何かあるたびに近所の人が寄って、ドジョウうどんを作っていた
- 家でうどんは打ってました?
- (妹) うちは滅多に打ってなかったな。けど家に打ち台と麺棒があって、戦後しばらくは、祖母(明治生まれ)がちょいちょい打っちょったわ。
(姉) 向かいの宮本の婆さんも打っちょった。たいていみんな家でしよったから、どこの家にも打ち板があったけど、近所に製麺所ができてからみんな打たんようになったんや。買うて来た方が早いから。けど、打ち込みする時だけはみんなで打っちょったわ。塩の入らん固いうどんを。
- 家で打ち込みをしてたんですか?
- (妹) 違う違う。近所の人が寄ってみんなでするんよ。「“労やぶり”しよう」言うて。
- 「牢破り」?!
- (妹) 牢屋を破ったらみんな罪人やがな(笑)。労働の「労」や。まあ、何かの労働の打ち上げみたいなもんや。田植えや稲刈りが終わった時とか、お祭りの準備が終わった時とか地蔵盆とか。
(姉) 天神さんの道直しをした後とかもな。
(妹) 何でもなくても暑気払いとかで、みんなで寄ってうどんをするんよ。
(姉) 何日か前から近所の用水路でドジョウを獲ってきて、きれいな井戸水に2~3日入れて泥を吐かしとくんや。釘を入れてな。
- 釘?
- (姉) 釘を一緒に入れとったら、ドジョウがよう泥を吐くんよ。
(妹) それで打ち込みする日に大きな釜を出してね、男の人はうどんを打つ、奥さん連中は笹がきしたりお揚げを切ったりして打ち込み汁を作る。具はまずドジョウと油揚げ。野菜はゴボウやネギ、それとナス。円座の方はドジョウ汁には絶対ナスが入るんよ。
(姉) 打ち込みいうたら今は寒い時によう食べるけど、あれはもともと夏のもんやったから、夏の野菜の代表でナスは絶対入る。
(妹) それで、大体白味噌で。
(姉) 白味噌いうか、大体自家製の田舎味噌や。
(妹) 私の記憶では、昭和28~29年から30年代の終わり頃までは田舎でそういうのがしょっちゅうあったわ。40年代になってからはだんだんなくなってきたな。
法事はつけ麺、葬式には長いものは食べない
- なるほど。半夏生が「うどんの日」になってますけど、7月2日ですからね。
- (妹) それと、法事のうどんはよう覚えとる。うちは浄土真宗やけど、真宗の法事は「三部経」いうてお勤めが長いんよ。
(姉) 朝8時頃からお坊さんが家に来て、お茶飲んだり何かして9時頃一部が始まって、一部が終わってまたお茶飲んで一服して、二部が終わったら大体昼頃になる。そこでうどんが出るんや。それから三部が始まって、全部終わったら宴席になってお寿司や天ぷらやお酒が出て、終わるのは夕方になる。
(妹) 今はもうちょっと短いけど、昔の法事は一日がかりやったわ。
- 真言宗の法事は、法事が始まる前にまずうどんが出るそうなんですけど。
- (妹) それはなかったな。よそは知らんけど、ここら辺では真宗の法事は二部が終わった間にうどんを食べるんや。
- どんなうどんですか?
- (妹) 麺はちょっと浅めの平たい鉢に入っとって、うどんがもつれない程度に水が入っとるだけ。それをつけダシで食べる。
(姉) 大体煮干しでとった濃い色のついたダシや。
- やっぱり。どこで聞いても法事はつけ麺なんですよ。あと、何か風習みたいなのはありましたか?
