川福の思い出
うどんの手打ちを実演して打ちたてを売りにしている店は今でこそたくさんありますが、高松でそのスタイルのはしりは、昭和35年(1960年)頃に琴平から片原町に移ってきた「川福」ではないでしょうか。「安治川」「源芳」といった半生・玉売りのお店は既にたくさんありましたが、そちらは学校給食や連絡船、社食などにうどん玉を卸すのがメイン。昔の高松市内でうどんといえばよく名前の挙がる「あずまや」も、いわゆる打ちたてを食べさせるお店ではありませんでした。「かな泉」も、フェリー通りから今新町に出る手前、今はシャッターが下りてますが、そこでうどん玉を作ってましたね。当時一箱が500円でした。
「川福」を高松に招いたのは当時の金子県知事で、出店に当たってはどんぶり鉢を知事さんが揃えたと聞いたことがあります。今の兵庫町・片原町商店街の一本北側の細い筋にある、ほんとうに小さい店からのスタートでした。当時は川福のおうどん、結構高かったんですよ。高かったけど、お客さんもたくさん来てました。
うちは片原町で酒屋を営んでいて、私の母がお酒や醤油の手配を請け負ったのがご縁で、川福さんとは高松出店当初からのお付き合いです。香川の醤油は黒いから、ダシに色がつかない兵庫県の白醤油をお薦めして…。代がかわってお付き合いはなくなりましたが、「川福」で修業したお弟子さんたちがのれん分けなんかでお店を出す時も、同じ銘柄を使っていたはずです。みりんなんかも、すごく小さい蔵元ですけど「ダシの味が変わるから」と言って、みんな同じものを使っていました。親方の味なんですね。
「川福」ご主人の竹川二矩男さんはいつも着物を着て、いかにも昔ながらの職人気質という、武骨な風体の方でした。「うちのうどんは塩がきいとるんや」とおっしゃって、おうどんも機械なんか使わずに包丁で切って。すごくしっかりした方で、ライオン通りに移転した時も、夜のお商売ですから電気や水道は何かあった時にすぐ対応できなければ困るということで、「銭でない」といってすべて近所のお店で整えて。引退後もダシの様子などを確かめに店に顔を出しておられたのをよく覚えています。
もう一軒、近くにうどん玉を作っていたお店があって、そこのご主人は川福の竹川さんよりまだ年上だったんですが、「毎日打っていても満足のいくうどんが作れたことはほとんどない」と言っていたそうです。そのぐらい昔は、みんな職人さんだったんでしょうね。
西と東の習慣の狭間で…
東讃と西讃とではうどんを食べる習慣が違う、と言いますね。以前に一度、大変なことがありました。お葬式で焼き場へ行って、残る人以外は帰ってくるでしょう。私ともう1人がちょうど手伝いに行っていて、おうどんとお寿司か何かを作ったんです。長い机に、婿さんの親戚と嫁さんの親戚、西と東の2家が向かい合わせに座って、西の家の人はずるずる食べる。東の家の人は、まったく手をつけない。東の人が「長く続く」といって四十九日までは法事のうどんを嫌うのを知りませんでしたから、もうすっかり困って…。自分の親戚なら「そんなんこと言わんと…」と言えますけど、身内の人もいませんし、しゃしゃこ焼きに行った(お世話しに行った)2人が言えることでもないのでね。当時は私も真面目でしたね。今なら、長いものがダメなら、おうどん切ってやればよかったと思います(笑)。
こんぴらでは「嫁に行く時に麺棒提げて行け」と言っていたようですし、千疋の辺りの人に聞くと「常にはそんなにうどん打ったりせんけど、冬が来たらしっぽくするけん、そのために打ってた」そうです。私なんかは子どもの頃、うどんより団子汁でしたけど、田舎の人は打って寝かす手間を惜しまずうどん打ってたんですね。