第一話
がもううどん
<昭和17年〜34年>
まさに讃岐うどんの原点を体現するような、緩〜い発祥(笑)
第二次世界大戦真っ只中の昭和15〜16年(1942)に高松市西山崎町(現円座町)に住んでいた今のがもうのおばあちゃんが、24歳の頃(ちょっと記憶曖昧)、坂出の蒲生善太郎さん(がもう初代大将)に嫁いできた。
おばあちゃん:
嫁いできた時にはうどん屋なんかやってなかった。主人は方々に仕事に行きよった。よその農家の麦刈りや田植えを手伝いに行ったりしてお金をもらいよった。それから主人が召集で戦争に行って、昭和20年(1945)に終戦になって帰ってきて、それからは、まあいろんなことしよったなあ。
大将:
うちの親父は剪定技術を持っとってな、親父の叔父が剪定しよったからそこで習って。そやから戦争から帰ってきてうどん屋を始めるまでは、季節が来たらあちこちに剪定に行きよったらしい。うどん屋やり始めてからも、剪定の方が儲かるから店を休んでしょっちゅう行きよったのは覚えとるな(笑)。
三代目:
ポン菓子をやったり醤油を売ったりもしよったって言ってました。
大将:
うちで醤油を作りよったんではないで。どこぞで醤油を仕入れてきて売りよったんや。
昭和20年代の蒲生家は、まだうどん屋でも何でもない、そういう状況だったようだ。がもうのじいちゃんがうどんに出くわすのは、昭和30年代に入ってから。この頃、坂出市にはすでにかなりの数のうどん屋(うどん玉の製造、卸し)があったそうで…
大将:
うどん屋はもうその頃、そこら中にあったわ。隣の集落に山下さんやろ。鴨庄で山下さんとこの弟さんがやってて、その向こうに福井さん。今は郵便局になっとる。その向こうに谷さんいううどん屋があって…大体集落ごとに1軒はあったんや。みんな小さい、玉の卸しだけをするようなうどん屋さんや。お客さんは自分とこの集落の人ぐらいやから、大きな商売にはならん。みんな手で作りよった時代やから、せいぜい1日に100玉とか200玉ぐらいしか作れんしな。
そういう状況の中、昭和34年(1959)9月1日、先代がふとしたきっかけからうどん屋を開業することになった。蒲生善太郎さん44歳、おばあちゃん38歳、長男の二代目大将はまだ12歳の子供の時である。
おばあちゃん:
主人が「うどんするか?」言うて。
大将:
昭和34年の春やったか夏やったか、そこの山下さんとこ(現坂出山下うどん)がうどん屋を始めて、うちの親父が山下さんのおじいちゃんと同級生だったから、その山下さんに「うどん屋したらどうや」とか言われて「ほな、やろうか」と思ったらしい。
三代目:
山下さんに「お前がうどん屋やるんだったら俺はせんかった」と言われた、という説もあるらしいです。それで、何でかわからんけど、山下さんでなくて米崎さんといううどん屋に習いに行ったそうです(笑)。
おばあちゃん:
米崎さんとこはうどんを食べさせる食堂でなくて、うどんの玉を作って売りよる製麺屋や。
大将:
そこで1週間だけ習って、うどんの製造と飲食店の許可を同時に取ってすぐにうどん屋を始めたらしい。
三代目:
私の叔父が言うには、「ある日、家に帰ったら突然うどん屋になっていた」そうです(笑)。
緩やかな時代です。昭和初期の讃岐うどんの店(製麺屋)の多くは、伝統工芸や職人の世界にあるような「厳しい修業を経て一人前になって独立する」というカルチャーではなかったようです。その緩さが、今の讃岐うどんの店の心地よい空気感の根底に綿々と受け継がれているのかもしれません。
三代目:
昭和34年の9月1日に始めたんですけど、そのすぐ10月の祭りのシーズンに大量にうどんの注文が来て、大量にクズの山を作ってしもて捨てるのにえらい苦労した、という話をじいちゃんから聞きました。
大将:
まあ、1週間しか習ってないからな(笑)。
三代目:
あと、その年が開けた正月にじいちゃんが商売繁盛を願って八栗寺にお参りに行って、その帰りにダンプに当たって3ヵ月入院したそうです。
なかなか前途多難な開業初年度だったみたいで…(笑)。
- [全一回]
- 第一話 がもううどん 2015.07.25
坂出市
がもううどん
がもううどん
〒762-0022
坂出市加茂町420-3
開業日 昭和34年9月
営業中
現在の形態 製麺所
http://www.kbn.ne.jp/home/udong/
(2015年7月現在)
がもうのおばあちゃん/二代目大将/三代目長男
(二代目大将プロフィール)
さぬきうどんの人気店「がもううどん」の二代目大将。
昭和56年(1981)サラリーマンを辞め、父親の店「がもううどん」に。
1年ほど店を手伝ったあと、翌昭和57年(1982)に高松市円座町に「釜市うどん」をオープン。その後平成6年(1994)に「がもううどん」に戻り、現在に至る。