第二話
山越うどん・中編
聞き手・文:田尾和俊
お話:山越の二代目大将、奥さん
<昭和40年代>
昭和40年に飲食店をやめ、「うどんの製造卸」一本のスタイルに切り替える
ーー 昭和40年に「うどんの製造卸専門にした」のは、どういう経緯だったんですか?
- 大将
- 親父が病気になってな、ここ(奥さん)のお母さんが店を仕切らないかんようになったんじゃけど、お母さんが「もうお酒を出す仕事は嫌や」言うてな。
- 奥さん
- その頃の酒飲みって、ツケが多くて、しょっちゅう「面倒な集金に行かないかん」とか言うてブツブツ言いよったんよ。お店でも酒飲みの振る舞いとかが嫌やったんやろな。
- 大将
- それで、私らもこれからのことをいろいろ考えた末に「うどん一本にするか」という話になった。
- 奥さん
- その頃はうどんの卸先も食料品店とかよろず屋さんみたいなところが20〜30軒あったけん、それなりに忙しかったんよ。だからそれを中心に、うどんの製造と卸しでやっていこうと決めた。40年に結婚してすぐにこっちの家を建てて、ここでうどんを作るようになってからは母屋(飲食の店をやっていたところ)は一切使わんようになった。
ーー では、製麺業スタートの頃のお話を。最初の設備や道具はどういうものだったんですか?
- 奥さん
- 茹で釜は、じいちゃんが持っとったのをそのまま使いよったな。
- 大将
- 普通の五右衛門釜じゃな。それをバーナーで焚きよったんじゃけど、素人工事でいろいろやっとったもんやから、バーナーの調子が悪うてな、ちょいちょいドーン! いうて爆発するんじゃ(笑)。ほいでドーン! いうたら釜がこのぐらい浮き上がってな、ススがバアーッと飛ぶんよ。
- 奥さん
- ドーン! いう音がしたら急いで見に行って、「お父さん、まゆげ焼けとるよ!」って言うたこと覚えとるわ(笑)。
- 大将
- それで2へんか3べん、釜をつき直したな(笑)。
あの二代目の「輝く麺」は、試行錯誤と苦労の連続で始まった
ーー 大将は誰にうどん作りを習ったんですか?
- 大将
- 私は親父に習うた。というか、小さい時からうどんを踏まされたり手伝わされよったから、自然に覚えたようなもんかな。親父がうどんを捏ねたり延ばしたり切ったりしとるのを横目で見よって、お茶の葉を入れる丸い筒で真似したりしよるうちに回し打ちやらができるようになってな。そやから、自分で製麺をやり始めても、何とかうどんの作り方はわかっとった。ところが、やり始めたら最初はなかなかうまいこといかんでな。ただ延ばして薄くするだけだったら形はできるけど、ていねいにしっかり均等に延ばすには、やっぱり腕がいるから、最初は端が破れたり真ん中に穴が空いたり(笑)。
- 奥さん
- 一回、年末にボロボロのうどんができた時があって、買うて帰ったお客さんに「おいしくない」言うて返されたことがあるんよ。あの時はつらかったなあ。
- 大将
- やり始めて最初の年やったかな。あれは覚えとるけど、失敗したのはわかっとったんや。粉をトタン屋根の湿気の多いところに置いとったら、フタを開けたら上の方が水分を吸うてセメントを張ったように固まってしもとってな。ところが、他に粉がないからそれを使わなしょうがないようになって、上の方の固まっとるのを剥がしてその下の粉を使うて作ったら、うどんの形にはなったけどやっぱり全然いかんかった。
- 奥さん
- 最初はそんなのわからんから、今思ったら、まあおかしなことをようけしよったなあ。昔の家のデコボコの土の庭でおうどんの生地を踏んだり、作業場ができても周りはトタンで囲ってるだけやし、屋根もトタンやけど隙間があったんやろな、大雨になったら雨が漏ってきて、あわててカッパ着て仕事しよった(笑)。もう、今思ったらおかしいわ(笑)。
- 大将
- 今ではあり得んわな。それこそ保健所が来たら怒られる(笑)。
- 奥さん
- でも、雨が降る日には来られたことはないよ。
ーー いや、そういう問題じゃなくて(笑)。
- 大将
- まあとにかく最初は知恵がなくて、いろんな失敗しよったなあ。練り機に一袋入れて練った大きな生地を、小分けにせんとそのまま踏んでいきよったら、しまいに一人の体重ではじょんならんようになってな。2〜3回踏んで畳んでしよったら、もう全然ひしげんようになって。それで家内を背中に背負うて踏んでみたりしよったこともある(笑)。
ーー え! 奥さんを背負って!
