第一話
がもううどん
<昭和40年代>
みんな、延びたうどんを食べていた時代
さて、昭和40年代に入ると、ブーム以前のがもううどんのスタイルがだんだん定着してきたと同時に、讃岐うどんを取り巻く環境もかなり変化が現れ始めたようだ。昭和45年(1970)のがもうのスタッフは、初代善太郎さん(55歳)、おばあちゃん(49歳)の2人が中心で、二代目大将(23歳)は店に入らずに勤めに出ていた。ちなみに、大将は昭和48年に結婚し、奥さんはがもうの店を手伝い始めた。翌49年に長男誕生。51年に次男誕生。
大将:
食べに来るお客さん用にダシを作り始めたのは、昭和45年(1970)頃やな。それまでは醤油と味の素しか置いてなかったけど…
おばあちゃん:
私が「ダシがあった方がええやろ」言うたんや。
大将:
そやったかな。ほんでちょうどその頃、鎌田醤油が薄めただけでかけのダシができる濃縮ダシみたいなのを出したから、最初はそれで始めた。それからすぐに、イリコやコンブを使ってちょっとずつ味を良くし始めたんや。
おばあちゃん:
ネギはもう出しよったやろ。醤油だけの時から。田舎やけん田んぼや畑があるけん。
ーー 天ぷらは?
大将:
天ぷらはちょっと後やな。ダシを作り始めてから3〜4年してから。家内が店を手伝い始めてからやわ。
ただし、ダシや天ぷらを出し始めたとはいえ、まだ昭和40年代のがもうは、食べに来るお客さんの数がどんどん増えていったというわけではなかったようだ。
大将:
食べに来よったのは、最初の頃から来よった農家の農作業しよる人や、用水路やあぜ道の工事とかで近くに来る人。あとは近所の人が時々昼ご飯に食べに来よったぐらいで、そんなに食べに来る客が増えて来たという感じではなかったな。
ーー 食堂とかへの卸しや個人への玉売りは相変わらず?
大将:
まあ、40年代はまだそっちがメインじゃわな。玉売りは、法事があったら一軒で300玉ぐらい注文が来よった。昔は法事に寄ってくる親戚とかが今より桁違いに多かったし、家で法事の客にうどん出して手土産にも一人5つとか7つとか持って帰らせよったから、それで40〜50人寄ったらすぐに300玉ぐらいいるようになるんや。それがまた、法事いうんはどこも土曜とか日曜に重なってするから、土日はしょっちゅう親父らが朝早よから起きて作りよったわ。
ーー この頃は、今みたいに打ち立て、茹で立てを食べるという状況はあまりなかったみたいですね。
大将:
打ち立ての麺を食べるいうのはほとんどなかったやろ。卸したうどんは全部延びとるから、食堂で食べる人も玉を買うて帰って家で食べる人も、みんな延びたうどんを食べよったはずや。うちに食べに来る人も、たいてい朝作ったうどんを食べよった。まあその頃はまだみんな裕福でないから、延びたうどんでもダシかけておいしいおいしい言うて食べよったで。
では、当時の人たちが打ち立てのうどんを食べる時はなかったのか?
