家は高商近くの米屋
- こちらのお米屋さんの創業は何年になりますか?
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昭和5年です。僕は高松商業在学中に学徒動員されて、仮卒業して飛行訓練をしているうちに終戦になって、高松に戻ってきたのは昭和20年の大晦日。親父が食糧公団から変わった「食糧営団」に勤めてて、宿直があって親父と一緒に泊まったりもしよった。そこには精米機があって高松市民の食糧を市が設定した各地区の販売店に卸っしょった。「食糧営団」は花園町の「香川日産」の西側にビルがあった。
米穀通帳っていうのがあって、それで「ひと家族が何人だから何キロ」とか買える量が決められてて、お金があってもそれ以上は買えんかった。田舎に行ったらお金でなくお米と衣料を物々交換とかやっとったな。
僕は高商を卒業して、当時の高松市長が社長をしていた「常磐産業」に就職して、そこでノンプロの社会人野球をやっとった。昼は会社で働いて、夜は家業の米屋をやっとったんやけど、昭和44年に会社をやめてやっと米屋の専業になった。
- 乾麺も食糧統制の対象でしたか?
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主食ですから対象やったな。お米と同じく配給所で配給しよった。でも、米穀通帳に乾麺の記録をするところはなかったな。米だけだった。
乾麺、素麺は小豆島から仕入れよった。自衛隊におった弟が「素麺がいる」というんで、小豆島から仕入れて善通寺の自衛隊に納品もしました。関東への卸も多かった。
近所のうどん屋は出前もしていた
- こちらのお宅では家で食べるためのうどんは打ちましたか?
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うどんは打ってないなあ。近くに玉売りの製麺所はなかったけれど、食べる方のうどん屋はあったな。丼に入ったうどんを岡持ちに入れて配達しよった。今で言うなら花園町の「香川日産自動車」のすぐ東側から、二軒目か三軒目くらいのところにうどん屋があった。うどんを岡持ちに入れて片手で持って配達してた。トッピングはお揚げに、カマボコの赤い色のついたやつ。あれを切って二切れくらい彩りに入れとった。ダシはイリコだった。
あと、「ホテルナンバーワン」のすぐ北側にうちの旧店舗があったんやけど、その東側に乾麺作ってた製麺所があった。「富田」さんていうところ
- 昔高松市内にはうどんの屋台が出ていたそうですが、食べたことはありますか?
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夜、飲みに行ってぐでんぐでんに酔っ払って帰りに、夜鳴きうどんの屋台に寄ってうどん食べて帰っりょったな。酔いを覚まして腹ごしらえをして帰る。昭和25年、いやもうちょっと先だったかな。
うちの店のまわりでも夜鳴きうどん行っきょったな。21時か22時くらいに「うどーん」言いながら通っりょった。
法事の三つ揃い
- 法事ではうどんは出てましたか?
- 出てた。うどんと天ぷらとバラ寿司と、これが三つ揃いというんかの。
- 宗派はどちらになりますか?
- うちは日蓮宗。
- お土産にうどんや素麺は渡してましたか?
- うちの場合は商売してる関係もあったから、一緒に素麺あげたりしよったな。
小麦は香川では特別だった
- お米屋さんから見て、香川の小麦と香川県民のつながりはどう思われますか?
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僕も仕事で東北とかに行ってたんだけど、あっち行ったら冬場は何も植えてないでしょ? 香川県は最近こそやらんようになってきたけど、昔はみな麦を植えとったからな。昔は米の裏作はほとんど全部が麦。米が終わったらすぐに麦を準備して、植えて、収穫したらまたすぐ米。休む間なしにやっとったわな。
刈り入れも今でこそ機械化されとるけど、昔はほとんど手作業で、私も手伝いに行ってた。麦は根が一株ごとに生えてないでしょ。米だったら手で握ったりで一束は一束で刈れるんやけど、麦はそういうわけにはいかん。手間がかかってなかなか刈り取りができん。それでもやっぱり麦を作っじょったもんな。そこには何かあるんだろうな、香川県の場合は。