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vol.79 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る明治の讃岐うどん<明治30年~34年(1897~1901)>

(取材・文: 記事発掘:萬谷純哉)

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  • vol: 79
  • 2024.07.08

うどんの話題に、ちょっと“色街”が絡んできたみたい(笑)

 明治30年代に入っても「うどん」の関連記事はまだまだ少ないので、今回は明治30年~34年までの5年分をまとめてみました。うどん屋等の固有名詞はたまにしか出てきませんが、「うどん」を取り巻く町の様子が少しずつわかってきて、そこにちょっと“色街”の匂いもしてきたりして、少しずつ話題がバラエティになってきました。

明治32年(1899)

香川の物産に素麺は出てくるが、うどんの乾麺が出てこない

 まず、明治32年に県内の港湾ごとの「輸出入状況」なるものが出ていて(輸出入といっても海外相手ではなく、国内の他府県とのやり取りだと思いますが)、そこに当時の香川県の物産がたくさん出てきていますので、状況を知るために再掲しておきます。

(3月11日)●本県農工商業(商品輸出入)

<輸出>
 県下に港湾多しと言えども、その商品輸出入の大部分を占めるのは志度、土庄、阪出、丸亀、多度津、観音寺、高松の諸港。輸出品は砂糖、醤油、素麺、食塩、紡績糸、麦稈(ばくかん)、麦稈眞田(ばくかんさなだ)、米穀、団扇、籠、古着、大豆、煙草、藍、繭、煉瓦、叺(かます)、雑穀、紙、筆、織物、雑貨等で、30年の輸出総額は661万5721円。前年比77万4123円の増加で、さらに27年に比較すれば203万4651円の増加という、非常に大きな伸びを見せている。

<輸入>
 前記諸港の輸入品は肥料、石炭、綿、酒類、米麦、薪、唐物、炭、陶器、砂糖、竹、石油、木材、野菜、乾物、魚類、織物、雑貨等。その輸入価額は420万4711円で、29年に比べて32万2292円の増加、また27年に比べれば163万1289円の増加である。この増加の理由は明らかではないが、思うに戦後、起業勃興し、生産の原動力となる石炭の需要が増加してきたこと、また人心も華奢に流れてきたことの結果であることは疑いない。

▲志度港…主なる輸出品は砂糖。その主なる仕向地は東京、大阪、中国地方へ。
▲土庄港…主なる輸出品は醤油、素麺で、醤油は大阪、広島等へ、素麺は広島地方へ。その他、食塩は九州地方へ、紡績糸は神戸へ、麦稈眞田紐は神戸、横浜等へ。
▲阪出港…輸出重要品は米穀、食塩、砂糖の三種。米穀は大阪地方へ、食塩、砂糖等は東京へ。
▲丸亀港…主なる輸出品は米麦、団扇、籠、古手物等で、大阪、神戸等へ。

 港ごとの主力輸出品を見ると、まず志度港から輸出されている「砂糖」は、おそらく「三盆糖」で知られる東讃でサトウキビの栽培が盛んだったからではないかと思われます。土庄港の「醤油」と「素麺」は言うまでもなく、今も受け継がれている小豆島の名産。阪出港(当時は「坂出」ではなく「阪出」と書かれていました)の「食塩」も丸亀港の「団扇」も「なるほど、明治時代から特産だったのか」ということがわかります。

 しかし、注目したいのはここに載っているものではなくて、載っていないもの、すなわち「素麺」は出てくるのに「うどん」の文字が見えないということです。昭和の戦後の新聞に「ヤミ取引」の事件報道がたくさん出てきましたが、そのヤミで取引されていた物資には、米や麦と並んで必ずと言っていいほど、大量の「乾麺」が出ていました。そのヤミ物資の「乾麺」の中に素麺が含まれていたかどうかは不明ですが、戦後には豊浜町が素麺ではなく「乾うどん、干しうどん」の乾麺の産地として何度も新聞に出ていたので、戦後しばらくの間まで、「乾麺」が流通品としてのうどんの主力商品になっていたことは間違いありません。しかし、明治32年時点では、「素麺」は県外にまで流通しているのに「乾うどん」は出てこない。

 ちなみに、豊浜町を乾麺の産地に押し上げた「合田照一商店」は、同社HPによると明治35年に「乾麺を中心とした製麺業」を創業。また、明治37年には「石丸製麺」も乾麺製造業を創業しているということは、どうやら香川の乾麺文化はそのあたりが黎明期で、そこから昭和にかけて次第に産業に成長してきたのではないかと推測されます。

明治時代の「うどん屋」は、ちょっと形態が怪しい?!

