家族をもてなすためのうどん作り
- 小さい頃(昭和20年代)に家でうどんを作っていましたか?
- 家で作っていた記憶も食べた記憶もほとんどありません。ただ、大人になってから(昭和40年頃)私たち兄弟の家族が実家に集まった時に、父がうどんを生地から作っていました。それを考えると、私が子どもの頃にも父がうどんを作っていたのかも知れません。
- お父さんは何かの節目の際にうどんを作っていたのですか?
- いえいえ。孫になる子どもたちを単に喜ばせようとして作っていただけです。「この日には必ずうどんを作って食べていた」ということはありませんでしたね。
- お父さんはどちらのご出身でしたか?
- お父さんはどちらのご出身でしたか?
高松市の川島です。お酢屋の次男でした。多分、父は祖父からうどん作りを教えてもらったんだと思います。
生地を足踏みする際は、ビニールで覆っていても靴下を履き替える
- お父さんはどのようにうどんを作っていましたか?
- 作り方や細かい作業についてはあまり記憶がありません。ただ生地を足踏みする時に、靴下を履き替えていたのが妙に印象に残っています。生地にはビニールが掛けられていたので履き替える必要はなかったと思いますが、そんな不思議が強い記憶になったのでしょうか。
- 作ったうどんはどのようにして食べていましたか?
- 釜揚げか湯だめです。小さい器に入ったつゆに付けて食べていました。つゆは鰹や煮干し、醤油、みりんなどを使って母が作っていましたよ。
- うどんと一緒に何か食べていましたか?
- 他には何もありません。基本的にうどんだけでした。
40年前にスペインでうどんを振る舞った
- お父さんのうどん作りのエピソードで他に何かありますか?
- 約40年ほど前(1975年頃)に、スペインのマドリードまで父がうどんを作りに行きましたよ。自前の麵打ち棒や材料も持って行って(笑)。
- なぜスペインまで?
- ちょうどその頃、妹夫婦がスペインで暮らしていました。彼らに食べさせてあげようと奮起したようです。父が現地でうどんを作る時は、日本大使館のスタッフなども招待したと聞きました(笑)。
- さながらうどんパーティですね。
- 家族を含め、父は大切な人へのおもてなしの表現としてうどんを作っていたんでしょうね。
当時の高松高校の学食メニューは、かけうどんと金時豆の天ぷら
- それでは、ご自身のうどん原体験の記憶といいますと?
- 通っていた高松高校で食べたうどんです。昭和35年前後(1960年頃)のことですね。
- どんなうどんが食べられましたか?
- かけうどんです。学食で食べられましたが、メニューはかけうどんとトッピングの金時豆の天ぷらぐらいしかなかったですね。学食はセルフではなく、注文するとおばちゃんが用意してくれました。ただ、うどんの麺も天ぷらも学校では作っていなかったと思います。値段はうどんが一杯15円、金時豆の天ぷらが5円だったでしょうか。
- うどんと金時豆の天ぷらは別々の器に入って出てきたのですか?
- 同じ丼に入っていて、うどんの上に天ぷらがのっていました。ダシも天ぷらの上から注がれていましたね。
営業時間が長かった学食
- 学食でうどんをよく食べましたか?
- はい。一日に2度利用することもありました。11時前後の休み時間に早めの昼御飯として急いで食べて、次は部活が始まる前にまた食べて(笑)。
- 学食はお昼だけ開いているのではなかったのですね。
- 夕方頃まで開いていました。便利な存在でしたね。とても美味しいメニューだったとは言えませんが、今でも金時豆の天ぷらがふと食べたくなります。