香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

三豊郡大野原町(現観音寺市大野原町)・昭和32年生まれの男性の証言

権平うどんのたらいに入った釜揚げが最高だった

(取材・文:

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  • vol: 285
  • 2018.12.20

実家のスーパーで生うどんを売ってた

 昭和39年頃、家が大野原町の役場のあるあたりでスーパーの走りみたいな小さい店を始めたんですけど、うどん関連の商品では、「大西」さんという製麺所だったかうどん屋だったかからうどん玉を仕入れて売っていました。20玉ぐらい入ったせいろが2つだから、毎日40玉ぐらい売れていたと思います。

 ダシですか? 今みたいな液体状のうどんのダシは売ってなかったですね。みんな、ヒガシマルのダシの素とかを買って帰ったり、家で自分でダシを作ったりしてたんじゃないですか? 天ぷらは揚げ物や観音寺のエビ天(練り物系の赤い天ぷら)とかを置いてたと思います。あとは、冷や麦ぐらいの太さの乾麺が卸屋さんから来てましたけど、店ではそんなに売れている雰囲気ではなかったですね。それとイリコ。親父と一緒に伊吹島に行ってイリコを仕入れたことがありました。白くてでかい袋にイリコがぎっしり詰まってるのを見て、「あんな大きいのを買う人おるんかな?」と思ってました(笑)。

 そういうわけで、自宅で食べるうどんは、たいてい店で売れ残った時のうどん玉でしたね。ダシは基本的にヒガシマルのダシの素。たまにイリコダシも作りよったかな。あとはお袋が好きだった乾麺をゆがいて食べたりしてました。

白鳥の「権平うどん」の釜あげに優るものはなかった

 外食のうどんは、家から100mも行かないところにうどん屋というか料理屋というか、定食なんかもあった店があって、家が忙しい時にお袋が「ちょっと食べに行こう」言うて行ってました。うどんはただの「うどん」というメニュー名で、小さいアゲとカマボコとかが入った、いわゆる「かやくうどん」ですわ。

 それが中学ぐらい(昭和46年頃)までで、高校からは「うどん王」の森君(盛の大将)と一緒に高瀬の「渡辺」によう行きよった。ほんま、「あの店を大きくしたんは俺らや」いうぐらい通ったで(笑)。あとは観音寺の「七宝亭」。場所が昔とは変わってるけど、だいたいあのあたりでよく食べてましたね。

 大学は県外に行ったので、4年間、立ち食いそばばっかりだった。帰省する時に連絡船のうどんは必ず食べましたけど、あれはおいしかったですね。

 大学を卒業してから白鳥町で就職したんですけど、それからは「権平うどん」。今はもう廃業してしまいましたけど、私の知ってる中では権平の釜あげうどんはとびきりうまかった。一人前ずつたらいに入っていて量もあって、麺もダシも角が取れてやんわりとしていて、ダシにはウズラの卵がちょこっと入っていて、もう最高でしたね。とにかくあそこでは釜あげしか頼まなかった。あと、志度の坂の「源内」も何を食べてもうまかったですけど、やっぱり東では「権平うどん」の釜揚げに限る。「あの釜あげを超える釜あげはない」と今でも思っています。

●編集部より…昭和40年頃の食料品店で1日40玉ぐらいうどん玉を売っていたという証言です。外食のうどん店で出てきたのは西の「渡辺」「七宝亭」、東の「権平」「源内」と、一般店ばかり。おそらく昭和40年代から50年代の、まだ讃岐うどん巡りブームが起こる前ですから、“怪しい製麺所型”うどん店の名前は出てきません。ブーム以降、「権平」はカレーうどんが結構有名になったのですが、通の間では釜あげだったのか!(笑)

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