第二話
なかむら・中編
<昭和45年(1970)頃~57年(1982)>
水飴屋をやめて、養鶏をやめて、お待たせしました。今度こそいよいよ、なかむらの「うどんのルーツ」の登場です。しかし、そこにはあの幻の名店との衝撃の関係が…
先代「中村」のうどんのルーツは「幻の西森」だった
ーーそして「鶏小屋」の次に、今度こそ「いよいようどん」ですね。
- 大将
- 養鶏をやめて次に何をしようかいうて、西森の妹と話をしたみたいですね。それで「うどんでもやらんか?」いう話になったらしい。
ーー西森?
- 大将
- あの土器川の土手にあった「西森うどん」のね。
ーーえっ! なかむらの先代は、西森の大将の妹さんにうどんを教わったんですか!
- 大将
- いや、そうやない。妹いうのは親父の妹。親父の妹が西森に嫁いどったんです。
ーーえーっ! あの「幻の西森」の大将の奥さんが、中村の先代の妹さんですか!
- 大将
- そうそう。それで親父は、妹の旦那の西森の大将にうどんを習いに行った。
ーーすると、その頃から西森は製麺屋をやってたんですね。
- 大将
- 西森さんとこは、その頃からもうここらへんでは大手やったからね。とにかく当時から超有名やった。この辺で知らん人はおらんかったと思う。その頃の西森は玉売りがほとんどやったけど、どこに玉を売りよったのかは一切言うてくれんかったな。けど、近所の人が「西森さんとこに丸亀の郵便局の車が来て500玉ぐらい持って帰りよった」とか言いよったから、大口のお客さんがなんぼもあったんでしょうね。
ーーで、大将の親父さんが西森にうどんを習いに行った。
- 大将
- 最初は西森の大将に「どうせ続かんのやきん、あんまりうどんで商売は望まん方がええぞ」言われたらしいんです。けど、親父が「借金も返さないかんし、死んでもやる」言うて頼み込んで。そしたら「そこまで言うのなら、まあ食うていくぐらいは売れるきん、やってみるか?」言われて、それで半年ぐらい西森で修業してね。それから親父がお袋と二人で、ここでうどん屋を始めた。それがうちのスタートです。
ーーそうだったんですか。じゃあ、大将の親父さんは、妹さんに「水飴やらんか?」言われて水飴を始めて、「儲かるで」言われて養鶏を始めて、また妹さんに「うどんやらんか?」言われて西森でうどんを習い始めてうどん屋になったと。
- 大将
- とにかく、親父の場合は何かと妹が絡んでくるんです(笑)。
ーーそれが、昭和45年頃ですか。
- 大将
- 年ははっきりせんのですけど、それぐらいですかな。まあ最初はうどん屋いうても小さい商売でね。今、ダシを沸かしとる羽釜でうどんを茹でて、お袋が「できたうどん玉を味噌こしに入れて隣近所に売りに行った」言うてましたから、量も大したことない。
ーーじゃあ、十分に生活できるほどではなかった。
- 大将
- なかったと思います。親父がお袋とうどんを売りに行きよった頃に「てんまる2枚」って言いよったから、1日に40~50玉ぐらいしかしよらんかったんと違いますかね。そのうち、近くにある施設に勤めよる人の紹介で、そこの施設の職員の給食に玉を卸すようになって、そこがうちの一番のお得意さんだったらしいけど、それでも一日に50玉もいかんかった。その次に、これもうちの近所から出とった前田さんいう人が骨付鳥の店をやりよって、そこで出すうどんも納めるようになって、それが15玉ぐらい。その二軒が主な卸し先だったみたいです。
ーー足しても1日にせいぜい100玉ぐらいですか。
- 大将
- 100玉になるやならんや。私はお袋から「近所の人がうどんを買うて助けてくれて、うちを食わせてくれたきん、そういう恩は忘れたらいかんぞ」いうて、こんこんと言われてましたからな。ほんとに細々とした商売をしよったみたいです。
なかむらの二代目大将の「うどんの師匠」は、大将の弟さんだった!
ーー大将はその頃、まだ大阪にいらっしゃったんですか?
