「うどん」の記事が見え始め、製麺機の広告も出現!
終戦から4カ月半、年が明けて昭和21年になっても、香川県、特に高松市は食糧難と露店を中心とした「自由市場」が跋扈し、戦後の荒廃はまだまだ好転の気配を見せません。この年の2月から香川日日新聞は「四国新聞」に名称変更されますが、ようやく紙面に「うどん」の文字がちらほら見え始めました。しかし、内容を見ると、讃岐うどんは「郷土の名物」という扱いではないようです。「当たり前のものは記録されない」という歴史の常識から言えば、香川ではうどんはあまりに当たり前のように食べられていたということかもしれません。そしてもう一点、この年から「製麺機」の広告が出てき始めました。では、まずは新聞記事から見える香川の食糧事情から見ていきましょう。
「うどん1杯10円」の記述が登場
昭和21年の日本は、急激なインフレで幕を開けました。1月4日付け香川日日新聞によると、「歴史始まって以来、まさに破天荒、600億の日本銀行券が師走から迎春にかけて日本国中にばらまかれ、それが呼ぶ物価高はサラリーマン階級を青息吐息のどん底暮らしへ追い詰めている」とあり、続いて「退職手当を懐に親のすねをかじる復員軍人層、生産価格が高騰すればするほど縞の財布が膨らむ農村の人々、戦時利得税と財産税で“戦争は儲からぬもの”を思い知らされる前に自棄半分の気持ちを美食買いだめに走らせる富裕階級…等々が、まるで刹那の歓楽を追う火取虫のように自由市場めがけて雲集する…」という、当時の人心の乱れが窺える記事が続いていました。
それと併せて、高松港の桟橋付近と三越付近の“自由市場”に並んでいる商品の値段が載っていたので、いくつか列挙してみましょう。
・ゆで玉子(3つ)…10円
・餅(3つ)…10円
・団子餅(4つ)…5円
・おはぎ(1皿4つ盛)…10円
・飴(2寸角ぐらい1コ)…5円
・蒲鉾(1つ)…15円
・白米の肉飯…15円
・うどん(1杯)…10円
・ぜんざい(1杯)…3円
ここで「うどん」の文字と「1杯10円」という値段が新聞に初めて出てきました。1杯10円は、ミカン15個、ゆで玉子3つ、餅3つ、おはぎ4つと同じ値段です。インフレ時だったので、当時の人にはかなり高かったのだろうと思います。ちなみに、この年の物価は夏頃まで上がり続けたようですが、9月には一転して半分以下に下がったものの、年末には「正月需要を当て込んで倍近くに高騰した」と書かれており、終戦直後の混乱が窺えるジェットコースターのような物価の乱高下が起こっていたようです。
露天商ひしめく「自由市場」の盛衰
2月から香川日日新聞は「四国新聞」に名称変更しましたが、この年の四国新聞には、「自由市場」と呼ばれていたエリアに立ち並ぶ露天商の状況が何度も紹介されています。まず、2月17日付けの記事によると、「終戦以来インフレの波に乗って自然発生した闇市場は、いつの間にやらその名も自由市場と改まり、今では大衆生活と密接な関係を持つに至っている。しかし、これらの露天商人も最初の無軌道的放任状態から自治的統制状態に入り、やがては地域的、価格的に恒常的市場として一定の規格の中に抱擁されつつある現在である」とのこと。同時に掲載されていた統計数字には、
- ・高松署管内における露天商は、1月末現在で523軒。地域別の内訳は、多い順に瓦町が82軒、築港が54軒、片原町が48軒。
- ・上記184軒のうち、男子店主は88軒、女子店主は96軒。
- ・露天商の業種は24種。内訳は、多い順に飯食物369軒、雑貨56軒、青果物34軒、魚14軒、金物13軒など。
- ・飯食物の露店の中で一番多いのは飴屋の28軒。次いで関東煮19軒。
とありました。ちなみに、露店に飴屋が多いことについて、記事中に「こんなに飴が氾濫しては、あまり安くもないのに見ただけでうんざりさせられる」という表現がありました(笑)。そういえば丸亀市飯山町の「なかむら」の初代大将も終戦後すぐ、妹さんに「水飴やらんか?」と言われて水飴屋を始めたそうだから(「開業ヒストリー」の「なかむら」参照)、「飴屋が多い」というのは全県的な傾向だったのかもしれませんが、それにしても当時の新聞はなかなかストレートな物言いをしていて、ちょっと痛快(笑)。
さてその後、氾濫する自由市場は、8月1日に全国一斉取り締まりを受けました。取り締まりの対象となったのは、
・調味料品(味噌、醤油、砂糖)
・生鮮食料品(カボチャ、その他)
・専売品(塩、煙草)
・生糸、絹織物及び繊維製品
