香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

坂出市文京町・昭和17年生まれの女性の証言

坂出中心街で最初のセルフうどん「宮川」と、坂出の食堂うどんの思い出(着物と古布の店「べべや」・町羽玲子さんのお話)

(取材・文:

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  • vol: 307
  • 2022.12.19

昭和20年代後半の家のうどんの記憶

小さい頃、おうどんは食べていましたか?
 食べよったよ。法事や祭りやいうたら、もう絶対セイロでうどん置いとったけんな。それとお寿司やわな。田舎は高屋町でな。白峯さん(白峯寺)の上がり口の角っこのとこの「宮川」いう米屋が本家のおばちゃんとこで、高屋の祭りや法事やいうたら、いつも呼ばれて行って泊まりよった。

 ここ(文京町・坂出市の学園通り)の家で法事する時は、そこの「多田羅」さんいう八百屋さんにうどん玉を頼みよったな。「多田羅」さんは「兵郷」のうどんが入りよったけん、「兵郷」のセイロがそのまま「多田羅」さん経由でうちへ来よった。法事の時は、大人は「湯だめ」食べる人が多いんやけど、子供は皆「かけ」や「かやくうどん」や「卵とじ」にしてもろらいよった。けど、私は小さい頃、生意気やったけん「かけ」は食べんでな。いつも「湯だめ」食べよったんや。ほんで「お前は変わっとる」って言われよった(笑)。


家ではどなたかがうどんを打っていましたか?

 子供の時は、高屋の本家のじいちゃんが打ったうどんを食べた記憶はあるわ。あんまり長くなくて、ブチブチと切れとるようなうどんな。昔は家で打ったりしよったけんな。高屋の新家に親戚3、4軒が集まって、餅つきもしよった記憶はある。父親もうどんを打ったことがあるかもしれんけど、それもあったとしても私が小っちゃ~い時やからよう覚えてない。大きになってからは、うちもよそもたいていうどん屋からセイロでうどん玉を買いよった。

坂出市の中心街で最初のセルフうどん店をオープン

以前、「下川サイクル」さんから「昭和50年代に『べべや』さんのお父さんが『宮川』といううどん屋をやっていて、坂出でセルフの店はそこが初めてだったと思う」というお話をお聞きしたのですが、こちらでセルフうどんを始められたのはいつ頃のことでしょうか?
 いつから始めたかはっきり覚えとらんのやけど、昭和45年か46年頃かな。あの頃、来るお客さんが「え~、セルフとな」って言いよったから、セルフではこの辺で一番早かったと思う。

 うちの父親(宮川惣市さん)は明治43年(1910年)生まれで、母親(宮川キヨヱさん)と坂出の駅前で長いことクリーニング屋しよったんやけど、父親が「駅前は済んどる。これからは駅の南が伸びるんや」言うてな、クリーニング屋を甥に譲ってここに移って来たん。その頃は坂出駅の南側は“駅裏”いうイメージやったんよ。それが今、駅の南側の開発ができよるやろ? ほなけん、先見の明はあったんよな。けど、成功はせんのや(笑)。

 それで、ここは元は代書屋さんの古~い木造の家だったんやけど、それを建て替えよるくらいの時にセルフのうどん屋を始めたと思う。初めは仮店舗でな。筋向かいに東進の塾と美容院があるんやけど、昔はあっこら辺にずら~っと長屋みたいなんがあって、その一角を借りて始めたん。父親はその時60代やったと思うけど、私は大阪万博があった昭和45年(1970年)に大阪に行っとってな。連休かなんかで大阪から帰った時には、その仮店舗で“よしず”みたいなんを立ててセルフのうどん屋しよったような気がする。ほんで今の建物ができてから本格的にしだしたんやと思う。昭和47年(1972年)に私がこっちに帰ってきた時には新しい家が建ってうどん屋しよった。私もちょっと手伝うた記憶があるけん。

どうしてセルフのうどん屋を始めようと思ったのでしょうか?