- (妹) 法事でどうのこうの言うのはなかったように思う。だけど、「葬式にはうどんは食べるものでない」いうのは言いよったな。昔、製麺所のおじいさんが死んだ時、その家に葬式の手伝いに行ったんよ。
(姉) 元日の朝や。お正月にお雑煮食べよったら連絡があって、すぐに行った。同行(どうぎょう)いうてな、葬式とかがあったら手伝いに行くコミュニティや。お手伝いいうても、家の人はいろんな段取りで忙しいから、家の人や同行で集まった人らのご飯作ったりするお手伝いやな。
(妹) そこでいろいろお手伝いしよったら昼頃になって、「お昼はどうしましょう」言うたら、家の人が「おうどんがたくさんあるから、それを片付けないかんからおうどんでお願いします」言うてきたんや。たぶん、大晦日の年越しでいっぱい作っとったおうどんが余っとったんやろな。そしたら、同行で来とった近所のおばさん連中が「葬式に長いものはいかんのにな…」言うてひそひそ言いよった。
(姉) だけど同行はそこの家のお手伝いやから、家の人の言う通りにせないかんから、その日のお昼だけおうどん食べたことがある。あとは、その日の夜も次の日もその次の日もおうどんではなかった。
- え? 3日も手伝いに行くんですか?
- (妹) その頃は「三日葬連」じゃわ。そやからその年は、正月の朝から三日までずんやり(ずーっと)、正月休みを全部そこの家の葬式に行っとった。
- 年越しにうどんを食べてたんですね。
- (妹) 年越しはうどんかそばか、両方食べるかしよった。
(姉) けど、12月31日にうどんが残ったとしても、正月からうどんや食べへんで。大晦日に食べてしまうか、もし残ったとしても、せいぜい正月の晩かそこらに鍋に入れてついでに食べるぐらいや。元旦から「年明けうどん」やいらんわ(笑)。
昭和23年頃から食堂でうどんを食べていた
- じゃあ、昔のうどんの店について、何か覚えている話を聞かせてください。
- (姉) 私が小学校に入る前やから、昭和23年か24年頃、琴電の岡本の駅の前に「岡本劇場」いう芝居小屋があったんや。映画と実演、剣劇みたいなのもしよった芝居小屋やけどな、そこに親が時々連れて行ってくれて、その帰りに芝居小屋を出てちょっと行ったところにあった食堂でうどんを食べた記憶があるわ。
親にばあちゃんが「帰りに子供にうどん食べさせたらいかん」言うとったらしくて、親から「あんた、帰ってばあちゃんに“うどん食べた”言うたらいかんので」いうて言われたんよ。そやのに私や子供やから、家に帰ってばあちゃんにわざわざ「おうどん食べなんだ、お寿司も食べなんだ」言うて、ばあちゃんに「この子は!」いうてえらい怒られたのを覚えとるから(笑)、おうどん食べたのだけは確かや。どんなうどんだったのかは全然覚えとらんけど。
1人で10玉や15玉食べる人がいっぱいいた!
- (妹) 小学校の低学年の時(昭和30年頃)から、西山崎町の桑原製麺所によう行きよったな。西山崎町いうても円座町との境で、うちの家からほんの100mの所にあってな、親に頼まれて5玉とか6玉とかもらいに行きよった。1玉5円ぐらいやったかな。うちは小麦作ってなかったけど、農家の人はお金払いよらんかったように思うわ。農家の人は製麺所に小麦を納めて、何か物々交換みたいにしよったと思う。
(姉) 私はその頃中学生やったけど、土曜日の昼に学校から帰ってきたら「うどん買うて来まい」言われて、「ふん」言うてざる持って行ったらうどん玉を入れてくれて、持って帰るまでに1玉ぐらい食べよったわ(笑)。
- たった100mの間に(笑)。
- (姉) 1玉やすぐじゃわ。
(妹) セイロで持って帰る人もようおったで。1セイロに16玉入るのを2セイロとか。それを自転車の荷台に積んで、昔の自転車は荷台が大きかったやろ。2セイロいうたって、持って帰って売るん違うで。家族で食べるんや。若い人や1人で10玉、15玉食べる人もおるんやから、8玉やへっちゃらや。それが2人おったら1セイロ空くやろ?
(姉) みんなおかずなしで、うどんだけ食べるけんな。それもダシがたっぷりかかっとるわけでもない。つけて食べるだけやから何ぼでも食べるわ。
(妹) 昔は弁当箱も、おかず入れるところは4分の1ぐらいやったやろ。でも今はおかずのスペースがが半分ぐらいあるやん。昔はごはんとかうどんとかの比率が今の倍ぐらいやったんや。何せ肉体労働が多かったから、夏、田んぼの草取りするやいうたらハンパでないで。除草剤も使いよらんかったからみんな人力で作業しよったし。そやからうどん10玉食べても太った人やほとんど見んかった。
製麺所でそうめんもうどんの乾麺も作っていた
- 桑原はうどんの玉売りだけだったんですか?
