第一話
なかむら・前編
聞き手・文:田尾和俊
お話:なかむらの二代目大将と奥さん
裏の畑で客がネギを採って、自分で刻んでうどんに載せる。客が自分でセイロからうどん玉を丼に入れて、自分で湯がいて自分でダシをかけて表のブロック塀に座ってうどんを食べて、自分でお金を払ってお釣りを取って帰る…。そのあまりの“ほったらかし”感に驚いた村上春樹がエッセイに取り上げたという「伝説のなかむら」。讃岐うどん巡りブーム勃発の立役者としてあまりに有名なエピソードを持つなかむらうどんは、その前史も発祥も、“間に合わせ感”に満ちあふれた(笑)波瀾万丈の歴史だった。
<昭和17年(1942)~36年(1961)>
戦後の荒廃期、先代の親父さんは水飴屋から砂利採取へ…
ーー大将のお生まれは何年ですか?
- 大将
- 私は昭和17(1942)年に大阪の西淀川で生まれて、小学校の2年生までは愛媛の内子町でおったんです。
ーーん?
- 大将
-
ちょっとややこしいかな(笑)。私の親父はここ(飯山町)の出で、「松永」いう姓でな、戦前には大阪で警察官をしよったんです。「サーベル吊って歩きよった」って言うてましたわ。その親父が大阪でお袋と結婚して、昭和17年に大阪で私が生まれたんです。
お袋は「中村」姓で、愛媛の内子町の出でな、お袋のお父さんは内子の村で村長をしよったらしいんです。そしたら、お袋がお父さんに「跡継ぎがおらんから(内子へ)帰って来い」言われたらしくてな。それで親父とお袋が私を連れて一緒に内子に行ったらしい。その時に、親父が養子という形で中村の家に入って、母方の「中村」の姓になったということやね。まあ、そこら辺の経緯は、私も生まれたてやからよう覚えとらんけど(笑)。それから私が小学校2年まで内子町におって、わしが確か7つの時(昭和24年)に、まあいろいろあって親父の里のこっち(飯山町)に来たんです。
ーーこっちに帰ってきてすぐは、うどん屋ではなかったんですか?
- 大将
- うどん屋はずっと後や。帰って来て最初は、ここらへんの林やったところを買うて、とりあえず木を全部切って平地にしてな。それから食べて行かないかんから、何をしようか言いよったら、親父の妹が「水飴やらんか?」言うて。それで水飴屋をやった。今、みんながうどん食べよる客席のあるところで、水飴を作りよったんです。それで、作った水飴を自転車に積んでいろんな所に売りに行きよったんですけど、親父は何しろ警察の出やから、商売なんて全然知らんから、売っても回収がうまいことできなんだんやろな。売上が上がってもお金がのうて、結局、2年か3年で商売をやめた。
ーーということは、昭和26年か27年頃に水飴屋をやめたと。その次は何をされたんですか?
- 大将
-
土器川の砂利採取をやり始めた。あれは辛かったですなあ、ほんまに。私は小学生やったけど、毎日学校から帰ったら手伝わされよった。土器川を”よつご”(爪が4本付いた鍬のような農機具)でほじくってな、大きな石を除けて”じょうれん”で土ごと掬って、”けんど”に入れてふるいにかけるでしょ。そしたら、上に砂利が残って、下に細かい砂が落ちる。その砂利を売るわけです。ちょうどその頃はあちこちで道路の舗装やらが始まった時期で、砂利の需要が増えてきたもんやから、忙しかったんですよ。
そうこうしよるうちに、途中で坂出の土建屋さんが「一緒にやらんか?」言うてきて、結局、親父はその土建屋と一緒にやることになった。土器川の堤防を上がったところに機械を据えてな、親父はその土建屋から給料をもらうような形になって。それで親父はもう手作業をせんでええようになって、私もしんどい目せんでええようになった(笑)。
ーーそれがいつ頃まで?