 続いて、読者投稿欄に「うどん屋」が2つ出てきました。ただし、内容がどうも今のうどん屋と違って、何だか怪しいムードが漂っているところもあるみたいで…。

(6月17日)
<投書> 善通寺上吉田の料理屋その他うどん屋の賣婬者は山をなせり。少しくその筋にて狩りても差し支えなし。取締規則を十分実行を願い足し。
(10月26日)
<投書> うどん屋の給仕、あるいは芸娼妓、あるいは仲居となる者多きは、その地に不正業を望む者多き所以を免れん。

 まず6月の投書は、善通寺の上吉田にある料理屋やうどん屋に「山のように賣婬者がいる」というタレコミみたいな内容ですが、「賣婬者」というのは字面から何となく想像できる通り、要するに「売春婦」のこと。また、10月の投書の「うどん屋の給仕や芸娼妓や仲居になる者は、そこで不正な仕事をしようとする者が多い」というのも、売春っぽい匂いがちょっとします。明治25年の「香川新報」に「逢い引きができるような裏座敷のあるうどん屋」が出てきましたが、それと合わせて想像するに、これはちょっと、明治時代の讃岐のうどん屋には今では見られない新たな形態があったのではないかという疑念が出てきました。

 続いて、評論記事の中に「うどん屋」が出てきました。

(11月3日)

饂飩屋と妓楼

 かつてより「人は汚く儲けて綺麗に使うべし」という言葉がある。しかし残念ながら、日本人はこれに疎(うと)い。越後人や江州人、大坂人のような、ややこの格言に合った者もいるが、讃州人はそうではなく、ただ体裁よく綺麗に儲けることのみを希(こいねが)う。体裁よく、しかして綺麗に儲けることを希うは普通の人情であるが、その難きことを知らねば、汚く儲けて綺麗に蒔くには及ばない。

 このたび第十一師団が善通寺に置かれるや否や、大小の商売が争って一攫千金の利をこの“新開地”で得ようとする者が多い。彼等は将来果たしてその目的を達するや否やは知らないが、今見る限りで言えば、この機に最も利を得たる者は「うどん屋」と「妓楼」であり、他の多くは未だその目的を達していないと言わざるを得ない。

 「妓楼」はさておき、うどんを売って財をなそうとするのであれば、商売で身を立てる者としては「人は汚く儲けて綺麗に使うべし」を恥とするべきではない。しかし、昨今の人情の多くは、そうではない。中学校卒業の青年に向かって「月俸十五円の属吏(下級役人)になれ」と言えば、あるいは喜ぶ者もいるかもしれないが、「善通寺でうどん屋になれ」と言えば怒って殴りかかる者もいるであろう。小人国の胆玉の多くは、この類のものである。

 「第十一師団」というのは明治31年(1898)に善通寺に創設された陸軍の師団で、初代師団長は乃木希典。この記事は商売の鉄則のようなものを説きながら、その中で「善通寺に第十一師団ができて軍人さんがたくさんやってきたので、それを目当てにいろんな商売が集まってきたけど、そこで儲けているのはうどん屋と妓楼(芸妓や遊女を置いて客を遊ばせる店)だけだ」とおっしゃっています。当時の善通寺は第十一師団の創設によって商売がずいぶん賑わっていたようですが、ここでも「うどん屋」と一緒に何だか艶っぽい店が並べられているのが気になりますね。

 ただし、うどん屋の形態については、店で職人がうどんを打っていたのか、どこかからうどん玉を買って来ていたのか、買って来ていたのならうどん玉を作る製麺屋は会社だったのか個人だったのか…等々、新聞に描写が出てこないので、依然として全くわからないままです。「当たり前のことは記録されない」という歴史の原則がありますが、当時のうどん業界において一体何が当たり前の存在だったのか、続報で解明されるのでしょうか。