・マッチ、メタノール含有食料品等
といったもの。要するに、許可なしで勝手に売買してはいけないものを売っている露天商を摘発しようというもので(ということは不正な売買をする露天商が相当あったということで)、香川県内では「管内に自由市場を持つ高松、丸亀、坂出、観音寺、琴平の5警察署で」取り締まりが実施されたそうです。ちなみに、この日は「業者はすでにこの取り締まりがあることを予期しており、県下総体で検挙数わずか40数軒という寂しさであった」とのことですが、取り締まりの強化とともに露天商ひしめく自由市場は衰退し、代わって正常な形の商店街が次第に形成されていったようです。そのあたりの状況を書いた記事を引いてみましょう。
自由市場さびれる秋 “増配”にしめる財布 ぞくぞくできるマーケツトも痛手
戦災の跡もまだ生々しい焦土の街角に雨後の筍のようにむくむくと現出した自由市場は、虚脱した世相を尻目にお札の渦を巻き起こし、崩壊した戦後経済の風雲児ともなったが、それから一年の歴史は、この風雲児によって敗戦日本の経済が動かされたかの感がある。一張の大幕、一箱のビール箱、あるいは乳母車などの露店に集う札束に造幣局の印刷機は追い回され、ついに3月1日、預金封鎖が断行されたが、青空市場はまたしても新円の旋風の中心地となった。しかし、8月1日に全国一斉に粛清の断が下された頃から、この時代の風雲児にもようやく凋落の兆が現れたようである。今、高松市の自由市場の風貌を探ねてみる。
1年前は三越付近と高松桟橋前の二カ所がその頃の闇市の嚆矢(こうし=始まり)だったが、三越付近は小天神の境内にマーケット式の形態を整えて高松の浅草情緒を現出し、桟橋前は国際自由市場となり、記念道路西側の一画に簡易商店街を作ることになり、琴電瓦町駅前は常盤座、南座などを中心とする歓楽街となり、附随して生まれた商店に押されて、露店の数も一時の半数以下に減っている。
この1年間に老舗を誇った南新町、丸亀町などの商店街も続々復興し、消費者の購買意欲の機微を狙ったマーケットの進出は、ようやく戦後の混沌状態から正常の商業形態に引き戻しつつある。加えて、増配声明による食糧の闇値下げは、一般消費大衆の購買欲を間に合わせの露店から信用と確実性のある店舗に転換させつつある。
同記事には「閑散とする青空市場」「日常を取り戻して活気づく復興した老舗の店舗」等のキャプションの付いた写真も掲載されていて、高松市中心街は終戦後1年で「闇市場」から「露店」を経て「商店街」へと立ち直り始めたようです。ただし、露店は決して一掃されたわけではなく、10月11日の記事によると「香川県下の露店は2742軒(香川県経済防犯課より)」とある。その内訳は、
・関東煮…573軒
・化粧……402軒
・履物……266軒
・古物……216軒
・海産物…205軒
・玩具、菓子、その他…350軒
とあり、この中で一番儲かっていたのは「関東煮」の店だ、と書かれています。要するに「おでん屋さん」ですが、これって、「讃岐うどんの店になぜおでんを置いているのか?」という疑問のヒントになりませんか? 「昭和の証言」等から、「昔、町の食堂によく寿司やおでんを置いていた→その食堂でうどんも出していた→その後、食堂がうどんメインの店になり、寿司やおでんはそのまま店に置かれ続けた→それを見て、新たにできたうどん店も寿司やおでんを置くようになった」という仮説が浮上していますが、それ以前に「戦後の露店の段階から香川県民はやたら外でおでんを食っていたのではないか?」という疑いが出てきました(笑)。
あと、補足情報として載っていた「露店業者の前歴」では、
・戦災者…………601人
・引揚者…………471人
・復員軍人………374人
・男子…1230人
・女子…1512人
とありました。露天商は6割以上が戦争で仕事を失った人たちだったようですが、店主は女性の方が多かったという、何かの事情が絡んでいそうな集計結果です。
その後、10月22日の記事では、「丸亀署では最近、市の中心街である浜町を中心に軒を並べる露天商人にうどん、パン、甘藷など主食や統制品を販売するものが増加したので、厳重警告を発するとともに、20日に全露天商人の一斉自粛休業を断行し、違反者の清掃を行った。これを機に、浜町、駅前付近の露天商は数日内に同町から姿を消し、松島町帝国館前および松島弁天神社境内に移動開設することになった」とありました。イタチごっこみたいなことをやりながらも、露天商はまだまだ健在だったようです。