- 大将
- 大阪でね。20代、30代の頃は、大阪でまあ、いろいろやりよったですよ。弟も大阪に出てきてね。
ーー弟さんって、今の土器町の「中村」の大将ですか。
- 大将
- そうそう。それで、一緒に新聞の販売店をしばらくやっとったんですよ。でも、配達の人手がずーっと足りんでね。それでいろいろ考えとったんだけど、結局、実家で親父がうどんしよるから、弟と一緒に「こっち(大阪)でうどん屋でもせんか?」いう話になって、弟に「お前、飯山に帰って親父にうどんを習うてきてくれ」言うて、弟をいっぺん飯山に帰した。それで弟が親父にうどんを習うて、大阪に帰って来て、なけなしの金を注ぎ込んで、寝屋川でうどん屋を出したんです。
ーーそれが、いつ頃ですか?
- 大将
- ………年は、頭の打ち所が悪かったんか、よう覚えてない(笑)。勘定しといてください。
ーー了解しました。じゃあ、親父さんがうどんを始めたのが昭和45年頃だとしたら、その後なので、だいたい昭和50年前後ということにしときます。それから?
- 大将
- それで寝屋川でうどん屋をやり始めたんですけど、うどんを打てるのは弟だけやから、店はほとんど弟任せでね。けど、その頃は今みたいに讃岐うどんブームじゃないから、近所の人が食べに来るぐらいで、そんなに流行らんですわな。ダシは作ってかけうどんみたいなのを出して、こっちが「これもうまいで」言うて醤油うどんも勧めたらそれもぼつぼつ出始めたんやけど、何せそんなに儲からんから、弟に払う給料もなかなかできんで。
ーー苦労の連続ですね。
- 大将
- そうこうしよるうちに、しょうがなしに弟が「どっかへ仕事探して行くわ」言うて、弟が働きに出ることになった。それで弟が行ったのが、高松の「川福」の大阪の店ですわ。
ーーえ! そんな有名店と「中村」に接点があったとは! でも、弟さんが外に出たら、うどんを打つ人がいなくなる…
- 大将
- そうです。しょうがないから、私が弟からうどんを習うて、何とか格好だけは付けて私がうどん屋を切り盛りすることになった。それが、私がうどんを打ち始めた最初。だから、私のうどんの師匠は弟です(笑)。
ーー何と! 大変な事実が発覚!(笑)
- 大将
- それでもまあ、なかなかうまいこといきませんわな。急に売り上げが伸びるわけでもないから、粉代を払うのにも苦労をして。そのうち、午前中はうどん屋をして、午後からは他の仕事をしに行ったり…そんなんがずーっと続いてね。とにかくお金を稼がないかんから、あっちもこっちも行きました。ようけ稼げた時もあったけど、そうでない時もあってね。まあ、いろいろ思い違いがあるかもしれませんけど、大阪にいる時のことは……あんまりええ思い出がないんですよ(笑)。
大将、大阪から帰って「飯山のなかむら」を継ぐ
ーーじゃあ、大阪の思い出はなかったことにしましょう(笑)。では、大将が飯山に帰ってうどん屋を継ぐことになったあたりの経緯を。
- 大将
- 内輪の話になってしまうんやけど…
ーーあ、言える範囲でいいですよ。というか、この「開業ヒストリー」は基本的に全部、内輪の話ですから(笑)。
- 大将
- 親父のうどん屋もずーっとあんまりようなかったみたいでね、そこに親父が事故で入院して商売ができんようになって、お袋から弟に「帰って来い」いうて電話がかかってきたんです。
ーー弟さんにですか?
- 大将
- 私は以前から親父に「跡継ぎはお前の弟にやってもらうから、お前は帰って来んでええ」言われてましたから(笑)。ところが、弟が「帰らん」言い出してね。そなにしよるうちに、今度は親父の妹から私に「あんた、長男やきん帰ってちゃんとせないかんやろ」いうて電話があって、それでちょっと困っとったんやけど、悪いことは重なるもんで、今度はお袋が転んで動けんようになって、泣きながら「頼むきん帰って来てくれ」いうて言われて、しょうがなしに帰って来たんです。
ーーものすごい内輪の話になってきて、もうこれ以上踏み込んで聞けません(笑)。
- 大将
- それでまあ、お袋が転んで寝たきりになったり、いろいろあって帰って来ることにしたんです。それで帰ってみたら、案の定、もう店は荒れ放題でね。セイロはカビが生えてしもとるし。それを何から何まで全部洗って、店の掃除も片付けも全部やって…
ーーすると、飯山のなかむらのうどんの歴史はその頃、一旦止まってたんですか。
- 大将
- 止まっとった。
ーー大将が帰って来たのは何年ですか?
