香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

三豊市山本町河内・昭和35年生まれの男性の証言

子供の頃は「打ち込みうどん」が讃岐の「うどん」だと思っていた(株式会社河内小学校校長・白川義樹さんのお話)

(取材・文:

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  • vol: 292
  • 2019.04.25

「普通のうどん」の記憶は高校時代から

 生まれも育ちも山本町の河内(こうち)です。今で言う普通のさぬきうどんを食べた記憶があるのは高校生くらい(昭和50年代)になってからで、それまではほとんど打ち込みうどんの記憶しかない。自宅で作っとった打ち込みが「うどん」や思とったから。自分とこで取れた小麦を製粉所に持って行って、粉にしてもらって自分ちでうどん打って打ち込みを作っとった。それが普通のうどんやとずっと思っとった。

 具材は自分ちで育てた野菜、大根とかにんじん。ダシはうどんに限らず、たいていイリコダシですね。味噌汁やってもイリコダシとるし。肉は入ってないな。僕らの頃は肉なんていうのはね、それこそ家で鶏絞めて食ってましたからね。玉子も打ち込みに入れて食ったという記憶はないですね。打ち込みは普段食べるもので、ごちそうではなかったですからね。

いつぐらいまで自宅で打ち込みを作っていましたか?
 打ち込みは今でも作りますけど、普通のうどんもしますよ。打ち込みは小っさい時はあんまり好きじゃなかったけど、普通のうどん食ったら普通のうどんの方がうまいじゃん。だから今は普通のうどんもよく打って食べますね。
子供の頃に「普通のうどん」を食べたのはどんな時ですか?
 小さい頃はうどん屋っていうのがあの辺にあったかどうかも記憶にないんですけど、お祭り、法事にはあったと思うな。宗派は真言宗。うどんが出てくるタイミングは法事の後じゃなかったかな。法事の時はたいていね、ばら寿司とかけうどんがあったかな。間違いなくうどんがあったのはお祭りと正月だったけど、法事っていうのは何年に1回じゃないですか。だから法事のうどんはあんまり記憶がないんです。

 学校の給食も、うどんはなかったですね。高校は学食にあったかもしれんけど、そのくらいですよ。食べたことはなかった。高校は観音寺一高だったんで、山本町から観音寺まで出るんです。だから腹減りゃうどん食うこともあるし、パン買って食うこともあるし。観音寺一高は商店街のとっつきですよね。そっからちょっと奥へ行けば商店街。当時行ったうどん屋は「つるや」。今もありますよ。メニューは普通にうどん言うたらかけしかなかったかな。天ぷらうどんくらいはあったんかな? 俺が好きやったのはざる。

うまいと思ったのは「渡辺」と「やまうち」

 大学の頃に初めて県外に出て、「讃岐うどんというのはよそと違うんや」というのを思いました。大学は徳島に行きましたけど、徳島の御所いうところに「たらいうどん」っていうのがあるんです。「湯だめ」みたいなん。ダシも香川とは違っていて、なんか玉子が入っとるんですけど、讃岐の味に慣れていたので口に合いませんでしたね。

 その頃、大学から帰って来た時によう行きよったのは「渡辺」。小汚いバスみたいな掘っ建て小屋でやっとった頃の「渡辺」。地元に帰ったらたいてい「渡辺」に行ってました。

 食べ歩いたりしたのは平成に入るちょい前、就職して2、3年目のバブルの時代。あのジュリアナ東京がようテレビで出よった頃です。あの頃、「うまいうどん屋があるから連れてったるわ」言うて電気屋の社長が連れて行ってくれたのが「やまうち」やった。今のあの家やなくて、今本宅が建っとるとこでやっとった時なんよ。あそこにボロ~い家があって、納屋があって、裸電球が2つか3つぐらいついてあって、「こんなとこでうどん食えるんかな?」思いながら半信半疑で入ったら、中で10人くらいうどん食っとるんよ。だまされた思て食ってみたらうまいんなあ! その先代の大将が「俺が気に入ったうどんは年に3べんくらいしかできん」て言いよって。「今日は?」て聞いたら、「今日は違う」て(笑)。けど、衝撃的にうまかった。これはうどんなんかな? うどんやな! そんな感じやったな。

 「やまうち」は、お客さんが来たらよう連れて行きよりました。ほんまにあの小汚~い店の頃。今みたいに竹藪の道もきれいじゃない。うっそうとした竹藪の中を通って、入って行って、中も何が居るかわからん真っ暗なとこに裸電球が3つくらい。で、中に入ったら人がおるという不気味なうどん屋やったけどな。今でも充分小汚いけどな(笑)、あれより圧倒的に小汚かった。

あの「須崎食料品店」のうどん玉を昼休みに

 会社の近くの「須崎」の麺を食うのはお昼休み。たいてい麺を玉で買って、そこのダシも買って昼食べます。「須崎」は店でうどんを提供するのは11時半までやけど、玉売りはその後の時間もしてます。普通の商店はずっと開いてますからね。たまに買いに行っても売り切れてる時もようありますけど。「言うてくれたら残しとったのに」て言うてくれるんですけどね。

