ほのぼのと、讃岐うどんの話題あれこれ
讃岐うどん界は新聞記事を見る限り特に沸き上がっていないようですが(笑)、ほのぼのとしたコラムの中に、うどんに関する言葉や習慣に触れた記述がいくつか見つかりました。
「うどんは別腹」
まずは、讃岐うどんを語るフレーズの代表とも言える「うどんは別腹」というフレーズが、初めて新聞に出てきました。
コラム「一日一言」
(前略)…随筆雑誌『無帽』の最近号に、「うどんは別腹」という書き出しで興味深い一文が載っている。「わしの若い頃には…といった類の話では“うどんを一せいろも平らげた”というようなことをよく聞かされる」というのを読んだ翌日、ある青年から「一せいろは自分も最近食べたことがある」と聞かされてびっくりした。この青年は高松に手打ちうどんを作っている店で1杯12円で食べさすところがあることも教えてくれた。味の点では100円の店にも劣らぬそうだから、ぜひ一度行ってみようと思っている。「安かろう、うまかろう」の店があれば、うどん好きには鬼に金棒というものだ。
いろいろ調べてみると、「『○○は別腹』という言い回しがポピュラーになったのは、『ケーキは別腹』が流行り始めた1990年代(平成時代)だ」という評論が見つかりました。「○○は別腹」というフレーズは巷ではもっと前から使われていたような気もしますが、いずれにしろ、この昭和42年(1967年)の『無帽』という随筆雑誌に寄稿した方が使った「うどんは別腹」のフレーズは、確実に早い。よって、この寄稿者の方を「『うどんは別腹』をいち早く世に出した功労者」として称えたいと思います(笑)。
そして、うどんは別腹なので「一人でうどんを一せいろ食べた」という豪傑話も出てきました。一せいろの玉数は20玉とか24玉とか店によって違うところがあるようですが、「昭和の証言」でも昭和20年代に「20~25玉が入るせいろを5つくらい作っていたのを覚えている。とにかくみんな食べる量がすごかった。4~5玉は普通で、大食いの弟は1せいろを1人で食べてよく怒られていた」という話が出てきたように(「昭和の証言」vol.191)、普通の人が1人で一度に食べられる量ではありません。想像するに、昔はうどん玉をダシだけで食べることが多かったので、わんこそばみたいにどんどん食べる人が結構いたのかもしれません。
ちなみに、「(うどん1杯)100円の店がある一方で12円で食べられるところがある」とありますが、その「12円で食べさせてくれる店」というのは、ちゃんとしたうどん店でなくて「製麺所がついでに間に合わせで食べさせてくれる」という、今日の讃岐うどん巡りブームの原動力となったスタイルの製麺所がすでにあったのではないかと思います。しかし、まさかそういう製麺所が後にブームを牽引することになろうとは、まだ誰も思ってもいない時代です。
次に、「讃岐の冬の味」という連載コラムの「うどん」の回でいくつかの小ネタが出ていましたので、小分けにしてピックアップしてみましょう。
「多度津の角のうどん屋で…」
コラム「讃岐の冬の味」…うどん
(前略)…うどんを扱った料理は、大阪風のうどんすきから、しっぽく、なべ焼き、きつね、山かけ、月見、玉子とじ、湯だめなど数多い。そのほとんどが熱いダシ汁をフーフー吹きながら味わう冬場のもの。「多度津の角のうどん屋で…」と言われるほど値も安く、庶民性は昔と変わらず現代に生きているようだ。
「たろつのかろのうろんやで うろんろっぱい はらろぶろぶ(多度津の角のうどん屋で うどん六杯 腹どぶどぶ)」という歌(言い回し)は「昭和の証言」で何度か出てきましたが、新聞に出たのはこれが初めて。これは「多度津には道の角ごとにうどん屋がある」という、当時の多度津のうどん屋の数の多さを歌ったものだと言われていますが、このコラムでは「うどんが安い」という例えに使われています。新聞のコラムの書き手が初歩的な間違いをそのまま載せるとは思えないので、もしかするとあの歌には「うどんを6杯食べて腹が一杯になっても大して懐具合に響かないくらい安い」という意味合いもあったのかもしれません。