- 奥さん
- そうです。今より細かったんです! 今は余りすぎとるけど(笑)。それで、人が来たらあわててパッと主人の背中から下りて隠れよった(笑)。ああ、負われて踏みよるところを田尾さんに見せたかったなあ(笑)。
ーー いや、いいです(笑)。
- 大将
- まあ、そいなこいなあってな、いろいろ学習していったんや。小分けにして踏むとか、「湿気は粉にこういうふうに影響する」とか。練り加減も、親父から「人間の耳たぶの硬さじゃ」いうのだけは聞いとったけど、それも漠然とした話でな。実際にいろいろやりながら、塩加減で固さがこういうふうに変わってくるとか、夏と冬では生地の延び方がこれぐらい変わってくるとか、熟成の速さがこれぐらい違ってくるとか、その頃にものすごく研究したな。
- 奥さん
- 昔は生地をゴザで包んで踏みよったけど、うどんの中にゴザの目が入ったりするから何とかならんかと思って、大きなビニールを買いに行ってビニールで包んで踏み始めたり、靴下で踏んでたら靴下が粉まみれになって困るから、いろいろ考えてバレエシューズみたいなのをはいて踏み始めたり、いろんなことをしてたなあ。
玉売りの初期は1日200玉を売りかねていた…
ーー 40年代最初の玉売りだけをしていた頃、一日の仕事の段取りはどういう感じだったんですか?
- 大将
- 朝は5時ぐらいに起きて、練り込みから始めて、踏んで延ばして切ってな。奥さんとお母さんの2人が釜場の担当で茹でて玉を取ってもろて、9時半か10時頃から私が配達に出るんや。
- 奥さん
- それがだいたい昼の12時ぐらいまでな。
- 大将
- それで一休みして、午後からまた注文を聞くんや。よう売れる店に電話をしたらたいてい追加注文があってな、なんぼいる言うたらその分を昼から作って、それをまた配達に行く。だいたいそういう日課やったな。
ーー 1日に何玉くらい作ってたんですか?
- 大将
- 玉売りを始めた当初は、200玉も作ったら売り切りかねたぐらいやった。お客さんを一軒一軒開拓せないかん状態やったからな。最初2〜3年は二人で車で山の中の家に一軒一軒売りに行きよった。この辺は田舎やから、家が一軒一軒飛び飛びにあるんよ。それで初めての家に飛び込みで行って、家の人がおったら「うどんいらんかな」言うて回りよったなあ。
- 奥さん
- 山の中を走り回ってなあ。家を見つけて、「ここはおる」と思って行った時に家の人がおらんかったら、辛かったなあ。
- 大将
- それでも売らんかったらいかんから何べんも何べんも行きよったら、だんだん知ってくれるようになって、向こうから「次はいつ頃来るんな?」いうて言うてくれたりするようになって。
- 奥さん
- それでだんだん名前を知ってもらえるようになってな。そのうち、お母さんが食料品店なんかの卸しの契約みたいなのを取ってきてくれて、だんだん売りに行かんでもええようになってきたんよ。
食料品店等への卸しが増え始める
ーー お店への卸しは、どんなところへ行っていたんですか?
- 奥さん
- たいていは野菜とか果物とかを売っとる普通の食料品店だったな。
- 大将
- 日用品も売っとる食料品店や雑貨屋がほとんどやな。お母さんが方々へ行って営業してくれてな。文房具屋みたいな店にもうどんを置いてもらいよった。この辺には食堂がほとんどなかったから、食堂に卸すいうのはあんまりなかった。
- 奥さん
- もう忘れてしもたなあ(笑)。参川さん、岡本、小林、勝浦…この辺は全部、日用品や雑貨も売ってる食料品店な。20軒ぐらいあったと思う。多い時は30軒も40軒もあったけど、マルナカやマルヨシができ始めてからほとんどやめてしもた。あと、食堂は細川さんぐらいだったかな。
- 大将
- 松上(まつうえ)いうお好み焼き屋があった。もう今しよらんけどの。焼きうどんを出しよったんかの。それから藤本のおばさんとこもお好み焼き屋やったやろ。そこへも玉を卸しよった。あとは、病院の食堂とか学校の給食に玉を卸すのが特別にあった。
ーー 当時の卸先で覚えている店があったら教えて下さい。
ーー いろんなところでよく聞くんですけど、農家の人が製麺所に小麦を預けてうどんと物々交換するみたいなのはあったんですか?
