丸亀の兵舎の跡(今の市民広場)に「5円うどん」があった
- 川上さんはお生まれはどちらになるんですか?
- 僕は台湾の台北生まれ。育ちはこの通町。
- じゃあ、子供の頃の通町周辺のうどんの記憶があれば教えてください。
- 僕らが育ったのは戦後の食糧危機の時代やったからな。とにかく安いうどん屋さんを探しよったんやけど、今の市民広場あるやん。あのあたりは昔の兵舎の跡で、まだ家がようけあったんやけど、そこにうどん屋があったん。うどん1杯5円や。薬味も大したもん乗ってかったけど、あのうどんの味が忘れられん。
- 5円ですか。当時の物価はどれくらいだったんですか?
- 町内で50銭でパンの耳ようけ買うて食べよったから、それに比べるとだいぶ高いけどな。それがちょうど僕が昭和37年に高校(丸亀高校)卒業する時に、10円うどんになった。
- 10年足らずで倍の値段になったんですね。
饂飩の四國、寿美屋、つづみ、へんこつ
- そんで、それから「饂飩の四國」いうんができたわな。大阪まで進出した。あれが戦後初めてのうどんブームみたいな感じやったなあ。
- 「饂飩の四國」ってはもともとは丸亀にあったんですか?
- そう。丸亀にあった。
- 商店街のうどん屋はどんな感じでしたか?
- 当時、丸亀の商店街の中でうどん屋さんといえば通町の「寿美屋」しかなかった。今の「シマダ時計店」の前。だからうちんとこからは近くて、小さい時は庭みたいな感じでしょっちゅう遊びに行っきょった。ほんでみんな「あそこはおいしい」言うんで、「えー、あの土間の店がなあ」とか言いよったな(笑)。ダシの味とかな。あの店がなしになったんが僕らが結婚した時やけん、昭和40年くらい。
- 「寿美屋」さんは昭和40年くらいに閉店したんですね。
- 坂出市にパンを売ってる「タイヨー食品」言うんがあって、そこが「寿美屋がなくなるんは惜しい」言うてな。そこがノウハウを受け継いで今の中津町の「寿美屋」になったんや。通町の「寿美屋」に跡取りはおらんのかいうたら、跡取りになりそうな人はおったんやけど、学校の校長先生になるような先生やったんや。お嬢さんもおったけど、日舞の藤間流の名取やった。藤間スミヤいうて結構有名な人やったんや。丸亀の踊りやなんや全部仕切って。ここいらは芸人の町やけん、そういうなんがようけおった。
- そんな歴史があったんですか。丸亀の商店街の人はみなさん「寿美屋さんが美味しかった」って言いますね。
- そうそう。それでタイヨー食品さんが「こんなん残さないともったいないからやらしてくれ」言うて。やっぱ代が代わったら「味が違う」いう人が出るんやけど、とにかく「寿美屋」っていう名前を残してくれた。ほんで「つづみ」っていう店が富屋町にできて、その後通町に移ったけど、あれも僕らからしたら新しいお店。
- 今、通町商店街の入り口にある「本格手打ちうどんつづみ」さんですね。
- 昔の福島町は、ものすごい道が細かった。あそこに細い側道があるやろ。それが人の歩く道だった。そこに「へんこつうどん」って呼ばれている店があった。あそこにできたうどん屋はみんな「へんこつうどん」言うんや。
- 何かがへんこつなんですか(笑)。
- まあ、礼儀作法というか食い方から文句言うて、「気にいらんかったら来るな! 帰れ!」言うて怒鳴るうどん屋があそこにはあった。その店がなくなったら、またおんなじような店ができて、それも「へんこつうどん」って呼ばれてた。まあうどんにこだわりがあるというか、うどんの食べ方にもこだわって「食え」とかみたいな感じで(笑)。
多恵寿、旭屋食堂、浦島、そして本家丸亀製麺
- 他に覚えてるうどん屋さんはありますか?