白さで劣る“讃岐の地粉”が、色の白い外国産小麦粉に押され始める…
続いては、「地粉の色」の話。
まず、「原料の粉は讃岐の小麦が昔からよいとされる…」とありますが、何が「よいとされる」のかについては、少々曖昧な部分を含んでいます。例えば、香川の小麦は昭和20年代に兵庫、岡山と並んで「三県小麦」と呼ばれていて全国的にも評価が高かったようですが(「昭和26年」等参照)、当時の「三県小麦」の評価としては「最も歩留まりがよい」とだけしか書かれておらず、生産性の高さは評価されているものの、「味」の評価には全く言及されていません。そこへきて、“讃岐の地粉”は「色の白さの点で最近地元の小麦粉は敬遠されがち」という話が出てきました。
当時を知る製粉関係の方に伺ったところ、国産小麦は外国産小麦に比べて色が黒ずんで(黄ばんで)いたそうなのですが、昭和40年代は特に色の差が大きかったとのこと(オールドファンなら、かつて仲南町にあった「水車うどん」の地粉100%の色の濃い麺を思い出していただければよいかと)。それでも、「讃岐の小麦は色は悪くても味がいい」という話であれば「白いうどん」に流れることはないはずなのですが、「色の白いうどんの方が好まれつつあった」ということは、当時の香川県民は、地粉の「味」についてもあまり強い思い入れがなかったのではないかと思います。
ちなみに、白さの足りない地粉が敬遠されがちだったということは、この頃すでに「色の白い」外国産小麦を使ったうどんが香川で出回っていたということです。戦後の輸入小麦の中心だったアメリカやカナダ産の小麦粉は、その大半が「パン」に使われていたと推測されたり(「昭和37年」参照)、「昔の讃岐うどんは全て県産小麦で賄っていた」という話も聞きますが、この新聞記事を見る限り、少なくとも昭和42年頃には、県産小麦粉より“白い”外国産小麦粉が「うどん」にも相当量使われていたのではないでしょうか(ただし、昭和42年はまだオーストラリア産ASWの全盛時代ではありません)。
そしてコラムは、讃岐のうどん作りの機械化にも触れています。
昭和40年代初頭は、讃岐うどん界の第一次機械化ブーム?!
「機械化の現代では…」とあるように、昭和42年にはすでにうどん作りの工程に「機械」が入り始めていたようです(もちろん、今のような最新機器ではありませんが)。この機械化の時期については、「開業ヒストリー」で「山越」さんが「昭和40年代の最初の頃に、保健所の人が“衛生面を改善するために機械化しろ”とうるさく言ってきて、その時に買った機械のローンで長い間苦しんだ」と話していたことと合致しますので、この頃に讃岐うどん業界に「第一次機械化ブーム」が来たことはほぼ間違いないでしょう。ちなみに、2019年に放送されたNHKの「新日本風土記」で「讃岐うどん」が紹介された時、「昭和50年に観光客から“うどん店の足踏みは不衛生だ”というクレームが保健所に寄せられ、間に立った香川県の衛生課が足踏みの機械化を検討。それを受けて地元の麺機製造会社が足踏み機械の開発に成功した」というストーリーが語られていましたが、件の麺機製造会社の沿革を見ると「昭和41年に足踏みを機械化した1号機が完成」とありました(笑)。ほんとにもう、NHKったら(笑)。
そして、“うどん党”が「(機械化によって)昔の手打ちうどんのようなコシコシした舌ざわりが消えた」とお嘆きとのこと。今も昔も、うどんに限らず何でも、“オールドファン”の嘆きは同じです。ちなみに、うどんはたいていのコメンテーターが「ツルツル、シコシコ」と言いますが、当時の新聞は「コシコシ」です。腰があるので「コシコシ」かもしれませんが(笑)、「シコシコ」って、誰が言い始めたのか。まさか、「コシコシ」の言い間違いが起源だったりして(笑)。あと、「インスタントラーメンが出てきてうどんが影を薄める」とは、讃岐うどんって、当時はそんなものに負けるような存在だったんですね。