- 大将
- あったな。こっちの農家は小麦を製麺所でなくて農協に預けとってな。農協は預かった小麦を久保田製粉で挽いて小麦粉にしてもらうわけや。それで、農家の人はうどんがいる時に、うちに言うてくる。例えば「40玉作ってくれ」言うてくると、うちは農協に40玉分の粉をもらいに行って、それでうどんを40玉作って農家の人に渡す。その時に「工賃」をもらうわけや。
ーー 農家の人は小麦は農協へ持って行って、うどんは製麺所からもらうんですか。
- 大将
- そうや。たぶん農協で農家の人がそれぞれ預けた小麦と使うた小麦の量を差し引きしながら管理しよったんやろな。それがだんだん農家で小麦を作らんようになって(たぶん、昭和40年代に天候不順で県産小麦が壊滅してオーストラリア産に切り替わった時期だと思われる)、農家の人が直接うちにうどん玉を買いに来るようになった。
- 奥さん
- それで、うちは製粉会社から直接粉を買うようになって行ったんよ。今みたいに「この粉でなかったらいかん」とかいうこだわりなんか全然なかった時代やから、結構、色の黒ずんだ小麦粉が来よったよ(笑)。
昭和50年初頭までは生活が苦しかった…
ーー それが昭和40年代前半。
- 大将
- そうやなあ。それでだんだん作る量も増えて、40年代の後半は1日に500玉ぐらいになっとったかなあ。卸す店の数がピークになった頃は900玉ぐらいはするようになった。
- 奥さん
- 年末はえらかったなあ。28日から大晦日まで何日も寝んと、ぶっ通しで仕事しよった。そばも作りよったけんな。
ーー じゃあ、40年代の後半は、生活はだいぶ楽になってきたんですか。
- 奥さん
- 全然。すごく苦しかった。卸しは値段が安いから、どんだけしんどい目をしてもあんまり儲けがない。
- 大将
- 1玉5円の時代やからな。500売れても1日に2500円やろ? そういう商売だったんよ。
- 奥さん
- その頃はいつも、「歳が若うてこんなにしんどいのに、歳とったらどうなるんやろ…」って思いながら仕事しよったのを覚えとるわ(笑)。昭和43年と45年に子供が生まれて、とにかく子供が小学校くらいまで、昭和50年代の最初の頃までは苦しかったなあ。40年代に機械を入れるようになって、そのローンまでのしかかってきてなあ。
手切りでスタート、そして、昭和44〜45年頃から少しずつ機械化が始まる
機械の話が出てきましたが、昭和40年代は香川県全域で、讃岐うどんの製法が手作業から機械化へと大きく移行し始めた時期のようです。ところが、機械化の波は製麺屋さんの合理化策から始まったのかと思いきや、保健所の衛生指導が大きな原因だったとのことで…
ーー 最初は手切りだったんですか?
- 大将
- 最初は手切りでやっとった。生地を延ばして畳んだのにあて木を当てて、そばを切るような手切りで切りよった。まあ、そんなにようけ作りよらんから、それで十分間に合いよったんや。ところが、そないしよるうちに保健所が「手作業は衛生面でようないからいかん、機械化せえ」いうてやかまし言うて来始めたんや。特に40年代の最初の頃に来よった保健所の人はえらい強硬な人でな(笑)、何回も何回も来ては「あれはいかん、これはいかん」いうてだいぶ言われた。
- 奥さん
- まあ確かに、今から見たら言われてもしょうがないとは思うわ。年末になったら親戚の人が手伝うてくれよったんやけど、「よっしゃ、やるか」言うて手にペッペッとしたりして(笑)。今考えたら、あれはいかんわな(笑)。
- 大将
- 手伝いや雇うとる人でも、そんなん全然気にせん年寄りがおったり、汗かきの人もおって作業しながら手で汗を拭いたり、麺を切りよっても汗が落ちよったん違うかな(笑)。まあそういう時代やったんやろけど、あんなん見たら保健所に言われるのも「なるほどな」と思うわ(笑)。それで、昭和45年前後に機械を入れ始めたんや。
ーー 何の機械を入れたんですか?
- 大将
- 保健所に「手切りがいかん」言われたから、最初は切り機を入れた。今とよく似た、いっぺんでサーッと切れて出てくる形の切り機やな。
ーー あちこちで「昔は下の台が動く麺切り機を使ってた」という話を聞くんですが…。
- 大将
- 上の包丁が動くのは知っとるけど、下の台が動くいうのは知らんなあ。うちは最初から切れて出てくる切り機を入れたわ。その次は、練り機だったかな。ローラー式の、藁繰り機みたいな練り機を入れて、それからミキサーを入れたのも割と早かったと思う。一番あとから入れたのが延ばし機だったかな。
- 奥さん
- 方々へいろいろ見に行ったなあ。こっち(綾上)の方は機械を入れとるところが全然なかったから、丸亀やら高松やらのうどん屋さんまで見に行った。それからだんだんいろんな機械が出始めて。何かロボットみたいな踏み機もあったよ。
- 大将
- そうそう、ダンゴを踏むロボット。何かこう、丸いダンゴにしとるのを上からくるっと回って押さえつけて、餅をつくみたいにパーン、パーンいうて機械が踏むんやけど、時間がかかってしょうがなかった(笑)。
ーー 昭和40年代に足踏み禁止うんぬんで出てきた「足踏みロボット」ですか?
- 奥さん
- それかもしれん。そのロボットをどこかから貸してくれたんやけど、あんまりおいしいうどんができなんだな(笑)。
ーー すると、昭和40年代はうどん作りの機械化の時代だったと。
- 奥さん
- そうやなあ。機械が入って衛生的には良うなって仕事も楽になったけど、ローンが苦しくなった時代かな(笑)。
- 大将
- 福井製作所で練り機を買うたら20万か30万したんや。それを月に1万円ずつの支払いにしてくれて、毎月払いに行きよったのを覚えとるなあ。
綾歌郡綾川町
山越うどん
やまごえうどん
〒761-2207
綾歌郡綾川町羽床上602-2
開業日 1941年7月
営業中
現在の形態 製麺所
(2015年7月現在)