第三話
はなや食堂・後編
お話:はなや食堂の女将さん(昭和12年生まれ)
<昭和50年頃〜平成>
「食堂のうどん」から「自家製麺のうどん店」に
ーー 女将さんが店に出始めた頃、うどんはどうしてたんですか?
- 女将
- 製麺屋さんから茹でうどんの玉を仕入れて、店ではそれを湯がいてダシをかけて出しよった。舅がおった時は、朝、うどんを打ってから仕事に行きよったから、自分とこで作ったうどんを出しよったけど、舅が亡くなってからは一時、玉を仕入れよったんよ。まあ店でそんなにようけうどんが出よったわけでもないから、大した数ではなかったけど。
仕入れ先は、善通寺に「中村」とか「松原」とかの製麺所が2軒も3軒もあったからな。それで玉を仕入れて店でうどんにして出しよった。近くにあった丸善織物の工場から昼ご飯に食べに来てくれよったけど、昼が来とんのに製麺所からうどんが届かんで困ったことも何回かあったわ(笑)。
あとは、うどんや丼物を岩間黒板さんとかに出前にも行きよったな。あの頃はまだ若かったから、店も配達も全部一人でしよったきんな。その頃は、この辺にうどん屋だけで7軒はあったで。さつき、三日月、ひさご、あたらし屋、四国屋、今ある四国屋とは違うで…あと、全部は思い出せんけど、もうほとんどなくなったな。
ーー 今は店でうどんを打っていますが、いつ頃打ち始めたんですか。
- 女将
- 昭和57年や。最初は私の弟がさっきの丸亀製麺へ行きよったから、今の全国でナニしよる丸亀製麺と違うで、お父さんらが作った昔から丸亀でしよる製麺屋の丸亀製麺な。その丸亀製麺から生地を延ばして切ったうどんを持って来てくれよった。生麺の麺線になったやつをな。それをうちの店で釜に入れて茹でてうどんにして売りよったんや。
それが、持って来てくれた麺線が細かったり太かったり、柔らかかったり何か節があったり縮れとったりしてな、なかなか私の気にいらんのよ。何せ、私は親がきれいなうどんを作りよるのを見て育っとるからな。それで「太いわ、細いわ」いうて文句ばっかり言いよったんやけど(笑)、そなにしよるうちに、ある日、家の屋根を直しよったら、たまたま通りかかった大和(製作所)のセールスの人がそれを見て入ってきてな、「麺機を入れんか?」言うて勧めてきて。それで最初の機械を入れたんや。機械を入れたらもう、本格的にせないかんから、それから自分でうどんを作り始めたん。それが昭和57年。
1990年代中盤までは平穏に、90年代後半にブームが来てから一気に賑やかに
ーー それからブームが来るまでは特に何も変わりなく?
- 女将
- そやな。あんまり変わってないな。まあ古い建物やから、店の天井とか壁は何回かやり変えたけど。梁が腐って屋根が落ちそうになっとったんよ。壁を直す時に大工が梁を途中で切っとんやがな。ほな瓦が重いから、天井の蛍光灯の継ぎ目のところが口を開けてきて。ほいで、お客さんが食べよるところに上から落ちてきてケガでもしたらえらいことになるわ言うて、天井を直したんや。
あとは見ての通り、昔の古いままのもんがようけ残っとるで。店の中のレイアウトはだいぶ変えたけどな。昔は2畳ぐらいのちょっと一服するところがあったり、おかずや飲み物を入れたガラスケースや何やであちこち仕切ったりしとったけど。一番大きいケースは明治かもっと前のもんかも知らんけど、えらい凝っとったで。今、あんなん作ったらものすごく高いやろと思うけど、後にそれを半分に切ってしもて、そこの物入れにしてしもとる(笑)。
ーー その間に、足踏み禁止騒動とか、渇水とか、県産小麦からオーストラリア産小麦に変わったとか、いろいろありましたけど、どんな影響がありましたか?
- 女将
- うちは特に何もなかったな。足踏み禁止いうのはよそから聞いたことはあるけど、保健所いうのは私らにはようわからんとこがあってな。「足で踏んだらいかん」とは言わんと、「足で踏むところを人に見られんようにせえ」と言われて、足踏み場に戸を付けさせられたうどん屋はあったらしい。うちは足踏みがどうのこうのは何も言うて来なんだけど、保健所が来る言うたら、もう店の中を掃除して掃除して、きれいにしよったのは覚えとるわ(笑)。昭和40年代やな。
渇水は大きなのはいつな? 1994年な。渇水の時も、うちは井戸があるきに困ったことは全然なかったわ。ありがたいことに、うちの井戸はよそが干上がっても全然干上がらんし、またおいしい水が出るんやがな。あとは何? 県産小麦がオーストラリア産に変わった頃(昭和40年代)も、別に何があったいうことはないな。けど、オーストラリア産のは今もずっと続いとるいうことは、割とよかったんやろな。2000年になって、県から「さぬきの夢」の粉を送ってきて「これでうどんを作ってくれ」言われたけど、あれはうどんにしてから時間が持たんがな。よう流行っとる店で、打っちょる端からどんどんお客さんが食べるようなところだったら行けるんやろけど、茹でて玉にして置いてからが持たん。腰がないし、すぐにやりこう(柔らかく)なるから、うちは使わん。
ーー じゃあ、1990年代までは、特に何も目立った動きはなかったという感じですね。
- 女将
- そうやな。様子が変わってきたのは1990年代の終わり頃かな。田尾さんが本を書いて、雑誌やテレビが来てくれだしてから明らかに客筋が違てきたわな。若い子が増えて来た。「テレビ見たで」とか言うてくれるしな。店は昔のままのこんなとこやけど、県外から来てくれるお客さんらは「それがおもっしょい(おもしろい)」言うてくれて、まあ賑やかになったわ。
こななうどん屋やきん、家が建つほどは儲からんけど(笑)、昔に比べたらなあ。親の時代には、お金がないきにおかずが作れんで、味噌やたくあんでご飯食べて「辛抱してでもお金残さないかんのや」言うてな。そんなのを思い出したら、ほんまにようなったと思うわ。そやけど、私らは何かうどんに縁があるんかなあ。私と妹の間の兄弟は今、徳島で「丸亀」いう大きなうどん屋しよるんよ。昔は「うどんは嫌いじゃ」言いよったのに、ほんまにわからんもんじゃ(笑)。
善通寺市
はなや食堂
はなやしょくどう
〒765-0031
善通寺市金蔵寺町838-2
開業日 明治中期頃
営業中
現在の形態 一般店
(2015年7月現在)