは正反対の農家でいえば正に干天の慈雨といったところ。しかも最近、イリコの市況が昨年の不漁による品薄で約4割強もグンとハネ上り,1袋(800匁入)極上物600円、上物450円とあり、問屋筋でも引っぱりだことあってイリ場もホクホク顔だ。

(8月20日)

水揚げサッパリ 伊吹漁協の巾着網

 秋イリコのシーズンに入り、伊吹漁協組などではこのほどからイワシ巾着網を繰出しているが、照りこみが弱い関係から水揚げは振わず、期待はずれに終わっている。漁期が遅れたのも一因だが、製品も1袋(800匁入り)200円内外で漁業者は当てはずれの格好。だが、瀬戸の小島を背景に炎熱をおして元気よく網引き、やがて訪れる豊漁を夢みている。

 昭和32年に初めて「伊吹のイリコ」が記事になりました。でも、小豆島は「ネコの手も借りたいほどの忙しさ」で、東讃は「イリコで浜一帯が銀一色に塗りつぶされている」のに、伊吹は「水揚げは振るわず、期待外れに終わっている」です。今日、讃岐うどん界で“ブランドイリコ”のごとき地位を築いている「伊吹のイリコ」は、一体いつ頃頭角を現すのでしょうか。

昭和32年の四国新聞に載ったうどん関連広告

一般広告
(民間企業)
●日讃製粉株式会社

 この年、うどん関連の民間企業の広告はどうも激減しているようです。これまでに紹介してきたうどん関連の民間企業の一般広告は、正月の年賀広告とか記念やお祝い等の協賛広告(社名と住所等だけのいわゆる「名刺広告」というやつ)がほとんどです。そして、そういう「名刺広告」はたいてい企業が積極的に広告を出してくるのではなく、新聞社とか広告代理店に頼まれて「しょうがないなあ」という感じで協賛するものがほとんどですから、うどん関連の広告が減ったと言っても景気が悪くなったのではなく(何しろ「神武景気」の真っ只中なのですから)、単に「協賛広告を集めるようなネタがあまりなかった」と見た方がいいかもしれません。

求人広告

 昭和32年も職安から大量の「うどん関連の求人」が出ていましたが、資料価値はあるけど全部並べても読む気がしないと思いますので(笑)、この年からポイントだけを紹介します。

 昭和32年の製麺所やうどん店からの求人で前年から様子が変わったのは、何と言っても「給料が上がってきたこと」です。例えば「製麺工や配達夫の住み込みの月収」で見ると、昭和31年は約60件の求人のうち大半が月収3000円~4000円あたりで、まだ2000円台の求人も多く、高いところでも5000円、6000円が各1件ずつあった程度でした。それがこの年、月収4000円~5000円の求人が激増していました。また、日収も昭和31年は100円~200円あたりが多かったのですが、32年には日収300円~400円を提示する求人も登場していました。

 その給料高騰の背景は言うまでもなく、「高度成長期」です。ちなみに、昭和30年前後の「月収2000円」が今「月収20万円」になっているとすれば、大ざっぱに65年で「100倍」くらいになったわけですが、その間、うどんの値段はたぶん10倍とか20倍くらいにしかなっていません。すると、我々の生活は確実に当時の5倍~10倍は豊かになっているはずですが、昨今、盛んに日本人の「貧困」が叫ばれているとはこれいかに(笑)。ま、そこのところの数字やロジックのトリックを暴くのは、別の場所で別の誰かにやってもらうことにしましょう。

(昭和33年に続く)

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