うどん用小麦粉はアメリカから

 善通寺の「金三商会」という会社がこの頃、うどんや素麺、パン、菓子類の原料となる「メリケン粉」の販売広告を何本も出していました。

M32_金三商会広告

 広告の文章によると、善通寺の「金三商会」がこのたびアメリカのオレゴン州ポートランドの製粉会社から小麦粉の直輸入を始めて、それの販売取次店としてビジネスを始めたようです(蛇足ながら、「メリケン粉」は「アメリカの粉」→「アメリカン粉」→「アメリケン粉」→「メリケン粉」…バンザーイ!)という語源だそうです)。そのアメリカからの輸入小麦の用途にはもちろん「うどん」も入っていますが、用途表記の並び順は「素麺→菓子→パン→饅頭→うどん」の順。こういうのはたいてい重要な順に並べるものですが、先の輸出入の記事の中にも素麺は出ていたけどうどんは出ていなかったし、やはり当時の輸入小麦粉の用途において、「うどん」の優先順位はかなり低かったのかもしれません。

明治33年(1900)

明治の香川は麦より米

 香川の米作と麦作に関する評論記事が出ていました。

(3月8日)
 先般、農業家の某氏が来て曰く、香川県会が勧業に心を注ぐのはよい。しかし、それらが拙速であったり、あるいは奇をてらって基本を忘れているかのようなことが行われていることが、私の憂うところである。例えば、米作の改良についてはこれに説を唱える者もあり、それを実行に移す者もあるが、麦作に至ってはほとんど誰もこれの改良を試みず、その結果、讃州の麦作は実に不振を極めている。

 讃岐の米作が全国にその名を轟かしていることは言うまでもない。しかし、これに反して麦作が振るわないということは注目すべき事実である。全国各府県の米産額が1反歩あたり平均「1石3斗2升」のところ、讃岐の収穫米はこれを上回る「1石4斗1升」である。それに反し、麦作の全国収穫平均が「1石2斗1升」のところ、讃岐の収穫は「9斗5升」に過ぎず、さらにこれを四国各県と比べれば、米麦ともに本県の収穫は他三県に優ると言えども、その優れること、米においては著しく多いのに反して、麦においてはその優位性は微々たるものに過ぎない…(以下略)

 当時の香川県では、米作は優秀だけど麦作は振るわないという報告。その麦作のうち、大麦と小麦の内訳には触れられていませんので、「うどん用小麦がどうだったのか」についてはわかりませんが、「小麦は良かった」のならそう記述しているはずですから、明治30年代前半時点で香川の「うどん用小麦」は、あまり芳しくなかったようです。

「夜鳴きうどん」は不健全な食べ物だったのか?!

 続いて、投書の中に「夜鳴きうどん」が出てきました。

(3月16日)
<投書> 学生の八重垣通と煙草吹と夜鳴きうどん食と、小学生が人に向かいなぶり言を言うことには、僕も実に閉口する。先生様、よく訓戒してください。

 「八重垣通」の意味がよくわかりませんでしたが、頑張って調べて見ると、「八重垣」とはどうも「遊郭」の別称らしい。つまり、「学生が遊郭や煙草にうつつを抜かすのはいかがなものか」という苦言でした。しかし、その遊郭と煙草に「夜鳴きうどん」が並べられているということは、学生が「夜鳴きうどん」を食べるのは“不良”のすることだったのでしょうか。あと、小学生が大人に向かってナメた口を利いていたみたいです(笑)。

玉売りのうどん屋が出てきた

 ここまで新聞に全く出てこなかった「玉売りのうどん屋」が出てきました。

(4月8日)
 去る1日、琴平町大字阿波町のうどん屋、柳本大吉方に、目下監視中の神野村に住む○○○○という者がやって来て、「十河村の木屋に仏事があるので、うどん百玉をもらいたい。そのうち四十玉は今、持ち帰りたい」と言い、別に思い出したように「少し買い物があるのでちょっと12銭貸してくれ」と言った。「木屋」は柳本にとって兼ねてからの得意先なので言われるままに貸してやったところ、翌日になって詐取されたことがわかった。…(以下略)

 相変わらず詐欺みたいな事件によくうどん屋が出てきますが(笑)、琴平町の柳本大吉さんといううどん屋さんは、うどん玉100玉の注文を受けられる製麺屋のようです。ただ、柳本さんちが飲食もできるうどん屋なのか、玉売りだけのうどん屋なのかは、記事からはわかりません。

