第三話
なかむら・後編
<平成2年(1990)頃~平成12年(2000)頃>
昭和50年代中盤(1980年代)に今の営業スタイルが固まったなかむら。そして少しずつ、その「客ほったらかし」の超セルフスタイルが世間にバレ始めるのです(笑)…
なかむらのメディア初登場は、西日本放送テレビと呉のタウン誌だった
ーーなかむらがメディアに出たのは、いつが最初だったんですか?
- 奥さん
- 昭和60年(1985)の6月に、西日本放送の土曜日のお昼のテレビの番組で植松おさみさんが取材に来たのが一番最初です。
ーー植松さんですか。やっぱり植松さんはすごいなあ。ようこんなとこを見つけるわ(笑)。それで、お客さんが増え始めたんですか?
- 大将
- おっさんが何人か来だした(笑)。
ーーありがとうございます。その情報、マーケティングの勉強になります(笑)。
- 奥さん
- それから、雑誌が最初に来たのは呉からやったな。
ーー広島県の呉ですか!
- 大将
- そう。呉の『くれえばん』とかいう雑誌のかわいい女の子が取材に来て、本に載りました。
ーー「かわいい女の子」というところはよく覚えている(笑)。
そして、村上春樹氏がなかむらにやって来た!
ーーそして、いよいよ村上春樹さんがなかむらにやって来ました。村上春樹さんの中村体験のエッセイが『ハイファッション』誌に載ったのが平成3年(1991)2月ですから、たぶんなかむらに来られたのは平成2年(1990)だと思います。
- 大将
- 私はその時、村上春樹やいう人を知らんかったんです。それで、店に来られてもお通しする場所もないし、親父が「わしの下駄箱にするんやきん捨てたらいかん」言うて置いとった古い冷蔵庫の横にボロボロのイスを持って行って、「応接がないからこれにおかけ下さい」言うて座ってもろてね。私は地べたにしゃがんで、下からこんなにして顔を見ながらしゃべった覚えがある。
ーーいい感じですね(笑)。
- 大将
- それが、本が出た後で、知り合いに「お前、あんな有名な人になんちゅう応対しとんねん」って言われて(笑)。「『ノルウェイの森』いうの、知らんのか」言われたけど、私や学がないから知りませんがな。
- 奥さん
- 私もそんなに有名な人やとは全然知らなかった。後で「悪いことしたなあ」と(笑)。
ーーいや、たぶん、そのぞんざいな扱いが逆に受けたんだと思いますよ。村上さん、あのエッセイの中で何軒か製麺所型の怪しい店を回ってるんですけど、最後に「それにしても中村はすごかった」って書いてましたもん。「朝っぱらから石の上に腰掛けてうどんをすすっていたりすると、『世の中なんかもうどうなってもかまうもんか』という気持ちになってくる」とまで書いてましたから(笑)。
- 大将
- 誰がこんなところまで連れてきてくれたんかいな。
ーー香川県出身の女性編集者の「マツオ」さんという人が案内したそうです。
- 大将
- 知っとる人がおったんやな。
ーーちなみに、『くれえばん(タウン誌)』とか『ハイファッション(女性誌)』に載ってから、若い人や女性が来始めたという感じはありましたか?
- 奥さん
- いやいや、若い子なんて全然来てません。来るのは年配の常連さんがほとんどで、若い子いうても会社の上司に連れられて来る男の子ばっかり。若い女の子なんて一人も来ませんわ(笑)。
- 大将
- 若い子がたくさん来だしたのは、あの本(月刊タウン情報かがわ「ゲリラうどん通ごっこ」~単行本『恐るべきさぬきうどん』)に書いてもろうてからや。
「伝説の中村」大ブレイク! でも大将はマイペース(笑)
ーーえーと、『月刊タウン情報かがわ』の「ゲリラうどん通ごっこ」で「伝説の中村」を載せたのが平成4年(1992)の12月で、それが載った『恐るべきさぬきうどん』の第一巻の発行が平成5年(1993)の4月です。
- 大将
- その後からやね。食べに来るお客さんがいっぺんに増え始めたのは。
ーー実はですね、「ゲリラうどん通ごっこ」の連載を始めたのが昭和63年(1988)の12月なんですが、その時にすでに「裏の畑で客がネギを採る」中村のことは噂で聞いてたんです。でも、食べに行って掲載したのは連載開始から4年後、村上春樹さんがエッセイに書いてからも2年も後なんです。理由は、あまりにディープな上に「中村で迂闊なことをしよったら大将に怒られる」いう噂も聞いてて、ちょっと怖くてしばらく行けなかったという…(笑)。
- 大将
- そういえば、そいな時期があったな。
ーーほんとにあったんですか!
