香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

観音寺市柞田町下出・昭和10年生まれの男性の証言

半夏には小麦粉七貫目分うどんを打っていた

(取材・文:

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  • vol: 222
  • 2017.08.07

半夏にはうどんをすることになっていた

 生まれは柞田町の下出。家は農家でな。田植えが終わった半夏には、うどんせないかんことにしとった。うちではうどん粉七貫目(約26kg)ぐらい打っちょった。あの頃の家族は9人もおったけんな。半夏のうどんはな、イリコでダシこっさえて(こしらえて)、麺の上にカツオ(節)置いてそれにダシをぶっかけてな。すうどんじゃ、すうどん。

 それから祭りの宵祭りも、朝、おこわして、昼はうどんで、明くる日の本祭りはお寿司と決まっとったがい。祭りのうどんもすうどんじゃったな。ま、たまにアブラゲが入っとったらええ方じゃ。

 小麦は精米所行てな。挽いてもろてきよった。ほんで一斗カンカンで、お粉(こ)をもろてきよったんじゃわ。そこでは干しうどんも作んりっょて、それも買うてきよったな。

 うどん打つのはお袋が主力で、私らはその見よう見まねで手伝いよった。教えてもろてはないけど、それで覚えたな。それからはアンタ、ずっともう昭和30年代ぐらいまでは自分で打っちょったがな。

 打ち板やの道具も今頃のと違う、昔の上等なやつやで。麺棒もええのがある。黒光りの長いやっちゃ。今でもうちにあるで。

法事のうどんは原則、湯だめだった

 法事もな、宵はもううどんと決まっとったんじゃ。明くる日はおすっしゃ(お寿司や)。宵の法事に来た人はうどん食べるけど、宵に来んと明くる日来た人にはうどん玉であげよったが。

 それから、法事のうどんは原則、ダシを別のコップに入れて、湯に浸けたうどんを取って入れて食べる。半夏のうどんとか、お祭りのうどんは直接かけるけどな。今でいう湯だめじゃな。

 うどんは全部お母はんが、七貫目ぐらい打っちょった。ワシも近所の法事の時には打ってやんりょったがい。ほんま、うどんはなんぼでも打っちょったな。職場の団体で仁尾の蔦島に海水浴に行った時には、ワシが打って皆に食わしよった。

 常日頃の夕食には「打ち込み」いうて、うどんをひと打ちだけ打って、それを野菜と煮込んで食べよった。大根(だいこ)やらサツマイモ、地芋のこんまい(小さい)のやら、家で作った野菜を一緒に味噌で炊っ込んでな。タコの足を雑多に切って入れたりもしよった。よーけ食べられるけん、しんどかったで。これはもう冬に限らず、年に何回かな。そいなうどんの食べ方もあった。

拾った落ち穂で先生がうどんを打ってくれた

 小学校では「落ち穂拾い」いうて、麦の収穫が終わった後、田んぼに穂がよーけ落っとるから、それを子供が奉仕で拾て集めよった。教育の一環として、食べ物を粗末にせんということと、生徒の情操教育も兼ねとったんやろな。

 集めた穂は、学校(がっこ)が農協へ持って行てうどん粉と交換して、学校の先生(せんせ)がうどん打って子供に食わっしょった。女の先生もおったけんな。うどんは打てらい。それは戦後の25年ぐらい、柞田中学校行っきょる時まで続いたな。柞田中学校はな、中部中学校の前に柞田にあった中学校や。

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