- (姉) そうめんも買いに行きよった。桑原で作りよったんや。私や、冬に遊びに行ったら「そうめん干しとる所で走り回るな!」言うて怒られよったわ。
(妹) 小豆島のそうめんより太いけど、半田そうめんよりは細いそうめんを作っとったな。機械で延ばして吊ってあったのがきれいで、よう見よったわ。
- うどんの乾麺はありました?
- (妹) 乾麺も桑原で作ってた。けど乾麺は買うたことがないわ。何しろ乾麺は茹でるのに時間がかかるやろ。うちは近いから、いつでもゆでた玉を買いに行ったら打ち立てが食べられるから。大体乾麺は遠い所の人が買いよったん違うかな。
家が製麺所に近かったから、いつも打ち立てのうどんを食べていた
- その頃から打ち立てのうどんを食べていたんですか。
- (妹) 桑原さんで買うのはいつも打ち立てやったで。だって、並んで打ち上がるのを待って買うんやから。並んで待っちょんのはみんな玉を買いに来とる人な。昼ご飯用とか、夕飯用に買う人もおったし。朝から2時か3時頃までずーっと打ちよったから、朝打ったのがそのまま昼過ぎまであるやいうのはなかったわ。
それで、うちは打ち立てをもろたら家がすぐそこやから、水が滴りよるうどん玉をざるに入れてふきんを掛けて持って帰って、そのまま冷やし(うどん)にしたり温め直して湯だめにしたり、生醤油と味の素を振って食べたりしよった。たまによそで食べたりしたら、子供やけど「打ち立ての方がずっとうまい」いうのはちゃんとわかっとったで。
桑原製麺所が「食べさせる製麺所」になった
- その桑原製麺所が、客に食べさせるようになったんですか。
- (妹) 結構すぐに食べさせてくれるようになったと思う。最初は玉売りだけしよったんやけど、できたてのおうどんをそこですぐに食べたい言う人がでてきたんやろな。昭和30年頃やから、桑原があの辺で「食べさせる製麺所」の走りやわ。そんなに凝ったダシではなかったけど煮干しのダシと、ネギを置いて。みんな、セイロの上にあるまだ水が滴っとる打ち立ての麺を丼に入れて、ダシをシュッとかけて、生ぬるいうどんを食べよった。立ったまま食べたり、細長いベンチみたいなのに腰掛けて食べたり。テーブルや置いてないからね。
- そこはどんな人が食べに行ってたんですか?
- (妹) 大体近所の人やわ。朝や昼や、家で何ぞこしらえて食べるのが面倒くさいから来よったん違うかな。
宮西のうどん屋
- あと、昭和30年代にどんな店に行きました?
- (姉) 「宮西」のうどん屋。今は「優作」いうのになっとるけど、昔は宮西やったんや。あの時はおいしかったんや。小学生の時(円座小学校)、お袋がお弁当の代わりに「パン買いまい」言うてお金をくれよったんやけど、私やパン好かんかったけん、昼休みになったら急いで学校から外に出て宮西までうどん食べに行きよったもん。小学生で昼にうどん食べに行きよった子は他におらんかったわよ(笑)。
- 宮西はどんなお店だったんですか?
- (姉) テーブルもイスもなかった。お釜があって、「うどん」言うたら丼にうどんを入れてダシをかけてくれるだけ。けどおいしかったで。5円ぐらいだったかな、玉のうどんとあんまり変わらん値段だったと思う。パンが10円ぐらいだった。
(妹) まだ学校に給食がなかった頃やね。私が円座小学校で4年の時(昭和)に給食が始まったから。
(姉) 私や円座小学校も円座中学校も給食なしで卒業したわ。学校でおうどん食べたのは1回きりや。
- また抜け出して宮西で?
