香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市屋島西町・昭和19年生まれの女性の証言

太くて短い麺を「どじょううどん」と呼んでいた

(取材・文:

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  • vol: 70
  • 2015.07.16

太くて短い麺を「どじょううどん」と呼んでいた

小さい頃(昭和20年代)、うどんを食べていましたか?
 家でお昼によく食べていましたね。母がよく作ってくれました。メリケン粉を捏ねただけの「どじょううどん」を。
ドジョウは入ってないのですか?
 太くて短かい麵だったので、その形が魚のドジョウに似ているということで「どじょううどん」と呼んでいました。でも、決して我が家だけの呼び名ではなくて、地域では結構みんなそう呼んでいましたよ。いつも味噌汁に入れて食べていました。いろんな具が入っていましたので、打ち込みうどんのような感じでしょうか。

農協で小麦を乾麺に換えてくれた

麺に使う小麦粉はどこで買っていましたか?
 近くの商店か、農協で買っていたと思います。ちなみに農協ではその頃(昭和20年頃)、小麦を持って行くと小麦粉にしてくれたり、うどんの麺と換えることもできたそうです。小麦を作っている近所の農家の人はよく利用していたようで、何度か話を聞いたことがあります。

 農協で換えてくれる麺は手打ちの生麺ではなく、機械で作った乾麺で、もちろん「どじょううどん」ではなくて、ちゃんと細くて長いうどんでした(笑)。その農協は今も屋島小学校の南側にあります。場所は当時と変わっていません。

法事にうどんは出なかった

節目の時にうどんを食べることはありましたか?
 7月6日の「祇園さん(八坂神社で行われる夏祭り)」と「お祥月(しょうつき=命日の月)」の時だけ、バラ寿司とセットでうどんを食べましたよ。

 法事の時はうどんはなく、お膳のみでした。お葬式や四十九日の時も「(うどんの麺が長いことから)不幸が長くなる」との縁起の理由で、うどんを口にすることはありませんでした。

塩田で栄えた屋島西町の古い商店街に、ご主人が自転車で売り歩く製麺所があった!

当時、ご自宅の周りにうどん屋はありましたか?
 今は「屋島銀座」と呼ばれている屋島西町の古い商店街の中で育ちましたが、昭和30年頃にはうどん屋と製麺所が合わせて3軒ありました。残念ながら、今はすべてなくなっていますが。
その3軒について、何か知っていることはありますか?
 うどん屋は「青木」さんというお店で、塩釜神社(高松市屋島西町)の北側にありましたが、食べに行ったことがなかったのでよく知りません。

 製麺所は「森」さん「山田」さんの2軒ありましたが、それぞれタイプの違う店でした。「森」さんは塩釜神社から数百メートルほど南へ進んだ場所にあったでしょうか。ご主人が自転車の荷台にせいろを積んで、毎日のように家々に売り歩いていたのを記憶しています。浦生(うろ/高松市屋島西町)や屋島東町の方にも足を運んでいたようです。

 我が家でも、小さい頃は母が麺を作っていましたが、次第に森さんの麺でうどんを作るようになりましたね。私が母になってからも、子どもたちに森さんの麺でうどんを作ってやりました。さすがに打ち込みではなく、おこいた(かまぼこ)や平天などが入ったかけうどんでしたが。

 森さんは戦前に栗林公園の北門の近くで店を構えていましたが、空襲で店をなくし、戦後、屋島に移って再開したと聞きました。平成に入ってしばらくは昔と変わらない形で営業を続けていましたが、今でも時々、森さんのうどんを食べたくなります。

 もう一件の「山田」さんの店は、機械で作った乾麺を卸していました。そうめんも作っていましたが、どちらも一束二束といった少数の販売はしていませんでした。

 それにしても、思えば商店街にうどんの店が3軒もあったんですね。屋島西町に塩田がたくさんあった頃は、車が行き交う大きな県道はまだなく、東から仕事場に向かう浜子(塩田で働いている人たち)は必ず商店街を通ることになりました。だから当時はたいそう賑やかでしたよ。浜子たちもその3軒をよく利用したと思います。

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