「若い人たちにうどんの人気がない…」
次は料理コラムですが、ここにも、うどんに関する“後ろ向き”な一行が出ていました。
若い人にも喜ばれる 生のうどん、マカロニを使って即席料理のあれこれ
最近、ポリ袋入りで生のマカロニやスパゲティが売り出されています。そのまま料理ができますから、製造月日を明記したなるべく新しいものを買うこと。そこでこれらの生のマカロニ、うどん、そばなどを使った即席料理をいくつか紹介しましょう。今の若い人たちにうどんの人気がないのは、味が淡泊すぎて、もの足りないのが大きな原因。思い切ってバタくさい料理を工夫すれば、喜ばれること請け合いでしょう。うどんをはじめマカロニ、スパゲティ、中華そば、いずれも作り方の要領は共通。好みの味つけで、手に入る材料からどうぞ。(レシピ略)
「若い人たちにはうどんの人気がない」とのことです。昭和40年代は洋食や中華が街にも家庭にもどんどん広がって、若者は圧倒的にそちらに流れていた時代です。ちなみに、筆者がタウン情報誌に携わり始めた1980年代(まさに昭和の終わり)には、地元香川の若い世代は「うどん」に対して「サラリーマンの昼飯仕様、オヤジの食べ物、オシャレじゃない食べ物」…というイメージを圧倒的に持っていました。そんな「讃岐うどん」が若い世代にももてはやされるようになったのは、「怪しい製麺所巡り」という「レジャー」がブームを巻き起こした1990年代中盤以降のことです。ブーム以前の「昭和の讃岐うどん」は、昔からずーっと「若い世代(特に若い女性)は難攻不落のターゲット」だったのです。
久しぶりに「夜鳴きうどん」の話題が
続いて、「夜鳴きうどん」の話が出てきました。
コラム「冬の夜を食う」
讃岐のうどんは腰が強く、なかなか味がよい。県下のどこを歩いていても「手打ちうどん」の看板に出くわす。国鉄高松駅では、県内はもとより県外の夜の乗降客に特に讃岐うどんが賞味されているようだ。こうした立ち食いのうまさもうどんの味とともに何ともいえず、この頃の寒波にさらされた体も一杯すするとぽかぽか暖まる。
「夜鳴きうどん」もかつての政界の大御所故三木武吉が大好物で、その食い逃げの話は有名。うどんの話が出ると、古老たちはこの“物語り”をよくしてくれるものだ。食べ方もいろいろあって、地方によって多少異なる。それだけに郷愁がいっぱい。
最近は飲食店のうどんがアカヌケし過ぎたきらいがある。やはりダイコンや油揚げ、ニンジンなどいっぱい入った「シッポクうどん」が食べたくなった。木枯らしに吹かれるちょうちんが目に飛び込むのも、“うどんの気持ち”がよくわかるからだ。
「夜鳴き」はチャルメラみたいな屋台の客寄せの音のことで、「夜鳴きうどん」は要するに「屋台のうどん」のことです。四国新聞に香川県内の「夜鳴きうどん」が初めて登場したのは、昭和28年。その時の記事は「夜鳴きうどん」についての何の注釈もなく、当たり前に存在していたような扱いでしたが、それがここでも普通に使われていますので、香川県内の「夜鳴きうどん=屋台のうどん」は昭和42年になってもそれなりに健在だったと思われます。ちなみに、有名な三木武吉先生が中学3年の時に起こしたと言われる「うどん食い逃げ事件」も屋台のうどんだったそうですが、明治17年生まれの三木先生が中学3年だったのはおそらく明治32年頃。ということは、香川の「屋台のうどん」の歴史は確実に明治時代に遡ることになります。あと、ここでも「最近は飲食店のうどんがアカヌケし過ぎたきらいがある」という、当時のオールドファンの嘆きが語られています(笑)。
やはり名物、讃岐うどん
続いて、おなじみの物産展の記事をご紹介。この年は11月に東京日本橋で開催されました。