 あと、外で玉を買うんは家の近所で「まなべ」。あそこでたいてい正月とかは買ったりしてましたね。お祭りとかね。最近あそこも玉売りやめたから。スーパー行ったら売っとるからね。うまくはないけど、安いのがね。

今まで食べた中で印象に残ったうどんといえば
 最初にうまいな思たんは、さっき言うた「渡辺」やった。大学から帰ってくるたびに食べよったくらいやから。カルチャーショックを受けたのは「やまうち」やな。ほんまにうまいな思た。今はね、詫間の「こころうどん」よう行きますね。好みの基本路線はあんまり変わらない。やっぱりやまうち系の麺がいいし、どっちか言うたらちょっと太めでザラザラっとした感じのエッジが効いたやつがいいかな。あんまりつるっとしたの好きじゃない。「こころうどん」はね、細麺と太麺両方あるんです。細麺しか残ってなかったら「太麺ちょっと待ってな~」言うて茹でてくれます。

お接待の「ひゃっかうどん」

 この辺はお遍路さんのお接待のうどんが最近でも続いてますよ。小松尾寺(第67番札所大興寺)。年に1回持ち回りで接待しますけど、木箱ですっごい数のうどん用意しますよ。「ひゃっか」のうどんです。この辺では「まんば」とは言わんと「ひゃっか」って言うんやけど、普通のイリコダシにひゃっかとアゲやったかな、それを一緒に炊いたダシですね。ダシと一緒に炊き込んであるからクタクタになったひゃっかが乗ってます。「ひゃっかうどん」は俺もあそこでしか食わんですね。たぶん昔からそうなんじゃないかな。ひゃっか自体は今でも普通に食べますから。

 季節はいつくらいやったかな。いつもね、呼ばれるんよ。スポ少(スポーツ少年団)しとるんで、スポ少の子供に「食べにおいで」って言うてくれるんです。で、お声がかかったら行くんです。春やったんかな?(※毎年4月第3日曜日。三豊市ホームページより)

小麦粉のおやつ「カラモチ」。砂糖も自家製だった

小麦を使った料理っていうのはうどんの他に何かありましたか?
 「カラモチ」っていうのは、子供の時のおやつでたまに作ってたよな。今で言うホットケーキ。ホットケーキやけどベーキングパウダーは入ってない。砂糖は入っとったんかな。玉子も入ってなかったと思う。ただその小麦粉を水に溶いて、砂糖ちょっと入れて、焼いただけや。分厚いクレープって感じ。「カラモチ」って言いよったな。

 俺等の時代はおやつがあんまりなかったからね。おやつって言うたら木になっとる柿とかね、ミカンとかビワとかね、季節の果物。それこそビワなんかは最近ちょっと高級になっとるけど、昔はもうみミカンじゃビワじゃ言うたら当たり前すぎて食べる気がせんかったもんな。そんな時に、ただ小麦粉を水で溶いて焼いただけやけど「カラモチ」言うたら、「あ、ちょっとおやつっぽいな」と思ったね。自分で作れるし。

「カラモチ」ってはじめて聞きました。
 俺が小学校の頃は砂糖もね、自分とこで作っじょったです。サトウキビ絞って、煮詰めてね。黒砂糖みたいなん。あの辺(三豊市山本町河内)ではまだそういうことをやってました。小学校の途中でもうなくなったかもしれないけど。「それずっと火見とけよ」と言われて、時々こう混ぜながら、で、火が消えそうになったらまた1本薪放り込んで。子供の仕事でした。その黒砂糖食べるとね、めちゃくちゃおいしい! 調理に使っとったかどうかまでは覚えてないけど、なんせそのサトウキビを絞って煮詰めて砂糖作んじょったいう記憶はあるんで。売るんじゃないと思うんやけどな。

 その頃は松茸なんかも、食卓の上にこう、天井からザルにぶら下げて、そのザルいっぱい何十本も平気で吊ってあるような時代や。その時や松茸いうても何とも思ってない。普通に「キノコがある」いう感じで。ほんまに全てが自給自足やったから。

 おやつを買いに出るっていうのは、お祭りの時に子供が獅子舞いをするでしょう。あの時にご褒美にチョコレートを買ってくれるとか言うて、街中の方のお菓子屋さんまで行ってなんか買ってくれたとか、そういう思い出しかない。その当時はうどん屋なんかあったとしても行ってないやろうな。

●編集部より…昭和40年代~50年代の山本町河内の讃岐うどんの記憶を頂きました。山本町河内は南が徳島県に接する山間の地区ですが、高松市や丸亀市の同時代の証言と比べるとかなり様相が違い、改めて「讃岐うどんの過去も一筋縄ではないな(笑)」と思わせられます。ありがとうございます。

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