屋島の浦生の思い出
- 屋島西町のどの辺のご出身ですか?
- やしま第一健康ランドとレストランのオーベルジュ・ドゥ・オオイシの間に位置している、「浦生(うろ)」と呼ばれる地域です。とても歴史のある場所で、大昔は屋嶋城(667年築城)の船着き場があったそうです。また、唐の高僧・鑑真和上(688- 763年)が訪れたという神社もあります。
- 浦生には古い家が今も残り、車が通行できない狭い道が迷路のように入り組むなど、昔ながらの雰囲気が漂っていますね。
- 今はすっかりなくなってしまいましたが、昭和30~40年頃までは日々の生活に欠かせないいろんな店がありました。商店や食料品店、酒屋、醤油屋、お酢屋、タバコ屋…僕が生まれる前には麹屋や桶屋も存在したそうです。また、瀬戸内海と屋島に挟まれた土地柄だったため、海の粘土と松を使った屋根瓦の製造や製塩業も活発で、それらを運び出すための港もありました。港の近くには2つ、3つ造船所もあったほどです。生活している人だけではなく、商売人や肉体労働者など、当時の浦生は大勢の人で賑わっていました。
- 屋島山上の旅館で用いていた食料品や日用品なども、浦生から調達していたと聞いたことがあります。
- 今はもう通行できなくなっていますが、浦生と屋島の山上を結ぶ生活道が昔はありました。そしてその道を使って、旅館などへ商品を届けていたんです。届けていた人は浦生に住む「負い子さん」「しょい子さん」と呼ばれていた運び屋さんで、それを生業にしていました。各店で仕入れた商品を籠に入れて背負い、毎日のように登っていましたよ。屋島ドライブウェイが完成(1961年)するまでの話です。
森製麺所の先代が戦前、栗林公園の近くで夜鳴きうどんを出していた
- その賑わっていた浦生に、うどん屋はありましたか?
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森さんという方が店を切り盛りしている、納屋のような建物の製麺所が一軒ありました。一玉7円くらいで販売していたでしょうか。子どもの頃、ザルを持ってよく玉を買いに行きました。ちなみに、その方のお父さんは戦前、栗林公園の近くで美味しい夜鳴きうどんを振る舞い、かなり有名だったそうです。
製麺所は、ほどなくして浦生から南に離れた「濱中」と呼ばれる地域に移動しました。移動した後も自転車で浦生の家々を回り、麺を売り歩いていましたよ。残念ながら、今はもう店を閉めています。
- 製麺所以外で麺を手に入れることはできましたか?
- 「山地(やまじ)」という商店がありましたが、そこに小麦を持っていくとうどん玉に替えてもらえました。「小麦一升あたり、うどん玉がなんぼ」という具合に。店には生地を自動で延ばしたり打ったりする大きな機械が置かれ、その機械に付いていたローラーがとても印象に残っています。山地商店で作ったうどんは食料品店にも卸されていました。
- 小麦はどこから手に入れていましたか?
- 家族で食べる分だけ、家で作っていました。ただ、うどん用のためだけに作っていたわけではありません。小麦を煎って石臼で挽いた「はったい粉」と呼ばれるものに砂糖を混ぜ、バベの葉をスプーン替わりにして食べたこともあります。はったい粉をお湯に溶かし、お腹を膨らませたことも。懐かしいですね。
高松工芸の学食で、うどんと一緒に金時豆の天ぷらが出ていた
- 想い出深いうどんのエピソードはありますか?
- 浦生ではなくて、通っていた高校(高松工芸)の学食で食べていたうどんの話です(昭和30年代中盤)。トッピングメニューに唯一、金時豆の天ぷらがありました。うどんと一緒に注文していたのですが、入っている豆の数はたいてい5つだけで、ほとんどが天ぷらの衣ばかり。でも、たまに豆が6つ入っている場合があるんです(笑)。そんな時は「今日はついている!」と大喜びでしたね。値段はうどんと天ぷら合わせて15円。麺が3玉入った「ビックリうどん」というのもありました。