- 大将
- 帰って来たのは………平成7年やったかな…
ーーそんな最近ですか。いや、平成7年は違うと思う。あの村上春樹さんがエッセイで「飯山の中村(当時は漢字表記)」のことを書いたのが1991年やから、平成3年ですよ。あの時のエッセイの中に「中村父子」いうて書かれてますから、大将はその時、もう店に出てたはずですよ。
- 大将
- 村上春樹さんは私が対応したな。
ーーじゃあ、やっぱり「平成7年に帰って来た」いうのは思い違いですよ。
- 大将
- 平成7年に帰って来たと思いよったんやけどなあ。頭の打ち所が悪かったんですかね…
(そこへ奥さん登場)
- 大将
- ちょっと知恵貸してくれ。年が合わんのや。
- 奥さん
- 何の年ですか?
ーー大将が大阪から帰って来てうどんをし始めたのが平成7年って…
- 奥さん
- 違う違う。昭和57年や。私が結婚して長男が生まれた年に帰って来た。
- 大将
- 57年か。下一桁だけ合うとったか…。
ーーじゃあ、奥さんは大阪で大将と結婚されたんですか。
- 奥さん
- そうです。大阪で、この人が会社の上司やったんですよ。
ーー大将の大阪時代の、また違う仕事が出てきましたが(笑)。何か、悪くない思い出もあったんじゃないですか?(笑)
- 奥さん
- 何年だったか全然覚えてないけどな。式も挙げてないから。婚姻届みたいなのも適当に書いた気がする(笑)。それで、57年の9月に二人で子供を連れて帰って来て、12月からうどん屋を再開したんです。
ーーありがとうございます。ここから聞き取りが俄然、スムーズに進みそうです(笑)。
<昭和57年(1982)~平成2年(1990)頃>
さて、そういうわけで昭和57年に大将が大阪から帰って来て、ようやく二代目大将の「なかむら」がスタートしました。しかし、最初は大将と奥さんが店を仕切っていたのではなかったようです。
細々とした田舎の製麺屋からスタート
ーー大将が店に出始めた最初の頃の様子をお聞かせください。
- 大将
- 最初は、親父と私がうどんをしよりました。
ーー奥さんは店には出てなかったんですか?
- 奥さん
- 私は子供がまだ小さかったから、ここの家にはおったけど、最初の頃は子育てをしてて店には出てなかったです。子供が幼稚園に行きだしてからやから、昭和の終わり頃から店に出始めたと思う。
ーーその頃、1日の仕事はどんなスケジュールでしたか?
- 大将
- 朝、5時頃起きてね、練ったりてんまる作ったりして、9時頃に段取りができて。それから釜に火をつける。それからうどんを茹でてね、午前中に配達に行く。
ーー朝は今よりゆっくりしてたんですね。
- 奥さん
- 小さい商売ですからね。最初の頃は卸先もあんまりなかったから。そのうち、会社の社員食堂のお昼ご飯とかでちょっとずつ増え始めて、サヌキ印刷さんとか中津万象園とかに毎日配達に行き始めた。あとは祭りの前とか農繁期にちょこちょこ注文が入って。
- 大将
- 法事のうどんとか。日曜日になったら丸亀の商店街の日曜市にもうどんを出しとった。
- 奥さん
- 日曜市の時は夜中に起きてうどん作って持って行きよった。それでも、生活はずっと苦しかったですよ。
県下最強の「超セルフ」スタイル!
ーー確かその頃から、店に食べに来るお客さんがいましたよね。僕がタウン誌を始めたのが、なかむらが再開した年と同じ昭和57年なんですけど、58年とか59年あたりに親会社の丸亀営業所の強者がしょっちゅう「4人で中村でひとセイロ(たぶん20数玉)空けた」言うてたのを覚えてるんです。
- 奥さん
- お客さん、来てましたよ。うちはおじいさん(初代)も主人(二代目)も卸しのうどんを作るだけしかしなかったから、お客さんはみんな自分で勝手にセイロからうどん玉を取って食べてましたね。自分で勝手にうどんを食べて、お金も勝手にカンカンに入れて、お釣りも勝手にそこから取っていくという。
ーー「超セルフ」の”伝説の中村”ですね! そのあたりの様子を詳しく教えて下さい。
- 奥さん
- お客さんはセイロのうどんを自分で勝手に取って丼に入れて、温める人は自分でテボで釜の湯につけて温めて、自分で醤油やダシをかけて食べる。今と同じようなやり方やね。今はおらんけど、当時は釜からそのまま釜揚げのうどんを自分で取るお客さんもいましたよ。
ーーセイロの玉じゃなくて、釜からお客さんが直接うどんを取ってたんですか!