- 大将
- 砂利の仕事は、自分で手作業でやっとった時期と土建屋と一緒にやっとったのを合わせて…10年ぐらいやりましたかな。昭和36~37年頃までですか。まあ1年やそこらは違とるかもしらんけど、私が高校卒業したかせんかいう時期やったから、だいたいそこらへんです。それで最後は結局、「金をもらわんとやめた」言うてました。
ーーまたお金の回収ができてない(笑)
- 大将
- そんなんばっかりや、親父は(笑)。まあ、戦後の貧しい時期は、そういうやっつけの商売をして食いつないどった人がようけおったということでしょうな。
<昭和37年(1962)~45年(1970)頃>
さて、讃岐うどん巡りブームのシンボルの一つが、なかむらの「怪しさ大爆発」の店構え。あの小屋は昔「鶏小屋だった」という話がマニアの間で伝わっていますが、実は「鶏の餌置き場」だったそうです。ま、「うどんヒストリー」には重要な情報ではありませんが(笑)。
いよいよ「鶏小屋」の誕生…なかむらの前史はなかなかうどん屋にならないぞ(笑)
ーーで、土建屋の次は何を始められたんですか?
- 大将
- 親父がここら(敷地)を全部、鶏小屋にした。
ーーお! いよいよ「鶏小屋」ですね。うどん屋のヒストリーに「いよいよ鶏小屋」いうのもおかしいけど(笑)、「なかむらの店舗は昔、鶏小屋だった」というのがマニアの間で伝説みたいに広がってるんで。えーと、「なかむらが鶏小屋になったのが昭和37年頃…」と。でも、先代は何で養鶏を始めたんですか?
- 大将
- 親父の妹が「養鶏は儲かるで」言うて、それで始めたみたいです(笑)。
ーーまた妹さんのアドバイスですか(笑)。
- 大将
- 親父の場合はだいたい妹が絡んでくるんです(笑)。それで、鶏がだんだん増えて、多い時は6000羽ぐらいおったん違うかな。
ーーあの小さな小屋の中に6000羽ですか!
- 大将
- そやない。小屋は鶏の餌や道具を入れるところで、ここら辺の敷地全部「ばたり」にして飼いよった。
ーーばたり?
- 大将
- 鶏を一羽ずつ金網みたいなのに入れて、卵を産んだら転がり出て受けるようになっとるのがあるでしょ。それを「ばたり」いうて言いよった。そのばたりを敷地にズラーッと並べて、親父が間伐材と丸太を針金でくくって、骨組みと屋根だけ作ってな。
ーーあれ、「ばたり」言うんですか。ちょっと待ってくださいよ…ネットで調べてみると………うわ、「バタリー(battery)式養鶏場」って書いてありますよ。大将が「ばたり、ばたり」言うから絶対方言やと思ってたら、英語ですよこれ(笑)。
- 大将
- まあ、私もその頃から英語しゃべりよったんですな(笑)。
ーーそれがおそらく昭和40年前後ですね。でも、まだうどん屋にならない。
- 大将
- なりません。
ーーじゃあ、何がきっかけでいつ頃うどん屋になったんですか?
- 大将
- 私が帰って来た時に…
ーーすいません大将、「帰って来た」って、どちらに行かれてたんですか?
- 大将
- 大阪。
ーーいつの間に?
- 大将
- 高校を出てから。
ーー就職されてたんですか。
- 大将
- ええ、まあ。
ーーどんな仕事をされてたんですか?
- 大将
- まあ…あんまり言えたようなもんでは…言うてええかなあ…
ーーあ、言わなくてもいいです(笑)。大阪で何か仕事をしてた…と。何か、落語の「代書屋」みたいになってきましたけど(笑)。
- 大将
- それで時々こっちに帰って来よったんですけど、いつ頃やったかなあ、東京オリンピックの時に帰って来たら親父が鶏をしよって…
ーー昭和39年ですね。
- 大将
- そんなもんですね。それから、昭和40年代になって、42年か43年かそこら辺の時にまた帰って来たら、親父が「鶏がうまいこといかんが…」言うて。鶏が近所の騒音のストレスで卵を産まんようになったらしくて、借金が増え出してね。養鶏の方があかんようになってきたんですよ。それで私が「借金はわしが月賦で払てやるきん、もう鶏小屋やめろ」言うて。親父も「じゃあ、もうそうしようか」いう話になって、鶏小屋をやめたんです。