美談も含めて「うどん関連記事」が3本
では、昭和21年の露天商の状況を確認したところで、同年のうどん関連記事を拾ってみましょう。まず、2月10日付けの読者投稿欄に「干うどん朗話」と題して、美談が一つ載っていました。
ところが、この現状を聞いた香川県乾麺統制組合理事長藤本氏は、島内の機械乾麺業者12名とはかり、このほど19キロ入り乾うどん大箱12個を「腹一杯食ってくれ」と言って寄付したのです。「我々生産業者は何と言っても少々の融通はつく。それを闇や横流しに持って行って腹を肥やしているのが現状のようだが、もしその余裕をこうした方面に振向けたら、どんなに世の中が明るくなることか」とは藤本氏の弁ですが、容易に想像できる寮生たちの喜びを自らの喜びとする業者が、あえてここに一文を投ずる所以です。
小豆島の製麺業者の方からの投稿です。19キロ入り乾うどん12個ということは、228キロ。1食300グラムとして760食分になり、1日3食うどんを食べても寮生40人余りが1週間くらい食べられる…などという野暮な計算以上の、英断です。小豆島だけど素麺ではなくて乾麺のうどんを大量に差し入れたということは、戦後すぐの小豆島では乾うどんが結構作られていたということでしょうか。
続いて、5月31日付けでこんな記事が。
庖丁で刈る焼跡の麦
麦秋だ、麦秋だ、赤茶けた焼土にも麦秋がきた。昨年の晩秋、トタンぶきの仮小屋で震えている頃、小屋の背戸にまいた一握りの小麦の種子が8カ月たった今、見事に穂を揃えて微風に波を打たせている。さあ刈ろう。手に持つは鎌ならぬお勝手の庖丁だ。それもよし、やがてはこれがうどんと団子になって、ひと時の食膳をうるおすのだ。
まるでエッセイのようなリズムの記事です。前年の秋、戦後の荒廃した焼土にまいた麦がついに実って、鎌もないから包丁で刈り取りです。「うどんと団子になって食膳を潤す」とあるから、これは大麦ではなくて小麦ですね。
続いて、6月16日の家庭欄に「雑草の調理法」という記事が載っていました。食糧不足が続く中、「雑草も利用可能、おいしく頂けます」という生活の知恵の紹介記事です。そこに、「小麦粉節約調理法」として「野草粉がゆ」等に混じって「雑粉うどん」というメニューがあり、次のような料理法が示されていました。
- ・苦い甘藷の葉粉や、みかんの皮粉、または渋いドングリ粉などを、少量の小麦粉を加えて麺帯に延ばしておく。
- ・別途、小麦粉に少量の水と塩を加えて硬めの生地に捏ね、これも麺帯にする。
- ・次に、小麦粉麺帯を外皮にして、雑粉麺帯を包んで延ばし、麺線に切り、煮えた湯に入れて茹で上げ、これを普通の方法で食べる。これは、まずい雑粉をうどんの芯にしておいしく食べる方法である。
「おいしく食べられる」かどうかは疑問ですが(笑)、うどんの生地に何かを練り込むのではなく、「うどんの麺で別の食材を包んで一本の麺にする」という手法は、もしかしたら今の讃岐うどんの新メニューのヒントになるかも。最初から麺の中にネギと天かすを包みこんだうどんとか、麺にチョコレートを包み込んで固めて「うどんポッキー」とか(絶対売れんと思う・笑)。
では、9月1日に載った美談をもう一つ。
戦災、引揚者にもお裾分け “温いうどん”天王神社夏祭佳話
これは村の祭礼に点じた同胞愛の灯――天王の牛市で知られた大川郡石田村天王神社の夏祭が、先月23日に行われた。天王の部落民はこの日は例年うどんの御馳走によって農繁の労を癒し、豊穣を祈る慣わしとなっていたが、今年は食生活に悩む部落内の戦災、引揚者の人達にもそのお裾分けをしようと、村会議員の佐々木清一さんが発起し、供出後の調整麦の一部をもって振替えることにして十六戸の各戸から合計一斗一升の小麦を拠出することとし、同日22人の戦災、引揚者に一人あたり五合ずつを無償で「せめてうどんの一つでも共に食って祭礼気分を味わって下さい」と温かな贈物としたので、これをおし戴いた人々は、冷酷になり勝ちな農村生活の中でも熱い人情をしみじみとそのお祭のうどんの一本一本に味わったのであった。
先の組合理事長さんもそうですが、当時は議員さんにも人情に厚い方がおられたんですね(と書くと今はいないみたいに聞こえますが・笑)。でも、記事の最後に「冷酷になりがちな農村生活」とあるのがちょっと気になる…。
というわけで、終戦後1年目の昭和21年の新聞に載っていた「うどん関連記事」は以上。では最後に、うどん関連の「広告」をチェックしてみましょう。
「家庭用製麺器」が登場!
