高松からフェリーでうどん玉の入ったせいろが運ばれていた
子どもの時の記憶なのでどこまで正確にお話できるかわかりませんが、昭和20〜30年頃の男木島には、うどんを食べさせてくれる店はなかったはずです。
もちろん、島にうどんがなかったわけではありません。八百屋や商店では玉売りをしていましたから。ただ、その麺は島で作っていたものではなく、高松から仕入れていたものです。麺の入ったせいろが早朝のフェリーで運ばれてくる光景を何度も見たことがあります。
後になって素麺などが農協でも販売されるようになりましたが、それも庵治(高松市庵治町)の農協から取り寄せていたようです。
御利益を求めて「香住(こうじゅ)」さんがうどんを手打ち
店がなかったために外でうどんを食べることはできませんでしたが、家では割と身近な存在でした。実家は東本願寺派の寺で、一年を通してさまざまな行事があり、その際に振る舞われるうどんを食べることができたのです。
うどんは、行事がある前の日に寺の手伝いをしてくれる「香住(こうじゅ)」さんが集まり、生地から作っていました。男性ではなく、女性の「女(おんな)香住」さんです。
男性の香住さんもいましたが、炊き場はやはり女性の担当です。生地の足踏みをしたり、麺棒を使って伸ばしたりと、一生懸命に作っていたのを憶えています。当時は寺で手伝いをすると御利益があると考えられ、男性も女性もこぞって参加してくれました。
小麦の栽培が盛んだった男木島
ちなみに、材料の小麦粉は農家の檀家さんからお布施としていただいたものです。直島は斜面が多く、水源にも恵まれなかったために米作りが盛んではありませんでしたが、替わりに小麦やそば、さつまいもなどを栽培していました。小麦をはじめ、収穫時期に合わせていただいた農作物は、島で育ったものばかりです。
香住さんの存在や農作物のお布施といった風習は、今ではもうなくなってしまいました。寺の行事に合わせてうどんを用意し、食べるという楽しみもなくなった。少し寂しいですね。