観音寺にも「喫茶店のうどん」があった
- 昔の観音寺市内のうどんの記憶を教えて下さい。
- 昭和38年に高校卒業やけん、昭和28年~29年頃やのう。はっきりは覚えとらんのやけど、中洲(観音寺市観音寺町)のそこの隅っこ、餃子屋の横にわしの同級生の親がやってたうどん屋があったはずや。それから中州の元の郵便局、今は薬局があるところ、あそこらにもうどん屋があったように思う。あと、肉屋の隅っこにも1軒。そこらのキャンデー屋でもうどんを出しよったような気がする。
- そこのうどんには、どんなものが乗ってましたか?
- ここらはアゲを小さく切って乗せよったな。すうどんが10円やったかな、それが20円のところは、アゲと板カマボコが乗っとった。
- うどん屋におでんや中華そばはありましたか?
- おでんはあったよ。「柳川」は製麺やけんなかったけど、一般のところにはあった。うどん屋に中華そばは、わしらの時にはなかったな。
- うどんを出す喫茶はありましたか?
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あった。「ナギサ」っていう喫茶がうどん出しよったん覚えとるわ。わしが中学校か高校くらいかな。店が細長いんや。そこで喫茶やのに赤玉ポートワインも出っしょったんや。わしらは常にはコーヒーかミルクセーキやけど、一回赤玉ポートワイン飲んだら酔っ払って、「よう帰らん、自転車で乗せて帰ってくれ」言うて連れて帰ってもろたことがある(笑)。
あと、「かなくまうどん」の「福田」いうのは、昭和20年代は餅と赤飯しかしてなかったんや。そこの親父さんは中学校の先生しよっての、「トラさん、トラさん」言うたり「トラさん、ウマっさん」言うたりしよった。馬に乗って中学校まで通勤しよったから「「ウマっさん」いうてあだ名がついとったんやけど、その人が定年になって先生を辞めて、「“どうせならうどんするか”言うてうどんもやりだした」いうてうちの兄貴が言いよったわ。わしが行き始めた時はその親父さんはおらんかったけどな。今は息子さんがやっりょるやろ。
「柳川」のうどんはほんまにうまかった
- 家でうどんは打ってましたか?
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打ってたよ。打ったけどね、店のうどんのようにはうまいこといかん。やっぱバサバサになるね。当時は、よその家でも上手な人はそんなにおらんはずぞ。家でやったら粉が飛ぶで。それで、家でうどん打つのはみんなイヤなんや。
うどんの玉は買うて来よった。わしが小学生くらいの時(昭和20年代)に、兄貴の甥子が同じ小学生だったから家によう来よったんやけど、そのたびにおふくろが「柳川でうどん玉買うてこい」言うて。で、うどん玉を買うてきて、ダシはヒガシマルのうどんスープや。あれを使うとるの知らんで食うて「おいしいおいしい」言うての(笑)。ほいで今度は、あそこ(柳川)行って食べようと。うちの子供の旦那も結婚してこち来たらあそこ行って食べて。
何年か前にね、岡山で写真の仕事しよった時に、仕事の先輩を柳川に連れて行ったんよ。「お前、こっち(観音寺)来るんだったら昼飯食うて来るな」言うて、柳川に行って「ざる大」や。そしたら「おいしいおいしい」言うて、その上にキツネも頼んでペロッと。ほんでお土産に玉まで買って帰って喜んでな。
- 昔は大食いの人が多かったみたいですね。
- わしは若いうちは県外に出とったんやけど、こっちに帰ってきた時、今の消防署のそばにあったうどん屋で、冷やし10杯ぐらい食うて店の人にびっくりされたことがあるわ。普通に食べとったんやけどの、具材も何もなしで。けど今はもうそんなには食えんで。
広島でうまいうどん屋を探しよった
- 県外でもうどんは食べてたんですか?
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昔、広島におった時には「どっかにうどんのうまい店はないか」ってずっと探しよったわ。あっちはダシはカツオダシでまあまあうまい方やったけど、麺がダメだった。角が丸い。「むさし」いううどん屋があって、そこが何とか食える店だったけど、麺のうまさでないんよ。「ダシがうまいから食える」いううどんや。
もう一つ、駅の裏のちょっと行った所に「讃岐うどん」いうて書いたうどん屋があったんやけど、そこのもまあまあ食えた。「サラダうどん」いうのがあっての。当時、サラダうどんいうのは観音寺にはなかったから珍しかったわ。それから広島の駅おりて地下街を裏の方に行っきょったところに一軒、「いわた」いうのもあった。そこは製麺所やったから、そこに行って食べるんはうまい。けど、そこの麺を卸して別の店で食べるんはイマイチやった。
本山寺で冷やしうどんのお接待を受けたことがある
- 法事の時にうどんは出してましたか?
- 法事の時は、わしはうどんはあんまり覚えないね。ただ、お寺のお接待でうどんを食べさせてもろたことはある。わしのすぐ上の兄の子供が亡くなった時に、70番札所の本山寺でお墓を建てたんやけど、そこでお地蔵さん祭りがあって、その時にお寺が接待で冷やしうどんを出してくれた。五重塔の前の池の近くにようけお地蔵さんが立っとんや。そこで特別に出してくれよって、わしは毎年行って食べよった。みんなに食べさせてくれるんとは違うぞ。そのお地蔵さんのところの人だけ。うちは叔父がお寺にいろいろ納めたりしとるから、呼んでくれよったんやろな。風習いうたらそれぐらいのもんかの。うどん風呂? 家ができたら長老が一番風呂に入ってうどんを食べるんか。そういう話は、こっち(観音寺)では聞いたことないな。
●編集部より…萬谷君が“行きずりのおじいさん”に聞き書きしてきた話だそうです(笑)。断片的ですが、
・昭和30年前後の観音寺に、うどんを出すキャンデー屋があった。
・昭和30年前後の観音寺に、うどんを出す喫茶もあった。
・昔は冷やしうどんを一度に10杯食べるおっさんがいた(この方ですが・笑)
・本山寺で関係者だけのお接待で冷やしうどんが振る舞われていた。
等々、なかなかリアリティのある話をいくつか頂きました。
ちなみに、この方が小学生だった昭和20年代に「柳川でうどん玉を買って、ヒガシマルのうどんスープでダシを作って食べていた」という話がありましたが、ヒガシマルのホームページで同社の沿革を確認しますと、「昭和39年、うどんスープを発売」とありました(笑)。人の記憶とは、往々にしてそういう一面があるわけですが、本プロジェクトは「人の記憶のデータベース」を趣旨としていますので、「証言内容が完全に正しいかどうかは最優先事項ではない」ということを前提としてお読みいただければ幸いです。とりあえず、「ヒガシマルのうどんスープは安心のうまさである」ということだけ頂いておきましょう(笑)。