うどんは行事があるときしか食べられなかった
生まれは牟礼町の牟礼。牟礼には大字が「牟礼」と「大町」と「原」の3つあるんですよ。昭和37年に町政改革で牟礼町になって今は高松市と合併してますけど、当時はまだ牟禮村で、木田郡の中では一番大きな人口抱えとったと思うんです。
小学校の子供時代(昭和20年代前半)に我々がうどん食べるいうたらね、家で打つよりはほか方法なかったわけですよ。当時近所には店がほとんどなかったから、専門でうどん食べさすとこなんかあろうはずもないし。自分で打たなんだら、食べられなかった。
うどん食べられるんは、何かの行事があった時ですね。一番よけ(たくさん)しよったのは月命日ですね。浄土真宗では法事以外にも、年に1回の祥月命日(しょうげつめいにち)や、毎月の月命日にもお寺さんを呼ぶんです。お寺さんや親戚が来た時に、うどんふるまう。葬式の時もたぶん出てたと思いますね。それからハッキリ覚えてないけど、結婚式もあったかな。
浄土真宗のお勤めは三部経で長いから、中休みにお茶菓子が出るんですが、昔は間にうどんも出よった。今や三部経自体してませんからね。法事には三部経を上げないかんと思いよったんですが、坊さんの方から「頼むけん短いんにしてくれ」言うてきて。「お布施減るで」言うたら「かんまん。檀家が600軒もあるけん、葬式とか被ったら大変なんや」って。法事も年が重なった人の分一緒にするし、都合ええようにするもんですわ。まあ儲かっとるけんええんでしょうけど(笑)。
出すうどんは爺さんが打ってました。近所の人もみんな家で打ってましたね。打ち手はそこの家の人かどうかは分かりませんけれど。ですからどの家にも、広い麺打ちの板と麺を延ばす棒、それからゆがく平釜か羽釜にしても大きいやつを、必ず持ってたと思いますよ。
そういう時のメニューはかけが多かったですね。そもそも今みたいにメニューもたくさんあるわけではなくて、普段もかけうどんが主でしたし。かけうどんか、それかざるうどんみたいな、ぬくめんと(温めないで)玉そのまま置いて、それをつけ麺で食べるいうのがほとんどだったと思います。
そういえばうどんのダシは、曲げわっぱで作ってウルシ塗ったヤカンのお化けみたいなヤツに入ってました。今はなくなりましたけど。とにかくそういうとこで、うどんはお膳の上の一品で、そういう時しか食べる機会がなかった。毎日食べるようなもんではなかったですよね。それがまあ、今でも覚えとるんですけど、子供心にすごくご馳走だった。めったに食べられんからね。おいしかったんですよ。
それ以外には、うちは農家をしていたんで、雨が降ると爺さんが「今日は仕事できんからあま(雨)休みじゃ」言うて。ほんで「うどんでも打つか」って打ってくれよりました。冬はしっぽくうどんだったり。芋や大根やニンジン入れてね。肉はカシワ。家で飼いよったニワトリを殺して。昔は肉屋さんもそんなになかって、肉やいうんは兄弟が病気になった時に「肉が食べたい」言うたら、八栗の向こまで買いに行ってくれるぐらいのもんだったんですよ。玉子も家でニワトリ飼いよるのに、5日にいっぺんぐらい集めに来る業者に出してしまうからなかなか食べられなかったし、バナナにしたって滅多に食べられるくだもん(果物)でなかったですからね。
もう50年も60年も前(昭和30年代)の話です。祖父は64才で亡くなりましたけど、それより前の人はみんなうどんを打っちょったと思いますよ。でも私の父親はもう打ってなかったですね。大工してましたから、そんな間もなかったですし。雨が降ったけん休みや、いうこともそんなにないですからね。
農協の小麦通帳と手回しのうどん製造機
農家なので、うどんに使う小麦は作ってました。小麦はね、収穫してもほとんど売らんのですよ。売らんと農協へ預ける。預けると通帳をくれるんですよ。今の銀行と同じですよね。預けとる間は手数料取られました。ほんでいる時に、製粉したメリケン粉に替えてくれよったわけですよね。農協はうどんもしよったんで、それにも替えてくれよりました。手打ちじゃないですよ、機械打ち。度々家で打つんはめんどくさいでしょ? ほんでこっちも利用しよった。農協が機械でうどんを打ち出したんは、私が小学校高学年だったかなあ。だから昭和28~29年頃ですかね。その頃はほとんどの農協がうどんの機械を持っとったんだろうと思います。
機械打ちのうどんはいつ頃からあったんですかね? 私の記憶では、手回しで打つ機械を置いてあるところはありました。隣の部落に塩の小売りだけをしよる店があったんですけど、そこが加工賃をもろてうどんの委託加工をしよった。その片隅に機械が置いてありました。農協は電気を引いてやってましたけど、そこは手回し。こなに(こんなに)大けな輪っぱのついた機械で、粉練ってそれをローラーで延ばすんです。最初は上から生地を入れてローラーで挟んで圧縮してね。それを三回も四回も回して、ある程度固まってきたら切り目を入れる。回す人と作業する人がいるから、1人ではできんわけですよ。あと、切る機械も手回しだった気がしますね。
機械の記憶はあるんですけど、私はそこでうどんをしてもろたことはないんですけどね。その店ももうありませんし。けど、どっちでうどんするにしても、今みたいに車があるわけでもないですから、爺さんが自転車で行ってました。私も子供の時から自転車乗らされましたけど、子供の自転車ももちろん無かったんで、横から三角乗りして覚えた(笑)。
牟礼の最初のうどん屋は山田家?