手打ちうどんに行列 人気呼ぶ四国の物産展(東京)
第16回四国の観光と物産展(四国四県主催)が7日から東京・日本橋で開かれ、相変わらずの人気を呼んでいる。4県の郷土色豊かな民芸品や特産の食料品それぞれ数万点が出品、即売されている。香川からは瀬戸内海特産の海産食料品、オリーブ製品、郷土みやげの菓子類、「ムカデダコ」「一刀彫り」などの郷土玩具など数千点が出品されている。この他、今回は特に県特産の黒松、錦松などの盆栽や、変わったところでは金子知事のアイデアだという室内装飾品に代用した漁業用タコつぼなどが売られている。全般に今回は高級品は少なく、50円から500円止まりの製品が多い。
また、会場ロビーには「観光案内所」を設置、「観光旅行は南国四国へどうぞ」とパンフレットを配布したり、係員は汗だくだった。四国の観光名所のカラー写真パネルに若い人たちの視線が集まっていた。今やすっかり東京人におなじみになった「四国茶屋」では讃岐名物の手打ちうどんや徳島のヤキモチなどが人気を呼び、食券売り場には列ができるほどだった。
この他、同デパート内の劇場では観光映画の上映、屋上では香川の文化財「南川太鼓」、高知の「大刀踊り」などのアトラクションが行なわれている。県東京物産斡旋部の平井次長は「四国の物産展も今や三越名物。東京の人にもすっかりおなじみになり、なかなか好評です。売り上げも香川だけで1日15万円程度を見込んでいる」とニコニコ顔だった。会期は12日までの6日間。
そして、別のコラムでも物産展の話に触れていました。
コラム「讃岐の冬の味」…うどん
手打ちうどんは讃岐を代表する食べ物だろう。たびたび東京のデパートで開かれる県下の物産展でも、在京県人の人気を呼ぶのが「うどんの手打ち実演」だ。手打ちうどんは“きそば”のようにオツにとりすましたムードがない。容器からして丼鉢で、ボリュームたっぷりの庶民の味はうどん特有のムードを感じさせる。
相変わらず、物産展の「讃岐うどん手打実演」は大好評です。当時から、そばはちょっと取り澄ましたイメージ、うどんは庶民派のイメージが定着しています。ちなみに、ここまで讃岐うどんのPR活動としては「物産展」絡みの話しか出てきませんが、「行く先々に讃岐うどんを手土産で配っていた」と語り継がれ、讃岐うどんの全国PRに大きく貢献した金子知事(知事在任は昭和25年~昭和49年まで)は、この頃も当然、盛んにPRに務めておられたはずです。
「たらいうどん」の記事が2本
この年は「たらいうどん」に関する記事が2本見つかりました。「たらいうどん」は徳島県の土成町あたりの名物ですが、記事で紹介されているのは白鳥町のたらいうどんです。白鳥町は県境を挟んで徳島県土成町と隣接する地域なので「たらいうどん文化」がある程度共有されていたのかもしれませんが、本稿の最後に高松市内のたらいうどんも出てきますので、うかつに結論は出せません(笑)。
野趣味満点のタライうどん
大川郡白鳥町白鳥の湊川のほとりに「タライうどん」の店がお目見え、珍しさもあって人気を呼んでいる。岩の上に設けられたさじきでタライに入った手打ちうどんをツルツル…。野趣味満点とあって、通りがかりのドライバーや白鳥本町、三本松方面から客が押しかけて夕方時は満員。近くのある手打ちうどんの業者が1日から店開きした。開店したばかりなのに、町役場、農協などの職員や手袋会社の従業員が団体でやってくるなど、結構繁盛している。うどんの他、ウナギ、アユなどの川魚の料理もある。店のある場所は藤井橋のすぐ上流で、湊川でも一番水量の多いところ。夏になると、ここから奥の徳島県側に以前からタライうどんの店が出るが、遠いのが難点だった。しかし、ここは国道からも比較的近いので、客足さえ続けば、秋にはマツタケめしを出し、白鳥町の新名所にしようと業者は張り切っている。