 続いて、飲食店にうどん玉を置いていることがわかる記事がありました。

(4月26日)
 香川郡栗林村飲食店柴田カ子方に去る21日賊が忍び入り、金二円あまり、雨傘、風呂敷、うどん、煙草入れ等を盗まれた。

 飲食店に入ったドロボウが盗んだものが、「現金と雨傘と風呂敷と煙草入れとうどん」です。飲食店だから他に食材がいろいろあったのではないかと思いますが、すぐに食べられるということで「うどん玉」が最優先されたのかもしれません(笑)。ちなみに、この飲食店に置いてあったうどん玉が玉売りのうどん屋から仕入れたものだとすれば、飲食店がメニューとして出すうどんと玉売りの製麺業との関係性は、すでに当時から密接だったという傍証になるかもしれません。

またまた怪しげなうどん屋の呼び込みが…

 続いて、またまた投書欄に「不健全なうどん屋」のタレコミがありました(笑)。

(6月7日)
<投書> うどん屋の梅さん、宿屋の竹さん、氷屋の松さんが軍人を見かけて「兵隊さん、兵隊さん」と呼び止め、不体裁極まる醜行あり。

 「梅さん」と「竹さん」と「松さん」は“松竹梅”の仮名だと思いますが、「兵隊さんを呼び止めて不体裁極まる醜い行いをする」というのがこれまた、いかがわしい商売のニオイがしないでもない。うどん屋も氷屋も、この頃一体何をやってたんでしょうか(笑)。

丸亀の浜町のうどん屋と、石清尾八幡の露店のうどん屋

 次は丸亀の話題。明治も30年代に入ると香川新報も取材範囲が広がってきたのか、高松市以外の記事がずいぶん増えてきました。

(7月7日)
 浜町は北手に汽車が通り、通町の大町につながる目抜きの場所であるが、同町に従来より軒を並べている露店、すなわち汁粉屋に揚物屋、氷屋に寿司屋、うどん屋、田楽屋などが各自思い思いの小屋掛けをしているのは汽車の中から見ると誠に見苦しかったが、このたび警察署がこれを取り締まり、一律に白い天幕様のものを用いて夜はこれを取り除かせるようにしたため、やや見栄えがよくなった。

 浜町は丸亀駅のすぐ東側の線路際のエリア。明治33年にすでに汁粉屋、揚物屋、氷屋、寿司屋、うどん屋、田楽屋…等々が立ち並んで、ずいぶん賑わっていたようです。といっても“小屋掛け”とありますからちゃんとした店舗が並んでいたというわけではなさそうですが。

 ちなみに、香川県に初めて鉄道が敷かれたのは明治22年。こんぴら参りの客を当て込んで丸亀~多度津~琴平間を走った「讃岐鉄道」が最初で、その後、明治30年に高松~丸亀間が開通したので、この記事が出た時にはすでに浜町の北側を汽車が走っていました。

(9月16日)

<石清尾宵祭りの景況>

…露店は聴徳院西の角より神子橋辺にかけて両側はほとんど空き地を余さず、菓子屋、果物店、橋の東に軒を連ねし汁粉、うどん、すし屋など、よく売れ行きたる方なるべし中でも不景気なりし様を見受けしは、時候遅れの氷店か。

 高松市の石清尾八幡神社の祭りの露店の様子。明治23年の高松市中心街あたりで行われた祭りの露店には善哉(ぜんざい)屋、うどん屋、だんご屋、菓子屋に柿、梨などの果物の名前が並んでいましたが、その10年後の石清尾神社の祭りの露店では「菓子屋、果物店、汁粉屋、うどん屋」に加えて「すし屋」も登場。露店の寿司屋がどんなものだったのか想像できませんが、江戸時代には屋台の寿司屋が多かったそうですから、その名残かもしれません。あと、「季節外れの氷店が不景気」と書かれていますが、そりゃそうでしょう(笑)。

明治34年(1901)

琴平町に二階建てのうどん屋があった

 1月の投書に、琴平町のうどん屋が出てきました。

(1月10日)
<投書> 琴平町のある二階作りのうどん屋の亭主、通行生に「まーいらっしゃい、まーおはいりやす」など申しながら引っ張り込むには迷惑す。

 「うどん屋の亭主の客引きが迷惑だ」という投書ですが、琴平町にあったこの店は、今日でも珍しい2階建てのうどん屋だったようです。これまでに出てきた記事からすると、ついつい「うどん屋の2階で何をやってたんだ?」とか思ってしまいますが(笑)。

