とにかくみんな食べる量がすごかった
私が子どものころ(昭和20年代)は、普段からおじいちゃんが家でうどんを打ってくれていた。お宮さんの祭りや春秋の市、盆や正月には、家族親戚が集まり、決まってうどんとバラ寿司のごちそうが出ていた。あまりごちそうに縁がなかった当時の子どもにとっては、何も入っていないシンプルなかけうどんで十分だった。
20~25玉が入るせいろを5つくらい作っていたのを覚えている。とにかくみんな食べる量がすごかった。4~5玉は普通で、大食いの弟は1せいろを1人で食べてよく怒られていた。弟は家族と離れて、醤油をかけて、こそっと食べていた。おじいちゃんが亡くなってからは、家でうどんを打つ習慣はなくなった。
ドジョウ汁は、家ではほとんどしたことがない。公民館で自治会のみんなが集まってよく作っていた。やっぱり、祭りや「やべち」という地区総出の道普請や「いでざらえ」などの時が多かったなあ。これも数年前までは、近所のおじさんがよく作っていたが、最近は回数が減ってきたように思う。
近所の名店同士が“いっけ”
うどん屋は、大人になってから通い始めた。それほど金のかかる話でもないが、自分で仕事をして稼げるようになってからの話だ。家からそんなに遠くはない国分寺の山下と坂出の山下へよく行った。この2店は「いっけ(親戚)」のようだが、国分寺の山下は旧の国道ぶちの目立つところにあり、坂出の山下は綾川の土手の隠れ家みたいなところにある。味も店の雰囲気もかなり違うのが面白い。1玉30円から40円の時代もあった。
うどん中毒についての一考察
今は、オイスカやライオンズの活動をしているが、ホテルでの「お客(宴会)」には、たいがいうどんの屋台が登場する。全部持ち込みのうどんだから、うどん店のような味は望むべくもないことは百も承知だ。
昼飯は手軽にうどんで済ませたという仲間たちが、夜の宴会では、豪華なごちそうを前にして、またまたうどんの屋台に並ぶのだから、讃岐の人々はどうかしている(笑)。テーブルは空っぽかと見れば、メーンディッシュのステーキや刺し身、てんぷらなどがごっそり残っている。普段は、結構うまいものを食べて舌が肥えているはずの連中も、うどんの「う」の字を聞くと、矢も盾もたまらなくなる。うどん中毒とは、こういう状況を言うのだろうか。他人とは思えない、憎めない人たちではあるが…。