お隣の土成町のたらいうどんを真似て、白鳥町に「たらいうどん」の店がオープンしました。新聞に掲載された写真を見ると、記事に「岩の上に設けられたさじき」とある通り、竹の手摺り越しに清流を見ながらのオープン席でお客さんがたらいに入ったうどんを食べていました。残念ながら記事に店名はなく、今日「白鳥町の新名所」としても残っていないようですが、世が世なれば、そのロケーションは讃岐うどん巡りの番外人気スポットになっていたかもしれません。
コラム「一日一言」
白鳥町の山の手へ写真の仕事で出かけた友人が「たらいうどん」をごちそうになった話をしてくれた。清流の上に櫓を組み、そこでたらいの中に浮かした冷やしうどんを食べたという。さぞかし涼しかったことだろう。「たらいうどん」と言えば、本場は徳島県の土成町で、川で取りたてのジンゾクという小魚(ゴリの一種)でダシを作り、大きなたらいに入れたうどんを川原で食べる牧歌的な野外料理だが、県下でも手打ちうどんを専門にしている店があちこちで小さなたらいにうどんを入れて出す傾向が見られる。「湯だめ」とか「冷やしうどん」と呼ぶ代わりに、はっきりと「たらいうどん」と書き出しているところもある。材料のうどんそのものがいいのだから、たらいという民芸調の器具を生かした演出で、やがて本家のお株を奪うかもしれない。たらいとは元々「手洗い」がつづまった言葉で、一茶の「たらいから たらいに移る ちんぷんかん」は、産湯から湯灌(ゆかん)まで、外国風に言えば「ゆりかごから墓場まで」という人間の一生を「ちんぷんかん」の6字で巧みに表現している。…(中略)…そのたらいがうどんに結びつく小道具に生まれ変わるとは、世の中もおもしろい。
先の記事を受けて、「一日一言」も「たらいうどん」を話題にしていました。一言子によると、香川県内のうどん店で「湯だめ」や「冷やしうどん」を「たらいうどん」と書いて出しているところがあるとのことです。改めて言うまでもありませんが、「湯だめ」は水で締めたうどんを温め直して湯と一緒に器に入れてつけダシで食べるメニュー、「冷やしうどん」は水で締めたうどんを冷水と一緒に器に入れてつけダシで食べるメニュー、そして徳島の「たらいうどん」も香川の「冷やしうどん」と同じく水で締めたうどんを冷水と一緒に器に入れてつけダシで食べるメニュー。つまり、いずれも「水締め麺」を使うメニューです。水で締める前の「釜あげ麺」を使う「釜あげうどん」は、昭和42年時点で、まだ新聞には全く出てきません。
ドジョウ汁と打ち込み汁
続いて、「讃岐の冬の味」というコラムに「ドジョウ汁」と「打ち込み汁」が出ていました。
コラム「讃岐の冬の味」…ドジョウ汁
テレビドラマに「女とみそしる」(平岩弓枝原作)というのがあった。ある男がおいしいみそ汁を作る芸者によろめく物語で、全国の主婦に深い反省を促したそうである。みそ汁は、日本人にとって“心のふるさと”に触れるようなもの。そして、健康増進を図る一番の早道だ。全国各地にそれぞれの名物みそ汁があることでもそれがわかろうというものである。米どころ香川は、中でも白みその産地。内海のタイを入れた「たいとう汁」が名物としてあり、高松市内にはみそ汁専門の店も開店されている。
まずは導入部で、内海(小豆島)の「たいとう汁」なる料理が出てきました。ご当地の名物とのことですが、ネットレベルで調べても全く引っかかってきませんので、もはや「消えた名物」と言わざるを得ません。ちなみに、これまでの新聞に出てきた「ほとんど消えた名物」には、
●丸亀・浜町銀座の三角おこわ(「昭和27年」参照)
●讃岐名物「鯛の浜焼き」(「昭和33年」参照)
●讃岐名物「源平鍋」(「昭和39年」「昭和40年」参照)
があります。小ネタの「三角おこわ」は今も善通寺の「長田in香の香」で出ていますが、大物感のある「鯛の浜焼き」と「源平鍋」は名物の“育て方”を間違ったのか、せっかくの素材が大成しなかったのは残念です。誰か、うまいプロモーションを仕掛けて復活させませんか?