明治初期の琴平で「小海老入りのうどん」があった

 
 江戸~明治初期にかけての今で言うジャーナリストみたいな「成島柳北」という人がおそらく明治初期に琴平に遊びに来た時に書いた寄稿文が、香川新報に抄録されていました。前半は遊郭みたいなところで遊んでいる時の今ではとても載せられないような描写が続いているので割愛して(笑)、「うどん」が出てくるあたりのくだりを読みやすいように“翻訳”しながら再掲します。

(1月11日)
 (前略)…窓を開いて象頭山を見れば、山頂に雪が少し積もっていた。…(中略)…この地に演劇あり。みんなが「観に行け」と勧めるが、帰りを急ぐ旅なので観るのはやめた。朝食に鯛のちり(岡山でも食べた)を食べたが、実に味よし。羊羹を器に盛って酒の肴に出してきたのも珍しい。一酌して虎屋を立つと、芸妓たちが大鳥居の前まで見送って来た。

 そこから連れの者と語りながら歩いて大きい松の傍らを過ぎ、樽見村という所に来て茶店に入り、うどんを食う。葱と小海老とを加えた。風味が田舎めいておもしろい。この地は「麺に富む所」という。…(以下略)

 ここでも泊まった宿に「芸妓」が出てきますから、どうも明治時代の宿屋や料理屋にはそういう店が結構あったようです。そして、琴平から歩いてしばらくの所にあるらしい樽見村という所の茶店でうどんが食べられたそうですが、そこに「ネギと小エビを加えた」という表記がありました。ネギはわかりますが、小エビはまさかかき揚げじゃないだろうし、とすれば、うどんにパラパラと振りかけたんでしょうか。いずれにしろ、明治初期から琴平か、もしくは讃岐は、すでに「麺に富む所」だったようです。

高松市福田町の「三角屋」は激安うどん屋(笑)

 投書から、うどん屋情報が一つ。

(2月8日)
<投書> 僕は寒村僻地の水呑百姓であるが、当市各うどん屋へ立ち寄るが、まあ福田町の「三角屋」ぐらい安価な所は恐らくはなかろう。

 “当市”とあるので一応高松市の福田町ということにして、そこにあった「三角屋」といううどん屋が激安だったという情報です。それにしても「市内の各うどん屋に立ち寄った結果、『三角屋』が一番安かった」ということは、この“水呑百姓”氏は今のところ、史上最古の「うどん食べ歩き評論男」かもしれません(笑)。

昼飯に“冷饂飩”を食べて赤痢にかかる(!)

 続いて、うどんで赤痢にかかったという事件。

(8月30日)
 多度津郵便電信局通信書記補・村上安寧(21)という者は、去る25日の休日宿直番にて昼飯に冷饂飩を食べたのが原因で、27日、同町三谷医師の診察を受けたところ「赤痢病」とわかり、直ちに伝染病院に収容された。

 「冷饂飩」は「冷えたうどん」ということでしょうか。おそらく「宿直で昼飯用に持っていた“冷えたうどん玉”が痛んでいた」ということだと思われますが、それにしても「うどんで赤痢」とは、いかにも時代ですね。ちなみに、志賀潔が赤痢菌を発見したのは、この事件のわずか4年前の明治30年のことです。

石清尾大祭の露店記事は、いつも氷屋がオチ(笑)

 昨年に続いてこの年も、石清尾八幡神社のお祭りの露店が記事になっていました。

(9月17日)

<石清尾大祭の景況>

 宵祭りの模様…御旅所より本社に至るまでの光景は前年に変わって目新しいものはなく、名物だんごの繁盛は別物として、饂飩、寿司屋などが勢いなき氷屋と軒を並べて客を呼び…

 特に繁盛しているのは「だんご屋」で、「うどん屋」と「寿司屋」も人気露店の常連のようです。ちなみに、この年も記事の最後は「勢いなき氷屋」で、2年連続、氷屋がオチに使われていました。季節外れでしょうがないんだから、もう書いてやるなよ(笑)。