- 大将
- まあ、もともと私はあんまり愛想がええ方でないし、ちょいちょい偉そうな客が来て「おい、水持ってこい」とか、あれはないんか、これはないんか、あれせえ、これせえ言うてきたりするから、そういう時にはちょっと言いよったな(笑)。「うちは客が勝手にする店やきん、欲しかったら自分でやりな」いうて。そういう時期があったのはあった。
ーーけど、とにかく思い切って書いてほんとによかったです。僕らは「おもしろい、楽しい、怪しい」をキーワードにうどん屋を探検してて、ブームの客もみんなそれを求めて来てましたから、なかむらの超ディープなおもしろさと怪しさは、ブームの牽引に絶対欠かせなかったんですよ。
- 奥さん
- あの頃はまだ携帯もないしカーナビもないし、お客さんが店を探して探して、「店を見つけただけで楽しかった」って言うてました。自分でネギを切るいうんも、みんなおもしろがってたんやろね。今はもう切って置いてるけど、未だに「ネギを切りたかったのに…」いうお客さんがいますもん。でも、すごかったね。あんなに人が来るんだ、と思った(笑)。
- 大将
- まあ、こっちはお客さんがいっぱい来始めてもマイペースで、何も変わらんかったけどな。うどんを作る量も多少増えるには増えたけど、無理はせんかった。なぜか言うたら、身体を壊したら元も子もないから。誰も保障してくれんし、とにかくまず体のことが頭にあってね。そらようけ食べに来てくれるのはありがたかったけども、毎日ちゃんとうどんを出せるように気をつける方が大事やと思うとったから。
ーーその大将のマイペースがまた「なかむら」の味になって、伝説の店になったんですよ。
- 奥さん
- あの頃、宮武さんとこ(琴平の宮武うどん)も、ものすごい人が来てたでしょ? うちの常連さんが「宮武の大将、いつ寝よんやろか。いっつも店に灯りがついとるわ。夜中の2時でも3時でも灯りがついとる」って言いよったね。
- 大将
- やっぱり朝早よから起きて準備しよったんやろ。夜が明けてきたら外に出て山の加減を見て、天気やら何やらで塩の加減を決めたりする…いうてテレビで言いよったけど、昔はちゃんとした人はそういうのをしよった。私もそういうのはちゃんとしよったで。まあ、マイペースでな(笑)。
“軟体腰”の秘密?!
ーーところで、なかむらの麺は細くて柔らかいのに弾力があって、香川県でも類を見ない麺ですよね。僕はあれを「軟体腰」って書いたんですけど、何であんな麺ができるんですか?
- 大将
- まあ、やり方は別にどうこう言うようなもんではないけど…うどんは、こうしよう思ってもなかなかその通りにならんでしょう(笑)。
- 奥さん
- 塩分控えめやね。たいていうどんの塩水は海水よりしょっぱいでしょ? うちのはそんなにしょっぱくないんです。あんまり塩分を控えめにしたらうどんが切れてしまうけど、ちょっと控えめにしたらあんな麺ができるん。自分が血圧が高いから塩分控えめにしたんじゃないかなと思うんですけど、違うんかな。
ーー大将、ご本人はどうなんですか?
