香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

綾歌郡綾川町滝宮・昭和17年生まれの男性の証言

セイロに20玉は「青海波盛り」、24玉は「にーよん盛り」(綾川町うどん研究会副会長 村山潔さんのお話)

(取材・文:

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  • vol: 280
  • 2018.08.30

製造販売も仕入れ販売もやっていた「田井」のうどん屋

綾川町の昭和のうどん店の様子についてお伺いできたらと思います。
 戦後の昭和20年代、ここら辺で「うどん屋」というのは、うどん玉を作って売る製麺所や、玉を仕入れて売る小売店がほとんどでしたね。私の知っている店では、滝宮の庵坊(あんのぼう)に「長尾」、横町(よこまち)に「清水」、端(はし)に「田井」という製麺所がありました。

 そのうち、「田井」さんはご主人が自分でもうどんを打っていましたが、うどん玉の仕入れ販売もしていました。生産もするけれど、自分で打つのには限界があるんで、主に「長尾」から仕入れて売っていました。あとは綾歌の「前場」から仕入れたり、最近までは「山越」からもうどん玉を仕入れていましたね。

 香川では、普通の日用品や雑貨を売りながら、うどんも置いている店がありましたが、「田井」さんもそうでした。ちょっと奥の板間でね、ご主人が打って、おばさんは長いこと店番してね。今はもうお店を閉めてしまいましたが。

「長尾」さん(製麺所)の思い出

 「長尾」さんは私が少年時代、畳の部屋でご主人がゴザをひいて玉を踏んでいるのをよく見に行ってました。うどんの生地の上下をゴザで挟んで踏んでましたから、昔のうどんには、ひょっと(たまに)ゴザのかけらが入るときもありましたよ(笑)。私がその作業を見てたら、ご主人が「踏むか?」と言うんで「いや、子供で体重が少ない」と言うと、「かまん。その後でわしが踏むけんえんじゃ」と。でも、そう言うご主人も細くて小柄でね(笑)。

 それで、朝から打ったうどんをおばさんが裏にある大釜でゆでる。「長尾」の特徴は、大釜の横におがくずを燃やせるような炉を築いてたんですね。ゆでる時にその「おがぐず炉」を使ってたんです。ホッパー(じょうご型の貯蔵庫)の入り口からおがくずを入れて、燃えたら上からまた新しいおがくずが落ちていくという仕組み。つまり、薪がなくていいんです。意外と火力も強い。おがくずは、おそらく山一木材からもらっていたと思います。当時、車がないので、おがくずをドンゴロス(麻の袋)に詰めてリヤカーで運んで、それを炉の横に何個も盛り上げていた記憶があります。

 そうして、1回20玉から23玉作れる釜でゆがいたうどんは、すぐに水で洗って玉どりをする。玉どりしたものは、大工さんが作った「うどん簀(す)」、江戸前では「フネ」とも言いますが、それにのせていました。竹製だったかは忘れましたが、葦簀(よしず)みたいなのを切った桟(さん)があって、それの上に玉を置いていましたね。一つのフネに、普通だったら16個から20個。これも面白いことに、江戸に習って、16・20・24個と並べ方があって、16個だったら4個並べの4列。20個にしようと思ったら5列になるから、うどん玉を少し重ねるようになる。フネだからその様子を波に例えて「青海波(せいかいは)盛り」と言い、24個はもっと重なった「にーよん盛り」と言っていたと思います。

 ちなみに、昔のうどんの1玉は今よりも大きかったですね。今の1玉はマーケットで売っているのがだいたい200g、うどん屋さんが230~240gぐらいかな? それからすると、昔の一玉は260gぐらいあったかもしれません。ご飯を食べる量が今とは違うので、おうどんでも昔は3玉くらい食べる人がいましたし、ご飯も平均2杯食べる。佐渡の金山の石工なんか一升食べると聞きました。お百姓仕事してたらご飯の2~3杯は普通。だからうどんも大きい玉だったのでしょう。

「長尾」さんは玉の卸しだけをやっていたんですか?
 小売店への卸しと個人売りだけでした。「長尾」さんは完全な製麺所ですから、今みたいに、そこですぐにお客さんが食べることはありませんでした。小売の主な卸先は「田井」さんで、あと、滝宮天満宮前の「清水」さんにも卸してたかもしれん。みなさん「清水」と聞くと、大宮さんのすぐ横にあった「清水の豆腐屋」を思い出すそうですが、それとは別に、うどんを扱う「清水」というお店が戦後からあったんです。うどんの他にも食料品・乾物、野菜も売っていましたね。

 個人売りも結構あったはずですね。この辺では、ハレの日や法事、冠婚葬祭、祭り、棟上げなどがあると向こう三軒両隣と親類には一軒5玉ずつぐらいうどんを用意しましたから、その都度たくさんのうどんが必要で、そういう注文もずいぶん受けてましたね。だから製麺所は大忙しでした。ここ最近は玉売りしない店もありますし、夏はうどんが傷むので、乾麺や半生に変わってきましたけどね。

昔を辿ると、生活とうどんの深い関係がどんどん見えてくる

当時はひと玉いくらぐらいでしたか。
 そうですねえ。戦後、映画館が30円、アイスキャンデーが5円で爆弾(アイス)も5円だったから、そこから考えると、やっぱり1玉10円くらいだったと思います。

 ちなみに、私は5円のアイスキャンデーをよく食べていました。滝宮駅を降りたらすぐに「久保商店」があって(今もあります)、そこでは昔、エンジンを回して金属の枠の中に砂糖水を入れてアイスキャンデーを作っていました。私は、うどんもそうだけど、作りもんを見るのが好きだったんですね。
 
 そういえば、警察の向こう側に「かわべ商店」、お宮さんの西に「クローバー」もありましたね。「クローバー」は飲み屋さんですけどね。あと本町にも「平田商店」がありましたね。今思えば、たくさんのお店がこの町筋には並んでいました。でも、何でもそろうスーパーマーケットができ始めてから、町筋の商店はほとんど閉めてしまいました。

今までうどんに関わってきて、地域によるうどん文化の違いを感じられたことはありますか?
 文化の違いというよりちょっと驚いたのは、西讃に行った時、伊吹島が近いからダシもいりこでこだわっているのだろうと思っていたら、「こぶだし」や「シイタケ」を使っているところもあったことですね。こっちが勝手に思いこんでいたこともあるのですが、あれは意外でした。

 あとは、大阪で「うどん屋にかぜ薬を置いていた」とか「薬屋でうどんを置いていた」という話を聞いた時も驚きました。風邪薬を飲む時に、「一緒にうどんも食べたら体が熱を放散して風邪が早く治る」と言われていたそうです。まあ、長年うどんの研究活動をやっているとエピソードには事欠かないのですが、昔を辿っていくと、うどんが私たちの生活に深く根付いていることがいろんな場面から見えてきておもしろいですね。

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