うどん粉は津川製麺所で
私らが子どものころ(昭和30年頃)、国分寺町新名でうどん粉を作ってくれるところは「まつもとくるま」と「津川製麺所」があった。本津川沿いのまつもとには水車があった。津川は川から離れていて動力で粉をひいていたように思う。新名でも川べりの人はまつもと、田んぼの方に住む私らは津川を利用していた。津川は、今でも乾麺のうどんやそうめんを売っているけど、製麺所の名残かな。
田植えの前に小麦ができると、津川へ預けに行った。そうしておくと、うどん粉がいる時に、必要な分だけもらえた。預けた小麦の量でもらえるうどん粉の量が決まっていた。田植えの後や、「うどんするか」といった時に、津川へ走って行ってうどん粉をもらってくるのは長男である私の役目だった。
家に帰ると、親父がうどん粉を練って団子を作り、それをゴザで巻いて私が踏んでいた。そのころはどこの家にもうどん用の四角い板と麺棒があった。親父が打ったうどんをはがまで湯がいて、でき立ちに醤油をかけたり、だしをかけたりして食っていた。誰もが腹をすかしている時代で、でき立ちのうどんは何よりのごちそうだった。
家でドジョウうどんをすることもあった。家が海に近い人は海の魚が食えたけど、国分寺では海の魚と言えば行商の人が自転車で売りに来る塩サバくらいしかなかった。今では考えられないくらい塩辛さだったのを覚えている。夏場にたんぱく質を摂るためにはドジョウが最高だった。ドジョウは家の近くの井出で取って、金ダライで泥を吐かせた。うどんは家で作り、水は井戸水を使い、焚き木は山から取ってきた。入れる野菜も全部自分とこにあるものだった。とにかくゼニがいらんごちそうだった。というより、現金がなかっても食っていける時代だった。
“どうやぶり”のドジョウうどん
自治会でドジョウうどんをする時は豪快だった。祭りの獅子の打ち上げが多かった。“どうやぶり”という慰労会だった。漢字では“陶破り”って書くんかな。昔は、この辺に北原、内間、南側の3つの獅子があったが、一時は全部すたれてしまった。それぞれの獅子組が競争のようにドジョウ汁を楽しんでいたことが懐かしい。
長らく寂しい思いをしていたが、10年ほど前に北原、一里山、塔原の自治会による北原の獅子組だけが復活した。町内で唯一の親子獅子が宇佐八幡宮の本宮と北の宮の秋祭りを彩っている。けど“どうやぶり”は復活していない。大人も子供もみんな普段からうまいものを食っているから、祭りになったからドジョウ汁を楽しむという習慣もなくなってしまった。いつでも食えるうまいうどん屋がどこにでもあるし、町内でもドジョウうどんを出す店もできている。
自治会で婦人会によるごちそうのもてなしはあるが、みんなが集まって腹いっぱい食う打ち上げのドジョウ汁も復活したらいいのにと思っている。