- ぼくら城西小学校やけど、中学校くらいになったら行動範囲がけっこう広くなるんで、それで見つかったうどん屋が結構あるんやな。その中で、元は本町の入り口あったけど今は場所が移動してる店がある。「多恵寿」言うんやけどな。
- 「多恵寿うどん」。3~4年くらい前に閉店したお店ですね。
- あれ元は本町商店街をまっすぐ行ったところの角っこ、大神宮いうてお宮さんの前にあったんや。それが城乾町の方に移動したんな。あの「多恵寿」のうどん屋も人気があった。丸高生はな、通町商店街通らんで富屋町商店街通ってたから、通町の「寿美屋」の味を知らんやん。だから丸高生は寿美屋でなくて「多恵寿がおいしい」とかいうんが多かったけど。
- 商店街の中にあったうどん屋が商店街の外に結構移転してるんですね。
- その時、通町商店街には「寿美屋」と、うどんとそばを出す「旭屋食堂」っていうんがあって、あと江戸前にぎりの店とそばの「風流食堂」があった。
- 「旭屋食堂」はもう営業はしてないけど、まだお店自体は残ってますよね。
- そうそう、あるやろ。そんでうちのすぐ横んところが「ワンタン屋」いうてな。店の前に沖縄の泡盛のでっかい瓶をおいてる店で、チャンポンメンとか、中華専門みたいな感じでやっとった。自分とのころで製麺から全部しよったけど、その麺の粉が肺に入って体悪うして営業ができんようになってやめたらしい。昔の丸亀の商店街はそういう感じで、「自分たちで本物を作っていくんだ」みたいな気概があった。「寿美屋」とかも製麺から何から全部自分のところでしよったと思うで。
- 昔の商店街の写真をいくつか見たことがありますが、確かに活気があふれてましたね。
- ほんで「浦島」いううどん屋が反対側の太い道路の高架の下にあって、その「浦島うどん」が観光協会の役員したりして顔が広かったんやけど、グループでまとめて製麺所作って、城西町にある製麺所の「丸亀製麺」を作った。その人がだんだんこのへんの人にの飲食店にうどんを卸しだした。「浦島」のうどんもおいしかったで。
- 城西町の「丸亀製麺」はそういう流れだったんですね。今は県外の居酒屋チェーンが始めたうどん屋が「丸亀製麺」を名乗って有名になっちゃってますけど(笑)。
- 麺だけでのうてダシいうんも大切やん。ダシはこのへんの9割方はそこのかどっこの乾物屋が仕切って出しよるんで。丸亀では乾物屋がまだ3軒残ってる。「原田」と富屋町の入り口の「赤沢」と、「岡江」。
自宅ではうどんは打ってなかった
- ところで、ご自宅ではうどんは打ってたんですか?
- 私の家では打ってなかったなあ。うちんところは都会的な、東京育ちみたいな感じやったから。そういうのは、いとこ同士やけんよう遊びに行っきょった嫁さんの里やな。
- 奥さんはどちらの方ですか?
- 丸亀市の垂水町。あそこは法事にはうどん出すし、おみやげにもうどんつける。法事に来てくれたところのお隣にもうどんを渡しよったけど、今はそういう風習をやめようってみんな言ってます(笑)。
太助灯籠の余話
- 今、丸亀に観光ガイドにもよう載っとる「太助灯籠」があるやろ。あれは元々は、東京浅草の浅草寺が三燈注文したんを川口の石工が一生懸命作ったもんなんや。ところが、実際に納品になったら浅草寺が「こんな大きいんいるわけないわ。俺らが頼んだんと違うわ」言うて返された(まあ関西弁ではなかったと思いますが・笑)。で、その噂を聞いた丸亀の商人たちが「安う買い叩けんかな」言うてお金出し合って、そのうちの一燈のあの巨大青銅の灯籠を買ってきた。たまたま青銅でええ燈籠が宙に浮いてたから、「え? ほんと? それ安うなるん? 買うてやるけん」いうて。今はもうその謂われを知ってる人が少ないんや。
- 初耳です。
- 浅草寺の人らからしたら「俺らの先祖、そんなこと言うたんかのう?」言うかもしれんけど、けっこう大きすぎたんやて。んで、あんな大きいん頼んでない言うて返されたらしいんや。
- どんなお大尽が買ったんやろうと思ってたんですけど、そういうウラがあったんですね(笑)。
- まあそれでも、たくさんの人からお金を集めて買うたから、大事な物やったんやろな。