- 奥さん
- 取る人がおった。自分でタイミングを見てね。たぶん、うどんは私よりお客さんの方がいろいろよう知っとったんじゃないかな。私が店に出始めた頃なんか、お客さんが私にうどんを上げるタイミングとか教えてくれたから(笑)。
ーーじゃあ、奥さんの師匠はお客さんですか(笑)。
- 奥さん
- そやね(笑)。
ーーダシは最初から置いてたんですか?
- 奥さん
- うちのおじいさんがしてた時は、醤油だけです。昭和57年に主人と私が帰って来てから、ほんの少しだけダシを作るようになった。主人が小さい鍋で1日にほんの2リットルぐらいだけ作って、保温のポットに入れて置いてましたね。
ーーダシは大将が作ってたんですか!
- 奥さん
- そうそう。
ーーネギはどうしてたんですか? 「客が裏の畑でネギを採ってくる」いうのが”中村伝説”の始まりなんですけど。
- 大将
- お客さんが自分で畑のネギを採ってくるいうのは、親父の時代からです。親父がお客さんに「ネギはないの?」って言われて、「裏のネギ畑にあるけん、あんた採ってきて。うちはネギ採りに行く人がおらんのじゃ」いうて言いよった。要するに、手間かけるのが面倒くさかったからやろね。親父の性格いうか、悪いクセや(笑)。私はまあ、そういうのはあんまり好きじゃなかったから、親父と一緒にやり始めてからは、冬場の寒い時に私がネギを採ってきて刻んで店に置きよった時期があったんやけど。
ーー大将がそんなことをされてたんですか。なかむらはずーっと今まで”超セルフ”だから、てっきり大将も面倒くさがりやと思ってました(笑)。
- 奥さん
- それから、卵もお客さんが勝手に取ってきてましたよ。
ーーやっぱり! いや、実はこの「讃岐うどん未来遺産プロジェクト」を知った人からラジオの番組にお便りがあったんですけど、そこに「釜玉は、山越よりも私がなかむらでやり始めた方が早い」という話が書かれてたんです。その人が言うには、なかむらで自分で卵を取ってきて、丼にうどんを2玉入れて、そのうどんの真ん中を自分でへこませてそこに生卵を落として醤油をかけてゆっくり混ぜながら食べてたって。「卵1コにうどん2玉」が一番バランスがいいんだけど、昔のなかむらは丼が小さかったので、そういうやり方しかできなかったそうです。それを他の人が見てみんなが同じようにやり始めたから、「なかむらの釜玉は私が広めたようなものです(笑)」って書いてました。
- 奥さん
- 誰やろ。40年ぐらい来てくれてるお客さんが結構いるんですよ。そういう人の方が私よりずっと「なかむらのうどん」に詳しいから(笑)、たぶんそうだったんでしょうね。
大将、やむにやまれず天ぷらを始める(笑)
ーー天ぷらを店に置き始めたのはいつからなんですか?
- 奥さん
- 私らが帰って来た時には、えび天(練り物の赤いえび天)だけ置いてましたね。おじいさんが毎朝、西森へエビ天を取りに行っとったんですよ。
- 大将
- 店で天ぷらを作り始めたのは、昭和63年(1988)から。
ーー年号、大丈夫ですか?(笑)
- 奥さん
- そんなもんやね(笑)。最初は何だったかな、小エビの天ぷらだったか、チクワの天ぷらだったか。
ーー50万も! 何をやってそんなに稼いでたんですか?
- 大将
- ……………。
ーーあ、大阪時代の思い出はなかったんでしたね(笑)。
- 大将
- まあそれで、5万ではあんまりやる気が出んでね(笑)。
ーーすると、なかむらの「客ほったらかし」の超セルフスタイルは、親父さんは面倒くさがりで、大将はやる気がなかったんですか(笑)。
- 大将
- まあ、そういう一面もなかったとは言えん(笑)。それでも生活せないかんから、親父に「天ぷらやらしてくれ。それで、天ぷらの売り上げは全部私にくれ。私も収入を増やさなやって行けんから」言うたら、「やったらええが」いう話になってね。それでスーパーへいろいろ見に行ったら、小エビの天ぷらや鯛チクワのええのがあったから、それを買うて同じようなのを作ってみたら、順調に売れ出したんです。
ーー実入りがあるとなると、それは力が入りますよね。
- 大将
- まあ、うどんよりは力が入る(笑)。
ーーそれで大将、今も天ぷらを自分で揚げてるんや。
- 大将
- それでもまあ、今思うと、あの頃はよう生きとったと思います。