香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市塩江町・大正15年生まれの女性の証言

節目の日に、つけやしっぽくで

(取材・文:

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  • vol: 63
  • 2015.07.16

節目の日に、つけやしっぽくで

子どもの頃にうどんを食べていましたか?
 食べよったよ。今のように再々ではなかったけんど。昔の田舎のことやけん、刺身もなし、肉もなし。だから、うどんは結構なおご馳走やったで。
どんな時にうどんを食べていましたか?
 祭りや法事、半夏生の時なんかも。節目の日に親戚なんかが一堂に集まると、うどんをよっけこさえて食べたな。お土産で麺を持って帰ることもあった。
どのようにして食べていましたか?
 夏はつけ、冬は野菜が入ったしっぽくで食べとった。
ダシは?
 煮干しを使うとった。行商の人が煮干しをよく売りに来よったな。

麺を作る時には欠かせなかった谷の水

うどん作りは麺の生地からでしたか?
 そりゃぁ、イチからやで。麺なんてどこにも売っとらんかったし。小麦粉に谷の水と塩を混ぜるとこから作っとった。塩加減も冬は薄めに、夏は濃いめにしてちゃんとしとったよ。
谷の水というのは?
 「奥の湯温泉」をもう少し上がったところに住んどったけんど、周りが山やったから自然の水がなんぼ(いくら)でも流れとったんや。大きなバケツを抱えて谷に水をよく汲みに行ったで。その水を何にでも使うたな。湯がき終わった後の麺も谷の水で捌いたし。何や今は谷の水が涸れる時もあるそうやけど、昔は木が水を吸い過ぎんように伐採しとった。それを薪にしたし、焼いて炭にもしたな。

手間暇を掛けて、目指すのは「耳たぶぐらいの感じ」

うどんは誰が作っていましたか?
 父親や母親、私も作った。作るのは時間も手間も掛かったで。手で混ぜて、捏ねて。生地をひっくり返しながら足で何度も踏んで。かとうなし、やりこうなし(堅くもなく、柔らかくもなく)にする。「耳たぶぐらいの感じで」って、よう言いよったなぁ。
小麦粉はどうしていましたか?
 「奥の湯温泉」から下ったところに車屋があって、そこでもろとった。

「車屋」と呼ばれていた水車のある製粉所

車屋とは?
 川のそばにあった水車小屋で、小麦をついたり挽いたりしとったところや。小麦を持って行ったら小麦粉に換えてくれた。
小麦粉と交換する場合の値段は?
 交換だけやったらお金は要らんかった。持って行った小麦をわざわざ挽いてもろたり、ついてもろたりすると、なんぼかいった。

交換した大量の小麦粉を一斗缶で保存

持って行く小麦に対して、どれくらいの量の小麦粉を貰えるのですか?
 重さでやりとりしとったけんど、7掛けか7掛け半くれる。小麦(の状態)が悪かったら7や。小麦は5升か7升くらい一度に持って行った。大きくて堅い、それ専用の袋に入れてな。結構、重くて運ぶんが大変やった。換えてもろた(もらった)メリケン粉は、一斗缶に入れて蓋して保存しとった。
他の方も車屋を利用していましたか?
 みんな百姓で小麦を作っとったから、よく利用したで。小麦はメリケン粉だけやなしに炊いてご飯にすることもあったから、裸麦をついてもらうことも再々あったし。
塩江に車屋はいくつかありましたか。
 そんなに離れんと手近手近にあった。当時は、なくてはならんもんやったからな。 
当時、近くにうどんが食べられる店はありましたか?
 うどんの麺から作っとった食堂が何軒かあったけど、みなのうなった(なくなった)な。
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