- (姉) 違うんや。今度は宮西が学校に持って来るん。あのな、円座中学校は田んぼや畑を持っとって、そこで生徒が二毛作しよったん。
(妹) 米作りと麦作りの実習や。
(姉) 田植えから中学生がみんなでするんで。それでな、春先になって小麦が実ったらみんなで収獲して、その小麦を宮西に持って行ったら、宮西がその分のおうどんを学校に持って来てくれるんよ。16玉入ったセイロを何段も何段も積んで。それを3年生だけが大きな家庭科室でダシかけて食べる、いうのをしよったんや。3年生が100人ぐらいおったから、200玉は持って来よったと思う。
- 米ができた時はご飯が出るんですか。
- (姉) 秋は米の収穫したら、レンガみたいな寿司が出よった。
- レンガ?!
- (姉) 大きな押し寿司や。サトイモやニンジンやゴボウやお揚げの入ったばら寿司をレンガみたいに固めとん。
(妹) 四角に固めとったら等分に分けやすいから、そんな風に固めて包丁で切り分けてみんなで食べるんや。
給食のうどん
- (妹) 私は小学校から給食でおうどん食べよったよ。小学校4年の時(昭和32年)に給食センターができて、それから月に1~2回、製麺所がドーンとうどん玉を持って来て食べる「うどんの日」があった。その頃の小学校の給食はコッペパンとマーガリンと脱脂粉乳だけやったから、うどんの日はうれしかった。それよりはカレーとかお寿司とか炊き込みご飯が出る日の方がうれしかったけどな。
(姉) 私や給食を知らんのやから、わからんわ。
(妹) 中学校になったら(昭和35年頃)、給食におかずが付いてきたわ。シチューとか。ほんでも中学校にもうどんの日があってな。ダイコンやニンジンや油揚げの入ったしっぽくのダシがかかったうどんが出た。大体みんな2玉食べよったけど、おかわり自由で私はしょっちゅう3玉食べよったわ。でもうどんは生ぬるいで。麺はぬくめてないし、しっぽくのダシは給食場を出る時は熱いんやろけど、それを教室に運んできて配りよるうちに冷めてしまうから。
お好み焼き屋におでんを置いていた
- じゃあ、昭和30年代は、円座と東山崎町の境あたりでは、岡本劇場のそばの食堂と、桑原製麺所と宮西と…
- (妹) 「うつみ」いう食堂もあったな。まあとにかく、店でちゃんとうどん食べる言うたら今みたいなうどん屋でなしに、全部「食堂」だったわな。
- 当時の食堂の定番メニューは?
- (妹) うどんと、ばら寿司かいなり寿司はあったわ。けど天ぷらや置いとる店は見たことない。
- おでんとかも。
- (姉) おでんもなかったなあ。あ、そういや、円座に一銭洋食みたいなお好み焼き屋があってね、そこにおでんがあった。薄~いスープみたいなダシにの中に、こんにゃくと天ぷらと……大した種類はなかったけど。
(妹) お好み焼きも薄かったで。メリケン粉を水で溶いて薄~に引いて、そこへパラパラッと鰹節の粉とキャベツを置いて、薄~に切ったカマボコとチクワをパラパラッと載せて、あとは天カスが入ったり入らなんだりして、その上にまた水で溶いた薄~いメリケン粉かけて。それを裏表焼いて、ソースを付けて青のりを振って……とにかく薄いんよ。
(妹) それで、そのお好み焼きが焼ける間に、私はこんにゃくのおでんを食べよった記憶がある。味がほとんどないこんにゃくのおでん。昭和32~33年頃、寒い時にそろばんの帰りによう行きよった。
トキワ街の「トキワ食堂」に連れて行ってくれるのが楽しみ
- (妹) その頃(昭和35年頃)、たまに土曜日とかに両親とバスに乗って高松(中心街)に行くことがあったんやけど、その時に親が「トキワ食堂」へ連れて行ってくれるのがうれしかったんや。トキワ街の、昔ダイエーがあったところの向かい側に、表に道頓堀のくいだおれ人形みたいなのを出してね、洋食から中華から、うどんから寿司から何でもあった。トキワ街は毎週土曜日に土曜市をしよってな、土曜の昼過ぎにゲタはいて円座からバスでトキワ街まで行って、親父は「パチンコしてくる」言うてパチンコに行って、勝ったらトキワ食堂で「何でも食べてええぞ」言うて(笑)。