終戦後に小学校で、脱脂粉乳とコッペパンの給食が途中から出るようにはなったけど、うどんは出ませんでした。そもそも完全給食いうんは、僕ら卒業してからですし。中学校の時でもなかったですね。高校を出た後に他へ2年ぐらい勤めた後、牟禮村役場に4年おったんですが、村議会があったら必ず後に打ち上げで、料理屋さんに行くわけです。でも、そんなとこでもうどんは出ませんでした。
その頃牟礼には、八栗のお寺の上に遍路宿が2~3軒と、参道やケーブル(カー)の周りに「もみじや」とか「ふたば」とかたくさん、遍路目当てのご飯食べさすとこがありましたけど、うどん屋はなかった。琴電の八栗の駅の前辺り、今の「石あかりロード」しよるとこにも食堂があったんですが、知り合いに「ここの巻き寿司おいしいんで」いうんしか聞いたことがないですね。もしかしたらうどんがあったかも知れませんが、そもそも地元のもんはわざわざ店に店に入りませんし。
牟礼町の中にうどん屋ができだしたんは、かなり後の方になってからですね。一番早かったのは、山田のうどん屋(山田家)かも知れんです。あそこの姉(あね)さんと私が元同級生やったんですが、その人のお父さんが和田邦坊。その邦坊さんの兄貴がね、あそこ養子で入ったわけ。だから邦坊さんは、甥っ子の「山田家」をプロデュースして、絵も全部描いとんですよ。元は「源氏正宗」いう酒屋だったらしいんやけど、戦前に廃業しとったから僕はもうその記憶はありません。
最初は奥の座敷だけ使うて、上がって食べさせよった。商売流行りだしてから一時、間に合わんようになって今は使ってない2階で食べたこともありますよ。その後に左側にあった酒蔵を改造して広げて、また流行りだしたから前の長屋門を使って。覚えとるだけでも食べるとこは三段階ぐらいに広がってます。家も随分手入れしました。丸瓦のふいた屋根が、こない(手で波打つように)なんりょったから大分直してます。でもガラスはサッシを入れんと、昔の小さいやつのままにしとるから風情がありますよね。うまいこと元のを活かしとる。まあ私らは、あそこはうどん食べに行くより、会をした時にうどんすきで一杯やりに行くとこですけど(笑)。
冷凍うどんを作ったんも「山田家」が早かったんと違いますか。役場を辞めた後に、石材関係に行っきょったんですが、そこの神戸の得意先から「あそこの冷凍うどんうまいから、買うて送ってくれ」言われましたから。冷凍うどんはこの辺ではハシリでしたね。お正月やお歳暮用の、うどんすきのセットをこっしゃえた(作った)んも早かった。
そう言えば「郷屋敷」も「山田家」とそなに時期変わらんぐらいですね。ちょっと後かな。ほやけど割烹系やから、一般の人が食べに行くとこやないからね。あそこも最初は座敷だけやったんが、今は周りに色々広げてます。今の女将のお父さんいうんが、牟礼で私が役場行きよった時に村長さんしよった人。大地主だったんですよ。