第三話
竹清・後編
聞き手:メタボ柿原
お話:竹清の大将・竹田啓二さんと、女将の竹田恵美さん
<平成〜現在>
天ぷらの竹清の名声確立から現在のシステムが生まれるまで
ーー平成に入って一度、改装されましたね。あれは何年頃でしたか?
- 女将
- 平成6年よ。800万かけてリニューアルしたん。ちょうどその頃までは、母親もお店にまだ出てもらってたの。その後、平成9年ぐらいまで母親もあれこれお店のことを手伝ってくれてたわ。
ーー天ぷらの注文方法の確立には、いろいろ苦心されましたね。
- 大将
- 順番を間違わんようにというのもあるけど、やはりお客さんとのコミュニケーションを大事にしたいんや。諏訪さんいうおばちゃんが入って、彼女は朗らかな顔して注文聞いてくれるんで始めたんや。やっぱり商売は「寒いね、暑いね」という会話も大事やし。
ーー紙に書いてくれるようになって注文がスムーズになりました。
- 大将
- そうそう。それに、以前はお客さんのリクエストでいろいろなものを揚げてあげよったからね。生から揚げるから時間がかかりよった。紙に書く前は「天ぷら揚がりました」言うたら人がワッと押し寄せて順番がぐちゃぐちゃになってたんやけど、いろいろと改良して今のシステムになったんや。
ーー昔は餅とかワカサギとか、いろいろ揚げてましたね。私はシイタケが大好きでした。
- 大将
- 芋なんか揚げると時間がかかるので、お客さんが「待てん」いうから、今のようにチクワと卵とゲソの三つに絞ったんや。
ーー定休日も今は毎週月曜日だけになって覚えやすくなりました。
- 女将
- もう65歳ぐらいで引退しようと思って、ぼちぼちやってたんやけど、娘と婿がうどん屋を継いでくれるということになって、また元気が出てきたのよ。香保里はうどん屋する気はなかったけど、私の血を引いてるのか、大学を卒業してからまたキッス調理師学校へ入りなおして料理は勉強してたん。コンテストで2回賞を取って、東京の全国大会にも出場したぐらい。
ーーお婿さんは最初からうどん屋を継ぐという約束で結婚されたんですか?
- 大将
- いやいや、最初は全然そんな話はなくて、てっきり継いでくれないものと思ってた。やってくれることになったんで、うどんの打ち方は一通り教えたけど、後はみんな自分のスタイルというかやり方があるのでそれでやったらええと彼に任した。アドバイスはするけどな。
ーー大将のあの円を描くようなスムーズな麺打ちは、ぜひ踏襲して欲しいですね。
- 大将
- そうなんや。打つ時に無駄な力を入れんようにしとるから、腰痛や五十肩どころか、手に豆もできたことがないな。僕は仕事では一度も怪我や故障をしたことはないんや。若い頃、運動がてらに近所のソフトバレーチームに入ってて、半月板損傷をやったことはある。あれは厄年の時やった(笑)。
ーー趣味と言えば、休みの日にお二人でタンデムツーリングに行く話は有名ですね
- 大将
- バイク好きというても、若い時に乗ってて、50歳過ぎてまた乗り始めたリターンライダーや。
ーーBMWの80GSは車高が高いので、大将ぐらいの年齢なら足が届く人少ないですよ。
- 大将
- 一応173cmあります(笑)。あれに乗っていろんなところへ行くのが息抜きでええんや。面白いバイクやし。そしたら女房が「私もバイクに乗る」言うて免許を取りに自動車学校へ行き始めたんや。
ーーそして竹清存続危機の大事件が起こった…(笑)。
- 大将
- いやぁ〜、あれは大変やった。「もう竹清は終わった」と思った。自動車学校で教習中に、アクセルが全開になって塀に激突した言うんや。娘を学校へ送って行って帰る途中に携帯が鳴って…びっくりしたなぁ〜。そのまま病院へ駆けつけた。
- 女将
- もう何カ所も骨折して、死ぬかと思った(笑)。
ーーあの時はひと月半ぐらいお店を閉めたんですよね。
- 女将
- 40日。でも、開けてすぐお客さんが来てくれて嬉しかったわ。再開して即、あんなにたくさん来てくれたんでびっくりした。
- 大将
- あの時でも、娘が店を継ぐ気があったんなら無理して開けたんやけど、当時はそんなそぶりはなかったんで、のんびりしてたんや。
ーー最後に、大将の目指すうどんはどんなうどんなのか聞かせてください。
- 大将
- 僕は、外がもちもち柔らかくて真ん中がしっかりとしたうどんが好きなんや。そういう方向で打っている。最近も少し変えたんや。
- 女将
- 出汁も少し変えたんよ。
- 大将
- よそのうどんもいろいろ食べに行って、流行いうのかな? 時代の変化には合わせて行くようにしているんや。
ーー時代に乗ると言えば、最近はショッピングモールに何軒か出店されてますね。
- 大将
- 2011年秋の倉敷に続いて、2014年の春にイオンモール幕張新都心店に出店しました。それから2015年の11月には万博記念公園「EXPOCITY」に出店して、続いて同じ大阪の堺市に2016年3月にOPENするイオンモール堺鉄砲町にも出店予定です。
ーー岡山のアリオ倉敷店のお店には私もよく行きますが、いつも行列ですね。
- 女将
- 岡山の店の子は若い子ばかりやけど、みんな接客も上手やし、うどん打ちもすぐ覚えた。売り上げも今でも竹清の中でTOPだしね。大阪のお店は外国人のお客さんが多いようなので、なにか外国人のお客さんにも喜んでもらえるようなトッピングとか調味料を考えているところなんよ。
-
竹清うどんは、創業者の竹田清一大将の先見の明で、常に時代の先端を走って来ましたが、そのスピリッツは、現大将と女将さんにも受け継がれているようです。倉敷店にゲソ天とそれを切るハサミが登場した時には驚きましたが、出店先ごとに細かなセッティグをするなど、創業から常にそうやって時流に合わせるのが竹清流と言えるでしょう。
万博会場と言えば昭和45年の大阪万博で、さぬきうどんが世に認められた場所ですから、そこへ45年を経てさぬきうどんが凱旋したのはさぬきうどんの歴史に残る出来事でもあります。さぬきのうどん屋には珍しく、休みをキッチリ取って休日は市場調査を兼ねて二人で全国を漫遊。岡山や東京にも足繁く通って、周辺のうどん屋事情にも精通しているお二人。今後も讃岐うどんの牽引役として、活躍が期待されています。