中学生の頃、自転車で中西にうどん玉を買いに行っていた
中学生の頃、自転車に乗って成合の家から裏道を通って鹿角の「中西」へうどん玉を買いに行きよった。私が中学生の頃やけん、昭和30年代の前半やわ。中西が小学校の頃はあったかどうか、それは覚えてない。小さい店でのれんやなかったで。看板のようなものがあったかどうか・・・記憶にないけど、とにかく小さい店でうどん玉だけ売っとった。今は大きい店になっとる。次男が継いで、亡くなって、今はその息子の世代ちがうかな。私が子どもの頃に近所にあったうどん屋は、中西くらいしか覚えとらんなぁ。
その買うて帰ったうどん玉をどうやって食べたか、う~ん、それはよく思い出せんけど、煮干しのダシで食べよったと思う。しっぽくうどんとかではなくて、中西のうどん食べる日は普通の日だったけん、煮干しのダシだけで食べたかもしれん。今みたいに煮干しが高くなかったし。紙袋いっぱい、安く買えよったから煮干しはいつでも家に豊富にあった。なんちゃ食べるもんがなかったら煮干し食べよったくらい。
しっぽくうどんは特別な日だけ。大晦日もしっぽくうどんだった。打ち込みうどんは普段に食べよったと思う。
子どもの頃は各家庭に打ち板と麺棒が常備してあった
私が子どもの頃(昭和20年代)は各家庭に打ち板と麺棒があった。1メートル×1メートルのまな板の大きい板。私の親の世代くらいまではどこも家庭でうどんを作りよった。私が嫁いでからは家でうどんを作ることはなかったわ。昭和41年に嫁入りしたけど、打ち板やらうどんの道具は持って嫁がんかったし。近所の商店や製麺所でおいしくて安いうどん玉が売っとったし、高校を出て働き始めたけん忙しかった。
昭和37年に就職をしてからは、片原町の近くに会社があって、会社帰りに中央通りの「あずまや」でうどんを食べた覚えはある。あずまやは、食堂というか喫茶店。当時としては、オシャレだったかいの。それ以外は、あまり外で友達とうどんを食べた記憶がない。田舎に製麺所はあったけど、昭和30年代には、まだ、讃岐うどんの専門店はなかったように思うわ。