大将:
そこら辺の川や用水路にドジョウがいっぱいおってな。ほんで、みんなで川掃除をしたらドジョウがいっぱい獲れるんや。そしたらすぐにドジョウ汁(うどん)を作ってみんなで食べるんやけど、その時にうちがうどんを作ってあげて、持って行ってドジョウ汁に入れてみんなで食べよった。あれはまあ、比較的打ち立てに近かったかもしれんな(笑)。
ーー ドジョウうどんって、打ち込みうどんですよね。
大将:
打ち込みやから、麺の塩抜きをせないかん。普通のうどん作る時は、粉を混ぜる時の塩水の塩分濃度が10度近辺でおるわな。けど、それで作った麺を打ち込みの汁の中に入れて煮込んだら、ダシに塩分が溶け出して辛うなって食えんようになるから、打ち込み用の麺は塩分を3度とか4度に落として作るんや。ゼロにしたらうどんがまずくなるから、ちょっとだけ残してな。
ーー じゃあ、打ち込み用に別に作らないといけない。
大将:
そうそう。その頃、時々「ドジョウ汁するけん麺を1キロくれ」言うお客さんがちょいちょいおったけど、みんな知っとるからちゃんと「塩抜きしてくれ」言いよったで。けど、こっちは3度ぐらいは塩を入れよった。いちいちお客さんに説明するのも面倒やし、説明したら「全部抜いてくれ」言われるし、けど全部抜いたら「旨くなかった」言われるのがわかっとるから「はいはい」言うてちょっとだけ塩を入れて練って延ばして切って、生麺で渡しよったわ(笑)。けど、10玉や20玉でも1時間ぐらいかけて別に練らないかんし、量が少なくて機械にかからんから手で練らないかんし、かと言うて手間賃を別にくれとも言えんから…商売としてはあんまり合わんわな(笑)。
高度成長期で製麺屋の数が減り始めた
さて、昭和40年代中盤以降の讃岐うどん界における一つの大きな変化は、玉売りを本業とする「製麺屋型うどん店」が減り始めたことである。「ゆで麺の玉売り(卸し)業」は、昭和50年代に入って冷凍うどんが市場に出始めてからどんどん冷凍うどんにシェアを奪われ続け、今日まで「激減期」がずっと続いているが、実はその前に「第一次激減期」とでも言うべき現象があったようなのである。その原因とは?
ーー ちょっと戻りますけど、がもうが開業した頃、集落に一つずつあったという、がもうみたいな玉のおろしを本業とするうどん屋さんが、今はほとんど残ってないですよね。
大将:
そうやなあ。この辺ではもう、うちと山下さんとこだけやなあ。
ーー それはやっぱり、冷凍うどんが出てきて「ゆで麺の卸し」がシェアを食われたからですか?
大将:
それもあるけど、それより先に、みんな会社に勤めに行った方が給料がええようになったからやろ。大体、集落に一つずついうのはもともと店が多すぎたいうのがある。まあ昔はみんな貧乏やったから、細々と営業しよっても「何とか食うていけたらええわ」ぐらいでやりよったんやろけど、そこに高度成長期が来て、会社ができてどんどん人を採るようになったやろ。そしたら、会社の給料の方がええわけや。例えば、家族で一生懸命朝早よから体使ってうどんを作って、一家で月に1000円ぐらい儲けよったとするやろ。そのうち子供が大きくなって、結婚して家の仕事を継いでも、一家の収入は大して変わらんとなったら、例えば会社に勤めたら一人月給40円とか50円とかあったら、子供はみんな勤めに行くようになる。
ーー なるほど。
大将:
うちやってそうやがな。俺は最初、家のうどん屋を継がんと勤めに行きよったからな。何万玉も製造販売しよるような大きな会社ならやっていけるやろけど、昔のその辺にいっぱいあった玉売りのうどん屋はどこもそうや。それで跡継ぎがおらんようになって歳いって体がしんどくなって辞めたり、それ以前にご主人が勤め人に転職したりしてどんどん減っていった。それからちょっと遅れて冷凍うどんが出てきて、ダメ押しされたみたいなもんや。
なるほど、製麺所の激減には、まず「高度成長期が小さな製麺所を潰していった」という背景があったのか。
県産小麦の全滅は、うどん屋と客にはほとんど影響がなかった?!
ーー 店でうどんを打って客に食べさせるという「うどん専門店」は、その頃この辺にあったんですか?
大将:
この辺では「みささ」が一番早かったかなあ(筆者注:「みささ」は昭和47年開業)。それも食べさせる専門の店やったかどうかはよう覚えてない。たいていは、普通の食堂とかレストランみたいな店がメニューに「うどん」言うて出しよったか、うちらみたいな玉の卸しの店がついでに食べさせよったか、どっちかやなあ。まあこの辺では40年代にはほとんどうどんを食べさせる専門店はなかったと思う。とにかく、天ぷらうどんや肉うどんいうメニューを並べたうどん屋は見たことはなかったな。
ーー あと、昭和40年代というと、昭和45年に香川県の小麦の大不作があって翌年から小麦の作付面積が激減して以降、讃岐うどんの粉がオーストラリア産のASWにいっぺんに取って代わられ始めたという大きな転機があったんですけど、うどん屋さんにはどんな影響があったんですか?