その他、これまでの新聞に出てきた「消えたうどん関連商品」は、
●讃岐の乾麺「香川の月」(「昭和27年」参照)
●豊浜の乾麺「浜うどん」(「昭和27年」参照)
●高松名物「どんとんうどん」(「昭和39年」参照)
●さぬき麺業「讃岐スパゲッティー」(「昭和40年」参照)
など。こちらはちょっと復活は厳しいですか(笑)。
あと、「高松市内にみそ汁専門の店も開店」とありますが、たぶん昭和41年に開業した「汁の店おふくろ」です。で、「ドジョウ汁」のコラムの本編はここから。
作り方はドジョウを塩で殺して水洗いし、ダシで煮て、ワキ役のささがきゴボウ、ネギ、生シイタケ、とうふ、油揚げなどを実として入れる。さらに、打ち込みうどんを入れるのもうどんどころ讃岐ならではのもの。みそは白みそか中みそが最適で、みそを入れて煮上がる前に食べるのがコツ。出来上がりに七味トウガラシ、青ノリをふりかけると一段と風味が増す。「跳ねるドジョウを煮立つ鍋に入れ、ドジョウがとうふの中へ首を突っ込む」という学のあるところを見せる人もいる。一昨年高松に開店したみそ汁専門店の板前さんは、この道14年のベテラン。「おいしいドジョウ汁のコツはだしの取り方にあるが、何といっても自分で作って食べてみて、味を工夫することが大切」という。1人前飯付きで200円。
ドジョウ、野菜、豆腐、油揚げなどに「打ち込みうどん」を入れたものが「ドジョウ汁」だ、と書かれています。今日の讃岐うどんのメニューではこれを「ドジョウうどん」と呼ぶところが主流で(といっても「ドジョウうどん」を出す店は少ないですけど)、「打ち込みうどん」もドジョウ汁に入れるものではなくてそれ自体でメニューとして成立しているのですが、昔は呼び方が違っていたのでしょうか。
ちなみに、ここには「ドジョウ汁は秋から冬にかけてがシーズン」と書かれていますが、四国新聞のサイト内にある「21世紀へ残したい香川」の「ドジョウ汁」の項には「ドジョウは梅雨明けから九月までがシーズン」とあります。「昔のドジョウは旬の時期が違っていたのか?」という疑問を抱えたまま、続いて「打ち込み汁」のコラム。
コラム「讃岐の冬の味」…打ち込み汁
インスタント・ラーメンなどの即席食品に慣れた現代っ子は、「打ち込み汁」と聞いたら首をかしげよう。いろいろな冬の味が登場した中で、この味だけは過去のものと言えるだろう。戦前生まれの讃岐っ子なら、打ち込み汁の味を記憶しているはず。人によっては、名前に郷愁を感じても「あの味はどうも…」と言うかもしれない。それぐらい、この料理は土の香りがプンプンしている讃岐だけの冬の味だ。どだい、料理屋や飲食店のメニューから相手にされない存在。見栄坊や気取り屋には不向きなドロ臭い家庭料理である。だから、登場する舞台もいす、テーブルの明るい食堂より、くすんだ茶の間のいろり端の方がぴったりしそうな冬の味ということになる。
料理方法にしても、手打ちうどんをしている家庭なら格別のコツはない。サトイモやシュンキク、ネギ、ニンジンなど、季節の野菜をどっさり使って、イリコをダシにぐつぐつ煮込む。イリコは特に大きめのものが利用されやすい。煮立ったところへ小麦粉をよく練って包丁で細長くうどん状に切ったものを入れるだけ。「野菜の多いおすましかみそ汁に、親指大もあるうどんのキングサイズがミックスされたもの」と思えば間違いない。
塩分を抑えた麺類を汁に加えたところに、打ち込み汁の由来がある。めん棒で巻きながらトントン打って練り上げたものほど、腰の強い打ち込み汁だ。温かいうちに食べるもので、冷えると麺類が崩れて味はガタ落ち。1杯で体中がポカポカし、2杯もやれば満腹すること受け合い。戦前、経済的にも恵まれなかった各農家などでは、この打ち込み汁を冬場に作り、ご飯を減らしたという。半面、妊産婦には、この料理が豊かな母乳の出に結びつく利点もあった。実質本意の家庭料理には暮らしの知恵が生きている。だが最近、打ち込み汁を味わう家庭は大幅に減ったようだ。
今日の讃岐うどんのメニューで「打ち込みうどん」と呼ばれているものが、このコラムでは「打ち込み汁」とされています。何か用語が混乱してしまいますけど、もしかすると当時は「ドジョウうどん」や「打ち込みうどん」というメニューがなかったのかもしれませんね。さらに、ここで言う「打ち込み汁」には「親指大もあるうどんのキングサイズ」を入れていたと書かれていますから、その姿も今の店で出ている「打ち込みうどん」とは少々違っていたようです。それにしても、昭和42年時点で「打ち込み汁」は“過去のもの”になりつつあったということは、今日の「打ち込みうどん」は昭和初期の郷愁のメニューを受け継いだ貴重なうどんかもしれません。