 続いて、うどん屋が出てくる事件報道が、いつものように講談口調で書かれていました。

(10月27日)

<饂飩屋の泣面>

 25日午後12時過ぎ、当市東浜町八重垣内にて、栗林村字樋の上のうどん屋・桑原勘太郎という者が、いつものように素見(ひやかし)客を相手に「うどんやぜんざい御用…」と呼び歩いていると、車の上に身を反らして巻煙草をくゆらし意気揚々と久栄楼の前通りへ乗込んできたのは木田郡木太村の多田小太郎(19)という当時旧城内の共進会工事に雇はれていた大工。うどん屋の勘太郎はかねてこの男に貸した金があるので、「車で走るようなら借を払うてはくれまいか」と冷やかし半分に出たのを、小太郎が顔色を変えて二言三言交わすうちに口論となり、場所柄といい時刻も時刻、数多うろついていた弥次馬らが「火事はどこだ」と言わんばかりに瞬く間に黒山の人だかりとなった。

 この小太郎という者はずいぶん腕白者と見えて、誰も彼もが「あの小太公か、殴れ、倒せ」とどやどやと詰め掛け、小波大波に動揺めいてきたが、小太公は「多勢に無勢、とうていこれでは敵わない」と、持ち合わせていた剃刀や煙管などを逆手に振上げ、力を極めて暴行を働いたところ、野次馬連の余勢も相まって傍らにいたうどん屋は自分も荷も滅茶滅茶に打ち壊され、見るも哀れに狼藉を受ることとなった。

 そうこうしているうちに巡査が来てやっと騒動が鎮まり、小太郎は高松署に一旦引致。昨日、関係者で養子親である多田駒蔵他1名とうどん屋の貫太郎とを呼び出し、損害賠償について相談したが、安く見積もっても六円余となるという。しかし、多田駒蔵曰く「この小太郎という者は発狂人で、その関係者が看護を怠ったため家を飛び出して乱暴を働いたものである」ということで、巡査も関係者もうどん屋もその話を考慮しながら運ぼうとしていた。ところが昨日、本人を連れて来て見れば、二度驚愕。どうやら小太郎は常人らしき風で、昨日の話とまるで食い違っていたとは、ちょっと滑稽な話。

 冒頭にまた「八重垣(遊郭)」が出てきましたが、途中で出てくる「久栄楼」はその遊郭の1軒です。栗林村の桑原勘太郎さんが東浜町の遊郭街にまで行ってうどん屋をしていたということは、これはたぶん屋台のうどん屋ですね。そこで小太郎とケンカになって、屋台をボコボコに壊されたと。しかし小太郎も新聞記事に「小太公」とまで書かれて散々です(笑)。とりあえず、最後まで読むと中途半端なオチの記事でした。

*****

 以上、明治20年代からここまでのうどんに関する情報をまとめると、

<出てきたうどん屋の形態>

●屋台のうどん屋
●祭りの露店のうどん屋
●奥座敷があったり2階建てだったりするうどん屋
●うどんを出す飲食店
●玉売りをする製麺屋

<出てきたうどん屋の名前>

●「山月」……(明治20年代)高松市内町の「東座」という芝居小屋の近く。
●「高砂」……(明治20年代)高松市片原町の「延寿閣」という芝居小屋の前。
●「三角屋」…(明治30年代)高松市福田町の激安うどん店(笑)。

<その他>

●栗林村の桑原勘太郎さん…屋台のうどん屋。
●琴平町大字阿波町の柳本大吉さん…玉売りの製麺屋。
●善通寺の「金三商会」…小麦粉販売会社。

…といったあたりが固有名詞の出てきた店や個人や会社で、あと名前がわからない所では「琴平町にある二階作りのうどん屋」と「トッピングに葱と小海老がある樽見村の茶店」も出てきました。また、状況としては、

●「芸妓」や「遊女」といったちょっと艶っぽい方々のいる店と「うどん」がよく絡んで記事に出てくる。
●揉め事やケンカ等の事件に、やたらうどん屋が絡んでくる(笑)。

…という傾向も見られますが、このあたりは新聞社の記事の取り上げ方や切り取り方にも多少影響されるので、「時代の傾向」を匂わせる程度の「個々の情報」として捉えておきましょう。

(明治30年代後半に続く)

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