第一話
竹清・前編
聞き手:メタボ柿原
お話:竹清の大将・竹田啓二さんと、女将の竹田恵美さん
讃岐うどんの名物オプション「半熟卵天」のパイオニア。讃岐うどん界のおしどり夫婦ランキング第2位(1位はまだ見ぬ店に敬意を表して・笑)と評判の竹清の楽しい開業エピソード。
<昭和43年〜57年>
「半熟卵の天ぷら」を世に出したことで有名な竹清うどんは、高松市内で一番最初にセルフの形式を始めたうどん屋だと言われていますが、そのあたりの正確な資料は残っていないのが、なんとも讃岐うどんらしいところ。残念ながら創業者の竹田清一さんは2005年に81歳で亡くなったため、娘さんの現女将と大将に創業当時の様子を聞いてみました。現大将は東かがわ市の大内町の生まれで、うどんは新築祝いでお風呂で食べるか、風邪をひいた時に食べるぐらいと、めったにうどんを食べない環境でしたが、高松へ就職し、塩上町の富田製麺のうどんで開眼。そして竹清へ通うようになり、現在に至ったそうです。
初代がタクシー会社からうどん屋に転進。セルフシステム誕生から揚げたて天ぷらを始めるまで
ーー セルフうどんの発祥は、竹清ではないかと言われてますね。
- 大将
- 僕もはっきりしたことは知らんのやけど、確かに竹清が開業した昭和44年頃は、まだこの周辺の製麺所もお客さんに食べさせるうどん屋形式ではしてなかったし、うちみたいにお客が自分で湯がいて食べよったところもなかったらしい。
- 女将
- うちの父は、私が17歳の時に綾南(現綾川町)からここへ引っ越して来てうどん屋を始めたんよ。父親は元々香川県食糧事務所へ勤めとったんやけど、昭和28年に食糧事務所を退職して29歳で「綾南タクシー」を開業してね。タクシーは儲かったらしいけど、15年ぐらいして突然、今度はうどん屋を始めるいうて、ここへ出てきたわけよ。
ーー お父さんはうどん打ちが得意やったんですか?
- 女将
- うちの父は、自分でうどんは打てんかったんやけど、知り合いに「栗熊の名人」と呼ばれる人がいて、その人に教えてもろたらしい。もっとも、習うたいうても1週間ぐらいだったらしいですけど(笑)。
- 大将
- 頭が良くて勘の良い人やったからね。なんでもすぐ出来よった。高松に出てくる時には、丸亀町とここ(亀岡町)と2カ所候補があって、迷ったけど下の娘さんが小学生だったんで「亀岡小学校がええやろう」いうてここに決めたらしい。「商売をするには北向きがええ」というのもあったそうや。「南向きやったら商品が日に焼けるからいかんのや」と言うとった。
- 女将
- 当時、1千万円のキャッシュでここの土地と建物を買うたんやけど、売主は銀行に行っきょる人やったのに、手が震えて1千万の札束がなかなか読めずに何度も読み直したらしい(笑)。当時は木造の二世帯住宅やって、入口に一台だけ車が入る駐車場があって、その横が店で、店の真ん中に大きな釜を置いとったんよ。お店は15坪ぐらいだったと思うわ。当時からセルフで、今とおんなじで北から入って時計周りに並んで玉をもらって自分で湯がいて出汁入れて、店内のぐるりがカウンターだったんでお客さんはそこで食べてた。
- 大将
- 親父さんは、大阪かどこかでセルフの商売を見てヒントを得たらしい。かな泉さんも似たような形態でうどん屋をやってたそうや。開業当時から千人ぐらいお客さんが来よったらしいから、とても間に合わんので、親父は朝から大量に茹でて蒸篭に並べてた。どんぶりに入れる時は、うどん玉に箸を突き刺してひょいと…(笑)。
- 女将
- 今はもうほとんど見かけんようになぅたけど、風呂釜ぐらいある大羽釜でうどんを茹でてたんよ。お客さんは客席側の鍋で湯がいてたわ。
ーー なるほど、今とほとんど同じシステムが当時から確立してたわけですね。
- 女将
- その頃は仕入れた天ぷらを売ってたんよ。天ぷらいうても練り物で、長天と丸天。海老のかき揚げとコロッケも仕入れて売っていたわ。それから何年か経って、近所でもセルフのお店が出来てきたんで、そしたらウチは天ぷら揚げようかと思って店頭に「天ぷら屋台」を作ったん。ちょうどその頃、うちが今のビルに建て替えるために一年間休業したんよ。それで一時的にお客さんが減ってしまったこともあって、目玉サービスというわけで天ぷらを店(屋台)で揚げ始めた。そしたら「国道やから歩道の使用はいかん」言われて、屋台は毎日、朝出しては夜入れてた。
ーー その頃から天ぷらは女将さんが揚げてたんですか?
- 女将
-
そうよ。私は料理が好きで、キッス調理師学校(※1)の3期生なんよ。お店に入ってからも、いろいろ研究しながら天ぷらや出汁を担当してきた。
※1 高松市内にある老舗調理師学校(旧北川料理学校) - 大将
- うちは「ウォーターフライヤー」いう、水と油の比重の違いを利用してフライヤーの上側が油で下半部が水の最先端のフライヤーを導入したんや。店のすぐ近所にウォーターフライヤーの代理店があって、その当時、すでに庵治の「黒乃屋」さんが導入してて調子が良いと勧めてくれたんで、うちも入れたんや。天ぷらのカスが下に落ちるやろ。そしたら油はそのままで水だけ抜いたら掃除ができるから、油は継ぎ足しだけで十分なんや。
ーー 手水を振って衣を付ける独特な作業は大変な重労働ですね。
- 女将
- やっぱりお客さんに美味しい天ぷらを食べてもらいたいから、ああいうスタイルになったんよ。最初は腕の付け根が疼いて眠れなかったけど、いろいろ工夫してだいぶよくなった。でも毎日はできんわ(笑)。
ーー うどんの方も最初から機械を入れてたんですか?
- 大将
- いいや、最初はおやっさんが全部手でやってたらしい。開業してから数年して、福井さん(福井工作所)の機械を入れたそうや。
ーー そしてお二人が出会って竹清の新時代の幕開けですね。
- 女将
- いやいや、その前に一度、うちの父はうどん屋を引退したことがあるんよ。私がうどん屋を継ぐつもりはなかったので、父はお店を一旦、人に貸して引退したん。 そしたらその人では上手くいかなくて、お客さんが激減してしまったの。それで4年ぐらい経って、最後にもうどうにも行かなくなって、父がまた大将にカムバックしたわけ。もう父は60歳近くになってたから老体に鞭打ってね。それが昭和56年ぐらい。私も店の2階で「たんぽぽ」というお好み焼き屋をやったりしながらお店を手伝っていたんだけど、啓ちゃん(現大将)と知り合ってこうなったんよ。
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