 ある日突然始めとるけんな。始めた理由は私は全然知らんの。たぶん高松にセルフのうどん屋ができとって、その評判を見て始めたんかもしれん。なんか考えたり、新しいことするんが好いとんや。クリーニング屋もハシリで。洗濯やお金出して外でするもんでないような時代に「これからはクリーニングの時代や」言うて。チャレンジャーでな、着眼点はええんや。

 そういや、セルフうどんの前にな、古い家の時にちょっとの間だけラーメン屋さんしよった記憶があるわ。私は実際にラーメン屋をしよるのを見た記憶がないんやけど、「ラーメン屋する」いうて聞いて「ラーメンめんどいのに」って言うた覚えがある。麺はどっか製麺所で取りよったと思うんやけど、一生懸命味を研究しよった。でもラーメンは所詮素人の域を出んかって、半年持ったかどうか知らんけど、すぐ閉めたと思う。

お父さんは、うどんはどこかで修業されたんですか?
 父親は何かしようと思たら一生懸命研究する人やったから、「冬と夏とでは塩のあんばいが違うんじゃ~」とか、ダシも自分でどうやらこうやら言うて研究しよったし、足踏みもビニールに包んでゴザを上ひいて精出して踏んでしよったけど、初めにどこで習たんかは知らんのや。生地混ぜたり麺切ったりする機械を入れる時に、機械屋さんがそういうのをフォローしてくれたんかな? 喫茶店やったらコーヒー屋さんがコーヒーのたて方とか教えてくれるでない。そいなんがあったんかもしれんし、昔は家でうどん打ちよったから、そういうじいちゃんたちに聞いたんか、見よう見まねがあったんかもしれんけど、どっかに住み込んで修業とかそんなんではないと思う。

カウンターだけの小さなセルフ

お店に屋号はありましたか?
 別に店の名前もなしに、「宮川」でしよったような気がする。
メニューや値段はどうでしたか?
 メニューはおうどんと、おうどん出すカウンターの横に天ぷらも置いとった。かき揚げや野菜の天ぷらやしよったと思うんやけど、うちの母親が家の天ぷらの鍋で揚げよる田舎料理のようなもんやけん、いろんな種類をずら~っと並べて置いたりはしてなかったな。値段は覚えとらんわ~。まあ、普通のうどん屋さんのうどんでのうて素うどんみたいなもんやけん、安かったと思うで。お客さんも、とにかく安いけん来よったと思う。だけん100円とか、そこらへんやったんやろな。天ぷらも30円くらいかな? そこらははっきりと記憶にない。
お客さんはどんな人が来ていましたか?
 この辺は会社や事務所があったけん、サラリーマンの人がほとんどやったと思うわ。学校関係の人も来たかもしれんけど、学生さんはあんまり来よった記憶がないな~。
お店のレイアウトはどんな感じでしたか?

 お店入ったら、ドンと真ん中にうどん温める所とコックひねったらダシが出るタンクがあって、両側に壁に向いて5~6人ずつ座れるカウンター席があった。ほんで、奥におうどん出すカウンターがあって、うどんができたらそこに取りに来てもろて。そのおうどんを出すカウンターの中が厨房で、うどん茹でる大きい釜と天ぷら揚げる鍋と、生地混ぜるミキサーとうどん切る機械があって。その横にうどん延ばすとこがあったと思うわ。それが今の「べべや」の店の北半分で、南側半分はジーンズショップ「アメリカヤ」さんに貸しとったんや。


宮川店内見取り図

べべや外観

建物はその当時のままですよね。「べべや」さんはいつから始められたのですか?
 父親がうどん屋辞めてからは真ん中の壁抜いて、ここ全部「アメリカヤ」さんが入っとったん。「アメリカヤ」さんが他へ移って「べべや」になってから来年で27年目になるんやけどな。来年、立ち退きになるんよ。通勤・通学の時間帯ここ渋滞ひどいけんな、道を4車線に広げるん。坂出も良うならないかんわなって思うけど、この歳で住み馴れた家を立ち退くんは辛いわ。もう店も辞めないかん。この古布も私が始めた時はアンティークがブームやって、香川県にこういう店なかったけんな。ものすごい人が来たんや。