高校生になったら、姉と2人で映画を見に行く時にトキワ食堂に行ってね、2人でラーメン2つとバッテラか巻き寿司を1つ取って、ラーメンは1つずつ、お寿司はシェアして、それを食べてからスカラ座に行きよったんよ。昭和37~38年頃やね。あとは、時々「アズマヤ」の喫茶でおうどんも食べたわ。
それから、瓦町の駅前の広場に噴水があって、そこで香具師(やし)がよう出とった。私は子供の時からあれを見るのが好きだってね。怪しいものを売るんよ。それで「何を出す、かにを出す」言うて、「ヘビを出す」とか言うたりして、サクラの人といろいろやり取りしよんやけど、なんぼ見よっても出さんのよ。私や、じーっと二巡見たこともあるけど、最後まで肝心のものは出てこんかったわ(笑)。けど昔から、ああいういかがわしいのは好きだったんよね。
「実演」の看板を出したうどん店がたくさんあった
- (姉) 「実演」いううどん屋がようけあったやろ。
(妹) あったあった。店の表に「実演」いうてわざわざ貼り出して、外から見えるところでうどんを打っちょった。
- 店頭の「手打ち実演」って、「かな泉」だけじゃなかったんですか?
- (妹) ようけあったで。トキ新の「讃岐家」も「実演」って書いて外から見えるところで打ちよったし、内町の「山鹿」も「実演」って出しとった。
(姉) 山鹿は外に貼っとったけど、外からは打っちょるとこは見えんのや。中に入ったらそこで打ちよった。
- いつ頃の話ですか?
- (姉) 私が高校卒業した頃やから、昭和38年にはあちこちにあった。最初はそれを見て「わざわざ書かんでも、普通に仕事しよるだけやんか」言うて笑い転げよったけど(笑)。まあ、「うちはよそとは違うで」言うて、PRしよったんやろな。
(妹) ほんで大体、「実演」って貼っとる店のうどんは太かったんよ。うちの母親が「高松で実演うどん言うて、もう太いうどんばっかりや」って嘆きよったわ。「讃岐うどんは割り箸の太さや。あんな小指ほども太いうどんはいかん」言うて。
(姉) 「実演」言うて貼り出しとるから、太い方がいかにも手打ちらしく見えると思いよったんかもしれん。
(妹) 私はまあ、ダシがおいしかったからどっちでもよかったけど。
- そんな昔から「讃岐うどんは割り箸の太さ」って言ってたんですか。
- (妹) こっち(高松)ではよう言いよったで。
- 「西のうどんは東のうどんより太い」とかよく言われてたんですけど、もし高松にその「割り箸基準」があったのなら、それが影響してるのかもしれませんね。
- (妹) それがだんだん太いのがなくなってきて。機械で切り始めてから細くなって来始めたんやろね。この頃なんか、割り箸より細いのが出て来よるわな。私は細いのが好きやけど。私は「こんぴらうどん」の細切りざるが大好きなんよ。今はライオン通りにあるけど、昔は県庁の裏にあって、昼にかけうどんとミニ丼とかがセットになったランチをみんな食べよったんやけど、私はそのランチを食べたあと、追加で細切りざるうどんを食べよった。わたしがこっそり追加で注文しよんのに、マスターが大きな声で「○○さーん! 細切りざる追加ー!」言うて(笑)。あそこの細切りざるは黙っとったらつけダシにわさびが付いてくるから、いつも「ショウガにして」いうて頼んでね。
でも昔はそうめんが一番好きだった(笑)
- 何か、女性でもうどんの大食いがいたんですね(笑)。
- (妹) でもね、本当はそうめんが一番好きだった(笑)。好きというか、新鮮だったわ。夏になったらそうめんを茹でて、水を張った大きな器に入れるやろ? そしたら中で麺が泳ぐやん。うどんは冷やしうどんいうても泳いだりせんし、最後の方で1本や2本が水に浸かっとっても美しくない。けど、そうめんはきれいに水に泳ぐから、それを見るだけでも新鮮やったんよ。子供心に「洒落とるな」と思いよった(笑)。
- それでこんぴらうどんの細切りざるが好きになった(笑)。