- 大将
- あの、覚えがあるのはね、最初にしよった頃、地元の学校の先生がうどん玉を買いに来てくれよったんやけど、その先生が「ここのは十分茹でとるからええんや。よその食うたら生煮えみたいに固いんじゃ」いうて言いよったのがヒントになったというのはある。その頃、関東からたまに来よった人も「コシがコシが言うけど、香川のうどんはちょっと固すぎて体に悪いわ」いうて同じようなことを言いよったんで、親父がしよったのより2分ぐらい余分に茹でてみようか思ってやってみたら、その関東に人に気に入ってもろうてな。まあそれほど意識して作っとるわけではないけど、ちょっとそういうところはあるかもしれませんな。ですけど、最初の頃にそうやって「これでええわ」と思ったら、あとはずーっとそのままです。別にいろいろ研究して変えるわけでもなく、お客さんに「もうちょっと固いのがええ」言われても全然合わさん。
ーーそこはやっぱり、頑なにマイペースで(笑)。
- 奥さん
- 関東の人いうたら、当時、こっちに住んでて変な関東弁をしゃべるお客さんがおったんです。それである日、その人から電話で「うどん、2セイロお願いします」いうて注文が入ったんで、40玉か50玉か茹でてセイロに並べて積んでたら、しばらくしてその人が取りに来て、セイロのフタをパカッと開けて、「え?! 全部茹でちゃったの? 俺、一人でこんなに食えねえよ」って(笑)。
ーー頼まれたの、「茹でうどん」じゃなかったんですか。
- 奥さん
- 本人は生うどんを注文したつもりだったらしいんです。けど、普通「2セイロ」いうたら茹でうどんですよね。それで「しょうがないなあ。どっか、回すことはできねえかな…」とか関東弁で言われて(笑)。そんな、急に40玉も回すところがないし、捨てるのももったいないし…と思ってたら、その人が仕方なく1玉ずつ小分けしてビニール袋に入れてね、それを知り合いかどこかで冷凍してもろたらしいんです。そしたら何日か経ってまた店に来て、「あれダメだな。袋の中で砲丸投げの球みたいになっちゃった」って(笑)。「茹でたら砲丸の玉がほぐれてブチブチブチブチ切れるんだよ」って(笑)。もう、おっかしくておかしくて、あれは後にも先にも忘れられない(笑)。
ーー生うどんを2セイロ買って、家でちょっとずつ茹でて食べるつもりだったんですかね。
- 大将
- いや、あれは、その人がうちの生うどんを関東の方面の人に送りよったんよ。それまでに何度か生うどんを買うてくれよった人なんやけど、その日に限って「セイロ」で注文を受けたもんやから、ちゃんと茹でてあげたんや(笑)。
ーー関東の人は柔らかいうどんが好みでも、人に配るのに茹でうどんはさすがに柔らかすぎた(笑)。
なかむらの「釜」は初心者の大難関(笑)
ーーとにかくなかむらは県下随一の「客が何でもするセルフ」なんですけど、昔、常連のお客さんがうどんだけでなくて、店にかかってきた電話も取ってましたよね。ブームになり始めた頃、常連さんが店にかかってきた電話を取って、相手に丁寧に道案内をしていたのを何回も見たことがあります(笑)。
- 大将
- 人手がおりませんからな。一度、私が電話を取ったら、「今、鳥取から行くんですけど、道順を教えてくれますか?」言われて、「すまんけど、何とか香川まで来てくれんか?」言うたことがある(笑)。
- 奥さん
- カーナビもない時代でしたからね。でも、鳥取から案内してくれ言われても…(笑)。
ーーそれと、初心者のなかむらの最難関は「釜の周り」です。「もらったうどんをテボに入れて湯がく」いうのはまだ何となく付いてこられるんですけど、なかむらはそのテボを「うどんを茹でている釜の中に浸けて温める」というフェイントがある(笑)。あれ、店の人がうどんを作る工程の中に割り込んでいくわけですから、初心者は「ここに浸けていいのか?」と不安になるんです。
- 奥さん
- 私がいつもお客さんに茹でたうどん玉を丼に入れて渡すんですけど、「温める人はあそこ(うどんを茹でている釜)で温めて下さいね」って言うんです。そしたら、うどんの入った丼を釜のところに持って行って、どなんしたらええんかわからんかったんやろね、うどん玉をそのまま釜の中へザバッと入れてしもたお客さんがおった(笑)。主人が「なんべん茹でるんや」言うてましたけど(笑)。
ーー茹でている途中のうどんと茹でて渡したうどんが釜の中で混じったら、一釜がダメになってしまった(笑)。
- 奥さん
- この間もね、丼にうどん玉を入れてあげて「温める人はそこの釜で温めて下さいね」言うたら、テボの口の上に丼ごと乗せて釜の湯に浸けて温めよるお客さんがおった(笑)。それから今度は別のお客さんに「釜のところで温めて下さい」言うたら、釜の前に行ってしゃがんで、釜の下のボイラーのところ、あそこの鉄パイプみたいなのが熱を持ってるでしょ? その鉄パイプの前に丼を持っていって温めよった(笑)。
ーーもう、止まるところを知りません(笑)。というか奥さん、お客さんが失敗するのをちょっと楽しんでません?