香川の名物グルメ事情
では、うどん以外の郷土の食の話題をいくつか拾ってみましょう。まず、讃岐うどん界の「つけダシ」の師匠とも言える料理研究家の土井勝先生を囲んで、四国4県の料理学校の代表者等を集めた「ふるさとの味を語る」という座談会が行われ、その内容が新聞で紹介されていました。そこで、香川代表の松田さん(高松女子商校長)、久保さん(久保料理学院院長)、三野さん(横井料理学院院長)が、こんな発言をされていました。
松田 正直なところ、自慢の郷土料理というのは一つもございませんね。その理由を申しますと、海の幸に大変恵まれ、新鮮なお魚を好きなように料理して食べていたからでしょう。昔から讃岐の名物は「しょうゆ豆」と言われていますが、これは何か郷土の食べ物をこしらえなければならないというのでできた料理です。ソラ豆はあまり立派なものでなく、小粒でくるりとしているもの。特徴のあるソラ豆がしょうゆ豆によく適しています。それからお祭りの時は必ずお寿司をする慣習が残っていますが、その「五目ずし」がまたおいしいですね。魚類ではタイの潮汁、タイの荒煮、サワラの塩焼きなど、春になると高値でも一度はサワラを買い、酢につけて、押し寿司を一番のごちそうとしています。
土井 サワラが刺し身や酢づけなどにして生で食べられて、香川県は恵まれています。ソラ豆とサワラと木の芽で「まぜ寿司」をして、母が勘で味付けしたのが我が家の味でした。
久保 その頃は野生のフキもたくさん出回りますね。フキとサワラ、あるいはタケノコなど野生のものも豊富。私の田舎に三つ子池というのがあって、昔の人はフナとかコイを“てっぷあえ”などにして見事に料理していましたね。
三野 西讃地方では麦刈りの前にソラ豆とサワラの煮たのをいただきます。きれいな料理ではありませんが、「あれを食べなければ」というほどおいしいのです。観音寺はエビの姿焼き、かまぼこなどがおいしいですね。
土井 結局、新鮮な海の幸、山の幸が豊富で、どんなにして食べるか手のかけようがなくて、手の込んだ郷土料理ができなかったといえましょうね。
松田 「源平なべ」などという寄せ鍋がありますが、あれは観光用のもので、決して郷土料理とはいえません。三木武吉翁は晩年小豆島で過ごされましたが、非常にうどんが好きでした。漬物を細かく刻んでゴマを振ったものなども好まれました。
久保 おつけものの話が出ましたが、たくあんは夏になると酢っぱくなるので、ダシジャコとトウガラシを入れてよく煮ます。酒の肴にもなりますし、ご飯がおいしくいただけて重宝がられています。
いろんな素材や料理がたくさん出てきて、当時の郷土料理の様子がよくわかる貴重なお話ばかりですが、松田先生の「自慢の郷土料理というのは一つもございません」とか「源平鍋は観光用の者で郷土料理とは言えない」という一刀両断の発言が衝撃(笑)。新聞や雑誌に載る座談会の文章は編集されていますから、ご本人の発言内容と齟齬があるかもしれないことは承知の上で、松田先生、今ならテレビで人気者になれそうな素敵なキャラクターです(笑)。けどそうですか、源平鍋は郷土料理とは言えないんですか。
小豆島はそうめんと冷や麦が絶好調
続いて記事の最後は、小豆島の乾麺の概況。そうめんだけでなく、冷や麦も絶好調のようです。
夏場食品の売れ行き急増 異常天候が助長 小豆島の手延べそうめん、全国から注文殺到
(前略)…冷や麦、そうめん、麦茶などの荷動きが活発化するのは例年6月中旬頃。しかし今年は高温続きで、1カ月余り早い5月初めから小売商、そば屋などからの引き合いがひっきりなしに舞い込み、問屋によっては5月だけで昨年の5、6、7月の3ヵ月分を売ったところもあるという。「冷や麦、そうめんの在庫は予約以外はありません」と注文に追われる本場小豆島の製造元。「ここ2、3年、東京からの注文が増えた」と小豆島の業者は言っている。