大将:
別に何も影響はなかったと思うで。あの時、いっぺんに農家の人が小麦を作らんようになって、確かにうちに小麦を持って来る農家もほとんどなくなったと思うけど、元々ここら辺で作る小麦は家畜の餌にしよったぐらいやから「安くて大して金にならん」いうて農家の人からよう聞きよったわ。そやから、そこに天候不順で全滅したいうたら、みんなもう作る気がなくなったん違うか? それで、製粉会社は地元の農家から小麦が入らんようになったから、輸入小麦を仕入れるようになったんやろ。けど、わしらみたいなうどん屋は製粉会社から粉を買いよるだけやから、粉が変わっても品さえ入って来たら別にどうってことはない。あの頃はうどん屋が粉の種類や品質がどうしたとかあんまり言いよらんかった時代やからな。客もうどん食べて「粉が変わったん違うか?」とか、誰も言わんし(笑)。
という話であった。要するに、あの讃岐うどんの粉の大転換は、当時のうどん屋と客にはほとんど何の混乱ももたらさなかったようだ。このあたりの話は、製粉会社に聞いた方がよさそうなので、いずれスタッフが取材してここで報告したいと思います。
<昭和50年代〜>
そして、二代目大将の時代へ
昭和56年(1981)、二代目大将がいわゆる脱サラでがもうの店に入り、1年ほど店を手伝ったあと、翌昭和57年(1982)に高松市円座町に「釜市うどん」をオープンすることになった。三代目の和照君が生まれて3歳の頃だ。
大将:
俺が勤めを辞めて店を手伝いよった頃には、食べに来るお客さんもだんだん増えて来たんやけど、それでもこれから二家族が食べて行くには先が心許ないとは思いよったんや。それで思い切って、円座に「釜市うどん」を出した。釜市は最初からよう流行ったで。うどんブームは全然来てない頃やったけど、昼は行列ができよった。それで釜市で12年間営業しよったんやけど、親父が歳をとってきて「がもうか釜市か、どっちかを閉めよう」という話になって、いろいろ考えて釜市を閉めて実家の方に帰ることにしたんや。平成6年(1994)や。
ーー 結果、大正解になった。
大将:
いや、帰ってきてから2年ぐらいは家内と二人で店を回しよったけど、二人で「暇やなー」言うて(笑)。そしたら2年ぐらい経って、ブームが来たわけや。
その後、東京、大阪で会社勤めをしていた三代目も帰ってきて店に立ち、次男夫婦も店に入り、今日の大人気の「がもううどん」に至る。いずれにしろ、がもうは坂出市の周辺農村エリアあたりにおいて、戦後の貧しい時期から今日の讃岐うどんブームの頂点までを全て体験してきた「製麺所型うどん店」であり、「讃岐の製麺所型うどん店」の一つの歴史だと言えよう。ブーム襲来当時のがもうの顛末は、またの機会に。
- [全一回]
- 第一話 がもううどん 2015.07.25
坂出市
がもううどん
がもううどん
〒762-0022
坂出市加茂町420-3
開業日 昭和34年9月
営業中
現在の形態 製麺所
http://www.kbn.ne.jp/home/udong/
(2015年7月現在)
がもうのおばあちゃん/二代目大将/三代目長男
(二代目大将プロフィール)
さぬきうどんの人気店「がもううどん」の二代目大将。
昭和56年(1981)サラリーマンを辞め、父親の店「がもううどん」に。
1年ほど店を手伝ったあと、翌昭和57年(1982)に高松市円座町に「釜市うどん」をオープン。その後平成6年(1994)に「がもううどん」に戻り、現在に至る。