- 奥さん
- そんなこと、全然ないですよ!(笑)
名店が、もう一世代つながった
ーーさてその後、ブームの中でいよいよ三代目が跡を継いで、なかむらは新時代の歴史を歩み始めることになりました。三代目のご長男が店に出始めたのはいつ頃でしたっけ。
- 奥さん
- 大学出て次の年だから、2000年だったか2001年だったか。
ーーブームの第一次ピークの頃ですね。
- 奥さん
- そうですね。本人は最初、警察官になるのが目標だったらしいんですけど、あの頃は就職の氷河期みたいな時で、ほとんど募集がなかったみたいで。それで、旅行関係の資格を持ってたのでそういう方面も考えてたみたいですけど。
ーー大将は「跡を継いでくれ」みたいなことは言わなかったんですか?
- 大将
- 言わんかった。私は自分が親父に「あれせえ、これしたらいかん」とか言われて嫌な思いをしたことがあったから、自分の子供に対してはそういうことは一切言わんと決めとったんです。そしたら、息子が「就職するとこがないきん、しばらく手伝うわ」いうてね。ただそれだけやった。
- 奥さん
- それがちょうど、うどんブームがすごかった時だから、それでやろうと思ったん違うかな。あのブームがなかったら、たぶんうどん屋を継いでなかったと思う。
ーーうどんは大将が教えたんですか?
- 大将
- ほとんど教えてない。最初は塩水の加減とかは教えましたけど、打ち方も延ばし方も教えてないです。
- 奥さん
- 下の子も店に出るようになったんですけど、玉取りなんか教えたこともないのに、二人ともいつの間にか勝手にできよった。
- 大将
- あれはね、子供が小学校や中学校の頃から、たぶん親父が何か教えとったんじゃないかと思う。「これ、踏んでみ?」とかやっとったような気がするんやけど。
ーーわかりました。その辺はまた今度、けんちゃん(三代目)本人に聞いてみます。いずれにしろ、これでなかむらのうどんがもう一世代つながることになって、うどんファンとしてはうれしい限りです。じゃあ最後に、ここまでのなかむらの歴史を振り返って、何か一言頂けましたら。
- 大将
- ………もうええわ(笑)。ほんまに人様に言えるほどきれいな人生じゃないきん。
- 奥さん
- こんなに人が来てくれるような店になるとは夢にも思ってなかったけど、まあ、よう頑張ってきたと思います。足で踏んで踏んで、頑張ってきました。
ーーどうもありがとうございました。
なかむらは今、三代目の長男が独立して高松市前田東町で「なかむら屋」という店を始め、さらに切れ味を増した”軟体腰”の麺を出しています。丸亀市飯山町の本家「なかむら」は次男と奥さんがうどん場を切り盛りし、大将は「天ぷら場」に引っ込んで天ぷらを揚げています。昔のように「天ぷらの売り上げはわしのもんじゃ」とは言っていないと思いますが(笑)。それにしても、なかむらは歴史もすごかった。ここに書けない話もたくさん頂きましたが、それは大将と私の胸の内ということで(笑)。