手延べそうめんの産地、小豆郡池田町で昨年11月からこの3月末にかけて寒製そうめん6万箱(18キロ入り)が生産されたが、注文が殺到して大半の出荷を終え、残りも予約済み。業者は125軒で、多くは農家の副業。販路は九州、中国、四国、関東方面で、特にここ1、2年は東京からの注文が目立つ。「昨年に比べ、10%強の伸び」(ある製粉大手メーカー)と控えめのところもあるが、「昨年に比べ20%増は確実」という話もある。また、「高級品の手づくりの冷や麦は昨年より50%多く入荷したが、すでに在庫は底をついた。さらに大量生産の機械製の冷や麦、そうめんも出荷は30%も増えた」と大手卸し問屋は悦に入っている。
(中略)…冷や麦、そうめんのここ数年の年間消費量は6億~7億食で、乾麺全体では乾うどんが低下、冷や麦は5~6%増、そうめんは1~2%増の傾向にある。それが今年は5~6月にかけて一挙に30~50%も増えようというのだから、業界が喜ぶのは無理もない。小豆島の観光客のオアシス「銀波園」などでは、寒製そうめんを使って冷やしそうめんを作っているが、観光客に飛ぶような売れ行き。島巡りの途中に立ち寄った観光客たちは、よく冷えたそうめんをすすり、「島の味」を楽しむ。その上、周囲の景色もよく、よけい味を引き立てている。「観光バスが一度に何台も着くと、冷やしそうめんの注文に追われ、大変です」従業員たちはうれしい悲鳴を上げている。(以下略)
過去の新聞に出てきた小豆島のそうめんの数字を並べてみると、
(明治初年頃)製造戸数…1000戸、生産高…15万箱
(昭和30年)…150軒、3万箱
(昭和31年)…130軒、4万箱
(昭和36年)…130軒、5万6000箱
(昭和39年)…130軒、5万箱
(昭和42年)…125軒、6万箱
という流れです。加えて、小豆島で「高級品の手づくりの冷や麦」が生産されていたという話も、たぶん初めて新聞に出てきました。
東京の讃岐うどん店が香川で求人
うどん関連の広告では、まず、東京から香川県人への求人広告が2本見つかりました。
<求人>讃岐食品株式会社高松出張所
●東京で働きたい方
▶勤務地/都内各デパート・京橋讃岐茶屋・深川工場・深川営業所
▶職種/経理事務員(女子)2~3人、ウエイトレス(女子)10人、賄婦(女子)1人、都内デパート派遣店員(男・女)10人、工場及び厨房要員(男子)10人、手打うどん実演販売要員(男子)5人、運転手普通免許所有者3人
▶待遇/月収1万5000円~3万円程度、賞与及昇給は年2回、通勤・住込任意、休日週1日、勤務時間午前9時~午後7時、社会保険加入
▶年齢/30歳前後まで(賄婦は50歳位まで)
▶経験の有無は問わない。
「讃岐食品株式会社」は、東京の讃岐うどんの元祖と言われ、都内に「讃岐茶屋」といううどん店を持ち、香川県の東京での物産展に常に出展していたらしい会社です(「昭和38年」参照)。昭和38年の記事では「社員20人を使う会社」とありましたが、昭和42年のこの時点では高松出張所を持ち、東京で働きたい香川県民を大量に募集しています。
<求人>東京で話題の店・観音寺出身「金比羅」
●急募/手打うどん職人
▶勤務先/東京・浜松町(東京タワー下)
▶給料/4万~4万5000円、三食・宿舎付
続いてもう一店、昭和42年に東京タワーの下に観音寺出身の「金比羅」といううどん店があったことが判明しました。うどん職人の月給は4万円台に上昇しています。
やはり「川福」と「源芳」
最後にいつものように、昭和42年の四国新聞に載ったうどん関連の広告を並べてみましょう。
まず、昭和40年から毎年、「川福」と「源芳」が広告を出し続けています。この年の1月、2月と続けて掲載されていた川福は、経営母体だと思われる「有限会社讃州屋」の名前の方が目立つ広告です。源芳は、「第二工場 日華食品」とあることから「源芳製麺」が第一工場なのかもしれませんが、すると「うどん店」ではなくて「製麺会社」なのかもしれません。
「味の新名所」とある広告はイラストに文字が乗ってほとんど読めませんが、「名代 うどん房」と書いてあります。「源芳ビル2階」とあるように、前出の「源芳製麺」の2階にあるうどん店ですから、源芳直営の店かもしれません。ちなみに、うどん房のメニューにいきなり「たらいうどん」があり、さらに「軽食堂かすが」の広告にも大きく「さぬきたらいうどん」とあります。前記記事中にも白鳥町のたらいうどんが出てきましたが、この頃、徳島のたらいうどんが香川に取り入れられ始めたのでしょうか。あと、「名代・手打ちうどん丸福」は、電話表示でおわかりのように、女木島の店です。
製粉・製麺会社の広告が3つ。うどん、冷や麦、そうめんのいずれも「乾麺」の商品です。