6月1日付と12月13日付の四国新聞に、大阪の「大日本工機株式会社(後に大平興業株式会社に社名変更)」が「総ての粉末で即席うどんができます。粉食時代の寵児!」というキャッチコピーで「簡易家庭用製麺器」の広告を出していました。
この6月1日付の方が、四国新聞に載った戦後初の製麺器の広告です(家庭用の小さい道具なので、「機」ではなくて「器」です)。しかも何と、当プロジェクト新聞記事発掘隊長の萬谷君が多度津町の多度津民俗資料館で、現物を発見しました! 資料館に保管されているのは大日本工機と山崎製作所(いずれも大阪の会社)の2種類の家庭用製麺器で、いずれも練った生地を筒の中に入れて押し出すタイプ。香川県内にどれくらい普及したのかはわかりませんが、じっくり見たい人はぜひ多度津資料館へ行ってみてください。
業務用大型製麺機の広告も続々登場!
さらにこの年の6月から12月にかけて、業務用の大型製麺機の広告が続々登場していますので、日付順に列挙してみましょう。
最古の歴史・最新の技術・低廉価格・納期迅速
うどん・そば・そうめん製造機械「特許・大隅式製麺機」
尾久葉機械製作所(大阪市)
(7月31日、8月10日、12日、17日、22日、24日、9月8日、10月6日、21日)
真白い粉になる 「三共式製粉機・製麺機」
三共製作所(大阪市)
(8月30日、10月30日)
最新式製麺機「ウヰングポンプ」
株式会社鎌田鉄工所(高松市)
(9月7日、17日、10月1日)
「ミヤヂ式製麺機」
宮地鉄工株式会社(高松市)
(10月15日)
干うどん・そうめん・生うどん「専売特許・田中式製麺機」
田中鉄工所(大阪市)
(10月29日)
能率がよくて丈夫な「金子式製麺機(三台組立)」
金子式特約店・三久電気商会(香川郡円座村銀座)
(11月17日)
農村と都会の家庭用・自家営業用・給食用
うどん・そば・きしめん・しゅうまい・ビスケツト・堅パン
十人前が五分間で「家の宝・めん類機」
日本精鋼株式会社文化製品部(大阪市)
(11月18日)
新型うどん・そーめん機械専門製作
三宅機械工作所(大阪府布施市)
(12月9日)
干うどん・そば・麺類一式
御家庭で手軽にきれいに出来上がります
職業用として干うどんの大量製造も可能!
「うどん製造機」
*機械絶対優秀、団体・組合の大量御注文にも応ず
久寿美工機商会(山口県下関市)
(12月13日)
総ての粉末で即席うどんが出来る!
簡易家庭用軽合金製「製麺器」
太平興業株式会社(旧大日本工機)(大阪市)
一見して、大阪の会社からの麺機売り込みが目立ちますが(尾久葉機械製作所、三共製作所、田中鉄工所、日本精鋼株式会社、三宅機械工作所、太平興業株式会社の6社)、香川県内の会社では「株式会社鎌田鉄工所」と「宮地鉄工株式会社」の2社が麺機の製造販売の広告を出していました(「三久電気商会」は販売のみ)。ちなみに、宮地鉄鋼の広告には機械のイラストが入っていましたが、広告に「送風機、平麦機、製麺機」と並列に書かれていたので、これがどの機械のイラストなのかはわかりません。しかしいずれにしろ、香川県の製麺機の多くは「鉄工所のビジネス」だったことが窺えます。
以上、昭和21年の新聞では「生活うどん」の風景が少しずつ見られるようになってきました。しかし、「名物や観光素材としての讃岐うどん」というニュアンスの記事はまだ影も形もない時代が続きます。