昭和30年代の坂出のうどん屋さんの記憶

当時、このあたりにはどんなうどん屋さんがありましたか?
 うちがセルフしだしてちょっとしてから、二軒隣の作花(さっか)さんのところにセルフのうどん屋ができた。作花さんは今「サッカミート」いうて江尻町に移転しとるけど、その前はすぐそこのタバコ屋さんの向こうに店があったんよ(筆者注:後日「サッカミート」さんにお話を伺ったところ、サッカミートさんが店を移転した後、その場所で別の人がセルフうどんを始めたそうです)。それからまたしばらくして、ここら中にセルフがわーっとできだして。その頃には、うち(宮川)も作花さんのところのセルフも店をやめとった。
セルフ以外のうどん屋さんはありましたか?
 商店街の「長田果物」さんの横に「手打ちうどん杵屋」いう、ちょっとおしゃれなおうどん屋さんがあった。そこは店で手打ちしよったと思う。

 私が高校の頃(昭和30年代)によう行きよったんは、港町に入るかその手前かにあった「どんや」さんいう食堂。そこでうどんが出よった。いなり寿司が有名で美味しかったんや。それから「鎌田食堂」も、よう学校の帰りに寄じょった。うどんの他にもかつ丼やらいろんなもん置いとったと思うけど、「鎌田食堂」は先生方もよう来よったんで、生徒も学校の許可が出とって行っても構わんかった。学校帰りとか部活の帰りに生徒がよう寄りよったわ。

 それから、そこのタバコ屋さんのこっち側に「さんわ食堂」いうんがあって、そこも学生が帰りにかき氷食べたりうどん食べたりしよった。おじちゃんとおばちゃん2人でしよった。ここは学校の許可はなかったかもしれんけど、電車通学の子や部活帰りの子が行っきょったわ。あ、電車通学いうても「ことでん」な。あの頃は富士見町の手前くらいに「ことでん」の坂出駅があったんよ。宇多津から来よった私の友達は、いつもそれに乗って帰りよった。

当時は食堂でうどんを食べることが多かったんですね。
 この辺、うどんがある食堂はよけあった。元町商店街の入り口の「わはは・ひろば坂出」になっとるとこに「花長(はなちょう)」さんいうて、キセルでタバコ吸う粋なおばちゃんがしよる食堂があったし、商店街の中の「あづま玩具店」の向かいにも「あんとみ」さんいう食堂があって、夏にお客さんが来たら「あんとみ」さんから「冷やしうどん」取りよった。おかもちで持って来てくれるんやけどな、氷が浮いとんよ。冷水にうどんが入っとるんをつけダシで食べるん。扇風機の時代やけんな。

 坂出駅前にあった旅館の「たつみ食堂」や、鎌田醤油の角のとこにある「田中屋」さんやも1階の食堂でうどんや丼物出しよった。食堂はどこでもメニューにうどんがあったな。

そういう店のうどんは、どこかから玉を仕入れてくるんですか?
 「塩飽屋」さんや「池田屋」さんが、うどん屋やうどん出す食堂やにうどん玉を卸しよったと思う。そういや、私が24~25歳くらいの時に、「日の出」のおじさんがうどんの配達で沙弥島に行く時に車に乗せてもろて、沙弥島の海で遊んで、午後の配達の時に乗せて帰ってもらいよったことがある。「日の出」のおじさんがその頃、沙弥島の海水浴場の海の家みたいなとこの食堂へうどん配達に行きよったんよ。

 あと、うちが家でうどん玉を買う時は、駅前に家があった時は「塩飽屋」さんから、ここの家になってからは「多田羅」の八百屋さんやけん、「兵郷」さんの玉やな。「兵郷」さんは食堂より八百屋さんに卸しよんが多かったと思う。

●編集部より…まず、「法事のうどんは湯だめ」というお話がここでも出てきました。「なぜ、法事のうどんに湯だめが出るところが多いのか?」については、これまでの数多くの証言の中で「湯だめが一番簡単」「ダシの無駄もないから」という話はあったものの、何かの縁起や宗教的な理由は全く出てきていません。そして、「坂出で最初のセルフうどん」ではないかという「宮川」の話。坂出市と言っても広いので、どこかにセルフスタイルで食べさせる製麺所とかうどん店があったかもしれませんが、少なくとも「市の中心部あたりでは一番早かったのではないか?」と思わせる証言です。その他、年代は詳細ではないものの、坂出市の製麺屋さんや「うどんを出す食堂」の名前もたくさん出てきました。

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