- 「松本車」は、いつごろ創業したのですか?
- 水車は天保年間に土地の富豪、岡内氏が設置していたらしい。私どもは、明治29年生まれの父、松本藤太(とうた)が大正8年にここに移ってきて岡内氏から引き継いで水車を始めた。およそ300メートル上流の本津川の山内橋のたもとの堰から家まで水を引き込んで水車を回していた。地名から「新名車(しんみょうくるま)」、はたまた名前から「松本車」とも呼ばれていた。昭和7年生まれの私は、小学生のころから水車の手伝いをやらされて、それが嫌で嫌で仕方なかった。昭和7年生まれと言えば、小学校3年の12月8日に戦争が始まり、中学校1年の盆に終戦を迎えた大変な世代だ。同窓会や修学旅行もしたことがない。戦後の昭和20年ごろは水車が香川県内のいたるところにあった。農家ならどの家でも米の裏作に麦や小麦を作っていた。米だけでは食うていけん時代だったから。お蔭で、ぜいたくなおかずはないけど、米や麦だけは腹いっぱい食べるのが習性になっていた。うどんも、せいろごとというのは話が大きいにしても3玉くらいは誰でも食べていた。
- どれくらいの大きさの水車があったのですか?
- 松本さんから、水車のことをまとめた本があることを聞いた。さっそく国分寺の図書館で検索すると、その本が見つかった。峠の会が編集した「讃岐の水車」(昭和63年発行)によると、新名車は、丈六尺(直径16尺=約4メートル80センチ)の胸掛水車があった。水路長300メートル、幅1メートル、高さ1メートル、水車小屋は40坪で、精米、製粉、うどん製造を営み、福家新名などの約250軒が利用していた。年間稼働日数は360日とあるから、ほとんど休みはなかったようだ。同書によると、廃止は昭和30年となっている。水車にもいろいろあるが、標準的なものは、上部から樋で水を落とす上掛車、水車の中心付近に水を受ける胸掛車、落差のない場所で使われた下掛け車(押し車)の3種類で、うちは胸掛車だった。この辺では一番多い形式だった。
水車の隆盛
昭和30年に本津川に大水が出て水車が破損してから電動に切り替えた。ちょうど私が父を継いでやり始めたころだ。私は、雨が降って大水が出ると夜でも早朝でも対応しなければならない水車仕事のきつさが嫌で、家業として電気の配線工事を手掛けていたので、いつしか「松本電水」とも呼ばれるようになった。
動力は自然の水力に比べると、仕事はうんと楽だった。そのかわり、昭和30年ごろから小麦を作る人が減って製粉の仕事が少なくなってきた。雨が多すぎて小麦が腐ってしまうから、だんだん作らんようになってきた。作らんというより、作れんという状況だった。水車も時代とともに役目を終え、廃業する家が増えてきた。
- 水車の仕事が一番忙しかったのはいつごろのことですか?
祭りや法事や正月の様子はいかがでしたか? - 戦争が始まる前の昭和10年代や戦後しばらくは小麦を作る家が多く、水車もフル稼働していた。正月や祭りになると家々でうどんやごちそうを作るので、粉屋は忙しかった。夜も寝んようにせないかんかった。クリスマスに菓子屋が忙しいのと同じで、しかたないことやけど。
- 国分寺にはほかにどんな水車がありましたか? いつごろまでですか?
- 本津川沿いの福家や新名に、相生水車、綾田車、津川水車、万燈車と、うちの新名車があった。本津川水系以外では、五色台の国分台の下の神崎池の上流に水谷さんという水車もあった。綾田車、津川水車、新名車は江戸時代からあったらしい。いずれも昭和30年前後に廃業しているが、水害で小麦が腐り、耕作できないようになったのが原因かもしれない。でも、うちはまだ廃業はしていませんよ。精米や製粉は自分ところの分くらいだが、今も動力で動かしている。だから、「新名車」「松本車」「松本電水」の名前は全部残っています。
- みなさん、どんなうどんを食べていたのですか? 自分で打っていたのですか?
- 水車で引いた小麦粉を持ち帰って自分の家でうどんを打つ人が多かった。男の人はたいがいうどんを打つことができた。正月やお祭りには、湯がいたうどんもいっぱい作るけど、普段は練ったうどんをそのまま鍋に入れる「打ち込み」が多かった。米がなくてもありあわせの野菜で腹いっぱい食べられるごちそうだった。忙しい人は私どもが作って売っていた「機械うどん」、いわゆる生麺を買って帰って湯がいて食べていた。乾麺もあった。
- 本津川の水量は今と比べていかがでしたか?
- 水量は昔より今の方が多いな。高松空港が香南にできて、あっちの方の水も本津川にだいぶ流れてくるようになったからやろ。けど、これくらいの水量では到底水車は回せない。どこの水車も堰を築いて水路で水を引き込んでいた。
話は変わるけどな、こんな川でも大水が出ると怖いんで。昭和30年の大水には水車がやられたけど、平成16年の水害は私が覚えとる限りでは最大やった。土手の上に立っても、私の胸くらいの高さまで水が来たけんな。ここから下流の国道11号あたりまでの家はようけ床上浸水したんや。災害はある程度周期的に来るようになっとる。南海地震にしてもその巡り合わせやと思うわ。
うちの水車は、水路がそのままの形で残っている。今は草ぼうぼうやけど。めんどい(難しい)所有権の問題もあるから、自分の敷地にしている。全部で4畝くらいはあるな。聞くところによると、今私らが歩いとる水路の横の小道は、高松の殿様が檀紙と国分寺の境にある唐渡(からと)の峠を越えて金刀比羅宮へ向かう街道になっていたらしい。詳しいことはわからんけど、雰囲気はあるでしょう。昔の水車の面影はないけど、水車で利用していた石の臼は今も残っていますよ。(写真あり)。